荒井退造(あらい たいぞう)

 

「最も大切なのは住民の命」

 

1900年9月〜1945年6月

 

 

1900年、栃木県清原村(現・宇都宮市東部)に農家の次男として生まれる。旧制宇都宮中学(現・県立宇都宮高校)卒業後、警視庁巡査をしながら明治大の専門部(夜間)に通い、1927年高等文官試験(1894年から1948年まで実施された高級官僚の採用試験)に合格、同年内務省に入省した。

 

東京都の麻布六本木警察署長や福井県官房長などを経て1943年7月に沖縄県警察部長(現・県警本部長)として赴任。沖縄戦では、米軍上陸直前に泉守紀(いずみ しゅき)知事や他の部長が次々と本土に渡る中、行政の責任者として沖縄に残り、県民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たった。1945年6月、米軍の攻撃激化で任務の継続は不可能と判断し、部下らに解散を命令。1945年6月26日、(沖縄最後の官制知事)島田叡(あきら)氏と糸満市の摩文仁の軍医部壕を出たのを最後に消息不明となった(自決したといわれるが、遺体は見つかっていない)

 

2007年、彼の遺品と見られる碁石が県庁・警察部壕内で発見された。

 

なお、2013年8月7日に「テレビ未来遺産“終戦”特別企画 報道ドラマ 生きろ戦場に残した伝言TBSでオンエアーされた(島田叡;緒形直人/荒井退造;的場浩司)

 

 

 

強い人間を育てる教え(2017年8月3日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 「明日はお立ちか/お名残り惜しや/大和男児の/晴れの旅/朝日を浴びて/出で立つ君を/拝むこころで/送りたや」。1942年に発売された軍国歌謡「明日はお立ちか」である

▼作詞は故佐伯孝夫氏。「有楽町で逢(あ)いましょう」「銀座カンカン娘」「いつでも夢を」など多くの名曲を生んだ作詞家である。詩全体の中に「軍」や「兵」など1文字もないが、戦場に召集される夫を見送る妻の感傷を描いた

▼歌の発売から1年後、荒井退造氏は沖縄の警察部長に赴任した。当時、沖縄は生きて帰れる希望が薄い地。死を覚悟して、この歌を聴いたかもしれない

▼45年1月末に島田叡氏が知事に就任するまでの1年7カ月の間、荒井氏は住民の疎開を訴え、必死にレールを敷いた。世の中が騒ぐからと反対した泉守紀知事と対立、陣地造りに住民総動員を図る軍にも抵抗した

▼島田氏着任後は彼と手を携えて10万人以上の北部疎開に力を尽くす。両氏の奮闘を描いた「沖縄の島守」の著者田村洋三氏は、2人の精神的支柱の原点は「それぞれの母校の教えにある」と言う

▼その一つは、心身共に強いさまを意味する「質実剛健」。荒井氏の母校宇都宮高(栃木県)で今も受け継がれる。荒井氏は佐伯氏より2歳上の同窓生だ。天界で再会した2人は母校を慕い、生徒たちが平和世(ゆー)を築く強い人間に育つことを願っているに違いない。

 

沖縄の島守」 荒井退造知って 太平洋戦争中、島民多数疎開させた県警察部長(2017年7月31日配信『東京新聞』)

 

写真荒井退造・元沖縄県警察部長の資料や写真などを展示する会場=宇都宮市で

 

 宇都宮市出身で太平洋戦争時、沖縄県警察部長として県民の疎開などに尽力し殉死した荒井退造氏を紹介する企画展「沖縄の島守(しまもり)と呼ばれた荒井退造と島田叡(あきら)」が、市立南図書館(雀宮町)で開かれている。30日、ノンフィクション作家の田村洋三さんが講演し「荒井さんは赤痢に苦しみながらも命をかけて公職に殉じた。誇りをもって後世に伝えていただきたい」と強調した。 

 荒井氏は1900(明治33)年生まれ。旧制宇都宮中学校(現・宇都宮高校)、明治大学を経て、内務省官僚となった。戦時下の43(昭和18年、沖縄県警察部長(現在の県警本部長に相当)に就任。兵庫県出身の島田叡知事とともに、沖縄県民のために食糧を調達し、県外や本島北部へ疎開させた。45年3月、米軍が沖縄に上陸後、2人は6月、本島南部で消息を絶ち、遺体なども発見されないまま現在に至る。2人により命を救われた県民は20万人以上ともいわれ、沖縄では「島守」と呼ばれている。

