八紘一宇(はっこういちう)

 

「世界を一つの家とすること。太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語」(広辞苑第6版)

 

三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言 関連記事・論説

 

『日本書紀(にほんしょき)』巻第三神武(じんむ)天皇の条「橿原宮(かしはらのみや)造営の詔(みことのり)(紀元前660年2月11日〈皇紀元年〉)の中にある「兼六合以開都 掩八紘而為宇 不亦可乎=六合(くにのうち)を兼ねて都を開き八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと亦可(よ)からずや(地の果てまで一つの家とすることは良いことではないか、との意味)」という文言を、日蓮主義者の田中智學が、国体研究に際して1913年3月11日に機関紙、国柱新聞「神武天皇の建国」にて初めて使用し、縮約した語(造語)で、「世界を一つの家とする」という意味。

 

橿原建都の令−八紘為宇の詔

 

我東(あれひむがし)に征(ゆ)きしよりここに六年(むとせ)になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かがふ)りて、凶徒就戮(あだどもころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未だC(しづ)まらず、餘(のこり)の妖(わざはひ)尚梗(こは)しと雖も、中洲之地(なかつくに)復た風塵(さわぎ)なし。

 

誠に宜しく皇都(みやこ)を恢(ひら)き廓(ひろ)め、大壯(みあらか)を規(はか)り(つく)るべし。而して今、運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あ)ひ、民心(おほみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟常(これつね)となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義必ず時に随ふ。苟くも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林(やま)を披拂(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を經(をさめ)営(つく)りて、恭みて寶位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭むベし。

 

上(かみ)は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下(しも)は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまふ心(みこころ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可からずや。夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原の地(ところ)を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。

 

注;田中 智(たなか ちがく)=1861年〜1939年。東京生の宗教家。東京江戸川一之江妙覚寺で得度。のち僧籍を返還し、日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱。1884年東京で信者の組織として立正安国会創立。1914年に諸団体を統合して日蓮宗から在家宗教団体国柱会を結成して日蓮の法華経至上主義の理念を体系化した日蓮主義運動を展開。日本国体学を創始して国家主義を推進し、文芸評論家・高山樗牛(ちょぐう)・哲学者・姉崎正治(あねさき まさはる)らの支持を得た。日刊新聞『天業民報』を発行。79才で没す。田中は、従来の寺檀制度や僧侶中心の枠組みでは日蓮仏教の思想を政治・経済・文化・芸術などの幅広い社会的な領域へ押し広げようとする社会性を担えないとして、在家主義の立場から、すべて生活、信仰の根本になる基板を「日蓮主義」として創出した。

田中は1922年出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である」と述べている。

 

第2次世界大戦中、日本の中国支配、東南アジアへの膨張を正当化するための宣伝スローガン(標語)。大東亜共栄圏の建設を意味し、日本の海外侵略を正当化するプロパガンダとして用いられた。「八紘為宇」(はっこうゆう)ともいう。

 

日本の敗戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件〈SCAPIN−448〉)により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書におけるこの語の使用が禁止された。

 

公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル

 

八紘とは、天地の八方の隅、地の果てまでの意。8つの世界・方位。転じて、全世界の意。一宇とは、一つの屋根の下。

 

田中は著書「日本国体の研究」で「ありふれた悪侵略的世界統一と一つに思われないように」記したことや、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えていることなどから、田中の真の思想に反してこの語だけが当時の軍部に発掘され政策に利用されただけという解釈もある。

 

1936年の2・26事件において、決起したクーデター(反乱)部隊が「蹶起(けっき)趣意書」で、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」と認(したた)めたのが、多くの国民の目に触れた最初である。

 

クーデターは鎮圧されたが、以後、日露戦争以降の興亜論から発展、東亜新秩序・大東亜共栄圏の基礎となったアジアにおける排他的な覇権(自給自足圏)を確立することによって、大日本帝国の自立を図ろうとするアジア主義(19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された)の一種のアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策スローガンとして使用されるようになった。

 

こうして八紘一宇は、田中の真意は別にして、満州国建国を主導した関東軍参謀の石原莞爾らから熱狂的な支持を受けた、やがて昭和前期には「日本が盟主となってアジアを支配する」という文脈で使われるようになる。

 

内閣として初めて使用したのが、1937年11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるといわれている。

 

 

そして、1940年7月26日の、第2次近衛文麿内閣による国家の政策の基本方針で、ファシズム諸国による世界再分割を世界史上の必然的動向とし、従来の東亜新秩序よりもさらに広大な大東亜新秩序の建設を日本の国是であるとしてその後の日本の進路を定めた基本国策要綱(閣議決定文書)においては、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」と記され、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。

 

「挙国一致」「撃ちてし止まむ」。こうした戦争推進の国民的スローガンの一つとして「八紘一宇」も使われ、当時の小学生は習字で書き、少年向けの解説書も発行された。朝日新聞も「八紘一宇の大理想のもと父祖の大業を継ぎ……」などと戦争を支持した。

 

基本国策要綱(昭和15年7月26日閣議決定)

 

世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ、皇国亦有史以来ノ大試錬ニ直面ス、コノ秋ニ当リ真ニ肇国ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセハ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根本的刷新ヲ加ヘ万難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトヲ以テ刻下喫緊ノ要務トス、依ツテ基本国策ノ大綱ヲ策定スルコト左ノ如シ

基本国策要綱

一、根本方針

 皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ

之カ為皇国自ラ速ニ新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢ヲ確立シ国家ノ総力ヲ挙ケテ右国是ノ具現ニ邁進ス

