緑十字機

 

(2017年8月29日配信『静岡新聞』−「大自在」)

 

▼72年前のきょう、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は旧海軍の厚木飛行場(神奈川県)に降り立つ。ポツダム宣言受諾を国民に布告した玉音放送から2週間。降伏文書調印や連合国軍進駐の日程がようやく動きだす。ただ、そこへ至るまでには薄氷を踏むような経過があった

▼日本は、マニラの連合国軍最高司令部に降伏の軍使節を派遣するため、海軍機2機を中継地の沖縄・伊江島まで飛ばす。一行は早急に交渉を調え重要文書を東京へ持ち帰らなければならなかったが、帰途、1機が遠州灘の鮫島海岸(磐田市)に不時着してしまう

▼白塗りの機体には日の丸ならぬ軍使の搭乗を示す緑十字。突然の出来事に驚いた住民も事情を知って連絡や手配に奔走。住民の救援がなければ、使節の帰還は遅れ、正式に降伏できないまま戦争状態の再燃さえ懸念されたという

▼地元の鮫島地区では、こうした終戦秘話を次代へ伝えようと今月、住民が「緑十字機不時着を語り継ぐ会」を設立。不時着日の20日、盛大に顕彰碑を除幕した。代表の三浦晴男さんは、危機の瀬戸際で平和を引き寄せた先人の苦労をしのび「戦争はいけないと改めて考えてほしい」と話す

▼きのう早朝、北朝鮮が事前通告もなく弾道ミサイルを発射。北海道を飛び越え太平洋に落下した。意図はどうあれ、緊張をもてあそんでいるようにしか見えない

▼戦争は始めるより終える方が難しいともいわれる。緑十字機の史実を平和の原点として大切に受け止める鮫島の住民の思いは北朝鮮の為政者には恐らく理解できないだろう。

 

「緑十字機」の歴史顕彰 記念看板お披露目 磐田(2017年8月21日配信『静岡新聞』)

 

 磐田市の鮫島海岸で20日、1945年8月20日に同海岸に不時着した軍用機「緑十字機」の歴史を顕彰する式典が開かれ、地元住民グループが設置した記念看板が披露された。

 緑十字機は太平洋戦争の降伏受理協議のためフィリピンに向かう代表団を千葉から沖縄まで運んだ2機の飛行機。うち1機は帰りに燃料切れで同海岸に不時着したが、地元住民の支援で代表団は無事東京に帰還した。

 記念看板には緑十字機や軍使のイラストを描き、不時着や地元住民の協力活動など当時の経緯を記した。住民グループ「緑十字機不時着を語り継ぐ会」の三浦晴男会長(68)は「もし軍使の帰還が遅れたらと考えると、当時の地元住民が行った支援の歴史的な価値は計り知れない。平和に感謝し、歴史を後世に引き継いでいきたい」と話した。

 式典には約200人が参加し、当時の目撃者やその家族を功労者として紹介した。不時着直後に海岸に駆け付けた池田基市さん(90)=同市鮫島=は「最初は米軍の飛行機かと思い、怖くて仕方がなかった。今思えば、乗組員に話し掛けておけば良かった」と当時を振り返った。

 

 

 

緑十字機不時着の歴史などを記した記念看板を紹介する三浦晴男会長(右から2人目)=20日午後、磐田市の鮫島海岸

 

「緑十字機」の歴史、次代に 児童向け冊子を製作(2017年6月14日配信『静岡新聞』)

 

 磐田市の元図書館司書寺田美代子さん(71)が、終戦直後に同市の鮫島海岸に不時着した軍用機「緑十字機」の歴史を伝える児童向け小冊子「平和の白いはと みどり十字機ものがたり」を製作した。「多くの子どもたちに読んでほしい」との思いで読みやすい物語風の内容に仕上げ、13日に同市教育委員会に50冊を寄贈した。

 緑十字機は、太平洋戦争の降伏受理協議のためにフィリピンに向かう日本代表団を千葉県から沖縄県に運んだ飛行機。機体に描かれた緑十字が名称の由来。1945年8月下旬、2機のうち1機が千葉に戻る途中に鮫島海岸に不時着した。

 全32ページの小冊子では、擬人化した緑十字機の「私」を主人公にして、太平洋戦争末期の国際環境と緑十字機派遣の経緯や、軍使らが鮫島海岸で地元住民に救助され東京に戻った当時の状況などを分かりやすく紹介している。緑十字機の著書がある同市の郷土史家の岡部英一さん(65)が監修した。

 読みやすさに配慮し、文字を大きくして全文にふりがなを付けた。一方で児童生徒に読む力を養ってもらおうと挿絵は入れなかった。

 市役所に村松啓至教育長を訪ねた寺田さんは「鮫島という一地域の話でなく、日本史、世界史に関わる大きな意義のある史実。ぜひ学校で先生に読み聞かせをしてほしい」と今後の学校での活用に期待した。冊子は今後、市内小中学校や図書館に配布される。

 このほか、岡部さんと共同で冊子約千部を鮫島自治会に寄付した。問い合わせは寺田さん<電0538(34)0049>へ。

 

緑十字機」不時着地は 磐田・鮫島自治会、碑設置へ情報募る(2017年6月1日配信『静岡新聞』)

 

 1945年8月に磐田市の鮫島海岸に不時着した軍用機「緑十字機」の不時着位置を記した記念碑を同海岸に設置しようと、地元の鮫島自治会が不時着場所の特定作業を進めている。三浦晴男自治会長(68)は「鮫島海岸は戦後の平和の発祥地。碑に正確な位置を示したい」と、当時の目撃者や事情を知る市民に情報提供を呼び掛けている。

 緑十字機は太平洋戦争の降伏受理協議のためにフィリピンに向かう日本代表団を千葉県から沖縄県まで運んだ2機の飛行機。機体に描かれた緑十字が名称の由来で、うち1機は千葉へ戻る途中に燃料切れで鮫島海岸に不時着した。乗っていた軍使らは地元住民に救助され、浜松経由で東京に到着できたという。

 当時、緑十字機の不時着は報道されず、地元でも最近まで知らない人がほとんどだった。三浦会長は当時の地元住民が東京との連絡や重要書類の保護に尽力したことに触れ、「もし住民の手助けがなく、軍使の東京帰還が少しでも遅れていたら連合国に攻められ続け、歴史が変わっていた」と住民が果たした役割を強調する。

 同自治会は今年1月、緑十字機不時着を語り継ぐ会(緑語会)を設立。不時着した8月20日に式典を開き、記念碑の除幕を目指す。式典に先立ち、同会は6月11日に不時着位置を特定する集会を鮫島海岸で開く。当時イワシ漁のための浜小屋が建っていた場所を基準に、不時着位置と、潮の満ち引きで流された機体の移動状況を確認するという。

 式典の運営費や碑の制作費は有志からの寄付金で賄う。問い合わせは三浦さん<電0538(32)9417>へ。

 

 

inserted by FC2 system