1970(昭和45)年9月18日夜、糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近で、酒気帯び運転かつスピード違反の米兵が歩道に乗り上げて歩行中の金城トヨさん(54)をれき殺する事故を起こした。

直前の目撃証言によると、亡くなった金城さんは歩道を歩行中で、過失は全く無く、逆に米兵・海軍2等軍曹(26)運転の車が制限速度(24キロ)を大きく超過する(80キロ)“暴走運転”だった。

 

地元の青年たちは事故直後から十分な現場検証と捜査を求め、現場保存のため1週間にわたってMP(Military olice=米国陸軍憲兵隊。憲兵=主に軍隊内部の秩序維持と交通整理を任務とすし、軍警察とも呼ばれる)のレッカー車を包囲し事故車移動を阻止した。また地元政治団体とともに事故対策協議会を発足させ、琉球警察を通じて米軍に対し司令官の謝罪・軍法会議の公開・遺族への完全賠償を要求した。

 

歩道側に猛スピードで突っ込み大破した事故車両。車を運びだそうとしたMPに多くの住人が抗議した=糸満町糸満の事故現場(1970年9月19日未明)

 

しかし、同年12月11日米・軍法会議Court Martial=主として軍人に対し司法権を行使する軍隊内の機関。一般的には軍の刑事裁判所として知られる。軍事裁判所、軍事法廷、特別刑事裁判所ともいう。日本では1921〈大正10〉年に設置、1946〈昭和21〉年廃止。)は、被害者への賠償は認めたものの、加害者は証拠不十分として無罪判決を下した。

 

無罪判決の反発は全県に広がり、糸満町では、同月16日、裁判のやり直しを求める抗議の県民大会が開催され、19日には、美里村(1974年にコザ市と合併、その後沖縄市となり消滅)美里中学校グラウンドで沖縄県祖国復帰協議会主催の「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」(糸満事件無罪判決に対する抗議も決議文に含む)が開かれ、約5000人が参加したが、裁判のやり直しはなかった。

 

沖縄県民のこうした反発の背景には、ベトナム戦争の激化による米兵の犯罪の増加と、裁判権を米側に握られていたという事実があった。

 

集会で、「1日も早く安心して勉強できるようにしてほしい」と訴える北美小の生徒

 

 

なお、大会後には多くの参加者がコザ市(現沖縄市)社交街に流れ、同月20日に、米国人車両70台以上を焼き打ちにした「コザ(反米)騒動(暴動)」が発生するなど波紋を広げた。

 

注;

1.毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会=知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫)の毒ガス兵器に反発する県民大会。1969年7月、「神経ガス漏出で軍人ら24人が病院に収容された」と米国の新聞「ウオールストリートジャーナルThe Wall Street JournalWSJ= ニューヨークで発行される国際的な影響力を持つ日刊新)」が報じたことから、沖縄での毒ガス貯蔵が明らかになった。それまでも毒ガスが原因ではないかと疑われる事故が起きており、毒ガス撤去運動は沖縄での島ぐるみに燃え広がった。

 撤去運動の高まりを無視できなくなった米国は北太平洋の米国領土ジョンストン島に毒ガスを運び出すことを決定した(撤去が終わるまでほぼ2年。この移送作戦は、「オペレーション・レッドハット」〈赤帽作戦〉と呼ばれた)

なお、1971年1月13日の1次移送ではマスタードガス150トン、7月15日〜9月9日の2次移送ではGBガス(サリン)、VXガスなど1万2千トン以上を運び出した。この1次移送では5114人が旧金武村、恩納村などに避難したほか、中部地区の80校以上の小・中・高校が臨時休校し、約8万人の児童・生徒に影響した。2次移送では民間地をできるだけ避ける経路に変更され、自主避難した。

 

 

2.コザ(反米)騒動(暴動)=1970年12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄県コザ市で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件。

 

 

 この事件について、(琉球列島)米国民政府法務局が事件を検証し、判決の約3週間後にランパート高等弁務官宛てに送った機密報告書で、判決は「誤審」だったと認めていたこと12年1月2日までに明らかになった。一方、報告書は「判決への批判を高めるだけで生産的でない」として、事態の沈静化を優先し、日本政府や琉球政府にこの事実を知らせないよう進言していた。

 

注;米国民政府United States Civil Administration of the Ryukyu Islands。略称USCAR〈ユースカー〉)=アメリカ軍が占領下の沖縄に設けた統治機構でその長が高等弁務官high commissioner=保護国・従属国・植民地・被占領国などに派遣され、特別な外交事務を処理する常任使節。外交官に準ずる待遇を受ける。また、国連難民高等弁務官など、一定の権限を付与された国際機関の代表者の名称)。琉球政府に米軍の意向に沿った政治を行わせるための琉球政府の上部組織(命令機関)。1972年5月14日、沖縄本土復帰日の前日に廃止される。

 

「誤審」であったとのこの報告書は、米軍優先の(植民地的)支配(統治)や不公平な司法制度への批判を恐れて、県民には公表されず、期せずして復帰40周年の年頭に琉球新報によって明るみに出たわけである。

  数千人の県民が米兵の車を次々と焼き打ちにした「コザ騒動」の一因となるなど、判決への異議申し立てが全県に拡大した事件を米側としても検証したが、調査で明らかになった誤審を県民には知らせず、事件の沈静化と米軍統治の安定のために司法の公正さを放棄した姿勢が浮き彫りになった。