二、国防及外交

 皇国内外ノ新情勢ニ鑑ミ国家総力発揮ノ国防国家体制ヲ基底トシ国是遂行ニ遺憾ナキ軍備ヲ充実ス

皇国現下ノ外交ハ大東亜ノ新秩序建設ヲ根幹トシ先ツ其ノ重心ヲ支那事変ノ完遂ニ置キ国際的大変局ヲ達観シ建設的ニシテ且ツ弾力性ニ富ム施策ヲ講シ以テ皇国国運ノ進展ヲ期ス

三、国内態勢ノ刷新

 我国内政ノ急務ハ国体ノ本義ニ基キ諸政ヲ一新シ国防国家体制ノ基礎ヲ確立スルニ在リ之カ為左記諸件ノ実現ヲ期ス

1、国体ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ自我功利ノ思想ヲ排シ国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス尚科学的精神ノ振興ヲ期ス

2、強力ナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ総合的統一ヲ図ル

 イ、官民協力一致各々其ノ職域ニ応シ国家ニ奉公スルコトヲ基調トスル新国民組織ノ確立

ロ、新政治体制ニ即応シ得ヘキ議会制度ノ改革

ハ、行政ノ運用ニ根本的刷新ヲ加ヘ其ノ統一ト敏活トヲ目標トスル官場新態勢ノ確立

 3、皇国ヲ中心トスル日満支三国経済ノ自主的建設ヲ基調トシ国防経済ノ根基ヲ確立ス

 イ、日満支ヲ一環トシ大東亜ヲ包容スル皇国ノ自給自足経済政策ノ確立

ロ、官民協力ニヨル計画経済ノ遂行特ニ主要物資ノ生産、配給、消費ヲ貫ク一元的統制機構ノ整備

ハ、総合経済力ノ発展ヲ目標トスル財政計画ノ確立並ニ金融統制ノ強化

ニ、世界新情勢ニ対応スル貿易政策ノ刷新

ホ、国民生活必需物資特ニ主要食糧ノ自給方策ノ確立

ヘ、重要産業特ニ重化学工業及機械工業ノ画期的発展

ト、科学ノ画期的振興並ニ生産ノ合理化

チ、内外ノ新情勢ニ対応スル交通運輸施設ノ整備拡充

リ、日満支ヲ通スル総合国力ノ発展ヲ目標トスル国土開発計画ノ確立

 4、国是遂行ノ原動力タル国民ノ資質、体力ノ向上並ニ人口増加ニ関スル恒久的方策特ニ農業及農家ノ安定発展ニ関スル根本方策ヲ樹立ス

5、国策ノ遂行ニ伴フ国民犠牲ノ不均衡ノ是正ヲ断行シ厚生的諸施策ノ徹底ヲ期スルト共ニ国民生活ヲ刷新シ真ニ忍苦十年時難克服ニ適応スル質実剛健ナル国民生活ノ水準ヲ確保ス

 

その後、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された1040年9月27日の詔書にも「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿(こんよ=地球・大地)ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜(しゅくや=朝早くから夜遅くまで。明け暮れ。一日中)眷々(けんけん=心をひかれて振り返るさま)(お)カザル所ナリ」と言及されるに至った。

 

 

 

 

 

当時、日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争に突入する。すなわち、日中戦争から第2次世界大戦にかけても大日本帝国の政策標語として頻繁に用いられ、当時発行された10銭や4銭切手、10銭紙幣の意匠デザインにも使われたほか、日本国内各所で東アジアにおける東亜新秩序実現の為のスローガンのひとつとされ、さらにはこの語の思想実現のため東京市(当時)では肇国奉公隊(ちょうこくほうこうたい)が結成されるなど市役所組織の軍事体制化に活用・利用されたのである。

 

 

宮崎県宮崎市の平和台公園(現在の名称)にある塔「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘一宇の塔」ともいう。

 

 

正面には大正天皇の第2皇子秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう。1902年〜1953年)の筆による「八紘一宇」の文字が刻まれ、四方に武人である「荒御魂(あらみたま)」、商工人である「和御魂(にぎみたま)」、農耕人である「幸御魂(さちみたま)」、漁人である「奇御魂(くしみたま)」の信楽焼の四神像が配置されている。

 

1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになり、相川勝六(佐賀県嬉野村(現:嬉野市)うまれの官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事を歴任。奉祝会会長。大政翼賛会実践局長、厚生大臣、衆議院議員)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行となった。

 

塔を設計する彫刻家を公募した際に「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と名乗り出たのが、著名な彫刻家の日名子実三(ひなご じつぞう。1892年〜1945年。大分県臼杵市出身。八咫烏〈やたがらす〉を意匠とする日本サッカー協会〈当時・大日本蹴球協会〉のシンボルマークをデザインしたことは有名)であった。

 

日名子は宮崎神宮に参拝した際に、御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたというが、当時、日本が支配していた朝鮮や台湾などから運ばれた石も使わた。

 

戦後の1946年にGHQの命により、「八紘一宇」の文字と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去された。塔自体の名称も「平和の塔」となったが、1962年に荒御魂像が、1965年に「八紘一宇」の文字が復元された。

 

1957年9月、衆議院文教委員会での松永東(とう)文部大臣の発言=「いわゆる八紘一宇とかなんとかいいまして、よその国はどうなってもよろしい。どうなってもじゃない、よその国はつぶれた方がよろしいというくらいな考え方から出発しておったようであります」

 

第026回国会 衆議院文教委員会 会議録第33号 1957(昭和33)年9月26日

 

