終戦記念日 2018

 

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終戦の日、追悼式に両陛下臨席 最後のおことば

 

 73回目の終戦の日となる15日、天皇陛下は皇后さまとともに日本武道館(東京都千代田区)で開かれた全国戦没者追悼式に出席された。2018年4月末に退位を控え、お二人にとって最後の臨席となった。国民の象徴として戦没者を悼み、平和を願い続けてきた陛下の「おことば」も注目された。

 

 2018年の追悼式には全国の遺族約7000人や安倍晋三首相、衆参両院議長や最高裁判所長官の三権の長のほか、経済団体ら各界の関係者らが列席し、1937年に始まった日中戦争と、その後の第2次世界大戦で犠牲になった軍人と軍属など合わせて約230万人と、米軍による空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦で亡くなった民間人約80万人の合わせて約310万人。民間人約80万人の約310万人を悼んだこれは日本人だけの数で、日本が侵略した近隣諸国や交戦国の犠牲者を加えれば、その数は膨れ上がりる)

 

式典は午前11時51分に始まり、安倍首相が式辞を述べ、正午から1分間、参列者全員で黙(もくとう)を捧げた後、陛下がおことばを述べられた。

 

天皇として迎えた最後の終戦の日の「おことば」に陛下は、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」の言葉が新しく盛り込まれた。

 

おことば全文

 

 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往事をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

 陛下は即位以降、毎年欠かさず追悼式に出席しておことばを述べてきており、戦後70年の2015年からは「深い反省」の言葉を盛り込み、戦争の歴史を継承する大切さを語られた。

 

 安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない」と述べ、戦後70年だった2015年から4年続けて同様の表現を使い、不戦の決意を表明した。

 

1993年の細川護熙氏以降、歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れ、「深い反省」や「哀悼の意」などを表明してきたが、安倍首相は第2次政権発足後、6年連続で加害責任に言及しなかった。

 

 全国の遺族を代表し、父親の喜代治(きよじ)さんが太平洋の北マリアナ諸島・テニアン島で戦死した宮城県石巻市の鈴木喜美男さん(75)が「遺族にとって忘れることができない日を迎えた。英霊の無念、苦しみを想う時、尽きることのない悲痛な想いが胸にこみ上げてまいります」と追悼の辞を読み上げた。

 

参列した遺族の最高齢は夫の博さんが沖縄本島で自決した(享年31)東京都練馬区の芹ケ野(せりがの)春海さん(102)で、最年少は2歳。春海さんは、長男の憲一さん(75)が押す車いすに乗って武道館に入った。「戦争なんて嫌だよ」と言って、ハンカチで目を拭った。戦後長い年月がたち、当時の記憶は薄れつつあるが、今なお、仏壇に手を合わせるのが日課で、「今年が最後になるかもしれない」との思いで参列したという。憲一さんは、女手一つで育ててくれた母への感謝と平和への願いを込めて車いすを押しながら、「戦争は絶対だめだと毎日言い続けなければならない」と力を込めた。

 

 

 参列の遺族の構成は平成の30年間で大きく変わり、1989(平成元)年は6821人のうち、配偶者が3269人(48%)と最多で、兄弟姉妹が2251人(33%)、子が973人(14%)だった。

 

 2018年は、参列のうち8割近くを70代以上が占め、戦没者の配偶者(妻)はわずか13人(0・2%)で、兄弟姉妹も361人(7%)と大きく減り、子が2864人(53%)、孫451人(8%)、ひ孫147人(3%)となり、記憶の風化が懸念される。

 

 また15日は、全国41都道府県でも自治体などが主催する追悼行事があり、計約3万7千人が参加した。

 

 2019年からは皇太子さまが新たな天皇として、追悼式への出席を引き継がれることになる。

 

安倍首相の式辞全文

 

 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式をここに挙行いたします。

 苛烈(かれつ)を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)、戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと心よりお祈り申し上げます。

 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを私たちは片時たりとも忘れません。改めて衷心より敬意と感謝の念を捧げます。

 未(いま)だ帰還を果たしていない多くのご遺骨のことも脳裡(のうり)から離れることはありません。一日も早くふるさとに戻られるよう全力を尽くしてまいります。

 戦後、我が国は平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。世界をより良い場とするため、力を尽くしてまいりました。

 戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯(しんし)に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を心よりお祈りし、式辞といたします。

 

 

 

天皇陛下にとって8月は「お慎み」の季節だ。1981(昭和56)年8月7日に行われた記者会見で、当時皇太子殿下だった天皇陛下は「日本人として忘れてはならない4つの日がある」と述べられた。

その4つの日とは、

 8月6日の「広島原爆の日」

 8月9日の「長崎原爆の日」

 8月15日の「終戦記念日」

 そして6月23日の「沖縄戦終結の日」である。

 

天皇陛下は、戦後70年の節目の2015年に12月18日、82歳の誕生日を前にした記者会見全文=宮内庁「年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」述べられた。

 

 今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると、非常に心が痛みます。

 

 軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。

 

 この節目の年に当たり、かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し、ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻、マーシャル諸島共和国大統領御夫妻、ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり、そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は、今、激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います。

 

 

 パラオ訪問の後、夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました。北原尾は、北のパラオという意味で、パラオから引き揚げてきた人々が入植したところです。

 

 この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。

 

 私はこの誕生日で82になります。年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました。したがって、一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです。

 

 今年もあとわずかになりました。来る年が人々にとって少しでも良い年となるよう願っています。

 

 

<つなぐ 戦後73年>広島の朝鮮人被爆者の被害 武蔵大生が朗読劇に(2018年8月25日配信『東京新聞』)

 

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本番に向けて台本を読み込む学生たち=練馬区の武蔵大で

 

 広島の朝鮮人被爆者の被害を語り継ごうと、武蔵大社会学部(練馬区)の学生たちが朗読劇を作った。26日に広島平和記念資料館(広島市)で発表する。朝鮮半島で非核化に向けた動きが高まるこの夏、日本人だけではなかった原爆の被害に光を当てようとしている。 

 取り組んでいるのは、永田浩三教授のゼミでメディアについて学ぶ3年生18人。朝鮮人被爆者の関係者の証言やインタビューをまとめた本を読み、印象に残った言葉を抜き出し、40分ほどの作品に仕立てた。

 題名は「わたしたち朝鮮人がヒロシマで体験したこと」。日本の植民地政策によって祖国を追われるようにして来日し被爆した体験と、その後の差別や苦労を描いた。日本人と同様に被爆者健康手帳を交付するよう求めた裁判闘争の歴史や、帰国した被爆者に平岡敬・元広島市長が聞き取りした様子も盛り込んだ。

 朝鮮人という視点から知った歴史に衝撃を受けた学生は少なくない。脚本を担当した大谷ひかりさん(21)は、朝鮮人被爆者の存在について「今までなぜ知らなかったのかと羞恥心にかられた」と話す。

 朗読という形式をとったことから、大谷さんの提案で広島弁で語ることに。学生はみな関東出身のため、永田教授の知人で広島市出身の会社員太田恵さん(52)=さいたま市=に抑揚などを教わっている。指導を通じて「あらためて深く知ることになった」という太田さんは「ずっしりと心に残る体験になると思う」と学生の活動に協力する。

 助監督を務める内藤唯さん(21)は「広島の人たちに朗読劇が受け入れてもらえるのか不安もある」としながら、「私たちの世代でも原爆について考えたり、歴史を受け継いだりできるということを伝えられたら」と話す。

 

<つなぐ 戦後73年>戦中戦後の窮乏生活 切符はあっても配給品なく…(2018年8月23日配信『東京新聞』)

 

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生活必需品は配給制だった戦時中の配給切符=川越市立博物館で

 

 第2次大戦中と戦後の暮らしを当時の資料から振り返る企画展が、川越市立博物館(同市郭町(くるわまち))で9月2日まで開かれている。戦後50年の1995年に企画して以来、23年ぶりの開催。この間に寄贈された資料も新たに展示している。 

 「戦時下のくらし」のコーナーでは、物資不足で苦労した時代が分かる資料が多く並ぶ。戦争初期に出征兵士を盛大に見送った出征幟(のぼり)の現物は豪華な絹織物だが、戦争末期になると召集者が多く、物資も不足して作られなくなったという。

 食料品から衣料まで、生活必需品は配給制。展示された使いかけの配給切符が当時の生活をしのばせる。戦争末期には、切符はあっても配給品がなく、庶民は窮乏生活を強いられた。

 

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戦時中の物資不足が分かる企画展。1943年の軍服はボタンが金属だが、翌44年では木製になっている=川越市立博物館で

 

 戦争末期には松の根から採れる松根油(しょうこんゆ)を航空燃料にしようと、多くの高齢者や女性、子どもが松の根を掘る重労働に動員されたが、結局、実用化されなかった。市内に残された、松根油製造のための大きな鉄の蒸留釜も展示されている。

 福原国民学校(現市立福原小学校)の日誌には、1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送(終戦の詔書)があったことが短く記され、天気は晴れ、気温32度と記録されている。

 24、27日休館。一般200円、大学、高校生100円。問い合わせは同博物館=電049(222)5399=へ。

 

<つなぐ 戦後73年>「戦争なんてバカなこと」 土浦海軍航空隊で阿見大空襲体験・内田さん(2018年8月21日配信『東京新聞』)

 

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日記を手に土浦海軍航空隊予科練生の日々や阿見大空襲などを振り返る内田武司さん=静岡県伊豆の国市で

 

 「平成最後の八月十五日」は終わっても、不戦の誓いは続く。太平洋戦争末期、土浦海軍航空隊(阿見町)の予科練生だった内田武司さん(92)=静岡県伊豆の国市=は1945年6月10日、374人が犠牲になった阿見大空襲に見舞われ、多くの仲間を一瞬にして失った。「戦争なんてバカなことはやるもんじゃないよ」と強調する。 

 内田さんは現在の伊豆の国市出身で、地元の小学校高等科を卒業後、川崎市の軍需工場で旋盤の部品を作る仕事をしていた。

 戦争が始まると、職場で戦争に行くのは当たり前という空気が広がり、自然と兵隊を志すように。6歳上の兄が中国に出兵したまま戻っていないため両親は反対していたが、両親に黙って予科練入隊を決意。1945年3月末に土浦海軍航空隊に入ることになった。

 隊では、体力作りに加え、数学や通信、砲術など航空兵になる基礎を学んだ。「何かミスをすると、教官にバットでたたかれた。でも、当時はそんなものだと思っていた」と振り返る。

 阿見大空襲は午前8時ごろ発生。警報に慌てて宿舎から2キロほど離れた防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込んだ。ドドーッと地鳴りが聞こえた直後にダーンという激しい音とともに、爆風が来て吹き飛ばされた。頭の上に土がバラバラと落ちてくる中、地べたに伏せて耐えた。

 「地獄のような光景だった」。外に出ると、近くの水田には直径10メートル、深さ2メートルほどの穴が所々にでき、亡くなったり、けがで動けなくなったりした仲間が多数いた。兵舎は骨組みだけを残し全焼していた。その日は、防空壕で生き埋めになった人の救出や、行方不明の仲間探しに追われた。

 「それまでは『米軍機をたたき落としてやる』とか威勢の良いことを話していたが、朝まで一緒にいた仲間を突然失い、戦争の恐ろしさが身に染みた。自分の命もいつなくなるか分からないと、怖くなった」

 翌日、谷田部海軍航空隊(つくば市谷田部)に移った。防空壕掘りやサツマイモ畑の手入れをして過ごし、終戦を迎えた。上官から敗戦を告げられた時は、情けなさと悔しさが込み上げ、仲間と涙を流した。航空隊の司令から「米軍が上陸し大変なことが起きるかもしれないが、命を張って女性と子供を守れ」と訓示されたことが印象に残る。

 8月下旬に除隊となって以降は実家に戻り、従軍中に亡くなった兄に代わって家業の農業を継いだ。地元の町議も3期務めた。「戦争によって多くの若い有能な人に無駄骨を折らせてしまった。二度と繰り返してはいけない」と訴える。

 

<土浦海軍航空隊> 霞ケ浦海軍航空隊(阿見町)から予科練部門が独立移転する形で1940(昭和15)年11月に発足した。太平洋戦争終盤に予科練が全国に発展する際の始まりの地とされている。終戦に伴い解隊した。阿見町には予科練の資料を展示している「予科練平和記念館」がある。問い合わせは、記念館=電029(891)3344=へ。

 

<つなぐ 戦後73年>幻の高畑戦争映画 ジブリ企画書、児童文学作家が原作(2018年8月20日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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スタジオジブリが今回公開した、幻の映画「国境」の企画書

 

 今年4月、82歳で死去したアニメ映画監督の高畑勲さんが作品化を志し、果たせなかった戦争映画がある。名古屋市の児童文学作家、故しかたしん(本名・四方晨)さんの作品を原作とした「国境 BORDER 1939」。戦前の中国大陸を舞台に、日本の侵略にあらがうアジアの若者たちの連帯を描こうとしていた。東京新聞はスタジオジブリ(東京)から企画書を入手。日本の若い世代が無意識のうちに戦前と同じ道に進まぬようにと、歴史の教訓を映像で伝えようとした高畑さんの思いがうかがえる。 

 映画の企画書によると、主人公は、現在のソウルにあった旧京城帝国大予科の日本人の男子学生。失踪した親友を捜すため、旧満州国の秘密警察に追われながら、謎の美少女とともに中国東北部やモンゴルの2万キロを駆け抜ける物語だ。

 企画書が完成したのは1989年4月中旬。その中で、高畑さんは問題意識をこう記していた。

 

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高畑勲さん

 

 「経済大国となった日本が、無意識のうちに過去と同じ道を辿(たど)る危険を冒さぬために、映像でも、あの時代の歴史を若い世代に伝えたい」「外国が自分の国へ侵入し、文化を押しつけてきたら、もっと強烈に自国を意識することになる。逆に他人の国へ侵入する側に立った場合どうなのか」

 ともに映画化の企画に取り組んだスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(70)によると、高畑さんは日本による韓国併合(1910年)後の、日本人と朝鮮人の関係に関心を抱いていた。そして「大陸での戦争を舞台に、日本人とは何者かを問い掛け、『心の中の国境』を巡る物語をつむごうとしていた」と代弁する。

 企画書ができた直後の89年6月、中国で天安門事件が起きた。人民解放軍が民主化を求める学生や市民を武力弾圧し、日本は批判的な姿勢で臨んだ。鈴木プロデューサーによると、そのような情勢下で映画化しても興行として成り立たないとの判断から、断念せざるを得なかったという。

◆「国境BORDER1939」 〜あらすじ〜

 1939(昭和14)年春、満州国軍の士官学校「満州軍官学校」の生徒、田川信彦が軍事演習中に姿を消した。旧制中学時代の親友で、旧京城帝国大予科生の山内昭夫が真相を探ろうと満州に行く。信彦は、実は秘密裏に田川家の養子となったモンゴルの王族の子。自らの出自を知り、母国に侵略を図る日本への抵抗運動に身を投じていた。昭夫は自分が侵略国の国民であることへの自覚を促されながら、満州放送の看板娘で正体はやはりモンゴル王族の子である原田秋子ら、朝鮮や中国、モンゴルの抗日地下組織の若者らの助けでモンゴルに向かう。彼らの後を満州国公安局の冷酷な日本人の秘密警察官らが追う。映画化構想は、86〜89年に完成した原作の3部作のうちの第1部。

 

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しかたしんさん=遺族提供

 

<しかたしん> 児童文学作家。1928年、ソウル生まれ。旧京城帝国大から敗戦を機に転入した愛知大法経学部を卒業。在学時に中部日本放送に入社し、劇団かもめ(現・劇団名古屋)で活動。72年に「むくげとモーゼル」を出版、73年に名古屋市を拠点とする児童劇団「うりんこ」を創設するなど、児童文学や青少年演劇に尽力。日本児童文学者協会理事や愛知大短期大学部教授(演劇論)などを務めた。2003年に75歳で死去。

 

<つなぐ 戦後73年>戦争体験 施設で聞き取り 高齢化 細る証言を危惧(2018年8月19日配信『東京新聞』)

 

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インタビューで戦争体験を語る田村馨さん(左)=7月上旬、東京都荒川区で

 

 終戦から73年がたち、戦争体験者の証言が集まりにくくなる中、少しでも多くの人の記憶を記録に残そうと、NPO「戦場体験放映保存の会」(東京都北区)が、高齢者施設の利用者に着目して聞き取りを始めた。「体験を子や孫、その先の世代に残さなければ」という思いを掘り起こそうと、施設などに協力を呼び掛けている。 

 「軍事教練で銃の扱いが悪いと殴られた。天皇陛下のものを何だと。軍人勅諭も言えなかったら学校の恥だと言われて覚えた。思い出の一つですよ。良いか悪いか分からないけど」

 東京都荒川区内の高齢者通所施設で7月上旬、元自営業の田村馨さん(90)は記憶をたどった。10代だった戦争当時。勤労動員で軍需工場や消防隊員として働いたという。約一時間、保存の会のスタッフが家庭用ビデオカメラを回す前で、車いすから身ぶりを交えながら語った。

 保存の会は2004年に設立し、スタッフが元兵士らの自宅を訪ねるなどして、経験した出来事をインタビューしてきた。飢えとの戦いだった南方戦線、ミッドウェー海戦で沈没した空母赤城の艦内の混乱、旧満州からの引き揚げ…。映像の編集は基本的に行わず、中立・客観的に記録することを方針にしている。

 これまでに約2700人に上る証言を収録し、抜粋をインターネットで公開しているが、近年は収録のペースが落ち気味という。会事務局次長の田所智子さん(52)は「亡くなられる方が多くなり、戦友のネットワークも途切れつつある」と話す。

 総務省の人口統計などで終戦時に、当時の徴兵年齢の19歳以上だった人口を目安にみると、会発足時の04年と比べて昨年時点で約5分の1の約160万人まで減った。いまの91歳以上にあたる。

 会は、高齢者施設を利用している戦争体験者が相当数いるとみて、今春、文書を郵送したり、直接訪ねるなどして都内の約50施設に協力を依頼。これまで田村さんを含め3人にインタビューすることができた。

 介護度が重くなれば証言は難しく、協力に応じてくれる施設は多くない。ただ、地方の高齢者施設でも戦争体験を語る会などを開いている事例があり、保存の会は情報交換を進めている。

 田所さんは「施設側が『戦争の経験は悲しい出来事だから触れてはいけない』と思っているケースもある。でも、『聞かれなかったから話さなかっただけ』という人が結構いる。どこも施設は多忙で大変かもしれないが、貴重な体験談を残すために理解いただければ」と話す。

