東京・上野の森上野東照宮境内)「広島・長崎の火」

 

「広島・長崎の火」は、故・山本達雄氏が被爆した広島の焼け跡から故郷・福岡県星野村(現・八女市)に持ち帰った平和の塔の「原爆の火」と、長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」を合火して、燃やし続けられている。

 

 

 

 

二十世紀からの傳言

 

ともに平和と人生を語りたい

百年後の人びとよ

ここに私たちの手紙を埋葬します

 

2000年8月15日

 「百年後の人びとへの手紙」

          実行委員会

 

 

 

 

「広島・長崎の火」の由来

 

昭和 20年(1945)8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。広島の惨禍を生き抜いた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う火として灯すようになりました。1963年8月 6日、星野村はこの「広島の火」を「平和の火」として、村人の協力によって今日も灯し続けています。

核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。

核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。

第二のヒロシマを

第二のナガサキを

地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。

これは「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(1885年2月)の一節です。

昭和63年(1988)3,000万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の原爆瓦からとった火と合わされて、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に届けられました。

同年(1988)4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全(さがひろなり)宮司は、この提案に心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。  

広範な人々のよびかけによって、翌平成元年(1989)4月、“上野東照宮境内に「広島・長崎の火」を灯す会”が結成されました。それから1年余、数万人が参加した草の根運動と募金により、平成2年(1990)7月21日、モニュメントが完成しました。

被爆 45周年を迎えた同年 8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。

私たちは、この火を灯す運動が、国境を越えて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、誓いの火を灯し続けます。

 

 1990年8月 上野東照宮に「広島・長崎の火」を灯す会

 

「広島・長崎の火」20年 上野東照宮 平和の願い 歌に込め 東京でつどい

 

(写真)原爆投下直後の様子を語る被爆者ら=18日、東京都千代田区

 

 「2011非核・平和をうたうつどい」(主催・同実行委員会)が18日、東京都の日比谷公会堂で開かれ、1700人が参加しました。「広島・長崎の火」が、1990年に上野東照宮(東京都台東区)の境内に灯(とも)されて今年で20年の節目の企画としておこなわれました。

 山本氏の半生を歌ったカンタータ「この灯を永遠に」の後、山本氏の息子・拓道氏と、八女市の三田村統之市長が「とわに、この火を灯し続けていく」と述べました。

 福島県農民連の代表が「原発をなくして」という訴え、都内に住む広島、長崎の被爆者らが、原爆で苦しみながら亡くなった人々の様子を語りました。

 東京大空襲犠牲者、沖縄戦の民間戦争被害者、中国残留日本孤児らが国の補償責任を追及するとともに、戦争をなくし、核兵器のない平和な世界をめざす思いを語りました。

 知人に誘われて参加した根本諒子さん(21)は「原爆被爆者の証言は初めて聞きました。身にしみて(被爆者の)つらさを感じました。こういう機会を若い人にもっと広げて」と話しました(11年7月19日配信『しんぶん赤旗』)。

 

 

なお、上野東照宮の近くには、東京大空襲を忘れない碑の「時忘れじの塔」ある。

 

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