○松永東国務大臣 今の佐藤さんの仰せられたそうしたことが新聞等でも、あるいはいろいろな会合の席でも、教育勅語の復活をやるのじゃないか、お前の年ごろから見ればどうしても復古調だ。であるから、昔の戦前の修身科を復活させるのじゃないか、復元するのじゃないか、こういうような疑惑を持たれておる。しかしながらこれは全くの疑惑、全くの杞憂で、決して私はそういうことは考えておりません。要するに、私は修身科の修身という言葉を口にしまいと考えておるくらいであります。と申しますのは、私のこの年で修身といえば今言う通りすぐ復古調だ。じいさんまたもとの修身をやるつもりじゃくらいのことに疑われがちでありますから、これを徳育科とか、あるいは道徳科とか公民科というふうに呼び名した方がいいのじゃなかろうかと思いまして、このごろはあまり修身科ということは言わぬことにしております。しかほどさように、私は前の修身復活なんというのは寸毫も考えておりません。要するに、今日の現状に即した、広い視野に立った国際情勢に即応した道義をわれわれはつちかわなければならぬ。すなわち戦前の道義のそれは、戦前の愛国心のそれは、日本さえよければよろしい、いわゆる八紘一宇とかなんとかいいまして、よその国はどうなってもよろしい。どうなってもじゃない、よその国はつぶれた方がよろしいというくらいな考え方から出発しておったようであります。今日の道義、今日の愛国心は、世界の全部の人類が共栄共存の道をたどっていかなければいかぬ。そこで自分の国ばかりじゃない、よその国もともに栄えていくようにしなければならぬ。従ってよその民族に対してみっともない、恥かしいような思いをしないような道義心をつちかっていかなければならぬというふうに考えております。戦前の復古調では絶対にありません。その点だけ一つ御了承おきを願いたい。

 

1979年10月、昭和天皇は国体開会式出席のため宮崎県を訪問。当初、県立平和台公園にある高さ約37メートルの「平和の塔」で歓迎を受ける予定だったが、塔の前の広場に変更された。

 

当時の侍従長による「入江相政(すけまさ)日記」の同年9月の記述には「八紘一宇の塔の前にお立ちになつて市民の奉迎にお答へになることにつき、割り切れぬお気持がおありのことが分り……」とあり、昭和天皇の意向が場所を変えた理由だったことを記している。

 

1983年1月の参議院本会議で(終戦時に海軍主計少佐だった)中曽根総理の発言=「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」。

 

第098回国会 参議院本会議 第会議録4号 1983(昭和58)年1月29日

 

森田重郎君 私は、新政クラブを代表いたしまして、中曽根総理に対し何点かの質問をいたします。

 まず、防衛問題について伺います。

 総理は、前国会で政治目標の第一に平和の維持と民主主義の健全な発展を訴え、その上で、日本は軍事大国にならず、近隣諸国に脅威を与えることのないよう配慮する、また、平和外交の基本方針はこれを堅持し、国際的な軍縮の努力に貢献すると広く国民の方々に公約をされました。さらに総理は、世界経済の一割を担う国力を持った日本は、日本の寄与なくして地上の平和と人類の共栄の前進はあり得ないとまで言われたのでございます。

 その中曽根総理が、今回の日米首脳会談では、運命共同体、不沈空母、たとえそれが総理の言わるるごとく不沈列島であったとしても、前九十七国会における所信表明とは大きく様変わりし、あたかも軍拡路線につながるかのごとき突出発言をされましたことは、まさに遺憾でございます。まず、この点につきまして、私は改めて総理の政治信条をお伺い申し上げたい。これが第一点でございます。

 私は、この際、あえて総理に申し上げたい。それは、かつて日本の帝国主義の台頭が、多くの国民の方々の犠牲の中で敗戦という厳粛な事実、そしてあの忌まわしい終戦の様相であります。また、全体主義体制の中で滅亡の道を歩んだドイツや、全土を覆ったファシズムがイタリアを、そしてまたイタリア国民を敗戦へと導いた悲惨な歴史の教訓を、この際総理、篤と想起していただきたいのでございます。

 ところで、軍拡指向とも受け取れる今回の総理の問題発言は、必要以上に日ソ間を冷却化したと言われております。そこで私は、総理の言われます平和外交をも含めて、特に対ソ外交に対する今後の姿勢とその具体的な取り組み方について、これまた総理の御所見を賜りたいのでございます。

後略

 

○国務大臣(中曽根康弘君) 森田議員にお答えをいたします。

中略

一番大事なことは、世界から孤立しないということであります。そういう意味におきまして、アメリカに行ってあるところで発言した場合でも、三十七年という年は非常に微妙な年を日本の歴史に与えているということを言っていました。日露戦争というのは明治維新から三十七年であります。それで、そのころから日本の資本主義というのは一応成熟したわけです。その日露戦争が終わってから三十七年目に太平洋戦争が勃発した。太平洋戦争が終わってから昨年は三十七年目であります。日露戦争が終わってから三十七年目の太平洋戦争の勃発というのは、一言で言えば、日本の無定見な軍事的膨張が日本を世界の孤立に追いやったその結果ではないであろうか。そして、戦争後またみんながはい上がって、そして三十七年たって今度は経済的膨張というものが日本を世界の孤立に追いやって、重大な深刻な事態になっているのじゃないだろうか。

 いずれにせよ、世界から孤立するということぐらい日本に危険なことはない。これは日本国民のあるいは政治家の意識の中で自分の国ばかり考えている、そういう独善性というものが背景にないだろうか。世界情勢を深刻に見つめて、心を広く豊かに持って、世界の水準、世界の歩みのセンターがどこを歩んでいるかということを見きわめるということが必要ではないのだろうか。そういう意味のことも考えましていろいろな発言もしてきておるのでございます。

 日本の場合について、アメリカとの関係、あるいはヨーロッパとの関係、自由世界との関係を調整するということが第一に重要なことでもございましたから、いままでここでいろいろ御説明申し上げましたような関係に立った発言もしておる。要するに孤立化を防ぐ、一番大事な仕事である。世界の常識の線を日本も歩んでいく必要があると。戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。戦後再びそういう危険性を冒していないだろうか、そういうことを申し上げたかったのでございます。 