 企画展は宇都宮市のNPO法人「菜の花街道」が主催。同館一階で、荒井氏の生涯を紹介するパネルや資料、写真、書籍など約30点を展示している。

 同法人理事の工藤政美さん(47)は「戦争と平和について考える機会の多い夏に、荒井氏を通して、命の尊さや戦争の悲惨さを思うきっかけにしてもらえれば」と訴えている。

 企画展は8月27日まで。入場無料。月曜休館。

 

沖縄の「命の恩人」 宇都宮の誇り 地上戦前20万人疎開に尽力(2016年1月12日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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太平洋戦争中、沖縄県警察部長(現県警本部長)として、沖縄県民の疎開に尽力した荒井退造(たいぞう)(1900〜45年)をめぐり、生誕地の宇都宮市と沖縄県で住民同士の交流が生まれている。2月には沖縄で、両県の有志が初めて合同の追悼コンサートを開く。玉砕が美徳とされた時代に、命を最優先した指導者の精神を語り継ごうとする動きが活発化している。 

 荒井は、1943(昭和18)年7月、警察部長として沖縄に赴任し、住民の安全を守る任務の総責任者となった。沖縄戦では「最も大切なのは住民の命」という信念に基づいて仕事し、沖縄では今も慕われる。宇都宮市の郷土歴史家、塚田保美(やすみ)さん(84)は「戦時の官僚としては異例の姿勢」とみる。

 当初、軍が「日本は勝つ。米軍は沖縄に上陸しない」と主張したため、疎開の機運が高まらず、荒井は「まつげに火がついてから慌てても知らんぞ」と怒鳴ることもあったという。

 危機感を募らせた荒井は、まず警察官や県職員に家族の疎開を促した。各地で講演会や座談会を開き、住民たちに疎開の必要性を粘り強く説いた。この姿勢が県民を動かし、最終的に島田叡(あきら)知事とともに、20万人超を九州や沖縄県北部などに退避させたとされる。荒井自身は米軍の上陸後も沖縄にとどまり、住民の避難の指揮を続けたが、45年6月、現糸満市の摩文仁(まぶに)周辺で、島田知事とともに消息を絶ったという。

 約20年にわたって荒井を調査する塚田さんは2013年、自身と荒井の母校の宇都宮高校(2人の在学時は旧制宇都宮中学)の同窓会報で、荒井の生涯を紹介した。記事は反響を呼び、宇都宮市のNPO法人「菜の花街道」が昨秋、功績をしのぶ寄稿誌を発行。同市の小学生が摩文仁に立つ荒井と島田の慰霊塔を訪れたほか、授業で荒井を取り上げる高校も増えた。こうした生誕地の動きに、元沖縄県副知事の嘉数昇明(かかずのりあき)さん(73)も着目する。島田知事や荒井の功績を語り継ぐ活動を続けてきた嘉数さんは昨年、宇都宮市を二度訪れ、塚田さんとも対面した。

 2人は意気投合し、摩文仁の戦没者追悼施設「沖縄平和祈念堂」で2月22日、両県の人々が集う追悼コンサートを開くことが決まった。宇都宮市のピアノ、オカリナ奏者やソプラノ歌手らが出演。沖縄戦を歌った「さとうきび畑」などを披露する。

 嘉数さんは「沖縄とともに生きた荒井の尊い姿を、未来に伝えたい」、塚田さんも「荒井のような指導者の存在を語り継ぎたい」と話す。

 

会いたい・聞かせて;「県庁・警察部壕」発見に尽力、沖縄の郷土史家・知念堅亀さん(2015年11月26配信『毎日新聞』−「栃木版」)

 

 太平洋戦争末期に沖縄県民の疎開に尽力した清原村(現宇都宮市)出身の沖縄県警察部長、荒井退造(190045)は、戦火の中で消息を絶つ直前の約2カ月間、那覇市真地(まあじ)の「県庁・警察部壕(ごう)」に身を寄せていた。10月に沖縄を訪問した福田富一知事も足を運んだ重要な戦争史跡。この壕の発見に力を尽くした那覇の郷土史家、知念堅亀さん(81)に栃木と沖縄のつながりなどを聞いた。

 −−95年に県庁・警察部壕を発見した経緯を。

 ◆親戚に県庁・警察部壕で殉職した人がいて、奥さんがお参りしたがっていると聞いたのです。その壕(ガマ)は私が住む那覇市繁多川(はんたがわ)にあると伝えられていたけれど、沖縄県警本部に尋ねても分からないという。図書館で書類を読み、周辺を探したが見つからない。どうも繁多川ではなく真地らしいということで周辺を聞き取り調査したところ、ある男性が「岩の割れ目から入れるから行ってごらん」と教えてくれました。その壕は識名(しきな)霊園にあるシッポウジヌガマ。10代から知っていたけれど、そこが県庁・警察部壕だったとは知りませんでした。翌96年、当時を知るOBの方と中に入り、「ここで間違いありません」と確認してもらいました。

