宮森小学校米軍機墜落事故

 

関連記事・論説

 

米軍飛行士は故障したZ機を空中に放したまま落下傘で逃げ生き延びた。無人飛行機は、舵手を失って空を乱舞した揚句、学園につっこんでいった!

 

 

youtube(宮森小学校米軍機墜落事故)youtube(忘れたい 忘れてほしくない〜宮森小 米軍機墜落事故)

 

 

  

 

 

沖縄の返還前の米軍統治下の1959(昭和34)年6月30日午前10時30分(40分とも)過ぎ、米軍・嘉手納基地アメリカ空軍・第313空軍師団所属のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機がテスト(訓練)飛行中、時速436Km、高度約300Mに達した地点でエンジン火災を起こしたため、急きょ嘉手納基地や沖縄本島中部のコザ市街地(現・沖縄市)・石川市(現・うるま市)内を避け、石川市南西部約2キロの人家の少ない丘に機首を向け着陸態勢に入ったが、制御(操縦)不能に陥る(原因は、整備不良によるエンジントラブル)

 

注;ノースアメリカンF100Dジェット戦闘機=1954年から1971年まで使用された世界初の実用超音速戦闘機。愛称はスーパーセイバー(Super Sabre)。アメリカの戦闘機として初めて水平飛行で音速を超えることのできる戦闘機であった。しかし実際には、戦闘爆撃機としての運用が多かったといわれている。試作初号機は初飛行で超音速を突破し、間もなく世界最速記録も更新した。爆弾搭載能力等の改良が加わり、実戦では、戦闘爆撃機としてベトナム戦争に投入された。

 

 

パイロットのジョン・シュミッツトはパラシュートで脱出(無事)、無人になった機体は、民家35棟をなぎ倒した後、石川市(現うるま市)立宮森(みやもり)小学校のトタン屋根校舎に墜落、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。

 

事故のよる死者は児童11名(2年生6名、3年生1名、4年生1名、6年生3名)を含む17名、負傷者は児童156名を含む212名(職員2名、地域住民54名)、全焼した建物は、住居17棟と公民館1棟、小学校の3教室が全焼し、住居8棟、小学校2教室を半焼するなどの大惨事となった。

 

事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がおり、ちょうどそのとき2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。墜落の直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供達は水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えた児童もいた。また、石川市上空を黒煙が覆い、市全体への火災の広がりを心配した住民の避難騒ぎも起こり、被災者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。

 

米軍は墜落翌日の7月1日、「嘉手納基地所属のジェット機が訓練飛行中に突然爆発、パイロットは無事脱出したが、機体は目標をそれ、市内に落ちた」と発表。翌2日は正式発表として、「不可抗力の事故」であることを言明、沖縄県民の心情を逆なでした。

 

立法院では本会議開会中に休憩し、緊急各派交渉会を開き、米軍に対する厳重な抗議を全会一致で決議したほか、石川事件対策特別委員会を設置した。

 

注;琉球列島立法院Legislature of the Government of the Ryukyu Islandsはアメリカ統治下の琉球政府の立法機関。米国民政府布令第68号「琉球政府章典」により設置されたもので、その権限は、沖縄に適用されるすべての立法事項について立法権を行使することができるが、米国民政府の制約下にあり、法令の無効を命じられることもあった。復帰後、日本国の地方議会にあたる沖縄県議会となり、議席の配列が一部変更になった。沖縄県庁舎の建設にともない建物も解体された

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同年7月27日、石川市主催の合同慰霊祭に出席したブース高等弁務官が「アメリカを代表して最高の償いをする」といった内容の弔辞を述べたが、補償問題は遅々として進展しなかった(それまでも度重なる米軍の事故が起こるたびに、「すみやかな補償」と何回となく繰り返しされた)

 

このころは、米軍が「銃剣とブルドーザー」による土地接収が強行されていた時期と相まって、沖縄全域で反米感情が高揚、激しい抗議行動が展開されるが、3年にわたる交渉の結果、米軍が補償したのは被害者側の要求のわずか1割程度の総額11万9066ドルに過ぎなかった(死亡者4500ドル、重傷者は障害に応じて2300〜5900ドル)。当時の市長は賠償交渉を円滑に進める意図から、事故の復旧に貢献したとして米軍に感謝状を贈った。

 

注;銃剣とブルドーザー

1952年のサンフランシスコ講和条約発効後、琉球列島米国民政府は布令91号によって「契約権」を公布し、賃貸借契約による土地の継続使用を確保しようとしたが、賃貸借期間が20年と長く、1坪の年間賃料は2セント程度とただ同然であったため、地主とが契約は難航した。このため米国民政府は、1953年に布令109号によって「土地収用令」を公布し、真和志村(現那覇市)銘刈(めかる)・具志、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜、伊江村真謝(ましゃ)など、各地で強制的な土地接収(強奪)を開始した。武器を持たず必死に反対を訴える住民に対し、米軍兵士は銃剣で武装し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶし、耕作地を敷きならしていった。

 

7月6日には、PTAや沖社協、遺族連合会、婦人連盟、沖青協などの団体が「石川市ジェット機事件対策協議会」を結成し、米軍へ救援・事故防止対策の要求や救援運動を展開、教職員会では20万の児童・生徒にひとり3セント、教職員にひとり20セントずつ見舞金を集め、本土の関係団体の協力を得て負傷した児童の治療費にあてる活動を行った。本土でも義捐金活動が起こり、8月13日には日教組などの14団体が全国的な運動として取り組むことを決め、多くの見舞金を寄せた。

 

そしてこの事件とその後の反基地運動は、沖縄の日本復帰運動に繋がっていったのである。

 

また、1999年になって、墜落直前に50Kg爆弾を海上投棄していたことが判明した。

 

米軍嘉手納基地が国防総省等に提出した年次報告では事故原因として以下のように記している。
1.エンジンの整備不良
2.機体の問題が解決されていない状態で飛行させた整備管理者の判断
3.離陸後、急上昇させたパイロットの操作
4.定められた過程を尽くさなかった整備
 なお、事故機は同年5月に台湾の民間会社で整備を行ったが、整備過程の一部が抜けるミスがあり、計器不調も判明したため、嘉手納に戻った後に再整備され、そのテスト飛行中に墜落した。

 

 

 

宮森小学校の中庭には、犠牲となった児童らを慰霊する「仲良し地蔵」が設置されており、毎年6月30日に児童らによる追悼式が行われている。

また、事故から50年の2009年6月30日、同校の平和資料室「命と平和の語り部『宮森630館』」が開館した。

 

 

「命の尊さ」風化させず 米軍機墜落事故50年、宮森小で追悼式

児童11人、住民6人が犠牲となった1959年の宮森小学校米軍機墜落事故から50年を迎えた09年6月30日、うるま市立宮森小学校で追悼式が開かれた。基地の集中ゆえに起きた事故から半世紀。沖縄の抱える現状は変わらぬままで、全校児童や遺族、事故関係者らは「事故を風化させてはいけない」という決意を胸に、追悼式に臨んだ。

追悼式では犠牲となった児童が刻銘された「仲よし地蔵」に千羽鶴が奉納され、「平和の鐘」が鳴る中で参加者は黙とうをささげ、犠牲者のみ霊を慰めた。

当時、同校の2年生で事故を体験した平良嘉男校長は「事故は関係者にとっては忘れられない。命の尊さを訴え、平和をつくり出す宮森っ子になってほしい」と児童らを激励した。式には仲井真弘多知事らも出席した。この日開館した同校の平和資料室「命と平和の語り部『宮森630館』」は当分の間は毎週土、日曜日の午前10時〜午後2時まで開館する(09年6月1日付『琉球新報』)

 

 

宮森小学校米軍機墜落事故から50年 −表現すらできない悲しい事件−

テルヤ寛徳社会民主党衆議院議員(沖縄2区)ブログ

 50年前の1959年6月30日午前10時40分頃、米軍嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が石川(現うるま)市立宮森小学校に爆発炎上、墜落した。この米軍機墜落事故による死者は17人(児童11人、一般6人)、負傷者は210人(児童156人、一般54人)を数える大惨事となった。墜落直後の宮森小学校は文字通り地獄絵図と化した。50年目の今日この日に、犠牲になった方々のご冥福を祈り、ご遺族や関係各位に哀悼の念を捧げます。
 当時、私は具志川中学校2年に在学中であった。教室の窓からはるか遠くに墜落する米軍ジェット機を目撃した。去年から今年にかけて、犠牲者の遺族や当時の在学生、亡くなった級友を偲ぶ方々を中心に、事故の惨劇を語り、記憶を継承し、当時の資料を収集・保存・展示するための運動が起こった。50年の節目を迎え、“事故”のつらい体験を初めて語る人も現れた。
 沖縄の現実は、宮森小ジェット機墜落事故当時から何も変わっていない。今なお日常的に米軍機墜落の恐怖にさいなまれ、爆音に苦しめられている。基地機能は強化される一方だ。米軍基地の存在は、子どもらが安心して学習する環境を奪っている。
 6月29日の沖縄タイムスに、事故で同じクラスの6人の級友を失った名嘉百合子さんの語ることばが載っている。「思いを言葉にすると、薄っぺらになってしまう。表現すらできないほど悲しい事件なんです」と。

2009年6月30日

 

 

04年8月13日には沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落炎上したが、それは、本土復帰後の現在の沖縄において、米軍基地から発生する危険にいつも隣り合わせで生活している状況が何ら変わっていないことを端的に証明する出来事を意味した。

 

なお、沖縄県によると1972年の本土復帰から2008年末までに、墜落事故だけで43件、不時着や部品落下なども含めると487件に上る。

 

 

60年前の惨劇思い涙 宮森小で慰霊祭 米軍ジェット機墜落(2019年7月1日配信『琉球新報』)

 

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慰霊碑「仲よし地蔵」に献花や焼香を行い、犠牲者を追悼する遺族や参列者=30日午前、うるま市石川の宮森小学校

