「金嬉老(きんきろうじけん)事件」(寸又峡事件)

 

旅館に立てこもる金嬉老元服役因。朝鮮人差別への謝罪を要求した=1968年2月

 

 

 

1968(昭和43)年2月20日、静岡県清水市(現・静岡市)で暴力団関係者2人を射殺して逃亡中だった在日韓国人2世の金嬉老=本名・権禧老(クォン・ヒロ)が、同県の寸又峡(すまたきょう)温泉の「ふじみや旅館」に押し入り、ライフル銃やダイナマイトを手に人質13人を取って4日間立てこもった人質監禁88時間は警察が包囲する人質監禁時間として日本の最高記録になったが、1972年に発生したあさま山荘事件の人質監禁216時間で更新された)

 

金は、M1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」とダイナマイトで武装していた。

 

「警察官の朝鮮人差別を告発するために事件を起こした」と謝罪を要求し、また報道陣を招き入れて民族差別を訴え、大きく報道され「劇場型犯罪」として注目を集めた。

 

注;劇場型犯罪=犯行声明などを発表し、人々の注目を集めることを目的の一つとする犯罪。また、テレビや新聞などのマスメディアに大々的に取り上げられることによって、人々の注目が集まった犯罪。その代表例が、犯人らはマスメディアに犯行声明などを送り付けて、捜査を撹乱し、マスメディアが事件を煽情的に報道した「グリコ・森永事件」。

なお、「劇場型犯罪」の語はこの事件を評して、評論家の赤塚行雄が命名した(劇場型犯罪の元祖は、切り裂きジャックといわれている)

 

同月24日、金が、旅館の玄関から顔をのぞかせ記者会見しているところを報道陣に交り、記者を装った私服警官がとり押さえ、人質も無事解放された。

 

逮捕の瞬間

 

金は、1975年11月に無期懲役が確定したが、日本に戻らぬことを条件に99年9月に高齢などを理由に仮釈放されて韓国に強制送還された。

 

その後、前立腺がんのため2010年3月26日に韓国・釜山市の病院で死去した。享年82歳。本人の希望により、遺骨は静岡県掛川市に納められた。

 

注;この事件を機に警察に狙撃隊が創設され、2年間で警視庁・北海道・宮城・愛知・大阪・福岡の各警察本部の機動隊に100丁の狙撃用ライフルである豊和工業製ゴールデンベアライフルが配備された、銃器対策部隊の創設された。

なお、狙撃隊が初めて大阪と福岡から部隊が派遣されのは、この事件の2年後の1970年5月12日から翌日にかけて広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取りの「瀬戸内シージャック事件」(「ぷりんす号シージャック事件」)である。

 

晩年の金

 

 

金嬉老事件「過去じゃない」 立てこもりから50年 朝鮮ルーツの学生は(2018年2月20日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

事件当時、警察や報道機関の宿舎になった翠紅苑の現経営者、望月孝之さん(右から3人目)に話を聞く学生たち=14日、静岡県川根本町で

 

 1968年、在日韓国人の金嬉老(キムヒロ)元受刑者が男性2人を射殺後、人質を取って寸又峡(すまたきょう)(静岡県川根本町)の温泉旅館に立てこもった事件から20日で50年。県内の在日コリアンの大学生らが14、15の両日、事件の現場を訪れ、当時を知る人たちから話を聞いた。在日コリアンへの差別が動機だったが、半世紀後を生きる学生たちは「過去の事件ではない」という思いをかみしめた。 学生ら九人は、差別やマイノリティーについて研究する静岡大の山本崇記(たかのり)准教授(38)がまとめる学生団体「日朝学生青年交流会」の活動で訪問した。

 金元受刑者が立てこもったふじみや旅館(廃業)を見学した後、事件当時、警察や報道機関の宿舎になった翠紅苑(すいこうえん)で、経営者の望月孝之さん(72)と、孝之さんの父親で前経営者の恒一さん(100歳)に話を聞いた。

 ふじみや旅館から100メートルほど坂を下った翠紅苑には防弾チョッキを着た警察官らが昼夜を問わず出入りし、従業員も何人が宿泊しているか分からないほどの混乱ぶりで、2人は対応に追われた。旅館のベランダからは立てこもる金元受刑者の話し声が聞こえたという。

 金元受刑者は報道陣に「刑事から『朝鮮人じゃないか』とけなすようなことを言われ、心が煮えくり返った」などと事件の動機を語り、県警の刑事や本部長を指名し、テレビを通じて謝罪させた。学生の1人は、民族差別を訴えた元受刑者の姿が「当時の寸又峡の日本人にはどのように見えたか」と孝之さんに質問した。