 −−発見が縁で荒井部長の長男紀雄さん(故人)とも交流を持たれました。紀雄さんは92年に出版した「戦さ世の県庁」(中央公論事業出版)で沖縄戦下での県庁、警察部の奮闘をまとめていましたね。

 ◆その本では壕の場所を誤っていたんですよ。紀雄さん宅に壕の資料、地図や写真を送ったら、沖縄まで飛んで来られました。父親思いの方でしたよ。私は何度も紀雄さんと壕に入ったが、いつも決まったように「碁盤はないかな」と探していた。退造さんが碁が好きだったからね。

 −−その後、碁石が見つかって。

 2007年、警察部長室だったあたりの地面が水に洗われ、碁石が露出しました。そのうち6個を紀雄さん宅に送ったら、すぐに電話が来ました。黒い碁石の半面がきれいに白くなっていたのを不思議に思ったようです。(鍾乳洞の)天井から落ちる石灰分が長い年月で付着してそうなったのです。

 −−福田知事が訪れるなど、古里でも荒井部長の顕彰が進められようとしています。

 ◆当時の事情を知る人が多く生きているうちに、せめて紀雄さんが元気なうちだったら……。紀雄さんは10年に亡くなる直前まで、「戦さ世の県庁」の改訂版を出そうと準備をしていた。突然の訃報で、信じられなかったですよ。沖縄は退造さんを忘れずにいたが、栃木(での顕彰)はあまりに遅すぎた。それでも今からでも、動き出したことは良かった。

 −−県庁・警察部壕の維持管理が課題です。

 ◆以前は誰も見向きもしてくれませんでした。案内の看板も廃材を使っての日曜大工。それでも、最近は公民館などが清掃活動などプロジェクトを進めている。早く那覇市の文化財に指定してもらえればと思っています。

聞いて一言

 実際に県庁・警察部壕に入った。懐中電灯を消すと光も音もない世界。戦没者の冥福を祈って手を合わせると蒸し暑さで額に汗がにじむ。荒井部長が内務省に打電した「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く」の世界を垣間見た気がした。戦後70年。一度忘れ去られた壕は、知念さんらの努力により戦争史跡としてよみがえった。この壕を通じ、多くの人に平和の尊さを感じてほしい。

 ■人物略歴

ちねん・けんき

 1933年那覇市生まれ。国民学校6年生で迎えた沖縄戦では両親と姉を亡くし、自身も重傷を負った。団体職員を定年退職後、沖縄戦跡の調査を続け、島田叡知事と荒井部長の最期を描いた「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(田村洋三著、中公文庫)の取材にも協力している。

 

「荒井退造、語り継いで」 作家・田村洋三さん講演 顕彰記念誌出版祝う・宇都宮(2015年9月27日配信『下野新聞』)

  

 宇都宮市出身で太平洋戦争末期、沖縄県警察部長として県民の疎開に尽力した荒井退造(あらいたいぞう)の顕彰記念誌の出版記念講演会が26日、同市清原工業団地管理センターで開かれ、ノンフィクション作家の田村洋三(たむらようぞう)さん(83)が退造の足跡や功績を語った。

 講演会は記念誌をまとめた宇都宮市のNPO法人「菜の花街道」が主催した。

 田村さんは、退造が沖縄では米軍が迫る逆境の中で疎開に孤軍奮闘していた様子を伝え、「20万人の沖縄県民が助かったと言っても過言でない」と評価した。

 45年6月に消息を絶つまで島田叡(しまだあきら)知事と二人三脚で県民に寄り添い続けた姿勢を、「本当の公僕精神を体に充満させていた人」と表現した。来場した約150人には「周囲に語り継いでいってほしい」と呼び掛けた。

 沖縄栃木県人会や沖縄戦で犠牲となった県職員を慰霊する「島守の会」のメンバーも出席。島田知事の顕彰期成会の会長を務める嘉数さんが「栃木と(島田の出身地)兵庫、沖縄がトライアングルの縁で結ばれた。末永く発展してほしい」とあいさつした。