 児童ら18人が犠牲になったうるま市石川(旧石川市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落事故から30日で60年を迎えた。この日、同校では午前9時半から遺族会と石川・宮森630会主催の60年慰霊祭が開かれた。県内各地から多くの人が足を運び、犠牲者に哀悼の意を表した。
 第1部では同校中庭の慰霊碑「仲よし地蔵」前で献花や焼香が行われた。遺族や地域住民、うるま市や県の関係者が参列し、黙とうをささげた。
 参列者は同じような事故が繰り返されぬよう、平和な社会実現を犠牲者に誓った。
 第2部は同校体育館に場所を移し、式典が開かれた。事故が発生した午前10時40分ごろに全員で再度黙とうした。宮森小6年生による平和を願う歌「ふくぎの木」の合唱などもあった。
 630会の久高政治会長は「沖縄の基地問題の象徴のような出来事だった。遺族の中には今でも涙を流す人がいる。県民の願いは米軍の事件事故がなくなることだ」とあいさつした。

 

60年前の惨劇思い涙 宮森小で慰霊祭 米軍ジェット機墜落(2019年7月1日配信『沖縄タイムス』)

 

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慰霊碑「仲よし地蔵」に献花や焼香を行い、犠牲者を追悼する遺族や参列者=30日午前、うるま市石川の宮森小学校

 

 児童ら18人が犠牲になったうるま市石川(旧石川市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落事故から30日で60年を迎えた。この日、同校では午前9時半から遺族会と石川・宮森630会主催の60年慰霊祭が開かれた。県内各地から多くの人が足を運び、犠牲者に哀悼の意を表した。
 第1部では同校中庭の慰霊碑「仲よし地蔵」前で献花や焼香が行われた。遺族や地域住民、うるま市や県の関係者が参列し、黙とうをささげた。
 参列者は同じような事故が繰り返されぬよう、平和な社会実現を犠牲者に誓った。
 第2部は同校体育館に場所を移し、式典が開かれた。事故が発生した午前10時40分ごろに全員で再度黙とうした。宮森小6年生による平和を願う歌「ふくぎの木」の合唱などもあった。
 630会の久高政治会長は「沖縄の基地問題の象徴のような出来事だった。遺族の中には今でも涙を流す人がいる。県民の願いは米軍の事件事故がなくなることだ」とあいさつした

 

「平和な空を」願い1万本のヒマワリの花が咲く 沖縄・宮森小米軍機墜落60年(2019年6月30日配信『毎日新聞』)

 沖縄が米国統治下だった1959年6月、沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し、児童ら17人が亡くなった戦後沖縄で最大の米軍機事故から30日で60年がたった。犠牲となった児童が事故直前に担任教諭にヒマワリの花を渡していたことから、市内では事故の日に合わせて約1万本のヒマワリの花が咲いている。子供たちのために平和な空をとの願いを込めて。

 

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宮森小墜落事故60年 危険な状況は変わらない(2019年6月30日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 ミルク給食を待っていた児童たちを突然、ごう音と火の玉が襲った。死者18人、重軽傷者210人を出した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落から60年がたった。

 人為的ミスによる事故だったにもかかわらず原因は伏せられ、事故後の賠償も不十分だった。米施政権下の沖縄で、住民の命が軽んじられた象徴的な事故だ。そんな理不尽な戦後史を伝え続けなければならない。

 墜落事故は1959年6月30日に起きた。嘉手納基地所属の米軍ジェット機F100が石川市の住宅地に墜落し、衝撃で跳ね上がった機体が宮森小に突っ込んだ。犠牲者のうち児童は12人だった。パイロットはパラシュートで脱出し、けがはなかった。

 事故後の米軍の対応は不誠実極まりない。米軍は事故原因を「故障による不可抗力」と発表した。しかしその後、米空軍がまとめた事故調査報告書では、事故の「最大の要因は整備ミス」で、人為的な原因だったと結論付けていた。整備不良だったのに整備監督者が飛行を認め、燃料が漏れてエンジン熱で引火した。

 そもそも墜落したF100戦闘機は開発段階から事故を繰り返し、47人のパイロットが死亡する“欠陥機”であった。しかし、事故原因も欠陥機であることも沖縄の人々に説明されることはなかった。事故の概要が分かるのは石川・宮森630会が地道に米軍資料や証言収集に取り組んできたことが大きい。

 60年前のこの事故は決して過ぎた出来事ではない。沖縄が日本に復帰してから今に至るまで米軍機の事故は相次ぎ、悲劇を生む構造は何も変わっていないからだ。

 ことし6月4日、浦添市の中学校に米軍ヘリが羽についているゴムシートを落下させた。2017年12月には普天間第二小学校の運動場に約8キロもある米軍ヘリの窓が落ちた。その前には宜野湾市の保育園の屋根に米軍機の部品が落下している。幸いけが人はなかったが、子どもたちの上に落ちていたらどうなっていたか。

 これだけの事故が繰り返されながら、米軍の対応は60年前と同じだ。事故後も、原因を究明し公表する前に飛行訓練を再開し、学校の上空を飛び交っている。保育園の事故に至っては、部品が米軍の物だとは認めたが、落としてはないと主張している。

 米軍普天間飛行場にMV22オスプレイを配備する際も、防衛省は「事故率は他機種より低い。飛行時間の増加に伴い(事故率は)低下する」と説明してきた。しかし10万時間当たりのクラスA(重大)事故は配備時の12年の1・65から18年には2・85と逆に増えた。16年の名護市安部への墜落事故は記憶に新しい。

 日米両政府は宮森小の悲劇から何も学んでいないのではないか。県民の命は今も危険にさらされ続けている。

 

[宮森小墜落事故60年]悲しみを平和への力に(2019年6月30日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 沖縄戦が終わって14年、戦場の辛酸をなめ尽くした人々が、ようやく生活の落ち着きを取り戻したころだった。

 1959年6月30日午前10時40分ごろ、嘉手納基地を離陸した米軍のジエット戦闘機が、石川市(現うるま市)の住宅地域に墜落炎上し、宮森小学校の校舎に激突した。

 死亡17人(児童11人、一般6人)、重軽傷210人(のち後遺症で1人死亡)。

 米軍統治下の沖縄で起きた最大の墜落事故からきょうで60年になる。

 全焼した教室のがれきと灰の中から見つかった4年生の女の子は、判別がつかないほど全身にやけどを負い、黒焦げの状態で命を落とした。

 墜落の衝撃でとっさに「戦争が来た」と叫び、教室の窓から逃げた男の子もいる。

 生き残った子どもたちには長くトラウマ(心的外傷)が残った。

 「思い出したくない」「そっとしてほしい」−事故について語るのを避け、口を閉ざしていた遺族が「忘れたくない」「忘れてほしくない」という気持ちを抱くようになったのは、単に時間の経過がそうさせただけではない。

 関係者がNPO法人「石川・宮森630会」を結成し、資料館の設置や証言集の発行など、積極的に記憶の継承に取り組んできたからだ。

 事故の全容解明作業に大きな転機をもたらしたのは、米公文書館所属の資料などを翻訳した「資料集 石川・宮森の惨劇」の出版である。

 事故原因や損害賠償の交渉経過などがようやく明らかになった。

    ■    ■

 米軍は当初、「突然のエンジントラブルで、不可抗力だった」と語り、責任を認めなかった。

 だが、当時公表されることのなかった米軍内部の調査結果は「整備過失(メンテナンスエラー)」が事故の主な原因であることを認めていた。

 整備における注意義務違反が幾重にも重なった末に、大惨事を招いたのである。

 被害の適正補償を求める運動は、政党、団体などを網羅する形で燃え広がった。

 軍用地問題を巡って「島ぐるみ運動」を展開し、米軍から譲歩を引き出した組織・団体は、宮森小事故を巡っても「島ぐるみ運動」を組織し、交渉を進めた。

 米軍側と被災者の主張の隔たりが大きく、補償交渉は難航した。60年にアイゼンハワー米大統領の来沖や日米安保条約の改定を控えていたことから、米軍は反米感情が高まるのをおそれ、政治的な決着を優先させた。

    ■    ■

 宮森小墜落事故から60年。何が変わったというのだろうか。当時、巡回教師として遺体安置所を担当した豊濱光輝さんは証言集3に一文を寄せ、こう締めくくっている。

 「亡くなった18人に今、言いたいことはありませんかと聞いたら、次の言葉が返ってくると思います。『私たちは、死にたくなかった』と」。

 18人の無念の死と好対照なのは、パイロットが直前にパラシュートで脱出し、無事だったことである。

 基地を巡る沖縄の現実は今なお、あまりにも理不尽だ。

 

(2019年6月30日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

その日も晴れた暑い日でした。「いってきまーす」。セミしぐれのなか、元気よく学校に向かう子どもたち。いつもと変わらぬ光景、一日の始まりでした

▼6月も終わり、もうすぐ楽しい夏休み。友だちや先生と笑顔を交わし合う教室では、やがてミルク給食の時間に。そのとき、大きな爆発音とともに鉄のかたまりが落ちてきました。黒煙や炎に包まれ、泣き叫ぶ子どもの姿。平穏な日常が一瞬で奪われました

▼沖縄・石川市(現うるま市)の宮森小学校や住宅地に米軍の戦闘機が墜落してから、きょうで60年になります。児童ら18人が犠牲となり、200人をこえる負傷者を出した大惨事。やけどの後遺症や心に深い傷を負った被害者も多い

▼節目を前に現場となった小学校で開かれた追悼集会。悲惨な事故に思いをはせながら、児童が平和を誓う詩の群読や歌で命の尊さを訴えました。新垣桂校長は「当たり前の生活が奪われた先輩たちがいたことを忘れてはならない」と

▼風化させないために劇で追体験させる試みも。遺族から話を聞き、再現したという小学生の演技は熱がこもり、演じた子どもは「事故のつらさや命の大切さがわかった」と話していました

