舞鶴引揚桟橋(復元) |
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平引揚浅橋(1994年復元)
舞鶴湾口に近い、大丹生(おおにう)沖の検疫錨地じゃら平泊地に着いた引揚船には、ランチ(はしけ=小舟)が横付けされ、引揚者はこれに乗船して平浅橋へ。そしてこの木造の浅橋を渡り、「歓迎」のアーチをくぐり、夢にまでみた祖国の土を震える足を踏みしめながら上陸した。その平引揚浅橋が、記念館近くに復元されている。
引揚船 はしけ |
クレイン・ブリッジ |
碑文 |
昭和20年8月8日 日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した60万兵士のシベリア抑留(強制労働)と 満州における一般邦人(婦女子)の悲劇。この死没者の鎮魂のため、各収容所跡・墓地・自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞のため、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する。
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まぶたの桟橋舞鶴よ
1 遠い潮路のなつかしく 君を訪ねて来た港 あの日のふる里踏みしめた まぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼 引揚船よ今いづこ
2 あつい思いは波の背に 今もせつなく湧いてくる 六十余万のたどるみちまぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼 記念の丘よ何故かなし
3 積る涙を抱きしめて せめて浜うた聞いてくれ 未だにはかないあの人もまぶたの桟橋舞鶴よ嗚呼 五老ヶ岳よ白鳥もなけ
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由緒
舞鶴港は、終戦間もなく昭和22年10月引揚港に指定されて以来13年間にわたり、主に旧ソ連・中国大陸等から66万余人の引揚者と、祖国の礎となって無言の帰国をされた1万6千余柱の御霊を迎え入れた。
幾多の苦難に堪え、夢に見た祖国への感激の第一歩をしるした桟橋。桟橋の脇に佇み我が子・夫を待ちつづけた「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿、この史実を21世紀へ伝えるため、歴史の語り部として復元したものである。とき将に、第2次世界大戦終結50周年をむかえ、舞鶴から「世界平和の架け橋」として未来永劫にこの「史実」を継承記念するものである。
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シベリアに抑留されていた歌手・三波春夫の直筆
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