風船爆弾

 

Image3.jpg 風船爆弾1 

左;実物/右レプリカ(江戸東京博物館)

 

愛媛県四国中央市・川之江の「紙のまち資料館」常設展&特別展(07年7月29日)=⇒画像(画像No2画像No3

 

 

大日本帝国陸軍指令第2253号=「米国内部擾乱の目的を以て、米国本土に対し特殊攻撃を実施せんとす」

 

第2次世界大戦(太平洋戦争=大東亜戦争末期、アメリカ本土を攻撃(空襲)するために日本の陸軍(旧日本軍)が開発した秘匿の名称「ふ〈富〉号兵器」なる兵器(「ふ〈富〉号作戦〈試験〉)

 

直径約10メートルの薄い和紙(5層)とこんにゃくのり(そのため日本国内では食用コンニャクが極度に不足し、庶民の口には入らなくなった)で作った気球(風船=その表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化)に爆弾や焼夷弾(しょういだん)をつるして、千葉県長生郡一ノ宮(一宮駅から海岸まで鉄道が敷かれ、江戸末期に造られた台場〈江戸末期、海防の目的で要害の地につくった砲台〉跡付近に打ち上げ基地が設置された。台数18)茨城県北茨城市五浦(いつうら/いづら。台数18)、さらには、福島県いわき市の勿来(なこそ=旧勿来市。台数12台)の各海岸から約9300発が発射され、当時、日本の研究員(1920年8月に旧筑波郡小野川村館野〈現茨城県つくば市〉に設立された高層気象台初代台長の大石和三郎〈1874〜1950が、1626〈大正15〉年に「日本上空の高層風として、特にジェット気流」の発見についての論文をエスペラント語で発表していただけが発見していた高度1万メートル前後の上空の偏西風中緯度地方の上空を取り巻いて1年じゅう西から東に吹く風速100メートルの風。南北両半球にあり、上空ほど速度を増し、圏界面付近では、その中に幅が狭く風速の特に大きいジェット気流が形成されることから「ジェット気流」ともいわれる。なお、東京大空襲に際して高度9000メートルで進入したB―29は、この偏西風で押し戻された。そのため、B−29は高度1000〜1500メートルの低空で進入することになった)にのせて米国を目指した(到着までの時間は60時間)

 

風船爆弾2

五浦海岸の記念碑

 

 内、米本土および周辺に到着したものは、約300個(285個との説もある。到達率3パーセント)、爆発したもの約30個(28個との説もある。爆発率1パーセント未満)、疑わしいもの約90個(85個との説もある)である。

 

米本土・オレゴン州ではピクニック中の人が、木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆発死傷者(女性1人と子供5人)も出た。なお、大国の米が本土攻撃され、死傷者でたのは、これが最初である。そのほか、北米の2カ所で山火事の原因となったり、送電線にひっかかって爆発、原子爆弾製造を数日間遅らせる等の成果があった。

 

そもそも風船爆弾は、関東軍により満州事変後の33(昭和8)年頃から開発が開始され、いったん立ち消えになったが、戦局の悪化で再びクローズアップされて、陸軍によって引き継がれ、43年11月に実験第1号が完成した。それは、アメリカ本土に到着させるため、風船に水素(昭和電工川崎工場,横浜工場等で製造されて、ボンベに詰められトラックや貨車で基地に運ばれた)を充填し、高度が低くなると、バラスト嚢(のう=袋)を落とし高度を上げる等の自動的高度調節機能装備を施しており、44年11月3日、参謀総長直属の風船爆弾発射陸軍気球連隊により、アメリカへ向け発射され、以後実用化された。

 

風船の製造は、気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物の中で、もっぱら勤労動員された女子生徒や女子挺身隊らがあたった。

 

東京・有楽町の日本劇場(現複合商業施設「マリオン」ビル)や東京宝塚劇場、映画館の有楽座、浅草国際劇場(現浅草ビューホテル)、両国国技館(戦後日大講堂となるが、現在は取り壊されて跡地にオフィスや住宅用のビルが建築されている)や地方でも製造された。

 