▼哀悼の集いの最中にも空には爆音をまき散らす戦闘機の姿が。劇を手がけた嘉陽哲子(のりこ)先生は「これが沖縄の現実。墜落は過去の話ではなく今の問題でもある」。基地があるかぎり、くり返される悲しみ。子どもたちは呼びかけます。「一人ひとりの手で、平和を永遠に守り続けよう」

 

(2019年6月29日配信『信濃毎日新聞』―「斜面」)

 

あの日、沖縄は青空が広がっていた。石川市(現うるま市)の宮森小学校。3年生の上間(うえま)芳武君は花壇から摘んだヒマワリの大輪を担任の女性教諭に渡した。「先生にあげるよ」と言い残して校庭に飛び出した。その直後のことである

   ◆

耳をつんざくような大音響とともに教室が大きく揺れた。熱風が吹きつけ破片が飛び散る。米軍のジェット機が校舎に突っ込んできたのだ。機体の燃料が火の塊となって子どもたちを襲った。校庭のブランコで遊んでいた上間君は爆風に吹き飛ばされた

   ◆

敗戦から14年後の1959(昭和34)年6月30日。米国の施政権下で起きた事故である。ジェット機は訓練中に火災を起こしてパイロットは脱出。機体は墜落した。整備不良が原因だった。上間君ら児童11人と住民6人が犠牲になり、後に1人がやけどの後遺症のため亡くなった

   ◆

教員らは長い間、児童を救えなかった自責の念を抱え込み沈黙していた。10年ほど前から記憶を語り始めた。ヒマワリが大好きだった上間君の逸話も知られるようになり、児童や住民が植栽活動を始めた。いま校庭や地区のあちこちで大輪を広げている

   ◆

昨日は慰霊碑「仲よし地蔵」の前で全校の追悼集会があった。上空を米軍機が何機も通過した。<ひまわりや仲良し地蔵と空見上げ>。語り部を続ける「石川・宮森630会」が募った平和メッセージで最優秀に選ばれた俳句だ。18歳の女子高生が詠んだ。爆音なき青空への願いがにじむ。

 

宮森小学校を襲った米軍機墜落事・・・(2018年7月4日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 宮森小学校を襲った米軍機墜落事故から約1年後、娘を亡くした遺族を琉球政府の職員が訪ねた。賠償金交渉のためだった。アイゼンハワー米大統領来沖の数日前というタイミングである

▼賠償額には納得できなかったが「ぜひ、来沖までに補償問題を解決してほしい」と職員に求められ、やむなく受け入れた。大統領来沖前の決着を目指す米側と琉球政府の交渉過程が先日、米側資料で分かった

▼2000年サミットの直前、遺族からこの話を聞き、記事にした。「基地問題が未解決な状態で沖縄に行きたくない」というクリントン大統領の発言もあり、普天間問題とサミットのリンクが批判されていた

▼「クリントン大統領が、来沖までに普天間問題を解決してくれと言ったのと同じではないか」。遺族は40年を隔てた2人の米大統領の来沖を重ねていた。アイク来沖を理由とした賠償問題決着への憤りがよみがえった

▼米軍属が若い女性の命を奪った事件の賠償金支払いで日米両政府が合意した。凶行から2年2カ月のタイミングをどう考えればよいか。事件後も遺族は法廷で苦悶(くもん)を重ねてきた

▼今回の賠償は「自発的、人道的な支払い」と米側は位置付ける。「人道」を持ち出すなら、事件事故を根絶すべきだ。それが宮森小の悲劇をはじめ、今日まで続く県民の怒りと悲しみへの、せめてもの償いではないのか。

 

給食の時間に突然米軍機が落ちてきて、どんなに怖かっただろう…(2018年7月3日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 給食の時間に突然米軍機が落ちてきて、どんなに怖かっただろう。毎年6月30日前後、1959年に起きた宮森小学校と近隣住宅地への墜落に関する記事を読むたびに胸が痛む

▼死者は児童と住民計18人。戦争中でもないのに、これだけの犠牲者が出た。阿鼻(あび)叫喚の光景を忘れたいと、遺族や関係者の多くは口を閉ざしてきた

▼状況が変わったのは8年前、石川・宮森630会が結成されてから。故豊濱光輝会長を中心に証言を集めることで、語り継ごうという機運が生まれた。今年の追悼慰霊祭では、伊波貞子さん(82)が左腕のやけど痕の理由と、友を失った悲しみを初めて明かした

▼墜落翌日の59年7月1日付本紙には操縦士の名前が載っている。同3日付には顔写真と談話も。死者を悼む言葉はあるが「不可抗力」と主張し、謝罪はない

▼それでも59年前、米軍が氏名を公表していた事実に驚かされる。私たちは沖国大に墜落したヘリの操縦士の名前を知らない。名護市安部に落ちたオスプレイも、東村高江で炎上したヘリも、誰が操縦していたのか知らされていない

▼来年の墜落60年に向け、630会は米公文書の翻訳に取り組んでいる。全容解明は不条理な死を遂げた18人への弔いだ。そして危険な空の解消こそ最大の供養になる。毎日が「6・30」の状況は終わらせなければならぬ。

 

[宮森小事故59年]現実変える取り組みを(2018年7月2日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 戦慄(せんりつ)すべき事故が、沖縄で、同じ年の同じ月に相次いで起こっていた。驚愕(きょうがく)の事実と言うべきかもしれない。

 1959年6月19日、当時米軍が使用していた那覇基地で、訓練の最中、核弾頭を装着したナイキミサイルのブースターが突然点火し、水平に発射され、海に落ちた。

 兵士1人が事故に巻き込まれ死亡したという。

 本紙も事故の翌日、「ミサイル発射寸前に発火」と報じているが、核弾頭搭載には一切触れていない。

 その事実が明らかになったのは、昨年9月に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」によって、である。

 59年6月30日、旧石川市(現うるま市石川)の宮森小学校に嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が墜落したのは、那覇基地でのナイキ事故から12日目のことである。

 児童12人(うち1人は後遺症で死亡)、住民6人の計18人が死亡し、210人が重軽傷を負った。

 パイロットは墜落直前にパラシュートで脱出し、無事だった。事故は米軍統治下の住民に計り知れない衝撃を与えた。事故がきっかけになって、その後の人生が変わったという人が少なくない。

 事故からわずか2年後の61年12月7日には、米軍機が旧具志川村川崎(現うるま市川崎)に墜落し、住民2人が死亡、6人が負傷している。

 宮森小米軍機墜落事故から今年で59年。あれから何が変わったのだろうか。

■    ■

 過ぎ去った過去を振り返るのは、米軍事故が決して過去の話にとどまらないからである。施政権返還から46年経っても住民は今なお、変わらない現実に直面している。それが問題だ。

 県基地対策課のまとめによると、復帰後の米軍航空機関連事故は738件に達する。 固定翼機の墜落29件、ヘリコプター等の墜落18件。部品などの落下事故は固定翼機とヘリを合わせ68件にのぼる(2017年12月末現在)。

 普天間第二小学校は昨年12月13日、CH53E大型ヘリの窓(重さ7・7キロ)が運動場に落下するという「あわや」の事故に見舞われた。

 運動場使用を再開した2月から6月までの間に体育の授業などを中断して避難した回数は優に500回を超える。

 いくら何でも、この現実はあんまりだ。事態が改善されていないとすれば、これまでの取り組みが日米両政府を動かすまでに至っていないからではないのか。

■    ■

 米軍がらみの事件事故が発生するたびに県や市町村、自治体議会は、何度も抗議決議を可決し、政府や米軍に要請を繰り返してきた。

 これまでの対応がパターン化しているのは否めない。抗議決議や要請が一過性だと、政府の対応もその場しのぎになりがちだ。

 沖縄の「いびつな現実」は、全国で共有されることなく沖縄に押し込められつつある。実効性のある新たな質を備えた取り組みが欠かせない。自治体や議会、政党のいっそうの奮起を促したい。

 

19年前とは様変わりしていた。・・・(2018年7月1日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 19年前とは様変わりしていた。宮森小ジェット機墜落事故を取り巻く状況だ。1999年、石川支局長として、遺族らに取材をしたが話を聞けた人はわずかだった。事故から40年を経ても、町全体が口をつぐんでいる印象を受けた

▼上間義盛さん(75)がこの事故で末弟を亡くした経緯を知ったのは、2010年になってからだ。遺族らが語りだし、初めての証言集が発行されたのもこの年だ。事故を語ることができるまで、長い時間を要した

▼加えて99年当時が米軍普天間飛行場の名護市移設計画の浮上時期だったことも無関係ではないだろう。移設への賛否で世論は割れていた。基地を話題にしにくい雰囲気は確かにあった

▼久しぶりに宮森小墜落事故の取材に関わった。遺族らの「基地はなくならないといけない」「沖縄県民が本当に一緒になって反対するのはいつなのか」という言葉に時代の流れを感じた

▼政府は新基地建設を強引に進めるが、新たな基地はいらないというのが大多数の県民の思いだ。米軍による事件や事故が後を絶たないことを理由に、新たな基地建設に反対してきた県民もいる

▼6月23日に行われた沖縄全戦没者追悼式。浦添市立港川中学3年の相良倫子さんは平和の詩の朗読でこう訴えた。「戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無いことを」。遺族らの言葉と重なる。

 

「傷はいまだに癒えない」 米軍機墜落、18人犠牲の悲劇から59年 沖縄・宮森小で慰霊祭(2018年6月30日配信『沖縄タイムス』)

 

米軍戦闘機墜落事故から59年を迎え、慰霊祭で手を合わせる参加者=30日午前10時すぎ、うるま市立宮森小学校

 

1959年に米軍戦闘機が旧石川市の住宅地に墜落し、近隣の宮森小学校に激突した事故から59年を迎えた30日午前、同校で追悼慰霊祭(主催=石川・宮森630会、遺族会)が開かれた。遺族らが参列し、犠牲となった児童と住民18人の冥福と平和を祈った。

