添田唖蝉坊 |
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1872年12月25日(明治5年11月25日)〜1944年(昭和19年)2月8日) |
添田 唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)明治・大正期に活躍した演歌師の草分けである。本名は添田平吉。号の唖蝉坊は自らを「歌を歌う唖しの蝉(唖蝉=おしぜみ)」と称したことに由来する。
注;蝉は幼虫として数年間を地中で過ごした後、死ぬ前の最後の1週間程度を成虫として地上で過ごす。木の幹や枝に止まり、求愛のために鳴く。ただし、鳴くのはオスだけで、メスは鳴かないため、メスのことを唖蝉(おしぜみ)という。
<流行歌の元祖>と言われ、自らを<演歌中興の祖>と称し、『のんき節』『マックロ節』『むらさき節』『ブラブラ節』…など、1930(昭和5)年に「生活戦線異状あり」で引退するまで182曲を残した演歌師。
当初は、政府や権力者を批判し、社会の矛盾を風刺した歌詞で、うっぷんや怒りを表現したが、のちに純粋な演歌を目指した大衆音楽の最初のヒットメーカー。なお、タレント議員第1号・石田一松が歌い大ヒットした『のんき節』は、唖蝉坊の作品に手を加えて作ったものであるといわれている。
また、近代露天商組合のリーダーで、国会議員にもなった倉持は、自身演歌師の出身でもあり、唖蝉坊を師と仰いだ。さらに演歌の収集、保存でも功績のあった小沢昭一は、その駆け出しの頃、添田父子と親交があった。
1960年代以降、高石ともや、高田渡、加川良ら日本のフォークシンガーが好んで彼の作品を唄い、日本のフォークソングの原形として広まった。
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神奈川県・大磯の中農の家に4男1女の3番目の子として生まれる。
1890(明治23)年、当時自由民権運動が盛んで、大衆に運動を広げる役割を担った「オッペケペ」で有名な川上音二郎らに代表される壮士芝居や壮士節と出会い、影響を受ける。
唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち自身が演歌の歌詞を書くようになり、1892(明治25)年に「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などを書いた。
これ以降、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続いた。
1901(明治34)年に茅ヶ崎出身のタケと結婚、本所番場町に居を構え、翌年長男の添田知道(芸名「添田さつき」の演歌師。戦後は、演歌師の生活などを描いた著作を刊行し、1964年、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。1967年、『歌と音でつづる明治』の監修で第9回日本レコード大賞企画賞を受賞)が生まれる。
明治時代から昭和時代にかけて発行された日刊新聞「二六新報(にろくしんぽう)」(同時代の萬朝報と並ぶ代表的な「大衆紙」)にも関わるが、政府を指弾する記事を掲載したことからしばしば発行禁止処分を受け、経営難に陥る。
日清戦争ころ、北陸をはじめ地方を巡演するなかから民謡調のメロディを自作にとりいれるようになり、1899(明治32)年に横江鉄石と共作した「ストライキ節」が最初のヒット作となった。
1905(明治38)年、知り合いの流し演歌師の「渋いのばあさん」から頼まれてつくったで「ラッパ節」が同年末から翌年にかけて大流行する。
このころから、幸徳秋水や堺利彦らとも交流を持ち、日露戦争下に堺に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭(ラッパ)節」を作詞。1906(明治39)年には、日本最初の合法社会主義政党として知られる日本社会党の結成とともにその評議員になり「官憲の注意人物」と自らの名刺にも記し、演歌を社会主義伝道のための手段にしたことから、社会主義演歌の伝道者といわれた(社会党は、1907年2月、西園寺公望内閣による「安寧(あんねい)秩序妨害」を理由とした結社禁止命令に伴い解散)。
社会党喇叭(ラッパ)節 華族の妾のかんざしに ぴかぴか光るは何ですえ ダイアモンドか違ひます 可愛い百姓の膏汗 当世紳士のさかづきに ぴかぴか光るは何ですえ シャーンペーンか違ひます 可愛い工女の血の涙 大臣大将の胸先に ぴかぴか光るは何ですえ 金鵄勲章か違ひます 可愛い兵士のしやれこうべ 浮世がままになるならば 車夫や馬丁や百姓に 洋服着せて馬車に乗せ 当世紳士に曳かせたい 待合茶屋に夜明しで お酒が決める税の事 人が泣かうが困らうが 委細構わず取立てる お天道様は目がないが たまにゃ小作もしてごらん なんぼ地道に稼いでも ピーピードンドン風車 名誉名誉とおだてあげ 大切な伜をむざむざと 包[つつ]の餌食に誰がした 元の伜にして返せ 子供の玩具[おもちゃ]じやあるまいし 金鵄勲章や金平糖 胸につるして得意顔 およし男が下がります あはれ車掌や運転手 15時間の労働に 車の軋るそのたんび 我と我身を削いでゆく |