 栃木や沖縄で顕彰に取り組む関係者が寄稿した記念誌「たじろがず 沖縄に殉じた荒井退造−戦後70年沖縄戦最後の警察部長が遺(のこ)したもの」は22日、下野新聞社から出版された。

 

 

荒井退造 激戦地の沖縄で県民疎開に尽力した警察部長 戦後70年に故郷・宇都宮の誇りに(2015年8月16日配信『産経新聞』)

 

荒井退造(荒井紀雄さん「戦さ世の県庁」から)

 

【戦後70年】

 70年前、激戦地となった沖縄で県民疎開に尽力した沖縄県警察部長、荒井退造(1900〜45年)の功績がクローズアップされている。沖縄では、多くの県民を救った偉人として知らない人はいないと言われるほど敬愛されていた。また、2年前にテレビドラマで当時の沖縄県知事、島田叡(あきら)(1901〜45年)とともに紹介された。だが、荒井の出身地、宇都宮では知る人はほとんどいなかった。戦後70年の今年、さまざまな巡り合わせで故郷で脚光を浴びることになった。

 きっかけは、荒井を約20年研究してきた郷土史研究家の塚田保美(やすみ)さん(83)の宇都宮高校同窓会報への寄稿だった。感銘を受けた同校の斎藤宏夫校長(58)が沖縄でゆかりの地をめぐり、沖縄の人々との交流ができた。地元・宇都宮で顕彰の機運が一気に高まった。

 塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が母校・宇都宮高校出身であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」と塚田さんは振り返る。

 だが、平成25年、「宇高同窓会報」に大正9年卒の先輩として、「沖縄県民を救うべく職に殉じた荒井退造警察部長」という一文を寄せると、大きな反響があった。「宇高だけではない。栃木県の誇り」。宇都宮高校卒業生、関係者からはそんな声が上がった。

人物と功績

荒井はどんな人物だったのか。ふるさと旧清原村は現在の宇都宮市東部。鐺山(こてやま)尋常小学校(現・清原南小学校)、清原尋常高等小学校(清原中央小学校)、宇都宮中学校(宇都宮高校)と進んだ。

 さらに巡査をしながら明治大専門部(夜間)で学び、27歳のとき、高等文官試験に合格。内務省官僚の道を歩み始めた。

塚田さんの寄稿と、宇都宮市内で6月に開かれた塚田さんの講演、塚田さんへの取材をもとに、沖縄での功績をみていく。

 昭和18年7月、福井県官房長から沖縄県警察部長に就任した。現在の県警本部長に当たる重責だ。日に日に悪化する戦況。沖縄が戦場になる恐れも出てきた。19年6月の閣議で沖縄県民10万人の疎開が決定する。その必要性を感じていた荒井も積極的に取り組もうとするが、当時の知事らは消極的で、県内有力者は楽観論に寄っていた。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。沖縄に米軍が上陸すれば、多くの住民が犠牲になると案じていた。

県外疎開に尽力

 荒井は、まず第1弾として、県職員と警察官の家族700人を疎開させて機運をつくり、第2次、第3次として2600人、続いて8月10人に9000人、さらに9月末までに3500人と疎開させた。

 この間、長崎に向かう学童疎開船「対馬丸」が潜水艦によって撃沈され、1485人が犠牲になった。海上輸送への不安は強く、当初、疎開はなかなか進まなかった。一方、10月10日には那覇市を中心に沖縄本島への空襲があり、荒井は警察官を指揮して、大混乱の中、住民の避難誘導にあたった。空襲は疎開の必要性を浸透させるきっかけになり、20年3月までに7万3000人を県外に疎開させた。

この間、19年12月24日、知事が突然上京してそのまま戻らず、約1カ月知事が不在となった。県幹部も出張や病気療養で県外に出たままとなり、県上層部は混迷を極める。そんな中、知事に任命されたのが島田だった。20年1月末、潜水艦に乗って決死の覚悟を持って赴任してきた。

3月下旬からの大空襲、艦砲射撃、4月1日、米軍はついに沖縄本島上陸を果たし、県外疎開は不可能となる。そんな状況でも荒井は、島田知事と二人三脚、戦闘が激しい沖縄本島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせて20万人以上を救ったことになる」と塚田さんはいう。

暗黒なる壕内に生く

 4月27日、市町村長会議が開かれる。当時の県庁は地下壕(ごう)。塚田さんは「非常事態にこのような会議を開催できたことが驚嘆に値する。荒井と島田に寄せる深い信頼があったからではないだろうか」とみる。