後略

 

 

『日本ヨイ国キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国』『日本ヨイ国ツヨイ国。世界ニ輝クエライ国』(小2年用修身教科書)

 

 

三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言

 

 

 自民党の三原じゅん子参院議員(比例区・党女性局長)は2015年3月16日の参院予算委員会の質問で、第2次世界大戦を正当化するスローガンとして、当時の日本政府が用いた「八紘一宇(はっこういちう)」が日本のあるべき姿だと主張した(動画)。

 

 三原氏は、アマゾンをはじめとする多国籍企業の国際的な課税回避の問題を取り上げる中で、「建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』を紹介したい」と言及。「昭和13(1938)年に書かれた『建国』という書物」から引用しながら、こう説明した。「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強い者が弱い者のために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろう。現在の国際秩序は弱肉強食。強い国が弱い国のためにはたらく制度ができて、初めて世界は平和になる。グローバル資本主義の中で、日本がどう立ち居振る舞うかが示されている」と持論を展開し、「八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそが世界中に提案していくべきだと思う。麻生大臣!この考えに対して、いかがお考えになるか」と語った。

意見を求められた麻生太郎財務相(74)は質問に直接答えず、「日本中から各県の石を集めましてね、その石を集めて『八紘一宇の塔』ってのが宮崎県に建っていると思いますが、これは戦前の中で出た歌の中でも、『往(い)け、八紘を宇(いえ)となし』とか、いろいろ歌もありますけれども、そういったものにあってひとつのメーンストリーム(主流)の考え方の一つなんだと思う。こういった考え方をお持ちの方が、三原先生の世代におられるのに正直驚いた」と述べた。

三原氏はメディアの取材に「この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化するスローガンとして使われた歴史は理解している。侵略を正当化したいなどと思っていない」と文書で回答し、「『人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう』という和の精神」を伝えたかったとしている。

 

注;「建国」=国家主義思想団体「創生会」を結成したのちの九州日報社(現・西日本新聞社)の社長を務めた清水芳太郎(1899年〜1941年)が、1938年に九州日報社から出版した書籍。

 

三原じゅん子議員の質問と、麻生財務相、安部首相の答弁の全文

 

三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。

 「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」

 ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。

 麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。

 

麻生財務相:もうここで戦前生まれの方というのは、2人くらいですかね、あの、他におられないと思いますけど、これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのが立っております。宮崎県の人、いない? 八紘一宇の塔あるだろ? 知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島(みずほ)さんでも知っている。宮崎県関係ないけど、八紘一宇っていうのは、そういうものだったんですよ。

 で、日本中から各県の石を集めましてね、その石を全部積み上げて八紘一宇の塔っていうのが宮崎県に立っていると思いますが、戦前の中で出た歌の中でもいろいろ「往け、八紘を宇(いえ)となし」とか、いろいろ歌がありますけれども、そういったもののなかにあってひとつのメインストリームの考え方のひとつなんだと私はそう思いますけれども。

 私どもはやっぱり…なんでしょうねえ…やっぱり世界の中で1500年以上も前から、少なくとも国として今の日本という国の、同じ場所に同じ言語を喋って、万世一系天皇陛下というような国というのは他にありませんから。日本以外でこれらができているのは10世紀以降にできましたデンマークくらいがその次くらいで、5世紀から少なくとも「日本書紀」という外交文書を持ち、「古事記」という和文の文書を持ってきちんとしている国ってそうないんで。そこに綿々と流れているのはたぶんこういったような考え方であろうということで、この清水(芳太郎)さんという方が書かれたんだと思いますけれども。

 こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感です。

 

三原議員:はい、これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。

 で、この期に及んで単に法人税をもっと徴収したいというような各国政府の都合に基づくスタンスから一歩踏み出してですね、つまり、何のためにこうした租税回避を防止するかという理念に該当する部分を強化する、こういったことが必要なのではないかと思っております。

 総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?

 

安倍首相:こうした、いわば租税回避ができるのは本当に多国籍企業であり、巨大な企業であってですね、こういう仕組みを、こういう企業のみが活用できるわけでございます。まさに日本の中でコツコツ頑張っている企業はそういう仕組をとても活用することができないわけでございまして、そういう意味において正直者が馬鹿を見てはならないわけですし、しっかりとそれを進めていく国とそうでない国に大きな差が出てはならないわけでございますので、BEPSプロジェクトの取組みがですね、OECD租税委員会において進められているわけですが、本年中の取りまとめに向けてですね、日本政府としてもしっかりとリーダーシップを取っていきたいと、このように考えております。

 

菅義偉官房長官は3月17日午後の会見で、「(三原氏の発言を委員会の現場で)最初から聞いてれば、租税回避の発言の中で引用されたと思っていたので、従来の意味合いとかニュアンスとは違う意味で使われたと思っている」とコメントした。

 

韓国YTNテレビは、「過去の日本の侵略戦争を正当化するスローガンとして使用された『八紘一宇』を礼賛するような発言をして問題になっている」と報道した。

 

三原氏は同日朝にブログを更新し、国会で読み上げた『建国』の一節を掲載。「侵略のスローガン」といった指摘に対し、直接の反論はしていない。

 

 

 

2015年3月18日

「八紘一宇」について、予算委員会の質問でお伝えしたかったこと。

 

昨日の予算委員会における私の質疑にたくさんの反響を頂きました。

ご意見の中には、「八紘一宇」という四字熟語について、「戦争や侵略を正当化する『スローガン』『標語』だったことを軽く見ている」といったご指摘が多くありました。

私があえて「八紘一宇」という言葉をつかって、委員会質疑で問題提起を行った意図をお伝えしておきたいと思います。

この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使われたという歴史は理解しています。侵略を正当化したいなどとも思っていません。私は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を広く皆さんにお伝えしたいと考えました。