以後、痛烈な風刺を軽いユーモアの曲調にのせた「ああ金の世」「ああわからない」「増税節」などで大正初年にかけての大衆歌謡をリードした演壇からの話が警官によって〈弁士中止!〉となっても、演歌で呼びかけた(啞蟬坊は2度の中止を食らう)。
1910(明治43)年、妻タケが27歳で死去。唖蝉坊は悲嘆して、当時の有名な貧民窟の下谷山伏町の1軒が4畳半1間、それが12軒ずつ4棟、計48軒ならんでいた「いろは長屋」に居を定めた。
その後、全国行脚をしながら、屑屋の2階に居候。1944(昭和19)年2月8日73歳で死去した。
唖蝉坊の演歌は、戦後、石田一松(歌うジャーナリスト)という継承者を得た。近年では小沢昭一にはじまり、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット、岡大介(カンカラ三線)など、唖蝉坊演歌の力を借りて、今の時代を風刺する表現者がいる。
浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉坊の碑が、添田知道筆塚と共にある。
添田坊、本名平吉、筆名は添田坊の他、不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生まれる。昭和十九年二月八日歿。享年七十三歳。明治二十年代に壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞作曲、演奏に従事。作品は、「四季の歌」「ストライキ節」「「ラッパ節」「あゝ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に『浅草底流記』『坊流生記』『流行歌明治大正史』ほか。 添田知道、坊の長男。東京出身。昭和五十五年三月十八日歿。享年七十七歳。父坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと、作家活動に入る。筆名は知道の他、さっき、吐豪。演歌作品に「東京節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編小説『教育者』『利根川随歩』『演歌の明治大正史』などがある。 |
(2018年12月14日配信『東京新聞』−「筆洗」)
明治、大正の時代に、風刺の効いた歌で庶民の心をつかんだ演歌師の添田唖蝉坊(あぜんぼう)は、「当世字引歌」の中で、こう歌っている。<「空前絶後」とは「タビタビアルコト」で 「スグコワレル」のが「保険付」…「マネゴトスル」のが「新発明」…「賃銀労働者」は「ノーゼイドウブツ」>
▼文明開化の世の中は、立派でありがたそうな言葉、新しい物でいっぱいだ。いい時代になったようには見えるけど、その看板と中身、なにか違っていませんか。字引に見立てて、世相を突いた
▼当世の字引歌なら、こう歌ってみたくなろうか。「多用途運用護衛艦」は「コウクウボカン」で「戦闘機は常時搭載しない」は「ノウリョクハアルケレド」。与党が了承した海上自衛隊いずも型護衛艦の改修である
▼最新鋭ステルス戦闘機を搭載できるようになる。遠くに攻撃力のある戦闘機を運ぶ能力を持つ。実質的な空母化だ。しかし政府は空母とは呼ばない。常時搭載はしないので、憲法上持つことが許されていないとしてきた攻撃型空母にも当たらないと主張しているそうだ
▼うなずく人がいるのかもしれないが、呼び方と理屈で、実体を別のものに見せようとしていませんか。疑問が消えない。外国がみるのは実体のほうだろう。軍拡競争にもつながらないか
▼何より「専守防衛との整合性を守る」が「リクツシダイ」になりませんように。
(2016年3月17日配信『中日新聞』−「夕歩道」)
演歌という言葉の歴史をさかのぼっていくと明治十九年、つまり一八八六年の「ダイナマイト節」に行き着くそうだ。作詞・作曲は演歌壮士団。♪民権論者の涙の雨で/みがき上げたる大和胆(やまとぎも)…。
時節柄、引用するのがはばかられるが、詞の結びは<若(も)しも成らなきゃダイナマイトどん>と物騒である。演説が駄目なら演歌で。つまり明治新政府の弾圧に抗した自由民権運動の演説歌が源流。
与野党の大物が名を連ね、演歌復活を目指す超党派の議員連盟ができるそうな。電波を止めるとかいう時代錯誤も飛び出す折、ここは先人たちの自由民権の志に立ち返って演歌を応援してほしい。