 保存の会への問い合わせは=電03(3916)2664(火、木、土、日曜日と祝日の日中)=へ。

 

ガダルカナル島兵士の「遺書」 散り行く身、真心が贈り物です(2018年8月17日配信『東京新聞』)

 

 太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島(現在のソロモン諸島)の戦闘に参加した兵士が、妻とみられる女性に宛てた手紙が、米国立公文書館で見つかった。軍当局の検閲を受ける前の段階の遺書とみられ、総攻撃で戦死を覚悟し「私の一生の真心が只(ただ)一つの贈り物です」と淡々と記している。76年前の筆致が、戦争のつらさや悲しさを今に伝えている。 

 戦傷病者の記録を伝える「しょうけい館」(東京都千代田区)の学芸課長、木龍(きりゅう)克己さん(61)が、ワシントン郊外の米公文書館分館で戦傷病者の記録を調査中、米軍が回収した資料から見つけた。

 木龍さんによると、手紙は「陸軍」の便せん1枚に青色インクで書かれていた。「九月三日 ソロモン群島 ガダルカナル島に於(お)いて記す」で始まり、「決戦が迫りました 散り行く身の一筆残します」と別れの決意を記していた。末尾に「久男」、宛名は「千代子殿」と名前だけが書かれ、宛名のない封筒に収められていた。

 戦史叢書(そうしょ)(防衛研修所戦史室)によると、1942年8月、日本軍が同島に造った飛行場を米軍が占領。奪還を目指した日本陸軍は部隊を逐次投入し、同月20日に「一木(いちき)支隊」が、翌9月12日には「川口支隊」が総攻撃を行ったがいずれも失敗、多数の戦死者を出した。冒頭の「九月三日」はこの川口支隊の攻撃の直前に当たる。

 木龍さんは手紙を書いた日時と具体的な場所、「敵機の攻撃が激烈」など戦闘の様子が記されていることから、「検閲を受ける前の段階の手紙」とみている。「検閲を意識すれば『国のため』『天皇陛下のため』など大義名分に触れてしかるべきだが、一切書かれておらず、検閲を受けていないことが推測される」とも指摘。「一兵士が妻を気遣う気持ちが素直に伝わってくる。上官が攻撃を前にペンと紙を与え、遺書を書かせ、兵士も書きたいことを書いたのではないか」と推測している。

 手紙は戦闘後に米軍が回収したとみられるが、その経緯は不明。川口支隊は九州の部隊だが、「久男」さんの生死やフルネーム、「千代子」さんが誰なのか、分かっていない。木龍さんは「本人や家族が判明すれば、お伝えしたい」と話している。

◆手紙全文

九月三日 ソロモン群島 ガダルカナル島に於(お)いて記す

重大なる作戦に参加いたし 男子として無上の喜びを感じます 連日敵機の攻撃又(また)激烈です

決戦が迫りました 散り行く身の一筆残します

生前の厚情 有難く思います 何一つ出来ず残念ですが 私の一生の真心が 只(ただ)一つの贈り物です

弱い君です 御身(おんみ)御大切に 強く生きて下(くだ)さい

私の言葉を忘れず 一本立ちになって一日も早く女としての生活へ入られるよう 私は君の身を護(まも)ります 私の戦死に 万歳の一声を叫んでやって下さい 君の今後の生活が 私を生かしてくれるのです

立派に生き抜いて下さい 御多幸を祈ります

  久 男

千代子殿

 ※原文は、漢字以外は片仮名

<軍事郵便に詳しい新井勝紘(かつひろ)元専修大学教授(日本近代史)の話> 検閲を考えず兵士の正直な気持ちが表れている。「最後の手紙」ということで、配慮しないで書いた、検閲前の手紙だろう。検閲は軍内部でブラックリストに載っているような兵士が主な対象で、同じ釜の飯を食った、ごく一般的な兵士にはさほど厳しくなかった面もあった。この手紙では場所や日時以外は認められたかもしれない。兵士も届くと思って書いたのではないか。 

<ガダルカナル島を巡る戦い> 1942年8月、日本軍が建設した飛行場を奪うため、米軍はソロモン諸島ガダルカナル島に上陸。日本軍は、奪回を目指して部隊を逐次投入したが、敗退を繰り返した。ジャングル内に追い詰められた兵士は、飢餓とマラリアに苦しみ「餓島(がとう)」とさえ呼ばれた。約半年に及ぶ戦闘の後、大本営は撤退を決定、兵士約1万1000人を撤収した。餓死者も多く陸軍兵士計約2万800人が戦没、上陸兵士の66%が亡くなった。米軍の本格的反攻の第一歩で太平洋戦争の転換点となった。

 

陸軍の便せんに記された遺書(木龍克己さん提供)

陸軍の便せんに記された遺書(木龍克己さん提供)

 

比で収集の「戦没者」遺骨 DNA鑑定「日本人なし」(2018年8月17日配信『東京新聞』)

 

  

 厚生労働省に委託された2人の専門家が、太平洋戦争の激戦地・フィリピンで旧日本兵のものとして収集された遺骨の一部をDNA鑑定し「日本人である可能性が高い人骨はなかった」などとする報告書をまとめていたことが16日、関係者への取材で分かった。

 厚労省は2012年10月に報告書の提出を受けたが、結果を公表していなかった。同省の担当者は報告書の存在を認めた上で「11年に実施した検証結果の域を出るものではないと判断し、公表しなかった。隠していたわけではない」と述べた。

 フィリピンでの遺骨収集事業は8年前に現地住民のものが混入している可能性が指摘され、中断している。厚労省は今年5月、両政府関係者の立ち会いの下で収集することを定める協力覚書をフィリピン政府と締結。年内にも事業を再開したい考えだが、報告書の存在が明らかになり、遺骨収集には、さらに慎重さが求められる。

 フィリピンでは、旧日本兵の遺骨約37万人分が帰還を果たしていないとされる。厚労省は06年から民間団体の協力により、フィリピンでの「海外未送還遺骨の情報収集事業」を始め、09年度にはNPO法人「空援隊」に事業を委託。10年度には6289人分を日本に持ち帰った。

 10年10月に「現地人の遺骨が混じっている」との報道を受け、事業を中断。空援隊が収集した遺骨のうち130人分からDNAを鑑定する検証作業を進め「日本人らしいものが5個体、フィリピン人らしいものが54個体」との結果を得た。同省は11年10月に「戦没者のものとは考えにくい骨が含まれていた」とする検証報告書を公表し、DNA鑑定により旧日本兵の遺骨でないものを区別・排除することが可能と提言していた。

 共同通信が入手した報告書によると、DNA鑑定は、検証作業の担当者とは別の専門家2人が担当。うち1人は「鑑定できた55個体のうち、判別できなかったものが3個体。フィリピン人と思われるものが52個体。日本人の可能性が高い人骨はなかった」とし、もう一人は「日本人に多く見られるタイプに一致するものは一例もなかった」としていた。

 

<つなぐ 戦後73年>少女狙い米機の機銃掃射 元教職員の女性語る(2018年8月17日配信『東京新聞』−「千葉版」)

 

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寺で勉強した様子などを絵で見せながら戦時中の体験を話す石川和子さん(中)ら

 

 元教職員の女性たちが長生郡市内の小中学校で、戦時中の生活を語る出前授業を2012年から続けている。学校が強制移転され、寺で勉強する様子を紹介する絵や、兵士の無事を祈って女性たちが縫った「千人針」を見せながら体験を語り、平和の大切さを訴えている。

 出前授業を続けているのは、教員を退職した女性たちでつくる「ピーススタッフ長生」のメンバー15人。このうち4人が戦争体験者で、年に十数件、小中学校に出向いている。

 メンバーの1人の茂原市六ツ野の石川和子さん(85)は、茂原の東郷小6年生だった1945年ごろ、牛乳を買いに行く途中に機銃掃射を受けた。九十九里浜から茂原海軍飛行場に向かって低空飛行していた米軍の戦闘機に狙われたという。竹やぶに転がるように逃げ込み、幸いけがはなかった。「牛乳を入れる空き瓶を抱えて、がたがたと震えた。戦争だから、子どもだろうが関係ない」

 石川さんはその1年ほど前、親戚を頼り東京から東郷小に転校した。東郷小は茂原海軍飛行場をつくるために強制移転され、寺で勉強した。親戚の敷地の小屋で母と2人で暮らし、七輪(しちりん)で煮炊きする生活だった。

 

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出前授業で見せることもある兵士が身に着けた日章旗や千人針=いずれも茂原市で

 

 ピーススタッフ長生のメンバーは出前授業に加え、毎年、現役の教職員が集う集会で体験を話し、出前授業の様子も伝えている。昨年には、長生郡市視聴覚教材センター(茂原市)の依頼を受け、メンバ14人が体験を語る映像をDVDにした。

 ピーススタッフ長生のリーダー石井宣子さん(75)は「授業を受けた子どもたちから、今住んでいる場所でも戦争の被害があったことや、命が尊いと分かったと聞くと、何回でも伝える必要性を感じる」と話す。

 日章旗や千人針、お守りなどを譲り受けることもあり、出前授業で活用している。石川さんは「平和は維持し続けないといけない。二度と戦争はしていけない。生きている限り体験を伝え続けたい」と話す。

 

<つなぐ 戦後73年>生きた特攻、無念の歌 知覧・平和会館に保管(2018年8月16日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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堀山久生さん(左)と父の戦争体験について語る上田さんの次女恭子さん=東京都練馬区で

 

 太平洋戦争末期、厳しい戦局を打開するため、飛行機で敵艦に体当たり攻撃を試みた特攻隊。一度は死を覚悟して出撃しながらも、機体の不調や悪天候から帰還した陸軍の隊員が、現在の福岡市中央区にあった「振武(しんぶ)寮」に収容され、人目に付かないよう隔離されていた事実はあまり知られていない。そんな隊員たちが任務を果たせなかった無念や戦死した仲間を思う和歌が、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館に保管されている。

爆音に つと身をおこし 気がつきぬ

喜界の人の ことぞしのばる 

 岐阜県高山市出身の上田克彦さんが振武寮で、縦25センチ、横9センチの便箋の裏に記した歌だ。1945(昭和20)年4月、当時26歳だった上田さんは、奄美群島の徳之島の飛行場から、特攻隊として沖縄戦に出撃する予定だったが、直前に米軍機の空襲で飛行機を失った。

 北東の喜界島に船で移動し、迎えの飛行機で福岡県の軍司令部に戻ることになった上田さんは再び、九死に一生を得る。乗る予定で乗れなかった迎えの飛行機が、離陸した直後に米軍機に撃ち落とされたのだ。

 

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特攻隊に所属していた当時の上田克彦さん=群馬県の館林飛行場で(堀山久生さん提供)

 

 その後、振武寮に収容された上田さんは、再び群馬県の部隊に配属され、そこで終戦を迎えた。戦後は林野庁に勤め、晩年は東京で過ごして2008年に89歳で亡くなった。

 上田さんの次女恭子さん(63)=東京都多摩市=は今年7月、父の知人を介して父が詠んだ歌の存在を初めて知った。歌の意味について「父は特攻隊の話をしなかったが、喜界島での出来事は子どもの頃に聞いたことがある。振武寮にいた時、飛行機の爆音を耳にするたびに、目の前で亡くなった仲間をしのび、もう一度特攻隊として出撃しようという決意を固めたのではないか」と語った。

 上田さんが最後に所属した群馬県の部隊の隊長だった堀山久生さん(95)=東京都練馬区=は、上田さんに戦後再会した際に漏らした言葉を覚えている。「特攻のことはもう忘れたい、と話していた。振武寮に収容された特攻隊員は、周囲からひきょう者呼ばわりされたと聞いている。国への忠誠心があつかった上田さんは、我慢できないほどの屈辱を味わったと思う」

 上田さんら振武寮に収容された55人が詠んだ歌は16年に、ある軍関係者の遺族が遺品を整理中に見つけ、知覧特攻平和会館に寄贈した。計59首の中に、生き延びた喜びを記した歌は一首もなく、任務を果たせなかった無念や、再出撃への強い願い、先に戦死した仲間への思いを記したものがほとんどだ。

 同館専門員の八巻聡さん(42)は、歌について「振武寮を管理する軍側が、風紀の乱れを防ぐため、隊員に気持ちの整理をさせるとともに、その心情を把握しようとしたのではないか」と指摘。「生き残った特攻隊員の研究は、まだ進んでいない。歌は彼らの心情をひもとくきっかけになると思う」と話している。

 

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知覧特攻平和会館に保管されている上田さんの歌=同館提供

 

<つなぐ 戦後73年>「シベリア抑留」振り返る 水戸の三村節たかしさんら講演(2018年8月16日配信『東京新聞』−「茨城版」)

 

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来場者に戦争体験を語る三村節さん=水戸市で

 

 平成最後の終戦の日の15日、県内では、戦争を風化させないよう、戦争体験者による講演会や戦没者追悼式が催された。

   ◇

 水戸市立博物館は、戦争の記憶を語り継ごうと、体験者から話を聞く会を同市の県立歴史館で開いた。市内在住の三村節(たかし)さん(95)がシベリアでの抑留生活を語り、「戦争を忘れず、平和のために働いてほしい」と語った。

 三村さんは旧岩船村(現城里町)出身。県立水戸農学校を卒業後、旧満州(中国東北部)に渡って関東軍に入り、終戦直前に侵攻してきたソ連軍に捕まった。

 抑留生活3年目の1948(昭和23)年、帰国のために列車に乗ったが、シベリアのチタ駅で自分の乗った車両だけが留め置かれた。帰国後の生活を話し合う集会に出て、スパイ容疑をかけられた。

 強制労働25年の判決で、北極圏のボルクタや極東のハバロフスクなどの収容所で森林伐採や炭鉱開発に携わった。ソ連との国交回復により、終戦から11年後にようやく帰国できたという。

 「牛や馬と同じくただ働き。何をしても本当につらかった」と当時を振り返った三村さん。「一番苦しかった経験は」との質問に、「寒さ、重労働、空腹はもちろんだが、故郷に帰りたくとも帰れないことだ。今でも当時の夢を見る」と答えた。

 このほか、土浦市出身の前島キヨさん(92)が水戸空襲後の経験を語った。  

 

<つなぐ 戦後73年>「戦争、国が人生奪う」 故郷熊谷で空襲体験・森村誠一さん語る(2018年8月16日配信『東京新聞』―「埼玉版」)

 

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作家の森村誠一さん

 

 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時12歳。14日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く間に炎に包まれた。水のある場所を求め、近くを流れる星川へ家族で逃げると、川は既に人であふれており、郊外の荒川を目指した。

 「通りの真ん中を行け!」。父親の声に従い、炎と炎の壁の間を懸命に走った。振り返ると、後ろを逃げて来る人を焼夷弾が直撃するのが見えた。怖くてたまらなかった。ようやく荒川の土手にたどり着くと、父親が強い口調で言った。「よく見ておけ、おまえが生まれ育った街が燃えている」

 市内に戻ったのは翌日。星川には大勢の遺体が折り重なるように横たわっていた。顔はきれいで、水遊びしているようにも見えた。その中に、ひそかに思いを寄せていた近所の女学生の姿を見つけた。ショックだった。

 空襲で焼けた自宅裏のカボチャを、近所と分け合って空腹をしのいだ。シャベルで運ぼうとしたカボチャがぐしゃっと崩れたかと思うと、人間の頭部だった。「戦場に行かなくても、戦争は人をこんなふうにしてしまうんだ」。その光景を今も夢に見る。以来、カボチャが嫌いになった。

 戦時中、「大きくなったら何になりたい?」という問いへの答えは決まっていた。男の子は「兵隊さん」、女の子は「看護婦さん」。「作家になりたい」という夢を口にするのは許されない空気だった。「戦争に連れて行かれる前に、それぞれの人間の将来っていうものは国から殺されちゃってるわけです」

 玉音放送は焼け野原で聴いた。涙を流す人もいたが、「戦争が終わった」「軍隊がなくなる」と喜ぶ人たちの姿もあった。それは森村さん自身も、長く待ち望んでいた瞬間だった。「あの輝きは今でも覚えている。これで好きな本が読めるという喜びが心を満たした」と振り返る。

 作家活動の原点には、故郷での空襲体験と戦争への怒りがある。「平和っていうのは、自分の人生を選べること。誰かの命令ではなく、自分の思いで」。その重みをかみしめるように、森村さんは力を込めた。

<もりむら・せいいち> 1933年熊谷市生まれ。69年「高層の死角」で江戸川乱歩賞。映画化もされた「人間の証明」など「証明」3部作が大ヒット。旧日本軍の暗部を告発したノンフィクション「悪魔の飽食」は社会に衝撃を与えた。

<熊谷空襲> 終戦前夜の1945年8月14日午後11時半ごろから15日未明にかけて、熊谷市に対して行われた米軍による焼夷弾攻撃。中心市街地の約3分の2を焼失し、266人が犠牲になった。日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することを決定した後に実施された。秋田市や群馬県伊勢崎市などへの攻撃とともに「最後の空襲」と呼ばれている。

 

<つなぐ 戦後73年>私たちが継ぐ 神奈川の高校生、体験に耳傾け(2018年8月16日配信『東京新聞』)

 

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小坂治男さん(左)から話を聞く伊藤美月さん(中)と佐藤ハンナさん=神奈川県藤沢市で、15日

 

 「戦争体験者や被爆者の話を生で聞ける最後の世代。必ず伝えていく」。戦後73年目の15日は、平成最後の「終戦の日」となった。平成生まれの若者たちは、平和への思いを未来へ語り継ぐ方法に思い巡らせた。 

 神奈川県藤沢市のJR東海道線辻堂駅前。県内に住む女子高校生8人が、市民実行委員会主催の「ふじさわ・不戦の誓い 平和行動」に参加した。ふだんから核兵器廃絶に向けた署名活動に取り組んでおり、平和を目指す趣旨は同じと合流。署名や平和の大切さを呼び掛けた。

 「被爆者の方は高齢化が進んでいる」。捜真(そうしん)女学校(横浜市神奈川区)2年の佐藤ハンナさん(17)はマイクを握り、危機感を口にした。本紙の取材に「次の世代が戦争の悲惨さを十分に理解できる年代になる頃には、体験者はほとんどいなくなってしまう。私たちの世代が語り継がなければ誰も戦争を知らない国になる」と強調した。