 孝之さんは、遅くとも昭和初期から寸又峡には、発電所の建設などに従事した多くの朝鮮出身者が住んでいた事情を説明。「彼に同情的な気持ちと、犯罪者として捉える気持ちが半分半分だった」と明かした。恒一さんは筆談を交えながら「(寸又峡が全国に宣伝されたという意味で)プラスになったことの方が多かった」と答えた。

 朝鮮半島にルーツを持つ静岡県立大4年、米沢美侑(みゆう)さん(23)は「在日コリアンへの差別は今も続いている」と指摘。金元受刑者の訴えは「たとえ多くの人に響かなかったとしても、救われた人はいたと思う。今の自分も励まされる部分がある」と話した。

 これに対し、同大4年の望月直人さん(22)は「差別に立ち向かったことより、人を殺したり、脅したりした事実の方が先にくる。必要な訴えだったと思うが、他のやり方もあったのでは」と語った。

 在日コリアンの静岡文化芸術大1年許松大(ホソンデ)さん(23)は「在日にとって事件を過去の出来事として無視できる人はいない」と強調。ヘイトスピーチがはびこる現代は当時よりも排他的で「差別の強度がより高い」と感じている。「今、同じ事件が起きれば、もっと極端な意見が出て、溝がさらに深まる。半世紀たっても世の中は変わっていない部分があると思う」

 

<金嬉老事件> 1968年2月20日、在日韓国人の金嬉老元受刑者が静岡県清水市(現静岡市清水区)のキャバレーで暴力団員2人を射殺後、ライフルと約100本のダイナマイトで武装し、寸又峡温泉の旅館に13人の人質を取って約88時間立てこもった。75年11月に最高裁で、殺人罪などで無期懲役が確定。99年に仮釈放され、韓国に帰国した後に殺人未遂事件を起こし、有罪判決を受けた。2010年3月、前立腺がんで81歳で死去。

 

【金嬉老事件】 舞台になった旅館、廃業〜元女将が心境語る「憎しみ消え思い出に」(2012年2月19日配信『毎日新聞』)

 

 1968年に起きた「金嬉老事件」の舞台となったふじみや旅館(川根本町千頭)が廃業した。事件から44年。当時29歳の女将(おかみ)だった望月英子さん(73)が18日、毎日新聞の取材に応じ「とにかく、お客さんと子供を守ろうと必死だった」と振り返った。

 18歳で結婚した望月さんは半世紀以上、旅館を切り盛りしてきた。事件が起きたのは68年2月20日深夜。旅館の離れで寝ていた時に突然、夫和幸さんに起こされた。「とにかく起きろ。寒いから子供にできるだけ服を着せろ」。何が起きたかわからぬまま旅館につながる戸を開けると、肩にライフルをかけた金嬉老元受刑者(当時39歳)がいた。

 2階に連れて行かれ、机の上に置いたダイナマイトの山を見せられた。両脇には火鉢があり、金元受刑者に「逃げようとしたら殺す」と脅された。

 刺激しないように注意しながら、金元受刑者が逮捕される68年2月24日まで説得を続け、子どもや客を順次解放させた。

 しかし、金元受刑者が壁に木炭で「罪のない此の家に大変迷惑を掛けた(中略)此の責任は自分の死によって詫びます」と書いた時、望月さんは毅然(きぜん)と言い放った。「客商売だから、ここで死なれたら困る。店の外で死んでくれ!」

 和幸さんには後で怒られた。「夫から『殺されたらどうするんだ』と。どうせ死ぬなら旅館は守りたかった」と笑顔で語る。

 和幸さんを亡くして15年以上たち、3人の子供は結婚。孫7人、ひ孫1人に恵まれた。一昨年に亡くなった金元受刑者については「憎しみはあったけど、もう気にならない。彼も差別されて大変だったんでしょう」と話す。

 旅館のある寸又峡温泉はここ数年、観光客が減っているという。「私は旅館を閉めてしまうけど、温泉は良いし、もっと人が来てほしい」と語った。

望月さんによると、旅館は明治時代の創業で100年以上の歴史があった。観光客が減って11年2月で宿泊の受け付けをやめ、同12月には休憩所としての営業もやめて休業。

10年2月に(金嬉老事件の資料やテレビ化されたときの映像・資料を展示する)「事件資料館」を併設した旅館の建物はそのままで、今後の使い道は未定だという)。

望月さんは「私にとって事件は怖かった記憶なので、よい思い出ではない。語り継ぎたいものではない」と複雑そうだった。

 

 

 

 

 

 

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