 墜落の惨劇を語り継ぐ活動に取り組む石川・宮森630会の会長で、めいの徳子さん(当時2年)を亡くした久高政治さん(70)は「ことしで59年という長い年月がたったが、遺族や事故で負傷したがたがたの傷はいまだに癒えない。二度と起きないようにしないといけない」と決意した。

 

29日には児童会主催の慰霊祭があり、犠牲者の名前が刻まれた「仲よし地蔵」に全校児童が折った千羽鶴と花が供えられた=うるま市石川の宮森小学校

 

二度と起きないように」 犠牲者18人に黙とう 宮森小で米軍機墜落事故の慰霊祭(2018年6月30日配信『琉球新報』)

 

墜落事故で犠牲になったみ霊に焼香する遺族や参列者=30日午前、うるま市石川の宮森小

 

1959年に米軍戦闘機が宮森小学校(旧石川市)に墜落した事故の犠牲者18人を追悼する慰霊祭石川・宮森630会主催)が、当時事故の起きた30日午前、うるま市の同小学校で開かれた。約110人が参加し、事故を風化させず、語り継ぐことを決意した。

 

墜落事故で犠牲になったみ霊に焼香する遺族や参列者=30日午前、うるま市石川の宮森小

 

慰霊祭には小さな子ども連れで参列する人の姿も多く見られた。事故が発生した午前10時40分すぎ、参列者は黙とうををささげ、犠牲者の冥福を祈った。

 遺族会会長の上間義盛さんは「もう2度と悲惨な事故が起きないことを祈るばかりだ」とあいさつした。

 

沖縄の米軍機事故、写した傷痕 59年後ようやく公に(2018年6月30日配信『朝日新聞』)

 

 

左;大きな傷を縫合した幼稚園児の頭(石川・宮森630会)

右;両腕にやけどを負った児童(石川・宮森630会)

 

当時小学2年だった仲間司さんは小児外科医となった。「事故を繰り返してはいけない」と証言を始めた=2018年6月27日午後5時55分

 

 59年前、沖縄県うるま市(旧石川市)の宮森(みやもり)小学校に米軍のジェット機が墜落し、児童や住民計17人が死亡した。この時の児童のけがを米軍が写した写真を、被害者らでつくる市民団体が入手した。最近になって体験を語り始めた被害者もいる。沖縄での戦後最悪の米軍機事故を風化させないための取り組みが続く。

 事故は1959年6月30日に発生。負傷者も200人以上に上った。沖縄は米軍の統治下で、多くが米陸軍病院で治療を受けた。

 撮影されたのは、針金のようなもので頭を縫い合わせた治療痕や焼けただれた両腕のやけどなど32人の児童らのけが。こうした写真が公になるのは初めて。市民団体「石川・宮森630会」が事故の資料を探していたところ、沖縄戦などを調査しているNPO「沖縄東アジア研究センター」から、米国立公文書館・記録管理庁が開示した「ISHIKAWA INCIDENT」などと題された計2千ページを超える米公文書を提供された。

 当時5年生だった久高政治(くだかまさはる)会長(70)は「事故のすさまじさを物語る写真で貴重だ」と話す。事故を伝えていくため、32人を特定して証言を集め、資料集として公表したい考えだ。

 今年になって、初めて証言した被害者もいる。

 那覇市の仲間司さん(66)は当時2年生で、ジェット機が突っ込んだ教室にいた。「教室が炎で赤く染まり、必死で自宅まで走った。地獄のようだった」と振り返る。右腕のやけどですんだが、教室の児童6人が死亡したという。

 搬送のために米軍ヘリに乗った場面や、病院で寝ていたことなど思い出すことは断片的だ。大学卒業後は本土で小児外科医となり49歳で沖縄に戻ったが、事故について語ることはなかった。「記憶を封印したかったのかもしれない」

 しかし、本土復帰後も米軍基地は沖縄に集中し続け、米軍機の事故やトラブルが相次ぐ。輸送機オスプレイの不時着水と大破、ヘリの炎上、小学校校庭への窓落下……。「状況は何も変わっていない。いつかまた最悪の事故が起こるのでは。ちゃんと話さなければ」と感じ始めた。

 3日に630会が企画した講演会で、初めて公の場で事故のことを話した。「奇跡的に助かった私には生かされている意識がずっとある。生きているうちに話すことが自分の責任だと思った」。30日に宮森小学校である慰霊祭にも参加する予定だ。

 

奪われた幼い命 ―宮森小 米軍ジェット機墜落事故―(2018年6月29日配信『琉球新報』)

 

 1959年6月30日、うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した。児童12人を含む18人が死亡、210人が重軽傷を負った。沖縄の戦後最大の米軍機事故だ。

沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校。学校上空付近を米軍機が通過するたびに校庭にいる児童らが避難する―という生活が続いている。その回数は2018年2月から6月8日までで合計527回に上っている。

隣接する普天間飛行場所属の米軍ヘリCH53が重さ7キロの窓枠を校庭に落下させたのが2017年12月13日。その日以来、校庭は子どもたちが自由に遊んだり、学んだりできる場所ではなくなった。

沖縄では小学校に戦闘機が墜落し、子どもたちを含む18人が犠牲になるという痛ましい事故が過去に起きている。戦後の沖縄で最大の米軍機事故と言われる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」だ。

1959年6月30日午前10時40分ごろ、石川市(当時)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、同市の宮森小学校近くの住宅地に墜落した。衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、6年生のコンクリート校舎に激突した。学校に突っ込む機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などを焼いた。

当時はミルク給食の時間帯でほとんどの児童が校内におり、18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)、210人が重軽傷を負う大惨事となった。

戦闘機のパイロットは空中で脱出。パラシュートを用いて着地し、けがはなかった。事故直後、米軍は原因について「故障による不可抗力」としていたが、事故報告書によると整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明した。

事故は生き延びた児童にも影を落とした。けがをした児童の中には両手がちぎれる夢を見て夜中にうなされたり、他の子からいじめられたりした子もいた。また不眠や不登校、大きな音を怖がるなどの症状が出た児童もいた。

 

教室の中が真っ赤になった 金城清正さん(2018年6月29日配信『琉球新報』)

 

資料を指さしながら当時のことを語る金城清正さん=沖縄県糸満市

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 「突然のことでね、何が起きたのか分からなかった」。金城清正(きんじょう・きよまさ)さん(70)=糸満市=は11歳の時に体験したジェット機墜落事故の記憶をたぐり寄せた。

学びや一転

 その日はいつもと変わらない晴れた火曜日だった。2時間目の授業が終わり、ミルク給食の時間。金城さんは自分の席でミルクを飲んでいた。「バン」。突然大きな音がしたと思ったら、教室中が赤い光と煙に包まれた。「机の下に潜りなさい」。すかさず担任の先生の声が響いた。混乱状態のまますぐに先生は「外に出なさい」と指示。何が起きているのか理解できないまま金城さんたちはめちゃくちゃに破壊された廊下を走り、教室のある2階から1階へ駆け下りた。

 ジェット機が墜落し、変わり果てた学びや。両腕から血が流れている女の子を抱く大人。長いすに寝かされた黒焦げの幼い子。見たこともないような惨状にみんな混乱していた。どこに行けばいいのか分からないままあたりを歩いた。ほかの友達がどこに行ったのかなんて分からなかった。

 学校には事故を聞きつけた保護者が自分の子どもの無事を確かめるために集まっていた。

近くで働いていた金城さんの母親も駆けつけた。わが子を見つけると目にいっぱい涙を浮かべ「大丈夫か?けがはないか?」と無事を確かめるように何度も体を触った。母1人、子1人の家庭。「うちの子はどうしているかね」と学校にのぞきに来るほど、母親は金城さんのことを大事にしていた。

 母に手を引かれ家に帰る途中、地域の住宅も被害に遭っていることを知る。母の実家も焼けて無くなっていた。母の実家には祖母、叔母がいた。台所にいた祖母は飛ばされて即死。裁縫をしていた叔母もけがを負い、入院した。祖母の葬儀がどこで執り行われたのか覚えていないが、金城さんの家に親戚が集まり、大人たちが泣いていたのを覚えている。

ジェット機が突っ込んだ6年3組の教室。金城さんのクラスだった

変わらない空、変わってしまった同級生

 金城さんは傷1つなかったが、同級生が3人亡くなった。そのうち伊波正行君とは休み時間になるとよく空手ごっこをした。足は悪かったけど、力は強かった伊波君に負かされることもたびたびだった。今、同級生たちと伊波君のことを話すことはないが、存在を忘れることはない。写真で見る伊波君はいつまでも小学校6年生のままだ。でも、最近なぜか大人になった姿が目に浮かぶ。「生きていたら今頃どんな会話をしていたかねえ」とぽつりとつぶやいた。

 当時の石川の人たちにとって米軍の存在は身近だった。ほとんどの人が軍作業で生計をたてていたし、米軍が捨てたハムやソーセージを取ってきて自分の店で売っている人もいた。近くの石川ビーチは米軍の保養地で、米軍人やその家族がよく遊びに来ていた。景気の良かった米兵は石川の子どもたちに1セント玉をばらまいた。頭上を飛ぶ米軍機の音も当たり前だった。しかし、事故後その音は子どもたちを苦しめた。

 事故から2週間ほどたってから、テントでの授業が再開した。あれだけ大きな事故の後だが、米軍機は以前と変わらず飛び続けていた。クラスメイトの女の子の1人はそのたびに恐怖心から狂ったようにわめいた。その子だけでなく不眠や不登校、夜中に叫び出すなどの神経症状が出た児童が複数いたことは、米側の資料にも記されている。

 宮森の事故から59年。沖縄は米軍機の事故が後を絶たない。事故のニュースを見聞きするたびに59年前のあの地獄のような光景が目に浮かぶ。2017年12月には宜野湾市の緑ヶ丘保育園と普天間第二小学校に米軍の部品が落下した。「昔と変わらない。ウチナーンチュ(=沖縄の人)は軽く見られている」と思わずにはいられない。