 曽祖父は1944年、広島・呉港から空母でフィリピンに向かう途中、撃沈されて亡くなった。幼少期から社会科教諭の父に連れられ、被爆地の長崎を訪れるなどしてきた。だが3歳で父親を失った祖母の斎藤ケサ子さん(77)から体験を聞き出すことは、なかなかできなかった。

 国連などに核兵器廃絶を訴える高校生平和大使に県代表として選ばれた今年、初めてケサ子さんから曽祖父の話を聞いた。骨も届かず戦死を知らせる紙だけ届いたという。「積極的に尋ねなければ、話せない人もいる。まずは多くの体験者に話を聞きに行きたい」

 参加者の中には、昭和ひとけた世代の小坂治男さん(87)=藤沢市=の姿があった。自らは新潟県に疎開中、都内の家を空襲で焼かれた。むしろ力を入れてきたのは、大正生まれの元兵士らから体験を聞き取り、学校などを回って紹介する語り部の活動だ。大正から昭和、そして平成へ。世代間の橋渡し役になれたらと願う。

 小坂さんはこの日、同級生のことを佐藤さんたちに話して聞かせた。戦時中、生まれたばかりの弟の指に障害があるのを見た助産師が母親に「この子は銃の引き金を引けない。処置するか」と殺すかどうかの判断を迫ったという。小坂さんは「同じ子どもでも戦力として使える男児が女児より歓迎された」と当時の社会の空気を伝えた。

 佐藤さんと一緒に話を聞いた横浜平沼高(横浜市西区)2年の伊藤美月(みづき)さん(17)は「ショック。国のためになるかどうかで価値判断されたなんて」と言葉を失った。中学時代に平和学習で戦争の怖さを知った伊藤さん。「戦争の怖さ、残酷さを、若者らが自分からはなかなか知ろうと思わない。でも唯一の被爆国。体験者の方から聞き取ることはもちろんだが、記録に残し、伝えていく効果的な方法が何か考えていきたい」と誓った。

 

<つなぐ 戦後73年>終戦の日の県内  市川などで慰霊行事(2018年8月16日配信『東京新聞』―「千葉版」)

 

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「平和の鐘」を鳴らす高校生=市川市のJR市川駅コンコースで

 

 「終戦の日」の15日、県内各地でも戦没者慰霊行事が営まれた。「あの日」から73年。広島、長崎市への原子爆弾投下(6、9日)もあった。市川市では、広島で被爆した市川被爆者の会副会長の児玉三智子さん(80)=同市=の講演会が、市中央こども館で開かれた。「二度と戦争はしない」「核兵器の廃絶を」。人々の祈りが広がった。

◆市川駅で高校生が「平和の鐘」

 市川市では正午すぎ、JR市川駅コンコースなどで「平和の鐘」が打ち鳴らされた。地元の高校生ら参加者は、黙とうに続いて1人ずつ高さ23センチの鐘を鳴らし、両手を合わせた。

 参加した国府台女子学院高等部2年で、生徒会副会長とボランティア部部長を務める渡辺真帆さん(16)は「日本は世界で唯一の被爆国。戦争はいけない、核兵器もいけない−と私たちが伝えていかないと」と話した。

 日出学園高校2年の生徒会長、松木由佳里さん(17)も「私たちは戦争のことを知らないけど、知ろうとしないと、その悲劇は忘れ去られてしまう」と語った。

 「平和の鐘」は市川市ユネスコ協会が毎夏、催している。今夏は市川駅のほか、市内の4つの寺と2つの教会が正午前後、鐘楼の鐘などを打ち鳴らした。

 

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広島に投下された原爆の惨状を描いた絵を説明しながら、体験を語る児玉三智子さん=市川市中央こども館で

                   

◆広島で被爆児玉さん講演「核兵器なくさないと」

 ものすごい光が迫ってきた。私は当時、国民学校2年で7歳。教室にいました。光に続きすごい爆風がきて、教室の窓ガラスなどの破片が飛び散り、壁に突き刺さったんです。私はとっさに机の下に隠れたんですが、ガラスの破片が体に刺さりました。

 上空約600メートルでさく裂した原爆は、放射能と爆風、3000〜5000度の熱線で広島の街を襲い、火の海にしました。3・5キロ離れた自宅は爆風で屋根が吹き飛び、やがて放射能を含んだ「黒い雨」が降りました。

 私の家に逃げてきた親戚のお姉ちゃんは全身やけど。「痛いよ」と繰り返しながら、私の腕の中で亡くなりました。14歳でした。親戚のお兄ちゃんは10歳で、私と同じ軽傷に見えましたが、突然、耳と鼻から血を流し、「ウワー」と叫びながら口から血の塊を噴き出して倒れ、亡くなってしまいました。

 被爆者ということで差別を受けました。「被爆は(他人に)うつるから」と。結婚しようとしたら、相手方の人から「被爆者の血を家系に入れる訳にはいかない」と言われました。でも、その後に結婚でき、娘2人を授かりました。2人は順調に成長したんですが、8年前、次女にがんが見つかり、間もなく亡くなった。原爆の影響かどうかは分かりません。

 核保有国の指導者は「自国を守るため核抑止力が必要」と説明しますが、私は「核で国民の命は守れませんよ」と伝えています。もし使われたら、私のような被爆者が生まれる。「いつ病気が露見するか」とびくびくしながら暮らすことになるんです。こんな核兵器は、なくさないといけないんです。

 

持ち込まれた竹内浩三の詩 語り継ぐ戦争(2018年8月16日配信『朝日新聞』)

 

竹内浩三の詩碑。作品「骨のうたう」の一部を刻む=三重県伊勢市

 

松阪市戦没兵士の手紙集を編集 高岡庸治さん(91)

 

          朝熊山金剛証寺奥の院への入り口近くにある竹内浩三の詩碑。作品「のうたう」の一部を刻む=三重県伊勢市

 

 三重県松阪市長だった梅川文男さん(1906〜68)は戦前、農民運動で逮捕され、戦後は共産党県議を経て市長になった。人柄が広く支持され、自民党の田村元(はじめ)衆院議員(故人)も応援した。文化市長と言われ、1963年の市制30年事業で松阪の写真集、市内の被差別部落の実態調査、そしてこの「松阪市戦没兵士の手紙集」出版の3事業を打ち出した。

 戦没学徒の「きけわだつみのこえ」に続き、岩手の「戦没農民兵士の手紙」が出たばかり。当時社会教育課長だった私は、その担当になった。

 第2次大戦の市内の戦没者は4千人です。すでに戦後約20年。遺族も代替わりし、どれだけ集まるか分からない。市広報で呼び掛け、遺族会、婦人会、青年団、商工団体と様々な団体を通じて募った。

 225人の1520通が寄せられた。1人1通ずつ載せるため、高校教師ら市民10人の編集委員、事務局の私たち2人が全部読んだ。

 素朴で紋切り型の表現も多かった。検閲もあり、心情はそのまま書けなかっただろう。でも「今年、田の水は大丈夫ですか」というさりげない一言、新妻に宛てて「お前は冷え性だったね。夜は湯タンポを入れて」に込められた深い思い。涙なしには読めなかった。

 密林や中国の奥地から届いたであろう手紙は、粗末な紙に殴り書きされていた。戦地に顕微鏡を持ち込んだ熱心な医師、出撃前の少年特攻隊員、「或いは生きては帰れない」と母に書いた25歳、最期を見取った戦友の手紙……。

 回し読みなのに、なかなか次へ回せなかった。連日午前1、2時までかかった。

 市内の宮司の奥さんが「弟の詩です」といって持ち込んだのが、竹内浩三の遺稿集でした。同人誌の仲間が戦後、まとめたものだが、私たちは全く知らなかった。

 その中の詩「骨のうたう」には心底驚いた。

 「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ」に始まり、骨になって帰国した戦没者の目に映るよそよそしい故国、化粧に忙しい女の姿がうたわれている。あの時代に戦後の社会をこうまで見通して詩に書いた若者がいたのか。

 私も戦争中、東京・立川の陸軍飛行学校などで空襲や機銃掃射を経験した。兄3人が戦争で死んでいる。編集委員も多くが戦争体験者だ。その全員が心を揺さぶられた。

 竹内は今の三重県伊勢市出身で、松阪市内の戦没者ではないが、収録に異論は出なかった。巻頭に置いた。

 再び戦争を起こさない資料として、全国版で出そう。最初からそう決めていた。出版元は、旧満州の戦場を描いた「人間の条件」が大ベストセラーになっていた三一書房(東京)だ。

 手紙集のタイトルも、「骨のうたう」にしようとした。でも編集委員のひとりでもある遺族会会長が寺の住職で、「英霊を骨というのか」と異論を唱えた。土壇場、三一書房隣の喫茶店で考え、竹内の詩から「ふるさとの風や」に決めた。

 手紙集は新聞や週刊誌に取り上げられ、竹内が世に知られるきっかけにもなった。私はその後、市収入役、本居宣長記念館館長などを務めた。(編集委員・伊藤智章)

     ◇

 竹内浩三 1921年生まれ。40年、日大専門部映画科に入学、同人誌「伊勢文学」を創刊し、詩や短編小説を発表。42年に繰り上げ卒業して陸軍に入り、45年、フィリピンで戦死した。近年評価が高まる。詩は代表作「骨のうたう」のほか、「日本が見えない」など。

 

<つなぐ 戦後73年>陛下、等身大の願い次代へ 平成最後の終戦の日(2018年8月16日配信『東京新聞』)

 

 終戦から73年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇陛下4来年四月末に退位されるため、平成最後の追悼式になった。全国から集まった約5200人の戦没者遺族が参列、先の大戦で犠牲になった310万人を悼み、平和への誓いを新たにした。

 皇后さまと共に参列した陛下はお言葉で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べた。

 安倍晋三首相は式辞で、歴代首相が述べてきた「不戦の誓い」の言葉を直接は使わず、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と表現したものの、アジアへの「加害と反省」には6年連続で触れなかった。

 正午の時報に合わせ全員で1分間の黙とうをささげた。厚生労働省によると、全国戦没者追悼式に参列予定の戦没者の子や孫、ひ孫ら戦後生まれの人が占める割合は過去最高の28・5%、1554人。4年前と比べ人数は倍以上で、世代交代が進んでいる。

    ◇

 天皇陛下は15日、在位中最後の出席となった全国戦没者追悼式のお言葉で「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と、これまでになかった一文を加えられた。戦後日本の歩みを肯定的に評価する表現で、側近の一人は「陛下のあるがままのお考えだ」と話す。追悼式のお言葉には、時代に応じて表現を変えながら、平和と不戦を願い続けた陛下の思いがにじむ。 

◇変遷

 追悼式での陛下のお言葉は、即位後初めて出席した1989年から94年まで、戦後の平和と繁栄への感慨や戦没者への追悼で構成されていた。戦後50年の1995年に「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」との文言が加わり、以降はほぼ同じ内容が続いた。

 戦後70年の2015年は内容が大きく変わった。「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と平和希求の主体は国民であることに言及し、「さきの大戦に対する深い反省」という一文が盛り込まれた。翌16年以降、元の構成に戻るが「深い反省」は使われた。

 宮内庁関係者は今年の「戦後の長きにわたる…」について「平成は近代以降、戦争がなかった初めての時代だった。その締めくくりにふさわしいお言葉で、深い感慨を覚える」と語る。

 両陛下の相談役である宮内庁参与を06〜15年に務めた三谷太一郎東大名誉教授(日本政治外交史)は「深い反省の上に立った戦後73年間を肯定し、平和が将来も存続することへの願望がはっきり出ている。陛下のお考えの集大成とも言え、象徴天皇制と憲法の平和主義は深く結び付いている」と指摘した。

◇継承

 元側近は「陛下は戦争の記憶風化に強い危機感をお持ちだった」と述懐する。陛下は皇太子時代の記者会見で「日本人として記憶しなければならない四つの日」に終戦の日と沖縄戦終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆投下日を挙げた。これらの日は毎年、皇后さまと皇居・御所で黙とうする。

 両陛下の気持ちに応えるように、若い皇族も過去を学ぶ。皇太子ご夫妻は9日の長崎原爆の日、午後に英国短期留学から長女愛子さま(16)が帰国するのを待ち、3人で黙とうした。側近は「一緒に黙とうし、愛子さまに平和の大切さを教えたいとのご夫妻のお考えから」と話す。秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(11)は10日、紀子さまと一緒に広島市の平和記念公園を訪れ、原爆資料館を見学。被爆者の体験談にも聞き入った。

 陛下は来年4月末の退位後、戦没者追悼式への出席を含む全ての公務を新天皇となる皇太子さまへ譲り、両陛下の姿が国民の目に触れる機会は大幅に減る。宮内庁幹部は、今後の両陛下による戦没者慰霊について「お気持ちは変わるはずがない。節目の日は、これまで同様にお住まいで黙とうされるなど静かに過ごすのではないか」と話した。

◆天皇陛下のお言葉(全文)

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。

 

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陛下、等身大の願い次代へ 平成最後の終戦の日(2018年8月16日配信『東京新聞』)

  

 終戦から73年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇陛下が来年4月末に退位されるため、平成最後の追悼式になった。全国から集まった約5200人の戦没者遺族が参列、先の大戦で犠牲になった310万人を悼み、平和への誓いを新たにした。

 皇后さまと共に参列した陛下はお言葉で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べた。

 安倍晋三首相は式辞で、歴代首相が述べてきた「不戦の誓い」の言葉を直接は使わず、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と表現したものの、アジアへの「加害と反省」には6年連続で触れなかった。

 正午の時報に合わせ全員で1分間の黙とうをささげた。厚生労働省によると、全国戦没者追悼式に参列予定の戦没者の子や孫、ひ孫ら戦後生まれの人が占める割合は過去最高の28・5%、1554人。4年前と比べ人数は倍以上で、世代交代が進んでいる。

   ◇

 天皇陛下は15日、在位中最後の出席となった全国戦没者追悼式のお言葉で「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と、これまでになかった一文を加えられた。戦後日本の歩みを肯定的に評価する表現で、側近の一人は「陛下のあるがままのお考えだ」と話す。追悼式のお言葉には、時代に応じて表現を変えながら、平和と不戦を願い続けた陛下の思いがにじむ。

 追悼式での陛下のお言葉は、即位後初めて出席した1989年から94年まで、戦後の平和と繁栄への感慨や戦没者への追悼で構成されていた。戦後50年の1995年に「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」との文言が加わり、以降はほぼ同じ内容が続いた。

 戦後70年の2015年は内容が大きく変わった。「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と平和希求の主体は国民であることに言及し、「さきの大戦に対する深い反省」という一文が盛り込まれた。翌16年以降、元の構成に戻るが「深い反省」は使われた。

 宮内庁関係者は今年の「戦後の長きにわたる…」について「平成は近代以降、戦争がなかった初めての時代だった。その締めくくりにふさわしいお言葉で、深い感慨を覚える」と語る。

 両陛下の相談役である宮内庁参与を06〜15年に務めた三谷太一郎東大名誉教授(日本政治外交史)は「深い反省の上に立った戦後73年間を肯定し、平和が将来も存続することへの願望がはっきり出ている。陛下のお考えの集大成とも言え、象徴天皇制と憲法の平和主義は深く結び付いている」と指摘した。

 元側近は「陛下は戦争の記憶風化に強い危機感をお持ちだった」と述懐する。陛下は皇太子時代の記者会見で「日本人として記憶しなければならない四つの日」に終戦の日と沖縄戦終結の日(6月23日)、広島、長崎の原爆投下日を挙げた。これらの日は毎年、皇后さまと皇居・御所で黙とうする。

 両陛下の気持ちに応えるように、若い皇族も過去を学ぶ。皇太子ご夫妻は9日の長崎原爆の日、午後に英国短期留学から長女愛子さま(16)が帰国するのを待ち、3人で黙とうした。側近は「一緒に黙とうし、愛子さまに平和の大切さを教えたいとのご夫妻のお考えから」と話す。秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(11)は10日、紀子さまと一緒に広島市の平和記念公園を訪れ、原爆資料館を見学。被爆者の体験談にも聞き入った。

 陛下は来年4月末の退位後、戦没者追悼式への出席を含む全ての公務を新天皇となる皇太子さまへ譲り、両陛下の姿が国民の目に触れる機会は大幅に減る。宮内庁幹部は、今後の両陛下による戦没者慰霊について「お気持ちは変わるはずがない。節目の日は、これまで同様にお住まいで黙とうされるなど静かに過ごすのではないか」と話した。

 

<つなぐ 戦後73年>「戦争の記憶を次世代に継承」 横浜、県戦没者追悼式に150人(2018年8月16日配信『東京新聞』−「神奈川版」)

 

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戦没者を悼み献花する参列者=横浜市港南区で

 

 終戦の日の15日、太平洋戦争の県内の犠牲者を追悼する式典が横浜市港南区の県戦没者慰霊堂であった。県遺族会が主催し、各市町村の遺族会代表ら約150人が参列。正午の時報に合わせて黙とうし、犠牲者を悼むとともに平和への誓いを新たにした。

 県遺族会の田辺冨士雄会長(77)=三浦市=は「戦争で命を落とした方々の無念を思うと胸に迫るものがある。戦争の体験と記憶の風化が危惧される今、次の世代に記憶を継承し、恒久平和の実現に向けて努力することが遺族会の使命」とあいさつ。黒岩祐治知事は「尊い犠牲の上に今がある。戦争の悲惨さと平和の尊さを未来へ継承していく」と述べた。

 田辺会長の父は戦争末期にフィリピン・ルソン島に陸軍伍長として赴き、1945年3月に戦死した。式典後、田辺会長は「出征前、私に『しっかりやっとけよ』と言ったのが、父から聞いた最後の言葉だった」と涙ながらに振り返った。

 慰霊堂には、県内の軍人と軍属ら5万8506人の名簿が納められている。遺族会の人数は、犠牲者の子と配偶者ら1万1117人で、10年で1万人ほど減少した。田辺会長は「犠牲者の孫、ひ孫で構成する青年部を年度内につくり、次の世代につなげたい」と話した。 

 

<つなぐ 戦後73年>北茨城市で戦没者追悼式  遺族ら200人祈る(2018年8月16日配信『東京新聞』−「茨城版」)

 

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黙とうをささげる参列者たち=北茨城市の市民ふれあいセンターで

 

 北茨城市は、戦没者追悼式を磯原町本町の市民ふれあいセンターで開いた。遺族ら約200人が参列し、市内の戦没者1162人の冥福を祈り、平和への思いを新たにした。

 全国戦没者追悼式の様子が会場に映し出される中、正午から一分間の黙とうをささげた参列者たち。父親を太平洋戦争の激戦地ニューギニア島で亡くしたという市連合遺族会長の滝一司さん(79)が「戦争の悲惨さが風化しつつあり、遺族の高齢化が進んでいる。小中学生らに理解してもらい、語り継ぐ後継者を育てることに努める」と追悼の言葉を述べた。