ご指摘いただいた中にもありましたが、「八紘一宇」という四字熟語そのものは、大正時代に入ってからつくられた言葉であると言われていますが、もともとは神武天皇即位の際の「橿原建都の詔(みことのり)」にそもそもの始まりがあります。

 是非、全文をお読みいただきたいと思いますが(「橿原建都の詔」の全文は、末尾に引用させていただきました)、まずは該当部分の抜粋をご覧ください。

「八紘(あめのした)を掩(おお)いて 宇(いえ)と為(せ)んこと 亦可(またよ)からずや」

 今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。

 この詔を素直に読んでみますと、国民のことが「おおみたから」と呼ばれているように、自分より他人をいつくしみ思いやる利他の精神、きずなを大切にするこころや、日本の家族主義のルーツが、ここに表れているのではないかと私は感じました。

 今回、「陸奥(むつ)の国震災賑恤(しんじゅつ)の詔」でもご紹介いたしましたが、歴代天皇の詔やお言葉のなかに引き継がれている、人をいつくしむ精神こそ、長い歴史をもつ日本という国の理念としてとらえ直すべきではないか。そうして、もともとの意味にもどって、世界の人に理解してもらえるよう発信していくべきではないか。そう、私は考えたのです。

 その思いから、今回の質疑の中で、この言葉を申し上げることに決めました。

 今回の質疑では、グローバル資本主義の下、競争社会が行き過ぎ、つまり弱肉強食であって、自分さえ儲かれば他人などどうでもいいといった考え方が世の中にあることをうれい、それを正すための理念が必要だと考えました。

 今回の私の質疑がひとつのきっかけになって、忘れられようとしている日本の「建国の理念」と「天皇陛下の祈り」について、広く知って頂くとともに、皆様に考えて頂ける機会になって欲しいと思っております。

 最後に、ご批判も含め、皆様から頂いている様々なご意見を糧として、私の議員としての今後の活動に、しっかりと活かしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

八紘一宇の塔(2019年8月19日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 今年の8月15日は宮崎市にいて「八紘一宇(はっこういちう)の塔」を訪ねた。仰ぎ見る36メートルの存在感。何より、侵略戦争のスローガンが21世紀の空に突き立っていることに圧倒される

▼刻まれた八紘一宇は「世界を一つの家にする」意味。神武天皇の伝説に由来し、宮崎はゆかりの地とされる。塔は太平洋戦争を始める前年の1940年に建てられ、日本主導の世界秩序実現を宣伝した

▼よく見ると、土台部分には「南京」や「河北省」の文字がある。礎石は侵略した地域からも集められた。中国の博物館が4年前に返還を求めたものの、管理する宮崎県は「塔の取り壊しはできない」と断っている

▼実は、八紘一宇の文字は敗戦後、米軍の指摘を受けていったん削られた。ところが65年にはもう地元経済界主導で復元された。名前だけは「平和の塔」と呼び換えられた

▼塔の姿が、日本と二重写しになる。大日本帝国は崩壊し、「平和国家」に生まれ変わったことになっている。しかし実態はどうか。元首だった昭和天皇は皇位にとどまり、戦犯が首相になった。日本は本当に変わったのか、周辺国の信頼はいまだに得られない

▼自民党議員の一部は八紘一宇を「建国の理念」「家族主義」などと称賛し続けている。空っぽな戦時スローガンが繰り返しよみがえり、平和国家の空っぽな内実を問うている。

 

皇紀(2016年1月9配信『朝日新聞』−「天声人語」)

 

中継を視聴していて驚いた方もおられただろう。昨日の衆院予算委員会のトップバッター、自民党の新藤義孝氏が切り出した。「平成28年が明けました。伝統的な数え方でいえば皇紀(こうき)2676年」。若い世代は何のことかと思ったかも知れない

▼皇紀とは、神武天皇の即位の年とされる西暦紀元前660年を元年とする紀年法だ。明治初期の1872年に定められた。戦前の1940年は皇紀2600年であり、盛大に祝われた。しばしば国民精神総動員と結びつけて語られる

▼今、そうした言葉を使う意図は何か。昨年も国会で戦時スローガンの「八紘一宇(はっこういちう)」を取り上げ、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と述べて物議を醸した自民党議員がいた。復古志向は元々この党の一面だが、かつてここまで無遠慮だっただろうか

▼政界には歴史観の深い溝があり、憲法観の深い溝がある。そのことをやっと始まった国会論戦があらわにしている。野党は安保法制の憲法違反をまず問うが、首相は取り合おうとしない

▼溝が深い分、言葉がささくれ立つ。首相は臨時国会も開かず、「逃げて、逃げて、逃げ回ってきた」と非難する野党。野党は対案すら示さず、「逃げて、逃げて、逃げ回っている」とやり返す首相

▼互いの歴史観、憲法観を確認しあうことから始めてはどうか。代表質問で「立憲主義とは何か」と問われた首相は直接答えず、「立憲主義にのっとって政治を行うことは当然」とだけ述べた。これでは議論は進まない。

 

南京の博物館、「平和の塔」礎石の返還を要請(2015年10月27日配信『読売新聞』)

 

南京の民間博物館が返還を求めている「麒麟」が彫られた礎石

返還を求めている「麒麟」が彫られた礎石

 

 宮崎市の平和台公園にある「平和の塔」について、中国・南京市の民間博物館の館長らが27日、公園を管理する宮崎県庁を訪れ、「塔には南京産の礎石3個が使われており、中国への返還を求める」との要請文を提出した。