 

ブランコごと吹き飛ばされた弟 上間義盛さん(2018年6月29日配信『琉球新報』)

 

弟の芳武さんについて語る上間義盛さん=2018年6月、沖縄県うるま市

 

 朝の登校時、うるま市石川の宮森小学校校門前で優しいまなざしを向けながら、児童らに声を掛ける男性がいた。同小学校出身で、「石川・宮森六三〇会」副会長の上間義盛(うえま・よしもり)さん(75)だ。県交通安全推進員も務める。子どもたちと同年代の弟、芳武君=当時3年生=を宮森小学校ジェット機墜落で亡くした。「毎日学校前に立っている。事件事故、犯罪で子どもを失いたくはない」

弟が無言の帰宅

 墜落時、上間さんは石川高校で授業を受けていた。現場に駆け付けたころには、すでに米軍がバリケードを張り校内には入ることはできなかった。当時まだ16歳。「MP(軍警察)とか警察官に何か言える立場ではない」。立ち上がる黒煙。わが子の名前を呼ぶ親たち。皆パニック状態に見えた。

 上間さんは7人きょうだいの次男。宮森小学校には3人の弟がいた。2人は無事だったが、末っ子で3年生の六男、芳武君だけ行方が分からなくなっていた。「(芳武君に)会えたのは夕方。もう帰らない人になっていた」。病院の関係者に運ばれ、無言の帰宅をした。「もう本当にショックで言葉も出なかった」

 

事故後、児童の保護者や地域の人が学校に駆けつけた。わが子を探す親の叫び声が飛び交っていた=1959年6月30日

 

芳武君は明るくやんちゃで家族のアイドル的存在だった。やけどはなかったが、顔に青あざが一つあった。事故当時、ブランコで遊んでいた。「爆風でブランコごと15メートル吹き飛ばされた。トイレの壁にぶつかり亡くなったと聞いた」

 遺体と対面した時、母親は泣き叫び、父親は押し黙った。その後も事故のことを両親が語ることや、家族や近所で話題になることも一切なかった。「皆口をつぐんだ。思い出したくないから」

映画「ひまわり」

 石川・宮森六三〇会が2010年9月に発行した証言集「沖縄の空の下で@」に芳武君のいた学級の担任の証言が掲載され、初めて芳武君が亡くなった時の状況を知ることができた。

 証言によると状況はこうだ。事故当日、2校時終了後のミルク給食の時間、芳武君が花壇から1本のヒマワリの花を取り、担任に差し出した。担任が「花壇の花を取ってはいけない」と注意すると、芳武君は「だから先生にあげるよ」と言って教卓の上に花を置き、外に出た。ブランコで遊んでいた時に犠牲になったということだった。

 この証言を中心に宮森小学校ジェット機墜落を題材にした映画「ひまわり」が2012年に製作された。「担任が勇気を出して証言した内容を読んで初めて、こういうことがあったんだなと分かった。『ひまわり』という題名の映画化にもなった。たくさんの人に見てもらい、沖縄の現状も知ってもらえた。非常に良かったと思っている」と振り返った。

警察官としての思い

 日本復帰前の沖縄で上間さんは琉球警察として警察官の職務についた。タクシー強盗など罪を犯す米兵の逮捕にも携わった。「犯人が本国に帰り、行方が分からなくなることもあった。でたらめだ。日米地位協定も見直さなければならない。いつまでも泣き寝入りではいけない」

 ほかの遺族らと同様、上間さんも証言集が出たころから、弟を亡くしたことについて話すようになった。「多くの人に知ってほしい。二度とこのような悲惨な事故を繰り返してほしくない」

 沖国大への米軍ヘリ墜落、普天間第二小への米軍機窓枠落下。米軍機による事故は何度も繰り返される。上間さんは「偉い人は『負担軽減』と言うが逆だ。名護市辺野古に基地が完成したら同様な事故が発生する恐れは十二分にある」と懸念する。「あまりにも基地を沖縄に押し付けている。基地がある限り、いつ何時このような悲惨な事故が発生するかもしれない。やはり基地は縮小、無くしていかないといけないんじゃないですかね」。淡々とした語り口調に、弟を亡くした悲しみ、いまだ沖縄を苦しめる米軍基地への憤りが込められていた。

 

宮森小米軍機事故 今からでも賠償すべきだ(2018年5月19日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 被害を与えたらならば、賠償する。一般社会では当然のルールさえ守れない組織に存在する資格はない。

 戦後沖縄で最大の米軍事故である宮森小米軍ジェット機墜落事故によって、複数の児童に精神神経症の症状が出たにもかかわらず、在沖米軍が被害者の賠償請求に応じていなかったことが米国立公文書記録管理局(NARA)の資料で明らかになった。

 被害者に対する米軍の不誠実な対応は、石川・宮森630会が事故から60年となる2019年に向け、当時の米軍資料の翻訳や新たな証言収集に取り組む中で突き止めた。

 その活動は墜落事故の記憶を風化させないというだけでなく、歴史に埋もれていた事実をも掘り起こした。高く評価したい。

 宮森630会がNARAから入手した資料によると事故後、不眠や不登校、大きな音を怖がるといった症状が児童に表れていた。

 子どもたちに「夜、突然叫び出す」といった症状があるとして、保護者が診断書を添えて米軍と交渉したものの、米軍は米陸軍病院で実施した診断で症状を否定。精神的な症状を訴える児童への賠償に最後まで応じなかった。

 それだけではない。資料には米軍が賠償額の査定を始めるに当たり、本国から「賠償を是認しないよう勧告された」との記述もある。精神神経症の有無にかかわらず、国ぐるみで賠償しないことを決めていたのである。許してはならない。

 墜落事故の概要はこうだ。米軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が宮森小近くの住宅地に墜落し、衝撃で跳ね上がった機体が宮森小に突っ込んだ。事故発生時はミルク給食の時間でほとんどの児童が校内にいて、死者18人(うち1人は後遺症で死亡)、重軽傷者210人を出す大惨事となった。

 事故発生直後、米軍は「エンジン故障による不可抗力の事故」と説明していた。だがその後、米空軍がまとめた事故調査報告書は事故の「最大の要因は整備ミスだった」とし、人為的なミスが原因だったと結論付けていたことが分かっている。報告書は「飛行に必要な整備を欠いたまま整備監督者が飛行を認めた」とも指摘している。

 米軍が整備点検さえしっかりしておけば、児童の生命が奪われることはなかったし、児童が精神神経症で苦しむこともなかった。

 死者を出すなど多大な被害をもたらした墜落事故を起こしておきながら、米軍には当事者意識が一切感じられない。県民の命、人権を軽視していると断じざるを得ない。それは戦後73年たった今も変わっていないのではないか。

 墜落事故は59年前の1959年6月30日に起きた。だが、過去のこととして放置してはならない。今からでも遅くない。米軍は賠償請求に応じるべきだ。

 

米軍機墜落事故 宮森小取材の記者ら座談会「地獄だった」(2018年6月17日配信『琉球新報』)

 

 1959年、うるま市(旧石川市)の住宅地と宮森小学校に米軍ジェットが墜落し18人の死者を出した石川・宮森小ジェット機墜落事故を語り継ぐ「石川・宮森630会」(久高政治会長)は16日、当時取材に当たった新聞記者ら6人を招いた記者座談会をうるま市の石川中央公民館で開いた。現場を取材した琉球新報の元記者の森口豁さん(80)と上原直彦さん(79)、沖縄タイムスの元記者の池原善福さん(84)が、事故の状況と悲惨な現場について語った。

 池原さんは現場について「火災というより爆撃を受けたような状況」と表現し、「ひさしがえぐられた校舎や、けがをした児童の姿を見ながら取材をしていた」と振り返った。

 上原さんは遺体を自分の子と認められず病院を駆け回って探す遺族の姿を目撃したという。「地獄のような状況の中、必死でシャッターを切った」と話した。

 森口さんは事故を本土でどう報じたかについて言及。「大手紙はまるで海外のニュースのように報じていた。沖縄はメディアの中でも外国扱いだった」と評した。

 これまで「不可抗力」とされていた事故原因を整備不良などが原因であるとした米資料を入手し報じた元琉球朝日放送のディレクターでフリージャーナリストの土江真樹子さんは「事故の後も苦しんでいる中で取材に応じ語ってくれた遺族の人には本当に感謝している」と語った。

 

地元の宮森小で起きたことを、もっと伝えたい(2017年4月1日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦])

 

 「地元の宮森小で起きたことを、もっと伝えたい」。半年前に解散したうるま市石川の小中学生でつくる劇団「石川ひまわりキッズシアター」が6月28日、再始動した。29日付の記事を読み、胸が熱くなった

▼上演した劇は1959年6月30日、石川・宮森小への米軍機墜落を題材にした「私たちの空」。亡くなった児童11人と住民7人の無念さ、遺族の悲しみをダンスや歌で表現したという

▼5年前、劇団の結成を取材した。デビュー作は芸人・小那覇舞天(ぶーてん)さんの心をテーマにした現代劇。終戦直後、約3万の避難民がひしめく石川の収容所内を回って三線を弾き、「ぬちぬぐすーじさびら」と踊ったのはなぜか。メンバーは祖父母に舞天さんの思い出話を聞き、沖縄戦を調べた

▼学ぶうちに歴史上の人物だった舞天さんが身近なおじさんになり、そのすごさを伝えたくなる。舞台には「悲しむ人々を漫談で笑わせ、励まし続けた舞天さんを知ってほしい」との思いがあふれていた

▼劇団が再結成されたのは子どもたちが声を上げたからだ。「いまだに墜落を思い出して涙を流す人がいる。ずっと伝えるために続けたい」と

▼舞天さんや宮森墜落を考えていくと、命の重さを知ることに行き着く。墜落から58年が過ぎ、風化が危惧される中で、しっかり受け継ごうとする子どもたちが地元にいる。

 