例えば、紙のまちである四国・愛媛県の川之江市(現四国中央市)の旧川之江高等女学校(現・川之江高校でも製造された(44年5月、陸軍兵器行政本部兵需課が愛媛県製紙試験場に、「ふ号気球爆弾」の風船部分の製造を発注)

 

製造にかかわった当時の学徒動員された女学生たちが、「約60年前、お国のためと信じて、懸命に生きた女学生がいたことを記録に残し、若い人にも知ってもらいたかった」との思いから、その体験をつづった『風船爆弾を作った日々鳥影社;税込み1680円)によれば、女学校での風船爆弾づくりは44年6月、和紙の原料となる楮(こうぞ=山野に自生するクワ科の落葉低木。葉は卵形で先がとがり、2〜5つに裂けるものもあるの皮はぎから始まり、その後、最上級生の4年だった33回生159人が、5カ所の製紙工場や校庭の組み立て工場へ振り分けられ、家と工場だけの往復が、卒業式の日まで続いた。

 

製紙工場では、こんにゃくのりで和紙を重ね合わせ、気球の原紙を作った。乾燥機に塗った漆(うるし)が15、16歳の少女たちを悩ませた。ほとんどがかぶれたが、それでも「勝つまでは頑張ろう」と働いた。気球の組み立てでは、原紙をぴたりと張り合わせようと、力を込めて指で何度もなぞるため、指先の指紋がほとんど消えたほどであった。

 

その一人は、「相手は原子爆弾、こっちは風船爆弾。今考えると笑ってしまうけど、当時はみんな一生懸命だった」と振り返っている

 

大本営命令(1944=昭和19年)

 

気球連隊は米国本土に対し、気球をもってする攻撃を開始すべし。実施期間は11月初頭より明春3月頃までと予定するも、状況により之が終了期間を更に延長することあり。攻撃開始は概ね11月1日とす。但し11月以前に於ても気象観測の目的を以て試射を実施することを得。試射に当りては実弾を装着することを得。

 投下物料は爆弾及び焼夷弾とし、その概数次の如し。

15瓩(トン)爆弾=約7500個、5瓩焼夷弾=約30000個、12瓩焼夷弾=約7500個

 放球数は約15000個とし、月別放球標準概ね左の如し。

11月 約500個とし、5日頃までの気球数を努めて大ならしむ。

12月 約3500個、

1月 約4500個、

2月 約4500個、

3月 約2000個

放球数は更に約1000個増加することあり。

放球実施に当りては、気象判断を適正ならしめ以て帝國領土並びに「ソ領」への落下を防止すると共に、米穀本土到着率を大ならしむるに努む。

 

 

 

<つなぐ 戦後74年>紙とこんにゃくで勝てる!? 風船爆弾の歴史 演劇で紹介(2019年8月26日配信『東京新聞』)

          

キャプチャ
公演「カミと蒟蒻」の一場面=京都市で(シアターリミテ提供)

 

 太平洋戦争で、北茨城市などから放球された風船爆弾を題材にした演劇「カミと蒟蒻(こんにゃく)」が9月14、15の両日、水戸市内で上演される。京都を拠点にする劇団「シアターリミテ」の公演。ひたちなか市出身で劇団を主宰する長谷川源太さん(50)=京都市=は「紙とこんにゃくで勝てると信じていた当時の妄信性は、現代にも通じるということに気付いてほしい」と話す。 

キャプチャ2
「戦時中の妄信性は現代にも通じると気付いてほしい」と話す長谷川さん=水戸市で

 