 小中学生による作文の朗読もあった。磯原中3年の作山景翔(けいと)さんは「今もどこかで戦争が起きており、どうしたら平和になるかを考えていきたい。希望に満ちた未来をつくっていく」と誓えば、広島市を訪れたことのある大津小6年の岩渕衣里さんは「原爆ドームを見て衝撃を受けた。同じ過ちを繰り返さないためにも悲惨さを忘れない」と話した。 

 

平和、平成後も守る 終戦の日、千鳥ケ淵で(2018年8月15日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花し手を合わせる人たち=15日午前8時59分、東京都千代田区で

 

 終戦から73年となった15日。平成最後の慰霊の日は、強い夏の日差しに照らされた。36万柱の遺骨が眠る千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)には多くの遺族が訪れた。「次の時代も平和を誓い続ける」。戦争の記憶が遠くなる中、平和への思いをつなごうと決意を新たにしていた。

 「みんな元気でやっていますよ」。ジリジリと強い日差しが照り付ける中、埼玉県狭山市の久光宣子(のぶこ)さん(75)は今年も、亡き父に報告した。

 久光さんが生まれてすぐ出征した父は終戦の5カ月前、フィリピン・ルソン島で亡くなった。写真でしか知らない父のことは、両親や近所の人から聞かされたが、その人たちもほとんど亡くなった。福島県浪江町の実家にあった父の遺品も、7年前の東日本大震災の津波ですべて流された。

 「だんだん戦争の記憶が薄れていくようで悲しい」とぽつり。「平成は名前の通り穏やかな時代だった。新しい時代になっても、この平和が一日でも長く続いてほしい」と語る。

 慰霊は今年で3回目という相模原市中央区の高校1年、吉田武人(たけと)さん(16)は「平和への思いを自分の中にとどめておきたい」と知人2人と訪れた。

 3年前、安全保障関連法案を巡る国会デモに参加したのをきっかけに、戦争や平和に関心を持つようになり、同世代の若者たちと勉強会を開いている。

 吉田さんは祖母から、曽祖父が南方戦線に出征し、病気で亡くなったと聞かされた。「戦争の記憶を僕たちが引き継いでいかないと」。次の勉強会では、戦争体験者から話を聞こうと企画している。

 東京都西東京市の井口雅好さん(79)は六歳の時に空襲を体験。「男手がないから、おばあちゃんやお母さんが、爆撃で埋まった負傷者をがれきから掘り起こしていた」と振り返る。

 海軍の特攻隊だった叔父の豊明さん(93)からは終戦後に「もう一日終戦が遅れていたら出撃だった」と聞かされた。「戦没者への負い目があるのか、今も戦争について語ってくれない」という。その代わり、自身の体験談を高校生と中学生の孫にしている。平成最後の終戦の日に「若い人には少しでも昔の歴史をひもといて、何があったかを知ってほしい」と願った。

 おじたちが従軍医として戦地に赴いたという横浜市の会社員荒川啓子さん(51)は「ここに来ると、先祖の方々の多くの犠牲の上に、今の平和があることを実感する」と涙目で語った。

 東京都世田谷区の三田イクさん(81)は空襲の時、防空壕(ごう)から見た、真っ赤な空を忘れられない。親類がフィリピンで戦死し、仲の良かった同級生もちょうど終戦の日に病死した。「戦争は、勝っても負けてもつらいことしかない」と痛切に感じている。

 

<つなぐ 戦後73年>川崎大空襲語り継ぐ 橋本稔さん(2018年8月15日配信『東京新聞』)

 

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焼夷弾の模型化など、分かりやすく伝える工夫を語る橋本さん=中原区で

 

 身近に起きた戦災の記憶を次世代につなぐことが、平和の「種まき」になる−。川崎大空襲のすさまじさを語り継ぐ川崎市中原区の橋本稔さん(74)はそう信じ、仲間とともに、分かりやすく伝える努力を重ねてきた。秋の臨時国会への改憲案提出が取り沙汰される中、「私自身も学びながら、若い人たちに戦争の実相を伝えたい。それが今こそ重要」と語る。 

 橋本さんが参加する「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」が今月6日、市平和館で開いた学習会。「いっしょに調べ・考える」をテーマに、小中学生の男女7人が参加した。

 1945年4月の川崎大空襲では約1万3000発の焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地は火の海に。地域の古老から集めた証言などを基に、命や暮らしに大きな被害をもたらした戦争の事実を子どもたちに説明した。

 橋本さんが昨年手作りした焼夷弾の模型(直径約50センチ、全長約1・5メートル)も展示。38本の子弾が上空で分離し、一斉に降り注ぐ「E46集束焼夷弾」の仕組みが分かるように模型にしたのは、いかに被害を拡大させるかが目的だった戦争の実相を明らかにする工夫の一つだ。

 「見たこともないものだから、子どもたちは関心を示してくれた。分かってもらえたかな」

 ほかのメンバーも紙芝居や朗読、落語などの形で、戦災を語り継ごうと努力している。橋本さんは「今ある平和や民主主義、自由の土台には何があったのか。若い世代の自覚が大切だし、そのために私たちも手をこまぬいていられない」と決意している。

 

戦場はむごたらしい 建築家・元海軍士官 池田武邦さん(94)(2018年8月15日配信『東京新聞』)

 

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 太平洋戦争でマリアナ沖、レイテ沖、沖縄海上特攻という3つの海戦を生き延び、戦後は建築家として霞が関ビルの設計に携わった元海軍士官の池田武邦さん(94)=東京都東久留米市。終戦記念日に合わせて本紙の取材に応じ、「戦場はむごたらしかった。『壮烈なる戦死』なんて華々しさはなかった」と戦場の凄惨(せいさん)な現実を明かした。

 フィリピンのレイテ沖海戦では航海士として乗った軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」が米軍に猛襲され、艦橋が血の海に。「船が揺れるたび床にたまった血が右へ左へと流れる。その生臭さと硝煙のにおいが入り混じる。もげた腕や足はバケツの中に入れられ、死体はすぐ腐敗し、惨憺(さんたん)たるものだった」

 沖縄を目指した艦隊特攻で矢矧は戦艦大和とともに撃沈された。顔に大やけどをし、黒い重油の覆う海で漂ううち、不意に「畳の上で横になりたい」と実家が恋しくなった。一家だんらんする茶の間の風景が脳裏に浮かんだと振り返った。

 戦前戦中は言論や情報が統制された。「玉砕するのが当然と思い、降伏なんて発想はなかった。考えが偏っていた」。戦後、日本の敗戦理由を検証し、自ら設立した日本設計では、建設に関する情報を集めるシステムをつくり、対等に意見を言い合えるようにした。

 自衛隊を明記する九条改憲の動きや、集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法の成立については「命がかかっている問題だから国民の納得できるプロセスが必要。ごまかして進めるのは一番よくない」と考える。そして「あの戦争の歴史が教育の場でしっかり教えられず、犠牲が生かされてない」と訴えた。

<いけだ・たけくに> 1924年、静岡県生まれ。海軍兵学校卒業後、巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗り組み、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻に出撃し、生還。49年、東大建築学科卒業。67年に日本設計事務所(現・日本設計)設立。霞が関ビル、新宿三井ビルなどの超高層ビルのほか、ハウステンボスなど環境共生型テーマパークの設計に携わった。 

 

戦後73年 消えぬ記憶 句に込め(2018年8月15日配信『東京新聞』)

 

 終戦記念日に復活した「平和の俳句」には、73年前の戦争を生き抜いた人々からも、多くの句が寄せられている。平和への祈りを込め、17文字に忘れられない光景がつづられた。

 

◆神奈川県厚木市・高橋和男さん(81) 涙の告白「殺すつまった」

 

叔父帰国「人殺した」としゃくりあげ

 

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叔父の戦争体験などを話す高橋和男さん=神奈川県厚木市で

 

 「こう正座して。手を膝の上に置いて」−。鉛筆でラフな絵を描きながら、神奈川県厚木市の元会社員高橋和男さん(81)は記憶をたどった。終戦の翌一九四六年夏ごろ。当時、一家が住んでいた福島県に中国北部から戻ってきた叔父の薫(かおる)さんが、ポロポロ涙を流しながら言った。

 「俺、殺すつまった」「俺、人殺すだ」

 当時九歳だった高橋さんは「目の前で血を見たんだな」と直感したという。「遠くの人を撃ったり、自分の命も危ない場合の言い方と思えない。(薫さんは)まだ二十代前半。おとなしい性格だった。上からの命令で、相手は捕虜か民間人だったのか。そのへんは分からない」

 長男だった高橋さんの父は召集はされたが、前線には出ずに終戦を迎えた。父の弟のうち海軍の駆逐艦に乗った次男はソロモン海戦で亡くなった。四男は海軍の特攻兵器・特殊潜航艇の乗組員だったが終戦で出撃せずに済んだ。「前線から帰国したのは三男の薫叔父ただ一人。父たちとまとう雰囲気が違っていたことを覚えています」

 周囲の親戚は口々に「戦争だもの」「しょあんめーしさ(しかたないさ)」と叔父を慰めていた。

 普通の大人たちが、人を殺すことを「仕方がない」と言うようになるのが、幼心に刻まれた戦争の姿だ。日本人も、米国人も変わらない。「戦争になると人は常人でなくなる」。叔父の苦しみを思い、平和への願いを句に込めた。 

 

◆東京都小平市・内海琢己さん(93) ためらい抱え日没後の帰還

生きて来し想ひ噛(か)み締め学徒兵

 

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壮行の辞が寄せ書きされた日章旗を手に、俳句に込めた思いを話す内海琢己さん=東京都小平市で

 

 1945年7月、陸軍の「特甲幹」(特別甲種幹部候補生)と呼ばれる学徒兵だった内海琢己さん(93)=東京都小平市=たちは突然、熊本に集められた。課されたのは、米軍の本土上陸を想定し、爆薬とともに戦車の底腹部に飛び込む猛特訓だった。

 広島師範学校在学中の同3月に召集を受けた。19歳だった。激励会で贈られた日の丸の寄せ書きに、父は「皇国 男子の誉」とつづった。「死ぬのは怖くなかった」という。

 前線に出ることはなく岡山県の予備士官学校で終戦を迎え、郷里の広島県・尾道へ。生きて帰ったことを一刻も早く両親に知らせたい思いはあったが、人目を避けるように山に登り、薄暗くなってからわが家に帰った。

 「何か晴れがましいような形で帰っていくわけにはいかなかった」。多くの兵士が戦死した。句に投じたのは、同じ運命にいたはずの自分が今こうして生きていることへの思い。日暮れを待った当時のためらいもよみがえってくる。

 「今も、学徒兵時代の夢を見るんです」

 戦後に師範学校を卒業し52年間、高校や大学などの教育現場を歩んだ。 

「教え子たちを戦場に送ってはならない」と心に期してきたという。「自分はどうすべきかを考えていくのが大事なんだと思う」と結んだ。

 

平成最後の「8.15」に聞く 忘れぬため、何をすべきか (2018年8月15日配信『日経新聞』)

半藤一利氏、佐藤卓己氏、鈴木洋仁氏、羽毛田信吾氏

 

フォームの終わり

 日本人にとって8月15日は第2次世界大戦で失われた多くの犠牲者を悼み、平和を願う日であり続けた。戦後生まれが人口の大半を占め、戦争の記憶が失われていく時代。「8.15」の意味を空虚なものにしないために何が求められるのだろうか。平成最後の終戦記念日にあたり、4人の有識者に聞いた。

 

■追悼式 にじむ陛下の思い  作家 半藤一利氏

半藤一利氏

 

――天皇陛下が全国戦没者追悼式に出席されるのは、今年が在位中最後です。

 戦争を体験した人間からすると、同世代の天皇陛下が退位されることで、もう我々の時代は本当に終わるのかなという若干の感慨はある。

 即位されたばかりの頃は、天皇陛下を「頼りない」などと言う人もいたが、陛下は皇后さまとともに30年かけて、象徴天皇とはこういうものだという形を自分でつくってこられた。

 陛下は即位後の儀式で「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と述べられている。当時、「皆さん」という言葉に、象徴天皇として国民と共にいかに国をつくっていくかという決意を感じた。戦地や被災地などへの訪問を絶え間なく続けられ、その「責務」は十全に果たされたと思う。陛下の思いが最も表れているのが、8月15日の全国戦没者追悼式ではないだろうか。

 ――追悼式でのお言葉から陛下のどのような思いを感じますか。

 1992年のお言葉では、それまでの「深い悲しみ」という言葉が「つきることのない悲しみ」と言い換えられ、94年には「尊い命」が「かけがえのない命」と変化した。2001年には「感慨は今なお尽きることがありません」というように、「今なお」という言葉が付け加えられている。

 表現が強まったのは、戦争について知れば知るほど、その結果に対する思いが深まったということだろう。陛下は自ら歴史を学び、国内外の激戦地に足を運ばれてきた。戦争の悲惨さや無残さ、非人間性に対する反省がおありなのだと思う。

 ――戦争との向き合い方は、昭和天皇とも違いますか。

 昭和天皇は在位60年記念式典の写真をよく見ると、涙を流されている。戦後40年もたった頃だ。これを見たとき戦争責任をずっと一人で感じてこられたんだなと痛感した。

 昭和天皇は75年の訪米時に「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」とスピーチし、帰国後の記者会見でその発言に関連して戦争責任を感じているか質問された。

 「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていない」との回答は批判されたが、その場の即興で答えられるテーマではなく、ああいう言葉でしか言えないつらさがあった。

 昭和天皇はついに象徴天皇になりきれなかったと思う。天皇陛下はそうした昭和天皇の背中を見て、ずいぶん学ばれたのではないか。皇位を受け継ぐことで、天皇の名の下で国を滅ぼすようなことをしたという責任も同時に背負うことになった。その責任の重さは、昭和天皇以上に強く感じてこられたかもしれない。

 ――代替わりは時代の節目となりますか。

 昭和から平成になった1989年は天安門事件やベルリンの壁崩壊などがあり、世界的には時代の節目だったが、日本はバブルの真っ最中。バブルが崩壊し、阪神大震災やオウム真理教の事件が起きて社会が変わっていくのは、その数年後だ。

 来年の代替わりが直接、時代の空気を変えるとは思わないが、時代は絶えず変化していく。戦没者追悼式を8月15日にやる意味を知らない人も増えている。その時に、象徴としていかにあるべきか。次の天皇陛下もまた、相当なご努力が必要になるかもしれない。

 

はんどう・かずとし 東京大文学部を卒業後、文芸春秋入社。「週刊文春」や「文芸春秋」の編集長、同社専務などを経て、作家に。「歴史探偵」を自称し、著書に「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」など。東京都出身。88歳。

 

■終戦の日とは 問い直す  京都大教授 佐藤卓己氏

佐藤卓己氏

 

 ――著書で「終戦」は8月15日ではないと指摘しています。

 8月15日は昭和天皇が「玉音放送」で国民に終戦を伝えた日だが、戦闘行為はまだ続いていた。公式には日本政府が降伏文書に署名した9月2日に終戦したと考えるべきで、多くの国がこの日を終戦の日としている。

 ――日本ではなぜ8月15日が定着したのですか。

 8月15日に戦没者を追悼する行事は、必ずしも戦後に始まったものではない。1939年ごろから、お盆に祖霊を供養する仏教行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と、戦没者を弔う「英霊祭祀(さいし)」とが結びついた「戦没英霊盂蘭盆会法要」が各地の寺で行われ、ラジオでも全国中継されていた。

 戦没者を弔う日として、月遅れ盆の8月15日と玉音放送を抱き合わせる発想は、国民感情として一定の合理性があった。ただ、玉音放送を全国民が一斉に聞けたというイメージは、戦後の報道によって作られたものだ。

 ――昭和天皇は8月15日とどう向き合ってきたのでしょうか。

 日本政府が降伏文書に調印した翌日の1945年9月3日、昭和天皇は皇居・宮中三殿で戦争終結を歴代天皇に報告する儀式を行っている。昭和天皇が8月15日を終戦の日と考えていなかったことは明らかだろう。

 一方で、玉音放送はラジオを通じてであれ、国民と直接コミュニケーションをしたという意味で、戦後の象徴天皇のイメージにふさわしいものだった。その8月15日に国民を代表して戦没者を慰霊することは、象徴天皇の役割として重要だと考えていたのではないか。

 ――天皇陛下は自ら戦地への「慰霊の旅」を重ね、戦争犠牲者に心を寄せられてきました。

 陛下は昭和天皇から国民統合の象徴としての立場を引き継ぎつつ、その意味をより深められた。「忘れてはならない4つの日」として、終戦記念日のほか、沖縄慰霊の日や、広島と長崎に原爆が投下された日も大切にされてきた。いずれも多くの国民の心情に沿うもので、民意と共にあろうとする強い意思を感じる。

 ――来年、戦後生まれの皇太子さまが新天皇に即位されます。

 新天皇も8月15日を重要な日と位置づけ、国民とともに戦争を想起するシンボリックな日であり続けるだろう。天皇自身に戦争経験があるかどうかは関係なく、代替わりによって8月15日の意味合いが変わることはないと思う。

 ただ、全国戦没者追悼式では天皇陛下のお言葉の前に首相が式辞を述べるなど、政治的なセレモニーとなっている面もある。代替わりを機に、8月15日は純粋な祈りの場とすべきで、政治が関与するのは本来の終戦の日である9月2日に行う方が国際的にも望ましいのではないか。

 また、新天皇の在位中には戦争体験者が激減し、「先の戦争」という言葉が太平洋戦争だけを指さなくなる。8月15日が、日清・日露戦争や第1次世界大戦など、過去の多くの戦争犠牲者を対象とする追悼の日に変わっていく可能性はある。

 8月15日は知っていても、戦争がいつ始まったか問われて、12月8日と即答できる日本人がどれだけいるだろうか。8月15日の意味を問い直すことは日本人が戦後、どのように戦争と向き合ってきたかを考える契機になる。

さとう・たくみ 京都大大学院修了後、東京大新聞研究所助手、国際日本文化研究センター助教授などを経て現職。専門はメディア史、社会教育学。著書に「八月十五日の神話―終戦記念日のメディア学」など。広島県出身。57歳。

 

■時代移っても「戦後」は続く  事業構想大学院大准教授 鈴木洋仁氏

鈴木洋仁氏

 