うるま沖墜落1年 米軍機に飛行する資格なし(2016年8月14日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 うるま市伊計島南東の海上で、米軍MH60ヘリコプターが米海軍艦船への着艦に失敗し、墜落してから12日で1年がたった。しかし米側は事故原因について一切明らかにしていない。

 それなのに事故同型機は上空を飛行している。原因究明が置き去りにされたまま、住民の生命と安全を危険にさらしている。異常事態であり、このまま放置するわけにはいかない。

 そもそも墜落事故は沖合14キロ地点で起きており、日本の主権が及ぶ領海内だ。国内で航空機事故が発生すれば、国土交通省外局の運輸安全委員会が原因究明調査を実施する。調査結果に基づいて、事故原因関係者に対し、必要な施策・措置の実施を求める。事故の防止と被害の軽減を図るためだ。

 しかし、うるま市沖の墜落事故は米軍機による単独事故であることを理由に、運輸安全委員会の調査対象外となった。さらにヘリが墜落したのが米艦船上だったため、米軍敷地内への墜落になると判断された。このため日米地位協定を理由に、第11管区海上保安本部、県警の捜査権限も及ばなかった。

 現状では住民の生命を脅かす重大事故が国内で起きても、米軍機であれば日本側に原因究明と事故防止の対策を取ることはできない。12年前に起きた沖国大米軍ヘリ墜落事故でも、県警は米側に機体回収と乗組員の氏名公表を求めたが拒否された。日本側の捜査と調査を阻む治外法権が横たわる。あまりに不条理ではないか。

 米国防総省当局者は事故発生3日後、ヘリを運用していた陸軍特殊作戦司令部が事故原因を調査していることを明らかにした。しかし1年たった現在でも公表されていない。調査が完了していないか、調査結果が軍内部にとどまっているかのどちらかだろう。

 うるま市では1959年の宮森小米軍ジェット機墜落事故で18人の命が奪われた。61年にも川崎小近くにヘリとジェット機が墜落し、4人が死亡した。市民の中には過去の悲しい記憶が刻まれている。県内全体でも復帰後の44年間で46機の米軍航空機が墜落している。年に1回以上の頻度だ。沖縄の空は極めて危険な状態に置かれたままだ。

 これまでも米軍は事故原因を明らかにしないまま飛行を再開してきた。説明責任を果たさない以上、米軍は沖縄で航空機を飛行させる資格などない。

 

基地あるが故の事故」 米戦闘機墜落57年、宮森小で慰霊祭(2016年6月30日配信『琉球新報』)

 

米空軍嘉手納基地を飛び立った整備不良の米軍戦闘機が、石川市(現うるま市石川)の住宅地や宮森小学校に墜落した事故から57年となった30日、同小学校で慰霊祭が開かれた。1959年6月30日に事故は発生した。児童、遺族らは「基地あるが故の悲惨な事故」で犠牲になった18人を思い、墜落した午前10時40分、遺族や被害者らは黙とうをささげた。

 慰霊祭に先立ち開かれた追悼集会には、宮森小児童と隣接する城前小6年生が参列した。

 平和の鐘を鳴らした児童会役員の伊芸可怜(かれん)さん=小6=は「犠牲者の方が静かに眠れるように祈った」と話した。

 

沖縄・宮森小 米軍機墜落56年追悼(2015年7月1日配信『しんぶん赤旗』)

 

基地なくすため 語り継ぐ

 1959年、米軍ジェット機が沖縄県石川市(現うるま市)の市街地や宮森小学校に墜落し、児童と住民計18人が犠牲となった事故から56年となった30日、同校で「慰霊祭」が行われました。犠牲者の名前が刻まれている仲よし地蔵には、花束や千羽鶴が手向けられ、遺族や参列者が黙とうしました。遺族会とNPO法人「石川・宮森630会」が主催しました。

 小学3年生だった弟を亡くした遺族会代表の上間義盛さんは声をつまらせながら、「基地があるがゆえの悲惨な事故でした。政府はさらに新たに辺野古に基地を造ろうとし、基地ができるとさらに重大事故が発生する可能性があります。二度とこのような悲惨な事故が起こらないように祈ります」とあいさつしました。

 事故で重傷を負い、一命を取り留めながら大学生のときに後遺症で亡くなった新垣晃さんの母親の新垣ハルさん(88)は「ゆうべ息子が『お母さん来たよ』と帰ってきて一緒に買い物にいく夢を見ました」といいます。「若い人を見ると、息子がどう成長していたかと、つい考えてしまいます」と体育教師を夢見ていた晃さんを思い、涙を流しました。

 当時小学5年生で、現在、事故の証言活動をしている佐次田満さん(67)は「戦争する国に向かう動きがある中、宮森小の事故を風化させてしまったら二の舞いになってしまう。戦争につながる基地そのものをなくすため、語り継いでいかなければならない」と話しました。

 「慰霊祭」に先立ち、始業前に児童会主催の追悼集会が開かれました。

 

宮森小米軍機墜落56年、悲しみ癒えず 慰霊祭に110人参列(2015年7月1日配信『琉球新報』)

 

 米空軍嘉手納基地を飛び立った整備不良の米軍ジェット戦闘機が石川市(現うるま市石川)の住宅地や宮森小学校に墜落した事故から56年となった30日、遺族会とNPO法人石川・宮森630会はうるま市立宮森小で慰霊祭を開いた。「基地があるゆえの悲惨な事故」(上間義盛遺族会代表)で犠牲になった児童12人(うち1人は後遺症で死去)と住民6人に黙とうをささげた。参列者からは名護市辺野古で新基地建設を進める政府への批判も聞かれた。

 慰霊祭に先立って催された追悼集会には宮森小全児童と隣接する城前小6年児童が参列した。児童らは平和の鐘を鳴らしながら、犠牲者の名前が刻銘されている「仲よし地蔵」に花や千羽鶴を手向けた。

 慰霊祭には例年にも増して110人の参列者があった。遺族らが涙を拭いながら犠牲になった人の名を呼び「仲よし地蔵」の刻銘板に触れた。

 

 

 

米軍機墜落から56年 宮森小で追悼集会(2015年6月30日配信『琉球新報』)

 

1959年6月30日に米空軍嘉手納基地を飛び立ったジェット戦闘機が石川市(現うるま市石川)の住宅地や宮森小学校に墜落した事故から56年となった30日、同校で児童会主催の追悼集会が開かれた。事故の犠牲となった児童12人(うち1人は後遺症で死去)と住民6人の冥福を祈った。

 集会には宮森小の全校児童と隣接する城前小学校6年の児童が参列した。子どもたちは平和の鐘の音を鳴らしながら、犠牲者の名前が刻まれている「仲よし地蔵」に花や千羽鶴を手向けた。

  6年生が平和の誓いを群読。遺族会の上間義盛会長が「事故で小学3年だった弟の芳武を亡くした。18人の犠牲者は皆さんが安心に暮らせるよう願っていると思う」とあいさつした。児童会の宮平彩樺(あやか)さん(11)=6年=は「事故のことを多くの人に広めたい。悲しみや苦しみを、みんなで分かり合ってなくしていきたい」と話した。

  集会に続き、遺族会とNPO法人石川・宮森630会共催の慰霊祭が行われ、参列者が黙とうをささげた。

 

宮森小米軍機墜落 未公開写真を展示 県庁1階で3日まで(2015年6月29日配信『琉球新報』)

 

NPO法人石川・宮森630会が主催する「戦後70年 石川・宮森小学校米軍ジェット戦闘機墜落事件から56年―未公開写真展」(琉球新報社共催)が29日、県庁1階の県民ホールで始まった。7月3日まで。

 写真展では、1959年6月30日の同小学校への米軍機の墜落直後に担架で運ばれる児童や、墜落後の戦闘機の残骸など初公開の20点を含む約40点の写真を紹介。当時の様子を伝える新聞紙面なども展示している。

 同会の久高政治会長は「今回は(琉球新報の)紙面で使用されなかった写真も初めて展示している。現在でも基地問題に悩まされている県民が多いが、今日まで続く問題について多くの人が考えるきっかけになればいい」と話した。

 

「どこか遠くの出来事」ではない(2015年3月25日配信『新潟日報』−「日報抄」)

 

1959年7月1日の本紙社会面に「沖縄で米機が墜落、多数の死傷者が出た」という記事が載った。今なら1面トップの大事故だが、見出しは4段だった

▼発生は6月30日午前11時前。米軍機が石川市(現うるま市)の宮森小学校付近に墜落、炎上した。児童12人、住民6人が死亡、重軽傷者は200人以上に及んだ。悲惨な事故だが、当時は米の統治下。どこか遠くの出来事だと、本土の人の記憶が薄れるのも早かったに違いない

▼事故を題材にした映画「ひまわり」を上映している新潟市内の映画館に足を運んだ。ほぼ満席だった。スクリーンで事故を初めて知ったという方も多いかもしれない。巨大な権力に翻弄(ほんろう)される地方の苦悩をあらためて考えさせられる作品だった

▼「安全保障」「エネルギー」などと中央の言葉で語られる国策を地方の実感に沿って翻訳すれば、「基地の騒音」「墜落の恐怖」あるいは「原発事故」「放射能汚染の可能性」などとなるだろう

▼あるときはカネの力で、あるときは腕ずくで、国は地方に「理解と協力」を求める。沖縄の普天間飛行場を辺野古に移転する計画を止めようと、作業停止を指示した翁長雄志(おながたけし)知事に対し、政府の関係筋は「相手がそのように出てくるならこちらもそれに合わせた対応を考えていくしかないのか」とすごむ

▼地方の「異議あり」に国は耳を傾けるのかどうか。原発の再稼働や核のごみ問題を抱える地域にとっても、沖縄の現在は「どこか遠くの出来事」ではないのである。

 