 作品は、風船爆弾の工場で班長を務めていた元軍人に、新聞記者が当時の話を尋ねる場面から始まる。勤労動員され、妄信的に作業する女学生や戦争に疑問を抱く男子学生、自らの務めを果たそうとする軍人とのやりとりを描いた。
 風船爆弾は戦争が長引き、日本が追い詰められ、物資が窮乏する状況で製造された。こんにゃくを原料としたのりで和紙を貼り合わせた気球に、爆弾を下げたもの。太平洋戦争末期に、米国本土に向けて北茨城市のほか、千葉県や福島県から放たれた。
 長谷川さんは子どものころ、母から風船爆弾の話を聞いたことがあった。また数年前に新聞で、住んでいる京都市内にある歌舞練場が、戦時中に風船爆弾の工場とされていたことを知り、出身地とのつながりを思い、テーマにすることに決めた。製造作業に従事していた元女学生の話や、参考文献を基に、脚本を手掛けた。
 2016年に京都市で初演し、日本劇作家協会の劇作家協会新人戯曲賞で、最終選考作品にノミネートされた。今回は初演時の脚本を半分ほど書き換え、登場人物や、日本が無謀な戦争に突き進んだ時代の背景をより深く描いた。
 長谷川さんは「茨城で風船爆弾が放たれていたことを知ってもらいたい。演劇や郷土史に興味がある若い世代にも見てほしい」と期待した。
 公演は水戸市新荘3の劇場スペース「稽古場 風」で14日午後3時、15日午前11時、午後3時からの3回で、各回とも30席限定。前売り2000円、当日2500円。問い合わせはシアターリミテ=電090(3615)3934=へ。

 

stage_81691.png

D-vlDSCU0AAneJi.jpg

戦争の愚:風船爆弾に悔い 製造の経験を小説に(2018年11月18日配信『毎日新聞』)

 

風船爆弾をテーマにした市民ミュージカル上演にも取り組んできた高橋光子さん=愛媛県四国中央市で2014年8月21日

 

 1個の風船爆弾を主人公にした小説「ぼくは風船爆弾」(潮ジュニア文庫)が先月刊行された。太平洋戦争末期の1944(昭和19)年秋から翌春にかけ、米国へ向け飛ばされた旧日本軍の兵器。和紙の産地・愛媛県川之江町(現四国中央市)で少女の頃に爆弾づくりに動員された作家、高橋光子さん(90)=東京都武蔵野市=が主人公に思いを託し、「戦争の愚かさを訴えるのが僕の使命」と若い世代に呼び掛けている。

 高橋さんら旧川之江高等女学校(現川之江高)の生徒159人は44年に勤労動員された。当時15、16歳。学校と町内五つの製紙工場で朝から晩まで楮(コウゾ)の皮をはぎ、和紙を加工し、こんにゃくのりで貼り合わせた。

 小さなミスも許されません。女学生たちは毎日毎日、指先に力を込めて分厚い紙をこすり、指紋が消えてしまったと嘆いていました。(同書より)

 各地の和紙産地で重点的に作られ、偏西風に乗せて米国本土を直接攻撃しようとした風船爆弾。「死傷既に五百名余」と、目撃情報500件余りを死傷者と誤って国内に伝える新聞報道もあったが、実際に命を奪われたのは子どもたちを含むオレゴン州の民間人6人だったとされる。

 一度戦争が起これば、自分がどんなにいやで、気をつけていても、いつ被害者になるかわからないし、加害者になるかもしれないのです。ぼくがそのいい例です。(同)

 文学界新人賞、潮賞ノンフィクション部門優秀賞などを受賞した高橋さんは2007年、同期生「川之江高等女学校三十三回生の会」のまとめ役となって記録集「風船爆弾を作った日々」(鳥影社)を刊行。14年には市民ミュージカル「風船爆弾を作った日々−−しゃぼん玉、宇宙(そら)までとばそ!」の上演実行委員長を務め、風船爆弾との日々を懸命に伝えてきた。

 「ごく普通の女学生で、人の命のかけがえのなさも知っているはずなのに、『死傷者五百人』の記事に無邪気に喜び、それが当たり前のように思っていた。戦争は人の心も変えてしまうから恐ろしい」(高橋さん)。税込み1000円。【松倉展人】

 【ことば】風船爆弾

 和紙をこんにゃくのりで貼り合わせて直径約10メートルの気球を作り、偏西風に乗せて米国に爆弾や焼夷(しょうい)弾を落とす旧日本軍の兵器。搭載する生物兵器の開発も一時進められた。1944年11月から45年4月にかけて福島、茨城、千葉の3県から約9300発が打ち上げられ、約1000発が米本土に着いたと推定。オレゴン州の民間人6人が死亡したとされる。

 

ani_lin1

 

inserted by FC2 system