 これに対し、県は「現状のまま保存したい」と伝えた。

 公園を管理する県都市計画課によると、塔は1940年、神武天皇の即位から2600年を記念する事業として、国内や中国、朝鮮半島、台湾から石を集めて建てられた。高さは36・4メートル。正面には「世界を一つにする」という意味の「八紘一宇」との文字が刻まれた。現在は公園のシンボル的存在となっている。

 この日、県庁を訪れたのは呉先斌(ごせんひん)・南京民間抗日戦争博物館館長ら。「中国産の石の多くは旧日本軍の戦利品ではないか」とし、中でも霊獣「麒麟(ぎりん)」が彫刻され、南京日本居留民会と刻まれた土台部分の石について「中国で国宝級文化財の可能性がある」と主張している。

 対応した県都市計画課の担当者は「塔と土台について略奪の証拠となる資料はなく、要請文の内容を確かめることはできない。公園や塔は市民に親しまれており、これまでの通りの形で残していきたい」と答えた。

 

宮崎市の「平和の塔」礎石、知事「現在地に保存」 南京の関係者に伝達へ(2015年10月20日配信『西日本新聞』)

 

 日中戦争下の1940(昭和15)年に国内外から集めた石を土台にして造られた宮崎県管理の「平和の塔」(宮崎市)に絡み、中国・南京市の博物館関係者が今月来日し、土台に組み込まれた礎石の返還を県などに求める問題で、河野俊嗣知事は19日、定例記者会見で「平和の塔と(一帯の)公園は多くの方に親しまれている。われわれとしては、現状のまましっかり保存していきたい」と述べた。

 河野知事は、塔の歴史を検証する市民団体「『八紘一宇(はっこういちう)』の塔を考える会」が、礎石の一部を中国や朝鮮半島などからの略奪品としている点に「略奪という表現があったが、どういう経過なのかはっきりとした資料がない。結果的に、関係国から集められた石で今のものが造られたということになる」と語った。

 県によると、塔と土台に使われた石は関連資料が残っておらず、石の由来に関する調査はできないという。県は、南京市の博物館関係者にも現在地保存の意向を伝える方針。

 

宮崎「平和の塔」礎石返還要求へ 南京の団体、月末に来日(2015年10月15日配信『産経新聞』)

 

 

中国側が返還を求める「南京日本居留民会」と彫られた白い石材

 

 宮崎県立平和台公園(宮崎市)にある昭和15年建設の「平和の塔」に、中国・南京で旧日本軍が略奪した石が使われているとして、現地の民間団体を名乗る「南京民間抗日戦争博物館」の関係者が、県に石の返還を求めている。「南京大虐殺文書」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録された動きと足並みをそろえており、「南京」をテコにした組織的「抗日」も疑われる。

 石造りの平和の塔は、神武天皇即位2600年を記念し、宮崎県や、県内の民間団体が企画した。建設にあたって、国内の自治体だけでなく海外の日系人組織などに石材の寄付を呼びかけた。県などによると、礎石計1789個のうち、400個程度が海外産の石だという。

 国立公文書館アジア歴史資料センター(東京)に残っていた塔の事業要項によると、礎石について「東亜はもとより世界の各地、御稜威(みいつ)の及ぶ所より石を集めて其の上に之(塔)を築造」としている。

 高さ40メートルの塔は戦後、周囲の公園とあわせて市民の憩いの場として親しまれてきた。その塔に今月1日、中国側が突然、かみついてきた。

南京民間抗日戦争博物館」が石の一部返還を求めるという情報が、日中友好協会の前全国常任理事で、同県都城市在住の来住新平(らいじゅう・しんぺい)氏から、もたらされた。

 来住氏によると、中国側が返還を求めるのは、中国に古くから伝わる霊獣「麒麟(きりん)」の絵と「南京日本居留民会」との文字が刻まれた礎石など計3個。これらの石について、同博物館では「明王朝の陵墓から持ち去られた国宝級文化財の可能性がある」などと主張しているという。

 来住氏によると、今月25日から、同博物館の呉先斌館長らが来日し、27日に宮崎県庁を訪れる予定という。呉氏のほか、南京の旅行代理店関係者、「南京大虐殺」の被害者として、日本政府に損害賠償を求める訴訟の関係者らも来日するという。

 公園を管理する県都市計画課の担当者は「礎石についての詳しい資料が残っていない。また、正式な要請内容が分からず、現時点では対応しかねる」と語った。

中国側の主張に対し、塔の歴史に詳しい宮崎神宮(宮崎市)の黒岩昭彦権宮司は「石は中国や台湾、満州だけでなく、ドイツやアメリカ、ブラジルなどからも集められた。経緯に不明な点も多いが、塔はあくまで皇紀2600年を記念して建造されたもので、さきの大戦と結びつける理解は誤りだ」と中国側の姿勢を憤った。

 また、塔を制作した彫刻家、日名子実三(ひなご・じつぞう)に詳しい大分県立芸術会館(現・県立美術館)の広田肇一元副館長も「塔は歴史的な遺産だ。当時の世相を踏まえ、一世一代の大作として制作した作品に現代の価値観で手を入れることは、大仏を破壊することに類する行為といえるのではないか」と語った。

 

 【平和の塔(八紘之基柱(あめつちのもとはしら))】 昭和15年、神武天皇即位から2600年を記念し、宮崎市に建設された。県や、県内の民間団体が共同で組織した「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」が企画し、彫刻家の日名子実三(明治26〜昭和20年)が制作。塔には神話「神武東征」の一場面が描かれているほか、内部にも神話をモチーフとした石膏(せっこう)製のレリーフが飾られている。また、正面には昭和天皇の弟にあたる秩父宮雍仁親王が揮毫(きごう)した「八紘一宇」の文字が刻まれている。

 

「平和の塔」問題で対応協議 宮崎県(2015年10月6日配信『西日本新聞』)