犠牲者の願い(2014年7月2日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 55年前のあの日は、1週間前からセミの鳴き声が街に響き渡っていたという。1959年6月30日、セミの鳴き声に触発されて、当時小学2年生だった玉城欣也さん(63)=うるま市=は登校前、自宅近くの売店で母親に虫取り網を買ってもらった

 ▼当時、虫取り網は高価だった。何度もねだってようやく手に入れた。放課後に虫取り網を振るう姿を思い描き、はやる気持ちを抑えての登校だったに違いない

 ▼それが暗転したのは2校時目を終えた午前10時35分ごろ。戦闘機が墜落し、18人が命を奪われ、200人余が重軽傷を負った。校舎を直撃し、民家も巻き込んだ石川市(現うるま市)宮森小米軍ジェット戦闘機墜落事故である

 ▼玉城さんは避難する途中、虫取り網を教室に忘れたことに気付いて学校に戻り、校長室前で黒焦げになった遺体と対面することになる。その出来事が「人生の分水嶺」となった。その悲痛な体験を機に生と死を問い続け、今は牧師として命の重みを説く日々を送る

 ▼今年、当時の児童・園児が一堂に会する同窓会が初めて開かれた。その場で玉城さんはこう切り出した。「忘れたくても、亡くなった人たちは『忘れてほしくない。忘れないでほしい』ということだと思う」

 ▼セミの鳴き声に犠牲者の願いを込めた声が重なり、今年も街を、そして人々を包む。その声に耳を澄ませたい。

 

[戦後「ゼロ」年]宮森は終わっていない(2014年7月1日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 心の奥にしまい込んだ幼い日の悲惨な記憶。封印を解いて語るには、半世紀余の歳月が必要だったのだろう。

 1959年6月30日、旧石川市の住宅地に米軍ジェット機が墜落し、近隣の宮森小学校に激突。児童や一般住民18人が亡くなった事故から55年が過ぎた。

 30日の追悼集会と慰霊祭の前日、宮森小で「大同窓会」が開かれた。事故を語り継ぐ活動を行っているNPO石川・宮森630会の呼び掛けで初めて実現したものだ。当時の幼稚園児から6年生までの在校生のほか、教員や遺族らが集まった。

 証言集「命の叫び」には、当日の様子が記されている。

 1校時、2校時が終わり、ミルク給食の時間になった。コップを持ち上げて飲もうとした時、校庭にコンクリートと鉄の破片が飛び散った。窓ガラスが割れ、子どもの頭や顔に飛び散る。校庭は黒煙で覆われ、叫び泣いて逃げまどう子どもたちで手のつけようもないありさまだった。

 事故現場は凄惨(せいさん)をきわめた。生き残った人も深刻な心の傷(トラウマ)を抱えた。

 同窓会に出席した女性(65)は、当時の記憶を語り「同期生と事故のことを語り合ったのは初めて」と話した。

 当事者や遺族の抱えるトラウマの深刻さを思う。加えて今も米軍機が頭上を飛び交い「事故がまた起きるかもしれない」という恐怖にさらされている。こんな異常な訓練を容認している日米両政府は、道義的にも許されない。基地がある限り、事故は決して過去のものではないのである。

    ■    ■

 米軍占領下の沖縄では航空機事故が繰り返し起こり、多くの悲劇を招いた。

 51年10月20日、米軍F80戦闘機が那覇市牧志の民家に燃料タンクを落下させ、一瞬にして家は炎に包まれ6人が死亡した。62年12月20日、米軍のKB50型給油機が嘉手納村屋良(当時)に墜落、炎上。近くの民家が全焼し、2人死亡、8人が重軽傷を負った。

 復帰後も沖縄国際大学へのCH53ヘリ墜落事故をはじめF15戦闘機の墜落事故などが相次いでいることは、これから先も起こり得るとの警鐘を鳴らしているものだ。

 作家の目取真俊氏は著書「沖縄『戦後』ゼロ年」で次のように指摘している。

 「沖縄戦の戦闘は終わっても、(中略)ずっとアメリカが行う戦争の渦中にあり、実質的な占領下に置かれてきたのではないか。(中略)沖縄にとって、戦争が終わった後という意味での『戦後』は本当にあったのか、と考えずにおられません」

    ■    ■

 尖閣問題など中国の海洋進出に対し安倍政権は軍事的な対抗路線を加速させている。中国や北朝鮮の脅威が持ち出され、戦争への備えを肯定するような風潮もある。

 だが、紛争に発展すれば被害を受けるのは住民である。県民は歴史体験に根ざした皮膚感覚として、その危険性を感じているのである。

 重い負担を抱える沖縄を、将来にわたって「基地の島」にする辺野古への新基地建設は人道上、許されない。日米両政府は目を覚ますべきだ。

 

宮森小墜落55年 戦後史の理不尽忘れまい(2014年7月1日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 どこよりも安全であるべき小学校が突然、炎に包まれ、ミルク給食を待つ児童たちを「火の玉」が襲った。このような理不尽が許されていいはずがない。まして繰り返されるなどあってはならない。

 18人が犠牲になり、200人以上が負傷した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍機墜落から55年がたった。慰霊祭で関係者が述べた通り、沖縄戦を生き延びた人の子どもたちが犠牲になった事故は、まさに「二重の犠牲」だ。そんな理不尽な沖縄の戦後史を胸に深く刻みたい。

 慰霊祭前日には当時の在籍者による初の同窓会が開かれた。55年経過してようやく開催できたということ自体、心の傷の深さを物語る。軍用機が上空に来ると目が泳ぐ。事故の話になると自然と涙が湧く。体験者のそんな話を聞くと、心的外傷が今も癒やされてなどいないことが分かる。

 娘や息子を、受け持つ児童を、同級生を、救えなかった。遺族や教員、児童は今も痛恨の思いをかみしめている。何の罪も責任もないこの方々に、これほど痛切な思いを強いているのは誰か。沖縄にこんな戦後史をもたらした日米両政府こそ、自責の念を抱くべきだ。

 事故当時、米軍は現場を封鎖し、子どもの安否を気遣う父母ですら現場に入れなかった。軍用機の情報が漏れるのを警戒したからに違いない。子を思う親の思いより軍機を優先したのだ。軍が全てに優先するその構図は、2004年の米軍ヘリ沖国大墜落事故でも繰り返された。米軍機の墜落は復帰後も45件起きている。年1回以上の頻度だ。その意味で、宮森の悲劇は確実に今につながっている。

 事故機は事故の前月にエンジンを整備したが、整備過程の一部が抜け落ちていた。整備不良のまま、試験飛行として嘉手納基地を飛び立った。沖縄の住民の生命など、実験材料であるかのようだ。

 整備不良のまま飛行させた管理者も操縦士も、責任は一切不問だった。これらは事故の数十年後に判明した事実だ。事故を風化させず、再検証することの必要性を示している。

 遺族や当時の在校生らでつくる石川・宮森630会はこれまでに記録集を4巻発行した。事故を風化させまいとする努力に敬意を表したい。長く封印してきた記憶をようやく語り始めたという人もいる。今だからこそ語れる記憶をきちんと記録し、継承したい。

 

石川・宮森米軍機墜落事故 55年目の慰霊祭(2014年6月30日配信『沖縄タイムス』)

 

 旧石川市の宮森米軍ジェット機墜落事故から55年を迎えた30日、宮森小学校で追悼集会が開かれた。全校生徒や遺族、当時の在校生など400人以上が参列し、犠牲者の冥福と平和を祈った。

 「平和の鐘」が打ち鳴らされる中、犠牲者の名前が刻まれた仲よし地蔵に児童らが千羽鶴と花を供えた。6年生全員で平和を祈る詩を群読し「二度とこのような悲しい事故を起こしてはならない。平和な沖縄をつくっていく」と誓った。

 

墜落事故「決して忘れてはいけない」 宮森小で慰霊祭(2014年6月30日配信『琉球新報』)

 

1959年6月30日に米軍嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が石川市(現うるま市)の宮森小学校に墜落した事故から55年となった30日、同校で事故の犠牲者18人を追悼する慰霊祭(遺族会、NPO法人石川・宮森630会主催)が開かれた。

 遺族や当時の在校生、地域の住民ら約90人が参列し、犠牲者の冥福を祈った。NPO法人石川・宮森630会の豊濱光輝会長は戦後14年に起きた事故について「沖縄戦を生き延びた人たちの子どもたちが犠牲になった。沖縄戦を生き延びた方々が犠牲になった。二重の犠牲だ」と語った。「沖縄の戦後の歴史はこのような歴史を担いでいる。決して忘れてはいけない」と訴えた。

 事故の犠牲になった児童や住民ら18人の名前が刻まれた「仲よし地蔵」に花や千羽鶴が手向けられ、参列者は米軍機が墜落した午前10時40分ごろ、黙とうをささげた。

 

犠牲者の名前を刻んだ仲よし地蔵に花を手向ける参列者ら=30日午前8時34分、うるま市石川の宮森小学校

 

沖縄、米軍機墜落55年で慰霊祭 「児童の叫び代弁する」(2014年6月30日配信『共同通信』)

 

 米施政権下にあった沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小に1959年、米軍ジェット戦闘機が墜落し、児童ら17人が死亡した事故から55年となった30日、同校で慰霊祭が開かれた。

 事故直後に安置所で遺体を引き渡す担当だった元教諭、豊浜光輝さん(78)は「戦争を生き抜いた親より先に死ななくてはならなかった児童たちの叫びを代弁していきたい。米軍基地はなくならず、沖縄の戦後は終わっていない」と話した。

 雨が降る中、参列者は校内の慰霊碑「仲よし地蔵」に花束を供え、事故が起きた午前10時40分ごろに黙とう、犠牲者の冥福を祈った。

 

慰霊祭で犠牲者の冥福を祈る人たち=30日午前、沖縄県うるま市

 

宮森小米軍機墜落から53年 沖縄、「子ども守れず」とおえつ(12年6月30日配信『沖縄タイムス』)

 