 ――「8月15日」は日本人にとってどんな意味を持ってきたのでしょうか。

 1945年8月15日は「戦後元年」の初日。日本人は敗戦ほど強烈な経験を持っていない。多くの人々が亡くなり、憲法をはじめとする国の体制が激変した。この経験を超える出来事は戦後70年以上たっても起きていない。

 昭和20年に始まった「戦後」という時代は平成という時代を貫通し、さらにポスト平成時代も続くことになるだろう。強いて言えば日本が次の戦争を経験しないかぎりは「戦後」が続くわけで、日本人の歴史にとっては昭和や平成といった元号より分かりやすい時代区分といえるかもしれない。

 ――年月の経過とともに終戦記念日に対する人々の意識はどのように変化しましたか。

 かつては祖父母が孫に自身の戦争体験を伝え、記憶を継承してきたが、今や70歳を超えた祖父母世代も戦後生まれという時代。戦後50年ぐらいまでは「8月15日」の認識に世代間のギャップがみられた。戦争の直接の記憶が失われた結果、今日では世代間の意識の差はなくなってきた。

 終戦を記憶している80代、90代の人でさえ、玉音放送の記憶より、テレビ番組や新聞記事などを通じて間接的に体験する敗戦の記憶の方が、色濃く意識にすり込まれているのではないだろうか。

 戦後、日本人は戦争を絶対悪と捉え、反戦という点では価値観を共有してきた。毎年8月になると、映画やドラマはこの日を時代の切れ目として描き、反戦・平和のメッセージ一色となる。そこには異論を差し挟む余地はなく、戦後が始まった特別な日に対する意識はほぼ全世代で均質化してきたともいえる。

 ――直接の戦争の記憶が失われ、均質化が進むとどうなりますか。

 人々は8月15日が巡ってくるたびに戦後から始まった反戦の誓いを忘れてはならないと確認する。その一方で、現実感を持って戦争の犠牲者を悼む気持ちはどうしても薄れていく。

 かつてのようにお盆を田舎で迎え、年長者から戦争の話を聞くといった過ごし方ができなくなってきたことも、リアリティーの喪失に拍車を掛けている。8月15日は時代に沿った新たな意味が見いだされることもなく形骸化した単なる記念日として定着することになってしまうかもしれない。

 ――30年続いた平成の終戦記念日は今年で最後です。

 右肩上がりで戦後復興を成し遂げた昭和期、8月15日は弔いの日であると同時に明るい未来をイメージして時代を語る起点でもあった。

 経済が成熟し、長く景気低迷が続いた平成期に入ると、そうした意味合いで終戦の日を語ることは難しくなった。また、社会は将来への展望が開けているからこそ、過去の反省を生かそうとする。その展望が見えにくい今日、プラス面でもマイナス面でも過去を語ることの意味を見いだしにくくなっている。

 昭和との間に平成を挟む次の時代はこの傾向がさらに強まり、8月15日の形骸化がさらに進行するだろう。皇太子さまは、陛下と同じ姿勢で戦没者追悼に臨むことを国民から求められるはずだ。

 新たな象徴として国民との関係を築きながら、薄れていく戦争の記憶と向き合い、終戦の日に意味を持たせ続けるという課題に直面されることになる。

 すずき・ひろひと 2017年、東京大大学院学際情報学府博士課程修了。04年に京都大総合人間学部卒。東京大総合教育研究センター特任助教などを経て現職。専門は歴史社会学。著書に「『元号』と戦後日本」など。東京都出身。38歳。

 

■歴史に学び風化させぬ努力  元宮内庁長官 羽毛田信吾氏

羽毛田信吾氏

 

 ――天皇陛下は8月15日、戦没者への祈りを欠かしたことがありません。

 お仕えしていて、時を経て戦争の記憶が風化することへの陛下のご心配には、ひとかたならぬものを感じていた。それは様々な行事で述べられるお言葉にも表れている。また、国内外への慰霊の旅でも慰霊と同時に戦争の悲惨さを忘れてはならない、平和の尊さを忘れてはならない、という気持ちを自らの行動で示されてきた。

 毎年欠かさず全国戦没者追悼式に出席してきた8月15日には格別な思いをお持ちだ。その根源は使命感や信念だけでなく、人類愛というか、国民の幸せに思いを寄せられるところにあると思う。私は、それが陛下の心の底から自然に湧き出してきているものだと理解している。

 ――何がその姿勢を支えるのでしょうか。

 陛下は敗戦という衝撃を少年期に経験された。だが、単に平和の尊さや戦争の悲惨さを体験として持たれているというだけではないはずだ。先の戦争の歴史について深く考え、象徴天皇として何をなすべきかを長年模索しながら、向き合ってこられたのだと思う。

 戦後60年を迎えた2005年、激戦地となったサイパンを訪問された両陛下にお供したことがある。海外訪問先について、陛下は通常、我々側近にも希望を明らかにされない。しかし、サイパンについては訪れたいという意思を強く示されていた。海に向かって拝礼される陛下の後ろ姿を拝見して感じたのは、亡くなった人々への追悼の思いと同時に、不戦の誓いと平和への願いだった。

 また戦後70年の節目を迎えた15年の新年に当たってのご感想の中で「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」とつづられた。この年は慰霊のためにパラオを訪問されている。陛下は自らの行動を通じて、歴史と向き合い、戦争の悲劇を二度と繰り返してはならない、戦争の記憶を風化させてはいけない、とのお気持ちを真摯に示し続けられてきたと思う。

 ――羽毛田さんは昭和館(東京・千代田)館長として戦時の記憶を次世代に継承する事業に取り組んでいます。

 若い人に伝え続けるには努力と工夫が欠かせない。当館では、実感を持って伝わるように映像資料を駆使するなどして展示方法を工夫したり、戦争経験者のオーラルヒストリーを保存したりする活動に力を入れてきた。

 ――戦争を繰り返さず、平和を享受できた平成を歴史的にどう位置づけますか。

 今年は明治維新から150年の節目の年とされている。先の大戦期間の4年を挟み、維新から1941年の開戦までの73年と戦後73年という折り返しの時期でもある。

 陛下は「歴史に学ぶことが大事だ」という趣旨のことを折に触れて述べてこられた。国民の大半が戦後生まれという時代でも、歴史に学び、平和の尊さが忘れられてはならない、というのが陛下の考え方だ。歴史を持つ我々だからこそ、経験していないことでも歴史から学び取ることができるはずだ。

 「平成」は明治、大正、昭和と続いた近代以降の歴史のなかで、唯一戦争のなかった時期だ。だからこそ、この平成最後の夏は過去の歴史を振り返り平和の大切さを考える時期であってほしいと願う。

 はけた・しんご 1965年、京都大法卒、旧厚生省へ。99年、事務次官。2001年に宮内庁次長として入庁後、05〜12年まで長官。退官後は宮内庁参与を務めるとともに、昭和館館長。山口県出身。

 

陸軍文書、焼かれたはずが 天皇印や「原子爆弾」の記載(2018年8月15日配信『朝日新聞』)

 

 

 

戦中に陸軍省、参謀本部などがあった東京都新宿区の現・防衛省敷地内の地中から1996年に焼け残った状態で発見され、修復された「御裁可書」。陸軍大臣東条英機の名前の上には「可」の天皇の印がある=防衛省防衛研究所所蔵「市ケ谷台史料」

 

 黒い灰が空に舞っている。……東京でも各所で盛んに紙を焼いていて、空が黒い灰だらけだという。作家高見順が、1945年8月16日付の「敗戦日記」にそう記している。45年8月15日の終戦前後、植民地も含めた日本の各地で、大量の公文書が燃やされた。東京・市ケ谷台(現防衛省)にあった陸軍省や参謀本部は、その象徴的場所だ。その地中から戦後50年以上を経て、焼却されたはずの文書が、焦げ痕がついた状態で発見された。

 その一つ。焼け残った部分からは「昭和19年3月」「陸軍大臣東条英機」の文字と、天皇の「可」の印がみえる。最高責任者である天皇の決裁をあおいだ「御裁可書」だ。45年8月の「特別緊急電報」では「廣島」「調査団ヨリ」「原子爆弾ノ爆発中心ニ於ケル放射能」の文字がよみとれる。

 防衛省防衛研究所などによると、これらの文書は、96年4月末、自衛隊市ケ谷駐屯地で東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷跡の発掘調査中、簡易防空壕(ごう)と推定される壕の地下約2メートルから発見した。大半は焼損し、半世紀にわたって湿気を帯びた状態だったため、劣化は著しく、ページを開くこともできない状態だったという。

 当時研究所にいた軍事史家の原剛さん(80)は史料の仕分けを担当した。「腐った臭いがした」と振り返り、「灰になるまで見届けずに砂をかけてしまったのだろう」と終戦時の慌てふためく様子を想像したという。

 原さんらは専門家の意見を聞き、腐食を防ぐためにマイナス20度以下の保管場所をさがして一時収容。史料価値の高いものなどを選び、修復作業を進めた。

 「市ケ谷台史料」と名付けられた史料群は、主に陸軍参謀本部第三課が保管していた文書で、編成・動員などに関する御裁可書、編制表、電報綴などで、現在は101番まで番号が付けられて公開されている。

 原さんは「敗戦時の焼却処分で、陸海軍の歴史研究に必要な基本的史料が欠落し、歴史の空白やなぞが解明されない部分がある。市ケ谷台史料は、陸軍の戦争指導、作戦指揮について、関係者の証言を裏付けるもの」とその意義を語る。また、「機密文書が大量に焼かれてしまった一方、隠匿されて残れされた重要な公文書もあり、歴史の大切さを私たちに教えてくれる」と話している。

 

台湾:劣る補償、消えぬ不満 元日本軍属ら訴え(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

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日本軍の軍属として従軍した頃を回想する趙中秋さん。取材中、「僕の話を聞いてください」と何度も訴えた=台湾南部・高雄市で2018年7月8日、福岡静哉撮影


◇流ちょうな日本語で「日本人としてお国のために…」
 15日で終戦から73年。台湾人の元日本兵・軍属の大多数は90代となり、生存者はわずかだ。戦争中は「日本人」として20万人以上が従軍し、3万人以上が戦死した。だが戦後、台湾が日本領でなくなったため、日本人に比べ十分な補償を受けられないままだ。元日本兵・軍属への補償を訴える活動を長年続け、自身はミャンマーなどで軍属として従軍した趙中秋(ちょう・ちゅうしゅう)さん(90)=南部・高雄市=らは、今も日本政府の対応に不満を抱く。【高雄(台湾南部で)福岡静哉】
 戦後、台湾では蒋介石率いる国民党の独裁統治が始まった。台湾籍の元軍人・軍属は日本人ではなくなったため、日本人の元軍人を対象とする恩給や、戦争によって死亡したり傷病を患ったりした元軍属を対象とする補償が受けられなかった。
 台湾籍元日本兵や遺族らの要望を受け、日本政府は1988年度以降、元日本兵・軍属の戦死者・戦病死者らに対し、1人当たり200万円の弔慰金を払った。日本人の受給額とは大きな差があり、元日本兵らは1人500万円の補償を求めて日本で提訴。だが92年に最高裁で敗訴が確定した。
 「台湾人は(日本のために)尽くさなかったというのですか?」。趙さんは流ちょうな日本語で、多くの台湾籍元日本兵の気持ちを代弁するように語気を強めた。「日本人は私たちを忘れないでほしい」
 趙さんは「日本人としてお国のため、天皇陛下のため」と15歳で志願した。ミャンマーやタイで主に建設工事を担い、ジャングルを行軍した。「栄養失調やマラリアで皆、バタバタと死んでいった」。戦後はそれ以上に過酷だった。混乱の中ですぐに帰国できず、3年近くサバイバル生活を続けた。「蛇でもトカゲでも口に入るものは何でも食べた」と振り返る。元日本兵と比べ元軍属への補償が劣ることについても趙さんは「兵隊以上に兵隊の仕事をした。不満だ」と憤る。
 中国・上海の陸軍病院で従軍看護師だった廖淑霞(りょう・しゅくか)さん(90)は、台北市の自宅で「台湾人に生まれて悲しいよ」と漏らした。父の仕事の関係で上海にいた16歳の時、日本陸軍の要求で十分な訓練もないまま、従軍看護師として働かされたという。空襲が相次ぎ、同僚の朝鮮半島出身の少女は爆撃で死んだ。
 給与は強制的に貯金させられ、事実上の無給だったという。終戦時、当時の日本円で1566円の残高があったが、敗戦で引き出せなくなった。「当時なら台湾で家が1軒建つ金額」と廖さん。47年、台湾に引き揚げた。戦時郵便貯金の支払いを求める台湾籍元日本兵らの要求が実り、廖さんも2000年、やっと貯金を受け取った。だが物価変動を踏まえた日本政府の換算率によって支払いを受けたのはわずか19万2340円。廖さんは「日本が貧乏なら、もらわなくていい。でも日本は経済大国。バカにしている」と憤慨する。
 廖さんは言った。「私たちは天皇のために血を流せと教えられ、夫も(日本軍に)志願した。日本は皇民化に成功したよ。戦争は間違ってる。戦争がなかったらたくさんの人は亡くならなかった」

 

「お言葉」に込めた願い変わらず 戦争の記憶途絶えても(2018年8月14日配信『日経新聞』)

 

平成最後の夏

 終戦記念日の15日、平成最後の全国戦没者追悼式が開かれる。出席する遺族約5500人のうち、昭和期に参列者の過半を占めた「戦没者の妻」はわずか14人。父母の出席者はもういない。失われつつある戦争の直接記憶。天皇陛下は早くから危機感を持たれていた。

 2002年9月。この年に日本遺族会の会長に就任した元衆院議員、古賀誠さん(78)は皇居・御所を訪れた。創立55周年式典について陛下に説明するのが目的だった。

 「苦労した戦没者の妻の多くが亡くなり、戦争を知らない世代が増えました。遺児の私もこのような年齢です」。古賀さんの話に陛下はじっと耳を傾けられたという。

 「先の戦争のことが人々の心から遠くなっていく今日、戦争による深い悲しみを経験した遺族たちの持つ、世界の平和と我が国の平らかな行く末に対する強い思いを世に伝えていくことは誠に大切なことと思います」

 東京都内で開かれた式典で、陛下は戦争の記憶の風化を危惧するお言葉を述べられた。

 その3年後、戦後60年の年に開かれた日本遺族会婦人部の集いにも両陛下は出席されている。「ご苦労されましたね」「ご主人はどちらで亡くなられたのですか」。約50人の参加者一人ひとりに声を掛けられた。

 様子を見守っていた古賀さんは強い感銘を受けていた。時間を過ぎても妻たちへの声掛けを続ける両陛下の姿に、遺族への思いやりと、戦争体験者が減り、記憶が風化することへの強い危機感を感じたからだ。

 高齢化が進んでいた婦人部の集いはこれが最後になった。

 戦後70年の15年、82歳の誕生日を前にした記者会見。この場でも陛下は「年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切」と述べられた。

 陛下の言葉を多くの国民が同時に耳にする機会は多くない。全国戦没者追悼式は陛下が戦争について発信される貴重な場になっている。

 さきの大戦において、尊い命を失った数多くの人々やその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします――。

 1989年の即位後最初の追悼式以降、お言葉の表現はほぼ定型。しかし、戦後50年と70年の節目には、それぞれ「歴史を顧み」「さきの大戦に対する深い反省」との表現が新たに盛り込まれた。「思いが伝わるように長い時間をかけて、お言葉作りに心血を注がれていた」。元側近の一人は述懐する。

 戦後の節目にあたって国内外の激戦地や被害の大きかった地域を訪れる「慰霊の旅」を重ねてこられた両陛下。ソロモン諸島で父を失い、戦没者追悼式に長年出席してきた京都産業大名誉教授、所功さん(76)は「陛下は慰霊の旅を重ねることで戦争の実態を知り、追体験された。このことでお言葉は年々さらに重みを増した」と振り返る。

 平成の次の時代、あらがえない時の流れのなかで、過去を正しく伝えていくことができるのか。所さんは悲観しない。「若い世代にはボランティア活動やSNSなどで体験を自ら発信し、共感し合える力がある。時代の転換点こそ、関心をもって過去に学び、平和について考える好機になる」

 

案内活動30年以上「平和とは 考えて」 高校生語り継ぐ戦争史跡(2018年8月14日配信『東京新聞』)

 

見学者を案内する長野俊英高郷土研究班の生徒(左)=長野市の象山地下壕で

 

 太平洋戦争末期、政府の中枢機能をまるごと移転させようと長野県・松代(まつしろ)地区(現長野市松代町)周辺の山麓で極秘に建設が進められた地下壕(ちかごう)「松代大本営」の関連施設で、長野俊英高(同市)の生徒たちが見学者を案内する活動を30年以上続けている。生徒たちは「戦争が人々の記憶から消えないよう、語り継いでいきたい」と話す。 

 「この削岩機のロッド(先端)は70年たった今も抜くことができず、突き刺さったままです」

 7月末、松代大本営地下壕群の一つ「象山(ぞうざん)地下壕」。湿った空気に包まれた暗い壕内で、同校の「郷土研究班」の生徒が岩盤に突き刺さった鉄の棒について解説すると、見学者から「おお〜」と感嘆の声が上がった。この日、案内を受けたのは東京都世田谷区の大東学園高の一行。生徒会長の住吉姫咲(きさ)さん(3年)は「説明がすごく分かりやすい」と感心していた。

 活動のきっかけは1985年、長野俊英高(当時は篠ノ井旭高)の生徒たちが修学旅行で沖縄県を訪れ、多くの住民が地下壕に追い詰められて犠牲になった沖縄戦について学んだこと。「地元・松代にも同じような場所がある」と調査することにし86年から部活動として郷土研究班が発足した。

 当時、地元の人たちの間で地下壕の存在は知られていたが、危険な場所として立ち入りが規制されていた。生徒たちが保存、公開を市に提案し、90年から公開がスタート。郷土研究班は見学者の案内や、工事関係者らへの聞き取りを続けてきた。

 現在は2年生6人が活動。年10回ほど、長野県内外の高校や中学などの見学者を案内している。事前に練習を重ね、ダイナマイトを使う危険な突貫工事で犠牲者が出たこと、周辺住民が立ち退きを迫られたことなど、過去の聞き取り調査で把握した工事の様子を生々しく伝える。掘削で出た大量の岩くずが戦後、東京・霞が関周辺の道路舗装に使われたというエピソードも紹介している。