 

日中戦争下の1940(昭和15)年に国内外から集めた石を土台にして造られた宮崎県管理の「平和の塔」(宮崎市)に絡み、中国・南京市の民間博物館の関係者が今月来日し、土台に組み込まれた南京産とみられる礎石3個の返還を県などに求めることについて、県は5日、早急に対応を検討する考えを示した。

宮崎県日中友好運動懇談会によると、来日するのは「南京民間抗日戦争博物館」の呉先斌(ごせんひん)館長や現地メディア関係者など7人と、南京大虐殺の被害者であり、日本政府に総額約1億円の損害賠償を求めた訴訟の原告の一人、故李秀英さんの次女陸玲さん。

一行は25日に県内に入り、都城市である戦争企画展に出席したり、平和の塔を視察したりする。27日に県庁を訪れ、河野俊嗣知事宛てに返還の申し入れ書を提出する。県都市計画課は「どのように対応するか、内部で協議を続けている」としている。

 

宮崎「平和の塔」 中国側が礎石返還求める 県苦慮「壊せない」(2015年10月6日配信『共同通信』)

 

 日中戦争中に宮崎県が国内外から集めた石を土台に造った宮崎市の「平和の塔」をめぐり、中国・南京の民間博物館関係者が今月下旬に県を訪れ、南京産とみられる一部礎石の返還を求めることが5日、分かった。

 塔を管理する県は「よく話を聞いて、お互いの理解を深めたい」とした上で「歴史がある塔を取り壊さなければならず、返還は難しい」と対応に苦慮している。

 訪れるのは「南京民間抗日戦争博物館」の館長ら。宮崎県で日中交流に取り組む団体などでつくる県日中友好運動懇談会と戦後70年の記念事業を計画する中で、礎石の返還を提案した。

 県によると、塔は1940年、神武天皇即位2600年を記念し、国内のほか中国や朝鮮半島、米国など約10カ国の石を集めて建造された。

 

とんでもない言葉(2015年4月9日配信『河北新報』−「河北春秋」)

 

またとんでもない言葉がよみがえったものだ。「八紘一宇(はっこういちう)」だという。3月の参院予算委員会で自民党の三原じゅん子議員が持ち出した。多国籍企業の租税回避対策についての質問だったが、この言葉をなぜいま?

▼意味は「八紘=全世界」を「一宇=一つの家」にすること。戦争を知らない世代とはいえ国会議員だ。植民地支配と侵略を正当化するためのスローガンに使われたことはご存じだろうに。戦後70年に突然呼び出された亡霊に、背筋がざわざわした

▼きなくさい言葉は安倍晋三首相にもあった。国会答弁で自衛隊を「わが軍」とやった。他国軍と自衛隊を対比した発言だったが、改憲による国防軍創設に意欲的なだけに、思わず本音が出てしまったか。「(今後は)そういう言葉は使わない」そうだが

▼天皇、皇后両陛下が太平洋戦争の激戦地となった島国パラオを訪問されている。戦没者を慰霊したいと、かねて希望していた。きょう訪れるペリリュー島では、日米合わせて1万2千人が死んだ

▼天皇陛下は昨年の誕生日会見で大戦に触れ、こう述べた。「人々の死を無にしないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが残された私どもに課された義務であり、後に来る時代への責任である」。胸のさざ波が収まる言葉である。

 

平和の塔(2015年4月2日配信『宮崎日日新聞』−「くろしお」)

 

平和の塔を仰ぐと寂しい気持ちになる。全県的な大事業で、多くの県民が勤労奉仕で建設に当たった歴史的な建造物。にもかかわらず宮崎市の文化財にも指定されていない。

いや、今でも本県を代表する観光地ではある。築七十数年たつのに宮崎平野のランドマークだ。1964年の東京五輪では聖火リレーのスタート地点となったが、覚えている人は少ないだろう。では2020年の東京五輪で栄光を再び、という意見も耳にしない。

観光地としての地位が相対的に低下したのだろう。名所・旧跡巡りから体験型へと観光の形が変わったこともある。しかしどこか「よそよそしく」なった原因は、正面の文字「八紘一宇」の受け止め方が時代とともに変遷した歴史が大きい。

戦争に利用されたスローガンか、国際平和の理念なのか。政治的な思想に関わる問題なので県も市も「当たらず障らず」のスタンスだ。先月参院予算委員会で「八紘一宇」の再評価が取り上げられたときも「ひいきの引き倒し」になるのではと懸念した向きがある。

そんなことを考えながら、花見に訪れたら中国人の観光客が大勢いたので驚いた。台湾からかもしれない。地元の中学生に写真を撮ってもらうなど、和やかに交流している。ガイドから塔の由来も聞いたはずだが、どう思ったのだろう。

昨年は内部の一般公開があり、初めて見学した。神話を描くレリーフが壮観だ。高い天井に開いた穴からさらに上を見上げると暗闇が広がる。せめて近代遺産としての価値は十分に評価を、という先人の願いがこもっているように思えた。

 

「八紘一宇」 歴史学んだ上の発言か(2015年3月20日配信『神奈川新聞』−「社説」)

 

安倍晋三首相による戦後70年談話をめぐり、中韓両国はもちろん、欧米からも日本政府の歴史認識に注目が集まる。そうした状況にもかかわらず、国会で過去の軍国主義の亡霊のような言葉が政権与党の議員から平然と発せられた。聞き流すことはできない。

16日の参院予算委員会で、自民党の三原じゅん子議員が「八紘(はっこう)一(いち)宇(う)」を「日本が建国以来、大切にした価値観」と主張した。日中戦争から第2次世界大戦にかけて、大日本帝国の政策の屋台骨を担ったキーワードである。