米軍統治下の沖縄県石川市(現うるま市)で1959年、宮森小学校に米軍嘉手納基地所属のF100戦闘機が墜落、炎上し、児童11人、周辺住民6人が死亡した事故から53年となった30日、NPO法人「石川・宮森630会」は同小で慰霊祭が開かれ、遺族や在校生ら約200人が参列した。墜落した午前10時39分に黙とう。「二度と悲劇を繰り返さない」と誓い合った。同会としての開催は2011に続き2回目。

豊濱光輝会長は「私たちは、あの出来事を忘れようとした。でも心の中では忘れてほしくないと思っていた。今は無念の死を決して忘れないという活動をしている。誓いを新たに、会として語り継いでいきたい」と力を込めた。

当時、遺体安置所で遺体を引き渡す担当だった元教師豊浜光輝さん(76)は「子どもたちを守れなかった、本当に悲しい」と話し、犠牲者の名前を一人一人読み上げながら、おえつを漏らした。 

 

 

あゝこの悲惨 − あなたたちの冥福を祈ります−

                 宮森小学校校長 作 仲嶺盛文

 

あゝこの悪惨事

 ゆきて帰らぬ子どもたち

 あなたたちをなくして私はとても悲しいです

 試練の負荷にたえかねて いくたびか

 くずれさろうとするのを人々の情けとはげましにささえられてやっとたええています

 もう児童は あなたたちはもう永久に帰らない

 私は悲しくてたまらないのです

 これは一体どうしたということでしょう

 これでよいのか 戦争がすんで十五年もなるというのに

 基地の島に住むわれわれ民俗の大きな悲劇と思うのです

 三十日火曜日の二時間目までこの美しい学園で先生とたのしくまなんだあなたたちは

 Z機の爆音と共に 全身火だるまになり先生に助けてと一声のこして

 一瞬にしてこの世から消えさっていった

 あまりにも悲惨な事ではないか

 私はどうしてよいかわからない

 けれど、もうどんなにないたってわめいたってあなたたちは帰らない あゝ私は勇気を出しておちつきをとりもどし あなたたちのめいふくをいのります

 どうかあなたたちも安心していって下さい

 天国では神様が愛の心をもってあたたかく迎えて下さいます

 どうか いつまでも 学校の守り神となって下さい

 そして 世界の平和のもと力になって下さい

 私はいつまでもあなたたちのめいふくをいのりつづけます

1959年7月2日付『琉球新報』夕刊

 

 

☆ 映画「ひまわり〜沖縄は忘れない、あの日の空を〜」 2013年1月より全国公開!

 

ストーリ

 

ジェット戦闘機は炎上しながら校舎へ激突した。 繰り返される沖縄の悲劇。

 

激しい爆音とともに米軍のヘリが沖縄国際大学へ墜落した。事故現場を見た山城良太は、52年前の石川市の空を思い出していた。良太は宮森小学生6年生で仲良しの茂と豊と2年生の一平達と元気に遊び回っていた、良太のクラスに宮城広子が転校してきた、良太の心は華やいだ。青い空の下で沖縄の人々は一生懸命に生きていた。

1959年6月30日、突然、米軍のジェット戦闘機が、炎上しながら民家と小学校へ激突した、悲鳴を上げながら逃げまどう子ども達、良太は広子を助けようとしたが既に息絶えていた。校庭には一平の変わり果てた姿があった。それから53年目の2012年、年老いた良太は妻を失い娘の家で暮らしていた。

孫である大学生の琉一はゼミ仲間と共に宮森小ジェット戦闘機墜落事件のレポート活動を始めるが、宮森事件の傷跡は今も深く遺族の心を苦しめている。琉一達は基地と平和を考えるピース・スカイコンサートを決意するが、琉一達の前に様々な問題が起きはじめる…。

 

☆ 米軍普天間飛行場へのオスプレイ強行配備計画に抗議する緊急写真展

 

「石川・宮森小ジェット機事故を語り継ぐ」(主催、石川・宮森630会)が2012年9月24日から28日まで、宜野湾市役所1階ロビーで開かれた。

 オープニングセレモニーで同会の豊濱光輝会長は「軍用機がいつどこに落ちてもおかしくないのが沖縄の現実。遺族の悲劇に終わりはない。これ以上、犠牲を出さないよう、この宜野湾から9・9(県民大会)の決意を新たにしたい」とあいさつ。

 松川正則副市長は「市は沖国大の米軍ヘリ墜落を最後の警告と受け止め、普天間の早期閉鎖返還や、オスプレイの配備撤回に取り組んでいる。配備反対を発信する場を設けていただいたことに感謝したい」と述べた。同会は1959年6月30日に旧石川市で宮森小学校と付近住民ら計17人が犠牲になった米軍機墜落事故を後世へ伝えようと活動している。

 

☆ 忘れさせない「630」(13年6月28日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 「じぇじぇ!」の方言が話題のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」。主役の能年玲奈さんが起用の連絡を受けたのは、関係者によると、昨年7月の沖縄だった

 ▼撮影していたのは映画「ひまわり」。宮森小の米軍機墜落事故を描いた作品だ。基地従業員の娘として苦悩する大学生を沖縄のアクセントで好演した

 ▼公開から半年。観客は県内だけで2万人を超えた。最近は若い人の姿が目立つという。生まれた時から基地がある世代だが、不条理な沖縄の実態を知り、「歴史を学びたい」「何か行動したい」との感想が寄せられている

 ▼1959年6月30日に起きた惨事は18人の命を奪った。当事者や遺族の心の傷はあまりに深く、長い間口をつぐんできた。事故50年を機に発足した「宮森630会」が聴き取りを進め、証言集3冊にまとめた。半世紀たって重い口を開いた人もいる

 ▼若者たちは演劇や絵本を創作した。映画化もあり、風化させまいというバトンは着実に引き継がれている。能年さんもブログで「沖縄の悲しいもう一つの顔を皆さんと共に考えていけたら」とファンに呼び掛ける

 ▼当時遺体を家族に引き渡した元教員・豊浜光輝さんは、昨年の慰霊祭で「忘れたい。でも忘れてはいけない。忘れさせない」と声を詰まらせた。痛みの歴史をまず知ること、そして伝えていくことが、この島の未来を変える力になる。

 

☆ 沖縄 米軍機墜落事故54年で慰霊祭(13年6月30日配信『NHKニュース』)

 

アメリカ統治下の沖縄で、小学校にアメリカ軍の戦闘機が墜落して児童を含む18人が死亡した事故から54年となる30日、現場となったうるま市の小学校で、遺族などが参列して慰霊祭が行われました。

54年前の昭和34年6月30日、アメリカ軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が今のうるま市の宮森小学校に墜落し、児童を含む18人が犠牲になりました。

この事故から54年となる30日、宮森小学校で、遺族などおよそ350人が参列して慰霊祭が行われ、全員で黙とうをささげました。

そして、亡くなった一人一人の名前が刻まれたお地蔵様、「仲よし地蔵」に対して、献花と焼香が行われました。

このあと、事故の記憶を伝える活動を続けている団体の豊濱光輝会長が「事故は、沖縄戦の延長線上で起きたのではないか。子どもを犠牲にするような世の中であってはならない」とあいさつしました。

また、遺族を代表して、事故で母親を失った金城秀康さんは「整備不良の戦闘機をなぜ飛ばしたのか、今も怒りを覚えている。同じような事故が起きないように恒久平和を祈りたい」と述べました。

事故で、小学2年生の息子を失った喜納秀子さん(90)は「あのときのことは、きのう、きょうのことのように思い起こしてしまいます。2度と同じようなことは起きてほしくないし、体が動く限り、慰霊祭に参加します」と話していました。

 

☆ 息子の遺書「最後まで読めない」 宮森小事故きょう54年(13年6月30日配信『琉球新報』)

 

 小学生(後遺症を含む)や住民ら18人が死亡した、1959年6月30日の宮森小米軍ジェット機墜落事故から30日で54年。この事故で負った大やけどの後遺症で亡くなった新垣晃さん=享年22=は母ハルさん(84)に「お母さんが心配」と書いた遺書を残していた。ハルさんは「全部読むと生きていけない」と燃やしてしまうほど、一人息子を失った母の悲しみは深かったことを27日に明かした。その悲しみは「米軍機が住宅地上空を飛行し続ける限り癒やされない」と語った。

 同じ苦しみを誰にも受けさせたくないと、日々、晃さんの遺影に手を合わせ「オスプレイも落ちるかもしれない。晃、事故が起きないように見守ってちょうだい」と祈っている。晃さんの死を思い出すことはつらく、遺書のことは触れられずにいたが、晃さんの「生きた軌跡を残したい」との思いが強まっているという。

 晃さんが母への思いを9枚の便せんに託した遺書は、晃さんの机の引き出しの中にあった。「母上様へ」と題し「お母さんが心配。他に兄弟がいたら心配しないが、お母さんがどうなるか分からない、ごめん」と記されていた。自身が死んだ後の母の身を案じる気持ちが何枚もつづられていたという。

 晃さんは、大学2年生の時、事故で負ったやけどの後遺症で汗腺が機能せず、内臓をむしばまれていた。

 わらにもすがる気持ちのハルさんは、拝みで病を治す人がいると聞き、那覇に依頼へ出掛けた。帰宅すると、晃さんは静かに息を引き取っていた。

 みとることができなかったハルさんにとって、遺書は晃さんが残した最後の言葉だったが、全て読めなかった。「最後まで読んだら、晃のいないこの世で生きていく自信がない」。息子がいない現実に押しつぶされないために、便せんを香炉の灰にしてしまった。時が過ぎ「今なら読めたかもしれない」と後悔をにじませた。

 事故から54年がたっても晃さんを思い出す度に涙を抑えきれない。「母親が子どもに先立たれるのは生きた心地ではないよ。思い出したくないけど、私が元気でいるうちは話すことが使命だと思っているから」。事故を風化させないため、亡き息子のことを語る意を強くしている。

 

 

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