 心がけているのは、主観を交えず、ありのままに伝えること。顧問の海野修教諭は「戦争がいけないのは当たり前だが、まず歴史的な事実を伝える。そこから始まるのが私たちの活動」と説明。活動を通じ、生徒たちが人前で堂々と話せるように成長したとも話す。

 班長の高野礼さん(16)は「時代が変わって、戦争を体験した方から話を聞けなくなっている。私たちが懸け橋になり、何があったのかを伝え、平和とは何かを考えてもらえたら」と話している。

 

 

<松代大本営> 太平洋戦争末期、「本土決戦」を想定して政府の中枢機能を移そうと長野県・松代地区の象山、舞鶴山、皆神山を中心に進められた計画。舞鶴山地下壕に大本営、象山地下壕に日本放送協会などが入る予定だった。1944年11月に本格的に工事が始まり、終戦までに計十数キロを掘削。現在、象山地下壕の500メートル余りが年間を通じて一般公開されている(休壕日あり)。松代大本営建設を含む本土決戦の時間を稼ぐため、沖縄戦が展開されたという歴史観もある。

 

名大・旧制高 「クラス日誌」公開 理系生徒、戦時の本音(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

八高の理科系生徒がつづった「クラス日誌」=名古屋大大学文書資料室で

 

 名古屋大学の前身・旧制第八高等学校(八高)の理科系生徒が学徒出陣など戦時中の出来事や思いを記した「クラス日誌」が、名古屋市千種区の名大の大学文書資料室で公開されている。戦地に赴く文科系生徒への気遣いや戦局の冷静な分析がつづられ、資料室の担当者は「自由に発言できなかった時代の若者の本音がうかがえる貴重な史料」と話す。

 日誌は理科系2年6組の生徒たちが1943年5月12日〜44年4月13日につづり、B5判約190ページに30人以上の記述が見える。戦後にガリ版印刷で複製されたとみられる。約10年前に八高同窓会が資料室に寄贈し、昨秋から公開している。

 学徒出陣を巡っては、東条内閣による「学生の徴兵猶予の停止」が伝えられた43年9月22日、「来るべきものは竟(つい)に来た。今日は我々にとつて実に(太平洋戦争開戦の41年)十二月八日である」との記載がある。

 理科系生徒は兵器研究などを理由に徴兵が猶予された。11月25日の記述では、文科系クラスに出征を控えた親友がいるらしい生徒が「勉学を中止して 客観的に之(これ)を見れば誠に気の毒である<中略>便所の中に“理科生ヨ 後ヲタノム”と記してあつた<中略>それを涙なくして読み得なかつた」と複雑な心情を吐露している。

 八高卒業生らの記念誌などで、当時の理科系と文科系の生徒間に「溝」があったと記されている。日誌でも「(理科系は)余りにも無関心であるのではなからうか」「文科の生徒に対して相済まぬと思ふ<中略>(自分は)今直ちに前線に立つて働ける丈の信念と勇気があるだらうか」と書かれている。

 43年は山本五十六・連合艦隊司令長官の戦死やアリューシャン列島・アッツ島での玉砕など戦況が悪化していた。日誌には「学業を以(もっ)て敵撃滅に邁進(まいしん)しよう」との記述がある半面、「ヤマトダマシヒにも限度がある」「“日本は○ける”」(○は伏せ字)といった言葉も並ぶ。

 資料室の堀田慎一郎・特任助教(日本近代史)によると、東海地方は学徒出陣関連の史料がほとんど見つかっていない。文科系の学校が少ない上、戦災などで失われたとみる。

 堀田氏は日誌について「教員らの目に触れないよう、ひそかに書いたのだろう。国のために戦死することが名誉とされた時代に、出征する文科生を“無念”と思いやるなど、本音が出ているのが特徴的で非常に珍しい史料」と指摘している。

 

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佐藤茂壽さん=名古屋市東区で2018年7月2日

 

徴兵猶予へ理系志願も

 戦況悪化に伴い政府は1943年10月、それまで猶予されていた大学・高等学校・専門学校の文科系生徒・学生も徴兵対象に加え、同月21日に明治神宮外苑(東京都)で出陣学徒壮行会を開いた。東海地方でも11月ごろに各学校で壮行会を開催し、仮卒業証書を授与するなどした。学徒兵の総数は10万人以上とも言われるが、正確な数は分かっていない。

 理科系生徒・学生は徴兵猶予が継続され工場などに動員された。42年に八高に入学した加藤一三(いちぞう)さん(93)=名古屋市東区=は「マルクス経済学を学びたかったが、戦争に駆り出されるかもしれないと思い、理科系に進学した」と話す。理科系の名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大)や岐阜薬学専門学校(現・岐阜薬科大)は、44年の入学志願者が例年を大幅に上回ったとの記録が残る。

 名古屋高等商業学校(現・名古屋大)OBで現役の税理士、佐藤茂壽(しげとし)さん(94)=名古屋市千種区=は在学中の45年に徴兵され、満州(現在の中国東北部)で物資輸送に関わった。「行きたくないなんて本音は出せなかったが、泳いででも生きて帰ってくる気持ちだった」と振り返る。学徒出陣から75年。「平和が当たり前の世の中になったことが何よりありがたい」と話した。

 

終戦73年 自決「裏切り」自責 90歳元軍属(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

掩体壕の前で73年前の思いを語る吉川晋吾さん=大阪府八尾市で2018年8月14日

 

 日本の敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送が流れた73年前、自ら命を絶つ軍人が相次いだ。大阪で陸軍機の整備をする軍属だった吉川晋吾さん(90)=東大阪市=は、懇意だった陸軍少尉から集団自決に加わるよう誘われたが、自身は思いとどまった。「申し訳ない」という思いを消せなかった吉川さんは14日、軍施設跡や自決現場となった神社を戦後初めて訪れて手を合わせ、平成最後の夏に心の重荷をようやく少し軽くした。

 吉川さんは岐阜県の陸軍施設で飛行機の整備技術を学び、1945年4月に現在の大阪府八尾市にあった陸軍大正飛行場(現八尾空港)に併設された大阪陸軍航空廠(しょう)に配属された。既に日本は制空権を失い、米軍の空襲は激化していた。飛行機を守る「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる格納庫で、来る日も来る日も作業を続けた。特攻に向かう航空機も整備した。「離陸さえできればいい」「燃料は片道だけ」。冷徹な命令に渋々従った。

 8月14日、翌日に重大放送があるといううわさが広がった。弟のように可愛がってくれていた少尉に声をかけられた。「降伏となったら俺は自決する。お前も来るか」。その場では断れず、作業場に隣接する神社の本殿裏側で落ち合うことを約束した。

 翌日は白装束代わりの白い服で出勤した。神社の境内まで来たが、両親の顔が脳裏に浮かび足がすくんで動けなくなった。待ち合わせ場所には行かなかった。

 玉音放送を境内で聞いた後、急に騒がしくなった。本殿裏側へ駆け付けると、少尉が倒れていた。取りすがって泣き崩れたが、憲兵らに引き離された。少尉は亡くなったと後に聞いた。他に2人の将校が自決を図ったことも知らされた。

 吉川さんは戦後、板金会社を起こし、子や孫にも恵まれた。ただ、約束の場に行かなかったことを「裏切ってしまった」と引きずっていた。神社にも足が向かなかった。戦争体験も積極的には語らなかった。

 14日は唯一残る掩体壕の跡と神社を巡り、やっと慰霊ができた。「少尉はまだ21歳で造船技師を夢見ていた。愚かな戦争がもっと早く終わっていれば、どんな人生を歩んだだろうか」。生かされた自分を振り返り「精いっぱい生きてきた」と語った。

 

終戦73年:狂気二度と 宮崎の元特攻隊員、不戦願い手記(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

 宮崎県都城市の東郷勝次さん(92)は太平洋戦争中、特攻隊員として待機し、極限の精神状態に置かれた。配置転換などで出撃しなかったが、帰ってこなかった航空学校の同期もいた。「軍指導部は最後は『一億総特攻』『一億玉砕』を掲げて破滅に向かった。狂気としか言えない戦争を二度と繰り返してはならない」。願いを込めて、東郷さんは自らの体験を1年かけて手記にまとめた。

 16歳の少年だった1942(昭和17)年10月、憧れの東京陸軍航空学校に合格。熊谷陸軍飛行学校(埼玉県)や甲府教育隊(山梨県)など上級校で操縦技術を学んだ後、日本占領下の中国の飛行隊に配属された。

 敗色濃厚となった45年4月、三重県伊勢市の部隊に転属。「諸君はと号要員だから指示あるまで待機せよ」。東郷さんら約20人が上官に命令された。「と号」とは特攻のことだった。「覚悟はしていたが、全身にえたいの知れない電流が走り、体全体が硬直した」

 だが数日後、愛知県の小牧飛行場を拠点にした飛行隊に転属になり、特攻を免れた。その後、沖縄に向かう特攻隊を護衛する任務につくため、鹿児島県の万世(ばんせい)飛行場に移動。爆弾を抱えて高く飛べない特攻機を、上空から護衛する役目だった。当初は奄美群島の喜界島上空まで護衛したが、終盤は離陸後の周辺上空に限られた。「そのころの特攻機は援護機もなく哀れだった」

 6月終わりか7月初めになると部隊で特攻要員が募られた。死の恐怖と闘いながら志願した。「沖縄の地上部隊の組織戦はもう終わったのに今更」。小声でそう漏らす先輩パイロットもいた。結局、東郷さんらは特攻に出撃せずに済み、大阪の防空任務を最後に敗戦を迎えた。「若くして散った隊員たちに申し訳ない思いだった」

 生き残った者の使命として、昨年6月ごろから400字原稿用紙にこの体験をつづり始めた。当時の写真も貼り付け、手記は計150枚になった。

 「死を恐れない人間はいない。若くして非業の死を遂げたパイロットや、そのご遺族の心境を思うと、今でも涙が止まらない」と東郷さん。「夢を持ち、未来を担う青少年を再び戦場へ送ってはいけない。自分の命も自分のものでなく、自由にならなかった時代だった。二度とそういう時代をつくってはならない」と訴えた。

 

北大教授、戦時下に人体実験 中国人から摘出の睾丸で(2018年8月14日配信『北海道新聞』)

 

小熊氏の講演録と英論文。講演録には「匪賊を一人犠牲に供しました事…」と書かれている

「どの時代であれ許されない」

 北海道帝国大(現北大)理学部の男性教授(故人)が1930年代、旧満州(現中国東北地方)で旧日本軍が捕らえた中国人から摘出した睾丸(こうがん)を使い、染色体を観察する実験を行ったことが、北大図書館の保管資料などで分かった。男性教授は日中戦争開戦直前の37年6月、実験結果を基に論文を米国の科学誌に寄稿しており、専門家は「被験者の承諾がなく、どの時代であれ許されない人体実験だった」と指摘する。

 戦時下の大学の研究者による人体実験を巡っては、九州帝国大医学部で45年、米軍捕虜を生きたまま解剖し、殺害したことが分かっている。道内の大学研究者による人体実験は、ほとんど知られていなかった。

自宅は「旧小熊邸」として知られる

 男性教授は小熊捍(おぐま・まもる)氏(1885〜1971年)。生物学や遺伝学が専門で、30年に北大理学部教授に就任。37年から6年間は理学部長を務めた。

 資料は小熊氏が39年に行った講演の速記録「人類の染色体」。旧厚生省発行の「民族衛生資料」に収録された。当時、染色体は遺伝を担う存在として注目されていたが、まだ人間の染色体の本数も分かっておらず、盛んに研究された。

 小熊氏は講演で、遺体や病人から摘出した睾丸は染色体の観察に向かず、若く健康で生存している男性の睾丸が適していると指摘。「匪賊(ひぞく)(抗日武装勢力)を材料にしたらどうだろうか、どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と述べた。

 満州・奉天(現瀋陽)に渡り、軍に協力を依頼したところ「非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。捕へた匪賊の一人です」と説明。得た試料によって染色体を明瞭に観察できたとして「匪賊を一人犠牲に供しました事は決して無意義ではありません」と語った。

 北大は北海道新聞の取材に対し「研究を承知しておらず、回答を差し控える」とした。

 小熊氏の札幌時代の自宅は旧小熊邸として知られる。北大退官後は国立遺伝学研究所(静岡)の初代所長を務め、国内の遺伝学の第一人者だった。

 

憲法9条:平和考えて…大分の市民団体、意見広告36年目(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

これまでの意見広告(縮刷版を含む)

 

 憲法9条を守ろうと毎年終戦記念日に新聞の1ページを使った意見広告を出し続けている大分市の市民団体「赤とんぼの会」が、今年も36回目の広告を掲載する。テーマを掲げて賛同者の名を連ねる広告で、多くの市民が声を上げていると見せる紙面づくり。ここ数年は賛同者の減少が懸念されるが、同会は「平和憲法の意味をみんなでもう一度考えてほしい」と願いを込める。

 意見広告は、タカ派の中曽根康弘政権だった1983年、県内の主婦らが結成した同会が始めた。ベルリンの壁が崩壊した翌年の90年は「世界の壁をなくすとき 今こそ、憲法九条です」、日米防衛協力の指針が改定された97年は「有事って戦争よっ! もうゆずれない憲法九条」とそれぞれの時代に即した内容で訴えてきた。

 今年は、韓国と北朝鮮の南北首脳会談を受けて「憲法九条は対話を生む!」をテーマにした。9条改正を訴える安倍晋三首相が今秋の自民党総裁選で3選を目指し改憲議論の活発化が予想される中、9条の大切さを改めて問いたいとする。

 県内で配布される全国紙や地元紙など4紙に掲載し、300万円の費用は賛同者の寄付で賄う。寄付は原則1口1000円だが、生活が厳しい人も参加できるように少額で受け付けることも多い。最も大事にしているのが賛同者の名前で、パソコンに書体がない旧字体の漢字も自分たちで作字して正確な表記を新聞に掲載する。

 しかし年々、賛同者集めは難しくなっており、2007年の3708人をピークに減少を続けている。背景として深刻なのが「戦争の風化」だ。宮崎優子代表(69)は「戦争を知る世代が少なくなっている」と危機感を強める。事務局を務める日高礼子さん(62)は「平和や憲法9条という言葉を使うだけで、うさんくさそうにする人が増えてきた」と話す。国際情勢の変化も要因とみられ「北朝鮮が攻めてきたらどうする」などと抗議の電話もあるという。

 それでも、意見広告は平和について考えるきっかけになると信じている。スタッフが戦争体験を話すなど「対話」を通じて、賛同者以外の人にも平和について考えてもらう努力を続けていくという。宮崎さんは「原点は仲間の戦争体験。平和を守る心を表明し、次世代につないでいきたい」と語った。

 

水上特攻艇「震洋」:造った元船大工「国のため」信条曲げ(2018年8月14日配信『毎日新聞』)

 

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水上特攻艇「震洋」の建造時の様子を話す山本昭一郎さん=兵庫県豊岡市で、高田房二郎撮影


 戦局が窮迫した太平洋戦争末期に使用された木造の水上特攻艇「震洋」。旧海軍の軍需工場で建造に携わった元船大工、山本昭一郎さん(91)=兵庫県豊岡市=は昨秋、70年以上を経て初めて当時の経験を集会で語った。船大工として安全で丈夫な船ではなく、自爆させるベニヤ板の船を造る矛盾。その後、軍隊で派遣された長崎で原爆被害にも遭った山本さんは「戦争は人と人との殺し合い。二度と繰り返してはいけない」と訴える。
◇乗ったら最後、なぜ造る 自身は被爆
 山本さんは豊岡市の造船所に勤めていた1944年秋、京都府舞鶴市の海軍工廠(こうしょう)に徴用された。船大工になって4年。「大きな船を造るのか」と思ったが、任されたのは小型のボートだった。職場で「マルヨン艇」と秘匿名で呼ばれていた船は全長約5メートル。5人1班で、他の班と競うように5日ほどで1隻を完成させた。休日はなく徹夜の仕事もこなした。
 ある日、軍人に「あれは特攻ボートだ」と言われた。爆弾を積んで隊員もろとも敵艦船に体当たりするという。当時、航空機による神風特攻隊の「戦果」が新聞で華々しく報じられていた。「国のために命を投げ出すのは当たり前と考えていた」
 一方で心の痛みを感じた。合板の船では波の荒い外洋の航行は難しく、被弾すれば簡単に破損や転覆することは容易に想像できた。「『乗ったら最後』の船にどんな人が乗るのか」。安全な船を造る信条とは全く逆の使命だった。
 山本さんはその後、身をもって戦争の悲惨さを体験することになる。召集されて45年8月初めに向かった先は長崎市街地から数キロ離れた宿営地。同月9日午前、ごう音と共に空が黒っぽい紅色になるのを見た。米軍による原爆投下だった。
 救援のため翌日、まだ地面が熱い爆心地周辺に入った。「鉄骨があめのように曲がり、水辺に手を伸ばすような格好で黒く膨らんだ遺体が折り重なっていた」。3日間、遺体の処理などに従事し入市被爆した。腹痛や下痢に苦しみ、髪が抜けた。放射線による急性障害だったが、当時は原因が分からなかった。一番仲の良かった戦友は復員1年後に病死した。
 山本さんは70歳ごろまで豊岡の造船所でカニ漁などの底引き網漁船の建造に腕を振るった。地元で被爆者の会の役員を務め、求められて数年前から地元の学校などで被爆体験を話すようになった。これまで震洋への関わりについて公の場で語ることはなかったが、「粗末なボートを使った水上特攻を知る人は少ない。実際見たことを話そう」と考え、昨年9月に豊岡市であった市民集会で初めて話をした。
 山本さんは言う。「地獄絵のような長崎を思い出すと今も夜眠れなくなる。それでも聴きたいと言われれば話そうと思う。平和が一番です」

 【ことば】震洋
 旧海軍が開発した木製のモーターボート型の特攻兵器。船首に約250キロの爆薬を積み、敵艦船に体当たり攻撃を図った。1〜2人乗りで全長5.1〜6.5メートル。約6200隻が生産され、フィリピンや沖縄で使われ、本土決戦のため国内にも配備された。戦果は少なく、基地で攻撃されるなどして約2500人が戦死したとされる。

 

「肉弾三勇士」戦時中、熱狂的なブームに 軍神になった若者たち(2018年8月14日配信『西日本新聞』)

 

山川招魂社にある肉弾三勇士(爆弾三勇士)の慰霊碑

 

 平成最後となる「終戦の日」を前に、西日本新聞に掲載された過去の記事を紹介するシリーズ。これは、国民が一方向に走ってしまう危うさを示す事例だろう。(以下の記事は2017年08月11日付で、内容は当時のものです)