 5月25日。「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。この決戦に敗れて皇国の安泰以(もっ)て望むべくもなしと信じ、この部下と相ともに敢闘す」。荒井は内務省に電文をあてた。2日後、警察別働隊8人を内務省への報告のために向かわせたという電文を最後に、内務省への連絡は途絶えた。

 警察を小班に再編。住民保護、避難誘導に当たらせたが、6月9日、ついに警察は解散。荒井は「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

 日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森に入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の消息は途絶えた。

 2人の遺体は今も見つかっていない。摩文仁の丘には島守(しまもり)の塔が建てられ、2人の終焉(しゅうえん)の地を示す碑がある。

戦後70年を機に

 2人が姿を消してから70年の今年6月26日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園に島田の功績を刻む顕彰碑が除幕された。除幕式には、栃木県から「荒井退造顕彰事業実行委員会」メンバーが参加した。

荒井の遺徳をしのぶ沖縄と栃木の交流は今年、急速に深まった。斎藤校長は4月下旬、沖縄へと旅立った。県庁・警察部壕を見たいと方々に問い合わせたところ、荒井の慰霊碑などを管理する「島守の会」関係者が「案内させて」と連絡してきた。荒井の母校、宇都宮高校のグラウンドの土を持って沖縄に向かった斎藤校長。荒井の故郷、栃木からの来訪者は珍しいと歓迎された。

 戦闘が激しくなった後、荒井らの執務場所となった地下壕を見た斎藤校長は「雨あられと爆弾が降る中、ここで過ごしたのかと思うと胸に迫るものがある」。知事室や警察部長室は畳2、3畳分の空間があり、それらをつなぐ幅2メートル程度の通路。やや広い空間は会議が開かれた場所だという。

 6月、宇都宮市内で塚田さんが講演会を開いた際は島守の会メンバーらも遠く沖縄から出席。宇都宮高校などゆかりの地を訪ね、宇都宮市内の荒井家の墓を参った。

 荒井が宇都宮高校に在校していたころ、正門を入って正面にあった本館は今、校内の奥に移築され、地名から「滝の原会館」として保存されている。その近くの石碑は、同校の基本精神を説いた「滝の原主義」の抜粋が刻まれている。

 「滝の原主義とは何ぞ 滝の原男児の本領を云う 滝の原主義は人物を作らんとするにあり 剛健なる真男子を作らんとするにあり 浮華軽俗なる時代精神に反抗せんがために 否、寧(むし)ろ之を救済せんがために 滝の原男児を作り上げんとするなり」

 6月に宇都宮を訪ねた、元沖縄県副知事の嘉数(かかず)昇明さんも「荒井退造の原点はここにあった」と感銘を受けたのであった。

 

「県庁壕」で父しのぶ(1997年11月25日配信『琉球新報』)

 

  沖縄戦のさなか、県警察部長を務めた荒井退造氏の長男で「戦さ世の県庁」の著者・荒井紀雄さん(65。旧自治省行政局長・国土庁審議官を歴任)=東京都日野市=が23日、当時県庁壕として使われ、島田叡知事らとともに最後の市町村長会議などが開かれた那覇市真地の壕を訪ね、当時をしのんだ。 ボランティアで壕や当時の状況などを調査している那覇市繁多川の知念堅亀さん(64)が紀雄さんに連絡し、一緒に壕に出向き当時の状況などを説明した。

  紀雄さんは著書の中でも繁多川の付近として記しているだけで所在は知らず、今回初めて足を踏み入れた。父の最期の地さえ分からぬままとなっていることもあり「過酷な生活ぶりが分かる。ここに父がいたと思うと感無量の思い」と遺骨代わりの石を手に当時をしのんだ。

  壕は識名霊園の東側で、戦前はパナマ帽づくりに使われ、戦時中の一時期、県庁壕としても使用された。1945年4月27日には最後の市町村長会議が開かれ、島田知事や荒井警察部長はじめ南部の市町村長、警察署幹部が出席、戦時態勢での住民の食料確保や衛生面の対策を話し合ったとされる。

  壕は1992年と93年に一フィート運動の会が調査した。全長約130メートルほどで、自然洞くつを一部構築している。また、出入り口が3カ所あることを知念さんが確認した。

  荒井警察部長は島田知事らとともに5月24日には東風平の壕に移動、最後は摩文仁で戦死したとされるが、場所も日時も不明のままとなっている。

  紀雄さんは当時の姿を残す壕の中で、52年前の状況に思いをはせ「約2カ月ほどここで生活したと思うが、過酷な中で強い精神力をうかがわせる。何とか保存して、後世に伝えることはできないものか」と話していた。

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