意味は「世界(八紘=あめのした)を一つの家(宇)のようにする」ということ。日本書紀で「神武天皇の建国」について書かれた文言を基に、大正時代に造語された。

だが、大日本帝国の軍部がスローガンとして頻繁に用いるようになると、言葉の重みが増した。

1940年、第2次近衛文麿内閣が「基本国策要綱」で「大東亜共栄圏」の建設をうたった際、公式に「皇国の国是は八紘を一宇とする」と明記。以後、「天皇を家長として世界を一つの家にする」ためとし、旧日本軍のアジア侵略を正当化する旗印となった。

戦勝国にとっても、この言葉は国家神道や軍国主義、過激な国家主義と切り離せないとの認識だった。連合国軍総司令部(GHQ)は45年12月に発令した「神道指令」で、「大東亜戦争」とともに公文書での使用を禁じた経緯がある。

まさに日本の負の歴史そのもの、という言葉であろう。

今回、三原議員は言葉の表面上の意味のみを捉えて発言したはずであろう。この言葉が従来、どう使われてきたのかを十分に理解した上での発言とすれば、戦時中の軍国主義を真っ正面から肯定することにもなってしまう。

「『侵略』という定義は学会的にも国際的にも定まっていない」と発言し、負の歴史を直視していないと物議を醸した安倍首相の政権下での、戦後70年談話を控えたデリケートな時期である。三原議員の認識は対外的に誤解を与えかねず見逃せない。国民の代表として歴史を学んでいるか、という疑問もある。

安倍首相は先の大戦への「深い反省」を公言している。ならば当然、今回の発言には厳正に対処する必要があるだろう。

 

八紘一宇」をブログで解説…三原議員に警戒強める国際社会(2015年3月18日配信『日刊ゲンダイ』)

  

 こういうオソマツな議員ばかりだから、国際社会が安倍政権に警戒感を抱くのだ。参院予算委で、自民党女性局長の三原じゅん子議員(50)の口から出た「八紘一宇」発言。一昔前の国会なら大騒ぎだが、今は国会はもちろん、大新聞・テレビもなぜかスルーだ。

三原議員は17日のブログでも〈八紘一宇というのは、「日本書紀」において、初代神武天皇が即位の折りに「掩八紘而爲宇」(あまのしたおおひていえとなさむ)とおっしゃったことに由来する言葉です〉と書いている。あくまで、日本が先の侵略戦争を正当化するために使ったスローガンと認めたくないのだろう。

しかし、国際社会の見方は違う。日本と同様に戦争に突き進んだドイツが掲げた「ゲルマン民族の優越性」と並び、右傾化した国家主義を表す言葉だ。くしくも、7年ぶりに訪日したメルケル独首相が安倍政権の右傾化を牽制する発言をしていたが、三原議員の耳にはナ〜ンも届いていなかったのだ。立正大教授の金子勝氏(憲法)もこう言う。

「戦前の軍国主義を肯定する言葉を国会で、しかも女性議員が発したことに驚きます。国際社会から見れば、日本の政権は首相だけでなく、女性議員も好戦的なのか、と映るでしょう。ますます世界から孤立しますよ」

歴史修正主義のタカ派政権だから、過去を顧みないのだろうが、「八紘一宇」は過去の国会でも度々、取り上げられ、問題視されてきた。例えば、82年3月の参院文教委員会では、社会党の本岡昭次議員が三原議員のような見解に対し真っ向から反論していた。

〈八紘一宇なんていうのはね、字引を見ても「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」だ。(略)八紘一字というようなものがどんどん前へ出ていってそれが真の平和主義だと、(略)民主主義とか、自由主義とか言ったら八紘一宇精神によって断罪された時代があったんですよね〉

タダでさえ「戦前回帰」の動きが目立つ安倍政権だ。下村文科相が「道徳の教科化」を声高に叫ぶ姿を見ていると、三原議員は次に「教育勅語の復活」を口にするんじゃないか。

 

「八紘一宇」持ち出した三原じゅん子氏に沈黙する国会の異常(2015年3月17日配信『日刊ゲンダイ』)

  

まさか、21世紀の国会で、この言葉を聞くとは思わなかった。16日の参院予算委で、質問に立った自民党の三原じゅん子議員(50)が「八紘一宇」という戦前・戦中のスローガンを唐突に持ち出し、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」とまで言ってのけた。

八紘一宇とは「全世界を天皇の下にひとつの家のようにする」という意味が込められている。先の大戦中には朝鮮半島・台湾の植民地化、中国・東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして喧伝された。

三原議員の発言は企業の国際的な租税回避問題を取り上げる中で飛び出した。「八紘一宇の理念の下に、税の仕組みを運用していくことを安倍総理こそが世界に提案すべきだ」と語ったが、この時代がかったセンス、戦前日本の侵略行為への無反省、戦前回帰の発想にはホント、目まいがしてくる。

 敗戦を12歳で迎えた筑波大名誉教授の小林弥六氏はこう嘆く。

「これが戦争を劇画的にしか知らない世代の恐ろしさなのでしょう。戦時下の『八紘一宇』の背後には、世界を日本を中心とした“ひとつの家”にするという思い上がった発想がありました。それこそが日本が道を誤った大きな理由で、その反省の上に現在の平和がある。日本の軍国化を進める安倍首相の下、国会は今、この言葉が出てきても不思議じゃない状況になってしまった。国会の戦前回帰も極まれりですが、国民まで黙認してしまえば、国際社会から“日本人は再び戦争をしたいのか”と誤解されるだけです」

 一昔前なら大問題となったはずの暴言だが、16日の参院予算委で三原議員の発言をとがめる議員はゼロ。共産党も社民党も黙って聞き流していた。この国はもはや行き着くところまで来てしまったのか。

 

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