 

肉弾三勇士の活躍を伝える福岡日日新聞の号外

 

 戦時中、福岡県久留米市にあった旧陸軍の工兵隊に所属していた無名の若者たちが「肉弾三勇士(爆弾三勇士)」として軍神とあがめられ、熱狂的なブームとなって国威発揚に利用された。本紙の前身である福岡日日新聞も、プロパガンダに一役買った。市内に残る三勇士の跡をたどった。

 三勇士とは、いずれも1等兵の江下武二(佐賀県出身)、北川丞(長崎県出身)、作江伊之助(同)の3人。1932年、日中両軍が衝突した上海事変で、導火線に火がついたままの破壊筒(爆弾)を持って敵陣の鉄条網に突入して自爆、突撃路を開いたとされる。

 最初に訪れたのは、久留米市山川町の神社「山川招魂社」だ。西南戦争や太平洋戦争の戦没者の慰霊碑と並んで「爆弾三勇士之碑」がひっそりと立っていた。裏に碑文が刻まれているが、容易に判読できない。かろうじて、碑の建立時期が「昭和58年」と読める。

 どれほどの人気だったのか。市史にその一端が記してある。福岡日日新聞には「壮烈三勇士の戦死 爆弾を身につけて、敵の鉄条網に躍り込んで爆死」との大見出しが躍り、他の新聞社も競って一大キャンペーンを展開し、歌を募集したり、小学生の感想文を掲載したりした。NHKは特別番組を放送。「美談」は映画や舞台、浪曲となり、「爆弾三勇士の名は全国に響き渡り、異常な興奮を巻き起こした」という。

 次は市文化財保護課の学芸員、小沢太郎さん(48)に同行してもらい、同市御井町の久留米大御井キャンパス横の九州沖縄農業研究センター久留米研究拠点を訪ねた。センターやキャンパスはかつて工兵隊の敷地。三勇士の記念碑跡は、人目を避けるように敷地内の茂みにたたずんでいた。「耕心園」とある中央部には三勇士の銅製レリーフがはめ込んであったが、戦時中の金属回収で供出されたという。

 今は存在しないが、ほかにも記念の像や建物があった。市中心部の公会堂(旧市民会館)には等身大の銅像。御井キャンパスには、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の寄贈で記念館が建てられ、坂本繁二郎が三勇士を描いた油絵が飾ってあったという。「坂本は一大スポンサーである正二郎の依頼を断れなかったんでしょう」と小沢さんは推測する。一部の作品は今も行方が分からないという。

絵はがきなど三勇士のグッズも

 最後に訪れたのは、同市六ツ門町の六ツ門図書館で開催中の「平和資料展 軍都久留米の風景とくらし」(9月24日まで)。正二郎が陸軍大臣に宛てた記念館の「献納書」や、三勇士の活躍を伝える福岡日日新聞の号外などが並ぶ。三勇士が突破した鉄条網のかけらは、三勇士の上司の遺族から市に寄贈されたという。文鎮や湯飲み、子ども用の読本、絵はがきなど三勇士のグッズもあり、戦争が庶民の日常に溶け込んでいた当時の時代の空気を感じることができる。

 小沢さんは「(日露戦争で神格化された)広瀬中佐のように三勇士も祭り上げられてしまい、国民的な機運の中で日中戦争から太平洋戦争へ突き進んだ。その歴史を振り返り、教訓を学んでほしい」と話した。

 

<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後73年> 死の密林、闇夜を流浪(2018年8月14日配信『東京新聞』)

 

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金子富子さん(中)が太平洋戦争中に暮らしたフィリピンでの体験を描いた水彩画を見ながら、当時の様子を牧野新記者(左)に話す山根寿美子さん=埼玉県所沢市で

 

 「私ね、若い子に話すのが怖いのよ」

 じっくり話を聞こうとノートを開いた時、金子富子さん(81)がつぶやいた。

 「平和な時代に、戦争の話なんて聞きたくないでしょ? 拒絶されそうな気がして…」

 われわれの世代の「無関心」が怖いという金子さん。恐る恐る語るように、フィリピン・ミンダナオ島のダバオでの体験を振り返った。

 当時のダバオはロープなどに使う麻栽培が盛んで、多くの日本人が住んでいた。太平洋戦争後期の1944(昭和19)年、米軍のフィリピン攻略が本格化し、8歳の金子さんは両親や姉弟ら12人とジャングルに避難した。

 昼間は木の枝や麻の葉で作った小屋に身を隠し、数日すると闇夜にまぎれて移動した。食べ物は木の根っこや自宅から持ち出したかつお節など。母親は「体を壊さないように」と必ず火を通してくれた。

 河原で洗濯中に米軍機に見つかった。パイロットの輪郭がはっきり分かるほど近くから銃撃され、足元に銃弾が刺さった。

 ジャングルには病気や飢えで死んだ人が転がっていた。「お母さん…」。木に寄り掛かり、力なく漏らした少年兵。大量のアリがはい回る顔で眼球だけが動いていた。

 「あの時は死んだ人を見てもかわいそうとは思わなかった」。日本の降伏で終わった逃避行。同じ集落から逃げ、一家全員が無事だったのは金子家ともう一家族だけだと聞いた。

     ◆

 金子さんが話す隣で、同じダバオ生まれの山根寿美子さん(85)がうなずいた。2人は今、埼玉県所沢市に暮らす。知人を通じて数年前から交流を始めた。

 山根さんは3人の妹と父親をダバオで失った。焼夷(しょうい)弾に肘を貫かれたり、爆弾で足の指をそがれたり。「みゆきにかずみ、それとまさみ。小さいのから死んだって聞いたわ」

 ただ家族の顔は思い出せない。戦争前の36年に家族と離れ、山口県で祖母らと暮らしていたためだ。

 祖父が亡くなり、葬儀の時、祖母が「寿美子を預けて」とダバオから駆けつけた母にせがんだ。母4歳の山根さんを残してダバオに戻った。「母はすぐ迎えに来るつもりだったと思う」

 だが翌37年に日中戦争が勃発。41年には太平洋戦争が始まり、母は迎えに来ることができなかった。

 離れ離れになって10年。戦後、生き残って帰国した母と再会しても「初対面のように感じた」。

 戦争は母の命を奪わなくとも、心をえぐっていた。夫と娘たちの死を思い出すと「死んでくる」と泣いて家を飛び出した。ささいなことで声を荒らげ、時に暴力を振るう。恐ろしくて、憎かった。「死んだ子への愛が狂ったほど大きく、私への愛はそんなになかった」

 94年に80歳で死んだ母。晩年は介護のため山根さんの元に身を寄せた。「本当に親子として時間を過ごせたのは最後だけよ」

      ◆

 ジャングルで死と隣り合わせの生活を送った金子さんと、親子の絆を戦争に壊された山根さん。メモを取るノートはたちまち2人の体験と思いにあふれた。

 取材からしばらくして金子さんが「言い忘れたことがある」と、当時の様子をびっしり書きこんだ手紙を送ってくれた。

 「若い子に話すのが怖い」。その言葉は「若い子に伝えたい」気持ちの裏返しだと気付いた。

 

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<ダバオ> フィリピン・ミンダナオ島南部の州。20世紀初頭、麻の栽培のため日本人が入植し、ジャングルを開墾。1936年には在留日本人は1万4000人を超えた。41年に太平洋戦争が始まり、日本が米国の植民地だったフィリピンを占領。45年3月、米軍がミンダナオ島に反攻上陸すると日本人に避難命令が出されたが、米軍の砲撃や病死、餓死などで約5000人が死亡した。

 

シチズン、ビクター… 戦時下、消された社名(2018年8月13日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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戦時中に制作されたレコードの原盤。ラベルには「富士音盤」などと書かれている=東京都渋谷区の古賀政男音楽博物館で

 

 太平洋戦争で対米英感情が悪化すると、英語を「敵性語」として排斥する運動が国主導で本格化し、多くの企業が社名変更を余儀なくされた。とりわけ洋楽の普及とともに発展したレコード業界は、ジャズやハワイアンのレコード演奏や所有自体が禁止され、大きな打撃を受けた。

 戦争真っただ中の1942年、今もレーベル名が残る「コロムビア・レコード」は当時の社名の日蓄工業から「ニッチク・レコード」に、「ポリドール・レコード」は「大東亜レコード」にそれぞれ改称した。43年には「キングレコード」が「富士音盤」となり、「日本ビクター」(現・JVCケンウッド)は社名を「日本音響」に変えた。

 改称の経緯などについて各社の広報担当者は「当時を知る社員はもうおらず、詳しいことは分からない」と口をそろえる。一部のレーベル名に「レコード」の表記が許された理由も不明だ。

 他業種では、市民に親しまれるようにと名付けられた「シチズン時計」は、「大日本時計」に改称。「ブルドック食品」(現・ブルドックソース)は創業者のゆかりから「三澤工業」に、「大同メタル工業」は製品名を和訳して「大同軸受工業」となった。

 多くの企業は戦後間もなく、元の社名に戻した。一方で、ヨーロッパを意味する「欧」の字が敵国を表すとして改称した「旺文社」は、今も使い続けている。

 「戦局の悪化とともに敵性語の排斥は身近な国民生活に広く及び、演奏に対する規制も顕著になった」。洋楽史研究家の戸ノ下達也さん(54)は指摘する。四三年一月、政府がジャズやハワイアンなど約1000曲のレコード演奏を禁じ、所有者は供出させられた。内閣情報局が同年2月に発行した週刊グラフ雑誌「写真週報」には、アメリカンジャズのレコードをたたき割るイラストが掲載されている。

 戦後、複数のレコード会社で勤務した音楽文化研究家の長田暁二さん(88)は「平和な時代だからこそ、自分の好みの音楽を聴くことができる。国家が音楽に『敵性』のレッテルを貼り、自由を奪った時代があったことを忘れないでほしい」と訴える。

 

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公文書廃棄、73年前も 敗戦の霞が関に何日も炎と煙が(2018年8月13日配信『朝日新聞』)

 

 

札幌市豊平区に置かれていた旧陸軍の北部軍司令部で、作戦室に勤務していたという大坪稱(ただい)さん(故人)が、終戦直後に広場で書類が焼却された様子を描いた絵(「札幌郷土を掘る会」代表の小松豊さん提供)

 

 

 

「秘密文書を焼却処分せよ」「この電文が理解されれば焼却せよ」――。1945年8月18日、旧日本海軍内でシンガポールから発せられたことを記した英国の公文書。関東学院大の林博史教授が英国国立公文書館で確認した

 

旧日本海軍内の電報内容を記録した英国の公文書。「秘密文書を焼却処分せよ」「この電文が理解されれば焼却せよ」とシンガポールから1945年8月18日に発せられたことがわかる。関東学院大の林博史教授が英国国立公文書館で確認した

 

 73年前の敗戦時、陸海軍や内務、外務、大蔵各省など日本のあらゆる組織が、機密性のある公文書焼却に血眼になった。

 敗戦時の公文書焼却について、当時の蔵相は「閣議で決めた」と戦後語っている。内務省職員だった奥野誠亮元法相は生前、「戦犯にされる恐れのあるような公文書を焼却しろという指令を書いた」と証言した。

 東京裁判に出された証言では、陸相により焼却が命じられたのは8月14日。防衛庁の防衛研修所30年史は「陸海軍は、秘密文書が連合国軍の手に落ちるのを防ぐため、重要文書を焼却した。陸軍省や参謀本部のあった市ケ谷台、海軍省や軍令部のあった霞が関などでは、何日間も炎と煙が立ち上った」と記す。

 日本軍の暗号電報を解読した米英の文書には、インドネシアやシンガポールに展開する軍に焼却が命じられた様子も記録されている。

 歴史を伝える資料の多くがこうして失われたが、偶然にも残されたケースもある。国文学研究資料館(東京)の加藤聖文准教授(51)は、各地の自治体で貴重な資料を確認してきた。ただ、公文書への意識の低さや自治体の財政難などから、散逸や腐食の恐れがあるものもあるという。

 今夏に訪ねた鳥取県境港市では、本土決戦時の動員の流れを示す「(秘)」と書かれた資料などが段ボール箱に詰め込まれ、旧幼稚園舎に山積みされていた。図書館建て替えに伴う一時的な保管場所だが、担当する市史編纂(へんさん)室は嘱託職員1人のみで、「人員や予算の確保も難しい」状態という。

 加藤准教授は、焦りを募らせる。「私たちの両親や祖父母ら当時を生きた人たちの生死に関わる記録です。『公文書=国民のもの』と自覚しないまま、私たちは今後も歴史を消し去っていくのでしょうか」

 

戦友の生きた証し、私は焼いた 91歳が告白する「罪」(2018年8月13日配信『朝日新聞』)

 

 

左;駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」の絵を背に戦時中の記憶をたどる西崎信夫さん=2018年7月2日午後3時49分、東京都西東京市

右;旧日本海軍時代の西崎信夫さん

 

九州の防衛にあたった第16方面軍司令部が1945年8月16日に部隊に発した電報の写しには「陸軍秘密書類」「焼却スベシ」と記されている。焼却命令を直接示す文書は数点しか残っていないという=防衛省防衛研究所所蔵「第16方面軍西部軍管区復員関係資料」

 

 1945年夏、日本海に面した京都・宮津湾近く。油まみれの軍服を着た一人の少年が風呂敷を担いで歩いていた。人目に付かない丘まで来ると、穴を掘って書類を投げ入れた。そして、マッチで火を放った。

 パチパチ、パチパチ。書類は音を立てて燃え、熱気が顔に迫った。「お前はまだ軍に協力しているのか」。少年は、戦友の声を聞いた気がした。

 当時18歳の少年だった西崎信夫さんは91歳になったいま、東京都西東京市に一人で暮らす。居間の壁には、魚雷の射手として乗り組んだ駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」の絵が掛けられている。左太ももには銃撃の痕が残る。

 「戦友たちに悪いことをしてしまった」。焼いた日のことを、そう言った。

 15歳で海軍特別年少兵に志願。43年から雪風に乗り、44年のマリアナ沖、レイテ沖の海戦を経て、45年4月には戦艦「大和」とともに沖縄特攻に出撃した。

 東シナ海で、米軍の爆撃や魚雷を受けた大和が真っ二つに割れるのを目撃した。雪風から海面に投げ入れた縄を2人がつかんだが、西崎さんは重さに耐えきれず、1人をたたき落とした。この場面は戦後、何度も夢に見た。

 京都で敗戦を迎え、そこで上官の水雷長に命じられた。「軍の機密を焼却しろ。1人でやれ」

 乗員数百人の部隊遍歴、人事評価を記した調査表、暗号の解読書……。「人秘」「軍秘」と書かれた書類を半日かけて燃やし、灰も土の中に埋めた。

 「罪」の重さを自覚したのは70代半ばを過ぎ、戦争体験を人前で話してから。あのとき偶然見つけて抜き取った自身の記録を、戦後初めて読み返した。「俺は頑張って生きていたんだな」という思いがわいたが、次第にいたたまれなくなった。「燃やした公文書は、戦友たちの命の集積。戦争の真実を正確に伝えられなければ、海に沈んだ仲間たちが浮かばれない」

 戦後73年。雪風の乗組員で生きているのは数人だけになった。西崎さんは「業を背負ったもの」として、生きている限り体験を伝えていこうと考えている。

 

女性 子ども 死体の山 佐世保空襲を経験・江島麗介さん(86)(2018年8月12日配信『東京新聞』)

 

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江島麗介さん(右)が亡くなった人を大勢見たというトンネルの前で取材する鈴木弘人記者=長崎県佐世保市で

 

 13歳の少年は空襲のさなか、1人で家を守ろうとした。縁側から、隣町が焼けるのが見える。「うちも焼けるかも」。焼夷(しょうい)弾が落ちても火を消そうと、木の棒に縄をつけた「火たたき」をしっかり握った。

 長崎県佐世保市の廃校の教室を活用した「佐世保空襲資料室」で、私は江島麗介さん(86)の話を聞いた。佐世保は私が生まれた街。再現された「火たたき」を手にしながら「これで本当に火を消せるんですか」と聞くと、江島さんは「無理でしょうね」と笑った。

 降りしきる強い雨の中、1945(昭和20)年6月28日の深夜から翌日未明にかけ、佐世保市の中心街が空襲に遭った。長男の江島さんは母や弟、妹ら5人を防空壕(ごう)に残して家に戻った。「俺は国を守る。おまえは家を守れ」。そう言って軍の施設に向かった父との約束を果たすために。爆撃で街は昼間のように明るかった。

 幸い、自宅も家族も無事だった。だが夜が明け、おじが空襲で亡くなったと聞き、走っておじの家に向かった。途中のトンネルが、わらのむしろで隠されていた。隙間から女性と子どもの死体が何人も重なっているのが見える。「前からも後ろからも空襲の熱気が来て、逃げられなかったのだろうね」。中に入る勇気はなく、引き返した。

 数日後、近くの山で遺体を焼く手伝いをすることになった。親族らが涙ながらに遺体を運んでくる。大人が頭の方、江島さんが足首を持って遺体の山に放り投げ、よく燃えるように薪(まき)も投げた。「もちろん、気持ちが良いものではない。それでも、大人の命令だったので夢中でやりました」

 梅雨の湿気で傷んだ数百もの遺体から異臭が漂う中、周囲にガソリンがまかれ、火が付けられた。底の方からじわじわ焼けていくのを見ていられず、その場を立ち去った。「人間の最後の哀れさを感じました」

   ◆

 海軍の基地近くに住み、「軍国少年だった」という江島さん。緑の軍服が「格好良い」と陸軍に憧れ、中学に入学後すぐに陸軍幼年学校を受験した。不合格となり、翌年に再び受けようと考えていたところ、終戦。米軍が進駐し市役所に星条旗がはためいた。「悔しかったよ。占領されたって思った」

 長い間、「思い出すことがつらい」と戦争体験を話さなかった。中学教諭を退職した60歳ごろ、自分より上の世代が亡くなっていくことに危機感を覚え、語り部を務めるように。毎年、空襲のあった6月末に小中学校で体験を伝えている。「子どもに伝えることで、自分でも『戦争はよくない』という思いが増してきました」。時に軽やかに、笑顔で体験を語ってくれるのは、73年の長い月日の流れがあってこそなのだと感じた。

◆私が産声を上げた産婦人科の病院は、B29の編隊が飛んだ真下だった。私が部活動でサッカーに明け暮れていた13歳の夏、江島さんは遺体を焼く手伝いをさせられていた。多くの人が犠牲になり、復興した土地で私は生まれたのだ。