  事件に関する米側の見解が明らかになるのは初めて。報告書は米国民政府のマクニーリー法務局長が、軍法会議で検察を務めたブラウン海軍司令官への聞き取りと法廷提出の証拠資料を基に作成した。県公文書館が米国立公文書館から入手した。

  ブラウン司令官は被害女性が通常歩道として確保されている領域を歩いていたことや、事故車両が現場の規制速度24キロに対し、40キロ近くで走行していたと検察側は見積もったと説明した。当時の報道によると80キロ近くの速度が出ていたとの証言もある。

  マクニーリー法務局長は、司令官の説明は理にかなっており、事件は重過失致死か過失致死で有罪となる事案だったと判断。「法廷は理由は分からないが完全無罪を言い渡した。その意味で誤審だったといえる」と結論付けている。

  県内では当時、事件への反発が高まり、 米側の調査はこうした動きを受けて行われたとみられるが、報告書は県民に誤審の事実を公表しない代替策として「軍法会議と米国の陪審員制度を琉球人社会に理解してもらう方が有益で、時として無罪判決があることの受け入れに導けるだろう」とも進言している(12年1月3日配信『琉球新報』)

 

 

糸満女性れき殺事件の無罪判決は「誤審」だったと指摘している米国民政府法務局作成の機密報告書

 

 米兵無罪の「誤審」を隠ぺい 主婦れき殺事件=酒に酔い速度超過で糸満町(当時)の主婦(54)をひき殺した米兵を米軍法会議が無罪とした「糸満主婦れき殺事件」について米国民政府が再検証し、判決は「誤審」と認識していたにもかかわらず、「判決への批判を高めるだけで生産的でない」として公表せず、琉球政府や日本政府に隠蔽(いんぺい)していたことが、4日までに分かった。

 米国民政府のマクニーリー法務局長が判決の3週間後に軍法会議で検察を務めたブラウン海軍司令官への聞き取りと法廷証拠資料を基に、機密扱いの報告書を作成。ランパート高等弁務官宛てに送られた。

 犠牲者は道路を渡ろうとしておらず、歩道として確保されている場所にいたことを確認。MP(憲兵)の調書は大きな誤りを含んでいるとし「重過失致死罪を認めるのも十分で、過失致死なら確実に有罪の正当性がある」とした。「法廷は理由は分からないが、無罪を言い渡した。その意味では裁判は誤審だったのではないか」と指摘している。

 その上で「事実を公開するのは生産的でなく、ほぼ確実に判決への批判を高める」として「代わりに琉球人社会に軍法会議と米国の陪審員制度の機能をよく理解してもらう方が有益で、無罪判決もあることが受け入れられるだろう」と司法の公正さより、支配者の体面を保つことに腐心する権力者の姿が浮かび上がる。

 報告書は米国立公文書館から県公文書館が入手した。

「アメリカ世いつまで」

裁判で証言した森さん

 事件を目撃した森茂吉さん(94)=糸満市=は、事故現場近くで鮮魚店と酒屋を営んでいた。配達に出掛けようとした直後。背後から猛スピードで車が追い越し蛇行しながらほかの車と接触、脇道から出て歩道を歩いていた女性をはね、20〜30メートル先の電柱へ激突した。女性は即死だった。

 「警察も駆けつけたが何もできないし、何も言えない。アメリカ世だからね」と森さん。裁判で3〜4人の中から犯人を問われ、迷わず指さした。「額に傷が残っていた。すぐ分かった」

 「どこまでも証言しなければ、と一生懸命やったけどね」と声を落とし、米国民政府が誤審と判断しながらも隠蔽したことに悔しさをにじませる。今でも事故を起こした米軍属関係者が不起訴処分になるなど不条理な現実を憂い「いつまでアメリカーの言う通りか。日本政府が立ち上がらんと、アメリカ世は変わらん」と怒りを込めた(12年1月5日配信『沖縄タイムス』)

 

 

コザ暴動(15年12月22日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 群衆が裏返そうとした途端にガソリンが流出し車両は炎に包まれた。投石もあった。焼け焦げた車はそこかしこ。米統治下の1970年12月20日、今の沖縄市で発生したコザ騒動の光景だ

 

▼酔いがさめるように翌朝には沈静化した。その光景をヘリで視察した米陸軍のジョン・J・ヘイズ少将は振り返って、こう話したという。「まるでベトナムの戦場そのままだった」

▼発生から45年たった20日、沖縄市でシンポジウムが開かれた。本紙OBで当時、コザ市を担当した高嶺朝一さんが、退役したヘイズ氏の話を紹介した

▼そのコザ騒動の特性を、「コザ暴動を語る会」の古堅宗光さんが解説した。「リーダーがおらず、死者が出ず、略奪も起きなかった不思議な暴動」と。圧政に耐えかねても自制が利いていたのか

▼論語の「怒りを遷(うつ)さず」の一節が思い浮かんだ。「惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む」の言葉と連動する。自らの素直な感性を信じて好む人を好み、憎むべき人を正しく憎む。怒りを弱い立場の人へ遷(うつ)してはならないといさめる

▼相次ぐ米兵の凶悪犯罪に司法は機能せず、無法のごとき時代。騒動の渦中では米兵でも、差別を受けている人種には「手を出すな」との叫びもあったという。理不尽は今も手を替え、品を替えあれど「憎むべき」光景がいまだに続くことを嘆く。

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