 「人からされて嫌なことはしない。この単純な言葉を守りさえすれば、平和は保たれるんです」と江島さんは語る。どれだけの人が、それを守っているだろうか。ヘイトスピーチやいじめなどの問題は、この「単純な言葉」で解決できる。一人一人の小さな意識が平和をもたらす。生まれた土地で、私は初心に戻った気がした。

 

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<佐世保空襲> 佐世保空襲犠牲者遺族会と佐世保市によると、米軍のB29爆撃機141機が1945年6月28日午後11時58分、空襲を予告する「警戒警報」が鳴る前に襲来。翌29日未明までの約2時間、爆撃した。市内の約35%にあたる1万2037戸が全焼し、1242人が犠牲となった。同市では6月29日を「佐世保空襲の日」とし、毎年追悼式を行っている。

 

太平洋戦争:徴用船「まるで特攻」 92歳の元乗組員(2018年8月11日配信『毎日新聞』)

 

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徴用船に乗船していた吉田香一郎さん=大阪府吹田市で2018年8月2日


◇撃沈3度、死と隣り合わせ 仲間、いまだ海の底
 太平洋戦争では、国家総動員体制の下、兵隊や武器などの輸送のために民間船が徴用され、多くの船員が命を落とした。徴用船の乗組員だった吉田香一郎さん(92)=大阪府吹田市=も、連合国側の攻撃によって乗っていた船が3度沈没し、多くの仲間を失った。「ほとんど丸腰で危険な海に出され、まるで特攻に行くようだった」と振り返る。
 吉田さんは戦時中、日本郵船で経理関係の仕事をしていた。しかし、戦局の悪化で船員が不足し、1944年1月に海上勤務を命じられた。当時はまだ18歳。戸惑いはあったが、「同じ年ごろで軍隊に取られている人もいるのだから、仕方がない」と受け入れた。
 待っていたのは、軍人と同じように死と隣り合わせの仕事だった。海へ出るようになって約8カ月後。門司港(現北九州市)から中国の上海に兵隊を運んでいたところ、潜水艦の魚雷を2発受けて船が沈んだ。救命艇で命からがら脱出すると、すぐに別の徴用船での勤務を命じられた。出航の度に不安になったが、拒否はできなかった。
 2度目の沈没は「九死に一生」の体験だった。45年2月、重油を載せてシンガポールから日本へ航行中、ベトナム沖で、魚雷攻撃を受けた。衝撃と同時に船体が傾き、甲板にいた吉田さんは海に放り出された。
 板きれにしがみついて南シナ海を漂った。一緒に浮いていた仲間たちは次々に力尽きていった。「眠ったらおしまいだ」。自分に言い聞かせて何とか意識を保ち、約10時間後に日本軍の艦艇に救出された。乗組員のほぼ半数の29人が、船と一緒に海に沈んだ。
 終戦の1カ月ほど前には、関門海峡に仕掛けられていた機雷に船が触れて沈没。もはや安全な海域などなくなっていた。だから、終戦を知った時には心底ホッとした。「これで死ぬこともなくなったんだな」
 戦後73年がたったいまも、多くの仲間の遺骨は海底に眠ったままだ。3度も船が沈められながら、自分が生き延びられたのは奇跡に近い出来事だと改めて思う。「狂気に支配され、命が軽んじられた。あんな時代が二度とあってはいけない」【岡崎英遠】
◇徴用船員、軍人より高い死亡率
 1941年に日米が開戦すると、食料や資源などを海上輸送する船が不足した。このため政府は、あらゆるものを国の統制下に置くため38年に制定された「国家総動員法」に基づき、民間商船や船員の大半を徴用し、兵隊や武器の輸送まで担わせた。
 公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」(東京都)などによると、終戦までに約2500隻の商船が沈められ、漁船なども含めると7000隻を超える民間船が失われた。約6万人の船員が犠牲となり、そのうち3割ほどは未成年だった。死亡率は推計で43%に達し、約2割とされる陸海軍の軍人と比べても、生命の危険が大きい任務だったと言える。
 顕彰会の岡本永興理事は「島国である日本は、拡大した戦線を維持するのも資源を確保するのも海上輸送が生命線だった。だが、まともな護衛も付けずに、徴用船を次々と危険な海域に送り出した結果、大きな犠牲を招いた」と指摘する。

 

<つなぐ 戦後73年>栃木文化会館で平和展  「原爆の図」複製画など展示(2018年8月11日配信『東京新聞』−「栃木版」)

 

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会場に展示された「原爆の図」の第2部「火」(原寸大複製)=栃木市で

 

 原爆被害の実態を学び、平和の尊さを考える「とちぎ平和展」が10日、栃木市旭町の栃木文化会館展示室で始まった。画家丸木位里(いり)さん、俊(とし)さん(ともに故人)夫妻共同制作の「原爆の図」の原寸大複製画などが展示されている。市主催。14日まで。

 「原爆の図」(全15部)から原寸大展示したのは、第2部の「火」と第4部「虹」。ともに横幅は7・2メートルで鑑賞者を圧倒する迫力がある。「火」は「青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風」を表現。「虹」は原爆が生んだ大粒の雨の後、暗黒の空に浮かんだ虹を表している。第6部「原子野」、第九部「焼津」は縮小複製画で展示している。

 また、やけどで苦しむ人々や原爆ドームなどの写真、絵画パネル約30点に軍服や千人針など実物資料、陶製アイロンなど物資不足の戦時下で代用された品々も並ぶ。企画を担当した市総務課の手塚菜津子さんは「展示品を通じて戦争の悲惨さを感じてもらいたい」と来場を呼びかける。

 期間中の12日は午前10時から同会館大会議室で「戦争体験を聞く会」が開かれる。語り部は、ソ連抑留を体験したさくら市の秋元武夫さん(94)、宇都宮空襲を体験した栃木市の梁島宏光さん(76)。ともに入場無料。

 問い合わせは市総務課=電0282(21)2342=へ。

 

<つなぐ 戦後73年>平和の鐘つき犠牲者悼む さくら・東輪寺50人参列(2018年8月10日配信『東京新聞』)

 

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「平和の鐘」をつく参列者=さくら市で

 

 長崎が「原爆の日」を迎えた9日、さくら市の東輪寺で、平和の鐘をつく集いがあった。檀家(だんか)の人たちや平和運動に取り組む市民グループのメンバーなど約50人が参列し、犠牲者を追悼した。 

 東輪寺は戦時中、県外から疎開の人たちを受け入れ、戦後は、戦争で亡くなった地元出身者を供養してきた。

 2000年からは、原爆投下後の広島で焼け跡から採られた「平和の火」を分けてもらい、灯(とも)し続けている。地元の人から鐘の寄進も受けて「平和の鐘」と名付けた。鐘を支える支柱の中には、長崎、広島の被爆地の土も詰め込まれているという。

 境内で行われた集いでは、原爆が落とされた午前11時2分、参列者全員で黙とう。一人ずつ鐘を鳴らして、犠牲者の追悼と、核兵器のない平和な世界の実現を祈った。集いは、広島の「原爆の日」の6日にも開かれた。

 人見照雄住職は「核兵器という誤った方向ではなく、平和に向かうようにかじを切らなければ。広島、長崎の悲惨な原爆を忘れてはいけない」と訴えた。

 当時、小学6年生で広島で被爆した那須烏山市の小松宏生(ひろみ)さん(84)も参列した。広島郊外の寺に学童疎開していた小松さんは、原爆で父や祖母ら家族が命を落とした。戦後、母親の実家がある宇都宮市で過ごした小松さんは「被爆者の一人として、平和の大切さをできるだけ伝えていきたい」と話した。

                

綾瀬はるかが取材 “女性たちの戦争”の真実…終戦の日特別企画で放送(2018年8月9日配信『毎日新聞)

 

 

 

 

 

 女優の綾瀬はるか(33)が、終戦の日である15日に35分拡大で放送されるTBS「NEWS23」(後11・10)特別編に出演。10歳のとき満州で終戦を迎えた鈴木政子さん(83)を自らインタビューし、平和への思いを語る。綾瀬が戦争体験者の証言を記録するシリーズは2010年から9年連続の放送となる。

 番組ディレクターの揖斐祐介氏は、綾瀬の起用理由について「最初は綾瀬さんが広島出身ということで、被爆者の話を聞いていただくところから始まりましたが、徐々にテーマを広げ今に至っています。綾瀬さんが話を聞くことが、より多くの視聴者の方に戦争について考えてもらうきっかけになれば」と語る。

 今回、綾瀬が訪れたのは鈴木政子さん。10歳のときに満州で終戦を迎え、ソ連兵に連行され、収容所で2か月を過ごした経験があり、戦後70年以上にわたり、語られることのなかった“女性たちの戦争”の真実を語る。

 自ら取材した綾瀬は「証言者のみなさんの中には惨くて、悲しい戦争を思い出したくないと、これまで胸の中に閉じ込めてきたという方もたくさんいます」とコメント。「今回の証言は、満州で終戦を迎え、姉のように慕っていた女性たちが性暴力の被害に遭ったお話です。戦争を知らない私たちのために貴重な証言をしてくださいました。是非聞いてください」と視聴者に呼びかけた。

 また、揖斐ディレクターは「戦争を知らない世代が増えていくからこそ、戦争の悲劇と、平和の尊さを伝えなければいけない。戦争を実際に体験した方が少なくなるなかで、今、聞ける話を、今、聞いておかねばならないと思います」と今回のインタビューの意義を語っている。

 

<つなぐ 戦後73年>台東・山谷 日雇い労働者らを夏祭りで追悼(2018年8月7日配信『東京新聞』)

 

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地域で亡くなった人たちを追悼した山谷夏祭り=台東区で(実行委の船元康子さん提供)

 

 簡易宿泊所が密集する労働者の街・山谷の夏祭りが4、5日、地域にある台東区の玉姫公園(清川2)であった。4日には山谷でこれまで亡くなった日雇い労働者や路上生活者(ホームレス)らを追悼する式があり、労働者らが在りし日の仲間をしのんだ。

 仕事が減るお盆の時期に集まり、仲間同士で労をねぎらい合おうと、有志で作る実行委員会が毎夏開催している。故郷に帰れない事情を抱えた人もおり、「お疲れさま」と声を掛け合う場になっているという。

 会場では毎年、公園や路上で倒れたホームレスや、山谷で暮らしていて亡くなった労働者らの遺影などを飾る祭壇を設置してきた。追悼の式では、2010年ごろから僧侶がお経を読むようになり、昨年からキリスト教の聖職者らも参加している。

 炊き出しなどに取り組む市民団体「ほしのいえ」(荒川区)は、約30年間に亡くなった80人の名簿を張り出した。代表の中村訓子(のりこ)シスター(75)は「追悼により、彼らが生きた証しを共有できる。こうして祈ってくれる人がいると分かれば、安心できる人もいるだろう」と祈りをささげていた。

 支援する側とされる側を区別せず、参加者みなで行う共同炊事もあり、温かいご飯などが振る舞われたほか、楽器の演奏ステージや屋台の出店もあった。会場は大勢の人でにぎわい、実行委員の広山直美さんは「年に一度の祭りでほっとしてもらえれば」と話していた。

 玉姫公園では13〜15にも、「東京・山谷日雇労働組合」主催の夏祭りが開かれる。

 

<つなぐ 戦後73年>僕らが語り継ぐ 「被爆者の方いなくなっても」(2018年8月6日配信『東京新聞』−「東京」)

  

 「いつか被爆者が一人もいなくなる」。平成最後の「原爆の日」を迎えた6日、酷暑の平和記念式典で、子どもたちは非核の思いを未来に引き継ぐと誓った。

 「僕らが原爆の事実を受け継がないと、今まで被爆者の方が語ってきてくれた意味がなくなってしまう」。広島の子どもを代表し、平和記念式典で「平和への誓い」を宣言した広島市立五日市東小6年の米広優陽(よねひろゆうひ)君(12)は強い思いを胸に、平和記念公園から訴えた。

 身内に被爆者はいないが、学校の平和学習などで何度も被爆体験を聞いてきた。印象深かったのは4年生の時に聴いた被爆者の坪井直(すなお)さん(93)の講演だ。

 坪井さんは被爆後、助けに来たトラックが働けそうな大人の男性だけを乗せていき、乗りたそうだった女の子は置き去りにされた様子を語った。「戦争は助け合おうという大切な気持ちが失われる」と恐ろしさを感じた。

 そんな中、テレビのニュースで被爆者の平均年齢が80歳を超えていると聞いた。自分が22歳になったら90歳、32歳の時には100歳を超える計算だ。「僕が大人になったとき被爆者の方が一人もいなくなるときが来るんだ」と実感した。

 女の子の話をする坪井さんは涙を浮かべていた。被爆者の方がこうしてつらい話を伝えてくれてきたから、自分も当時の話を知ることができる。同じように将来誰かが語り継がないといけない。「戦争のことをもっと知りたい」と最近思うようになった。

 子ども代表は多くの人に受け継ぐ大切さを訴えるチャンスだ。「学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります」。暑い夏空の下、大きな声が響いた。

 

<つなぐ 戦後73年>広島原爆の日 「歴史を忘れた時、重大な過ちを犯す」(2018年8月6日配信『東京新聞』)

 

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「平和への誓い」を宣言する米広優陽君(左)と新開美織さん=6日午前、広島市の平和記念公園

 

 広島は6日、被爆から73年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で日本政府に「核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で憲法の平和主義を体現するためにも、国際社会が核なき世界へ向けた対話と協調を進めるよう役割を果たしてほしい」と主張。直接的な表現では条約の批准を求めなかった。

 昨年、核禁止条約が国連で採択され、核廃絶への機運醸成につながると期待された。しかし、米国の「核の傘」の下にある日本政府は否定的な立場を取っており、被爆者から批判が相次ぐ。今年6月の米朝首脳会談で北朝鮮は「完全な非核化」を約束したが、先行きは不透明だ。平和宣言は「朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって進むことを希望する」とした。

 平和宣言は、自国第一主義の台頭や核兵器の近代化など世界の現状を「冷戦期の緊張関係の再現」と懸念。歴史を忘れた時に人類は再び重大な過ちを犯すとし「ヒロシマを継続して語り伝えなければ」と指摘した。核保有国には核拡散防止条約(NPT)が義務付ける核軍縮の誠実な履行を要求した。

 式典ではこの1年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした5393人の名前が書かれた原爆死没者名簿を原爆慰霊碑の石室に納めた。これまでに記帳された死没者の総数は計31万4118人となった。

 約5五万人の参列者は「平和の鐘」が響き渡る中、原爆が投下された時刻の8時15分に黙とう。子ども代表でいずれも広島市の小学六年、米広優陽君(12)と新開美織さん(12)が「平和への誓い」を宣言した。

 式典には85カ国と欧州連合(EU)の代表が参列。核保有国からは米国の駐日大使が3年ぶりに参加した他、英仏ロやパキスタンなどが代表を派遣した。国連の軍縮担当上級代表の中満泉事務次長がグテレス事務総長のメッセージを代読した。被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、今年3月末時点で15万4859人。平均年齢は82・06歳となった。

◆「平和への誓い」全文

人間は、美しいものをつくることができます。

人々を助け、笑顔にすることができます。

しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。

昭和二十年(一九四五年)八月六日 午前八時十五分。

原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。

「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。

「うちの息子はどこ」と、捜し続けるお父さんやお母さん。

「骨をもいでください」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉がない姿でした。

広島は、赤と黒だけの世界になったのです。

七十三年がたち、私たちに残されたのは、

血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。

そして今もなお、遺骨のないお墓の前で静かに手を合わせる人。

広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、

今、私たちは、強く平和を願います。

平和とは、自然に笑顔になれること。

平和とは、人も自分も幸せであること。

平和とは、夢や希望をもてる未来があること。

苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。

その平和への思いをつないでいく私たち。

平和をつくることは、難しいことではありません。

私たちは無力ではないのです。

平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。

七十三年前の事実を、被爆者の思いを、

私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

平成三十年(二〇一八年)八月六日

子ども代表

広島市立牛田小学校六年

  新開美織(しんかいみおり)

広島市立五日市東小学校六年

  米広優陽(よねひろゆうひ)

 

<つなぐ 戦後73年>「黒焦げの遺体 戦争もう嫌」 前橋空襲の犠牲者を慰霊(2018年8月6日配信『東京新聞』−「群馬版」)

  

前橋空襲の追悼碑に献花して祈りをささげる参列者たち=前橋市で

 

 前橋空襲から73年を迎えた5日、多くの犠牲者が出た場所にある前橋市住吉町の比刀根(ひとね)橋記念公園で、長年続いてきた同町2丁目自治会主催の慰霊行事が営まれた。参列者の中には空襲を体験し、犠牲者たちの遺体を目の当たりにした女性もおり、鎮魂の思いを募らせた。 

 「トタン板の上に、真っ黒焦げの遺体を2、3人乗せ、数人の男性が支えて運ぶのを目撃した。まるで苦しんだり、逃げ回ったりしているかのように、手や足は曲がって固まったまま。何度も思い出す」

 空襲当時も今も公園の近くに住む若林昌子さん(86)は、10代半ばで脳裏に焼き付いた記憶をはっきりとした口調で証言した。

 同町一帯は、近くに商店街があるためか、空襲の標的となった。公園には戦時中に防空壕(ごう)があり、炎に包まれた内部や周辺で多くの犠牲者が出た。

 若林さんは空襲をラジオで知り、家族とすぐに逃げて全員無事だったが、自宅は全焼。自宅の跡地へ戻ると、周辺に遺体が散乱し、近くの遺体置き場へ運ぶ作業をしていた。

 「終戦後は苦しい生活だった。戦争はもう、嫌だ。二度と繰り返してほしくない。海外の紛争に心を痛めているが、日本はこの平和のままがいい」。若林さんは強く願った。

 市によると、市内で約724トンの爆弾が投下され、市街地の約8割が焦土と化し、535人の命が奪われたという。

 慰霊行事には、地元住民や子どもたち計約50人が参列。防空壕に避難した住民の中で生き残った原田恒弘さん(80)が「地域住民と行政が、空襲を次世代へどうつなげるかを模索しなければならない」と参列者に語り掛けた。

 続いて、町内の小学6年生7人が平和宣言を読み上げ、最後に参列者たちが千羽鶴が添えられた追悼碑に献花し、祈りをささげた。

 この日は市内の各宗教施設などでも慰霊行事が営まれた。

 

<つなぐ 戦後73年>原爆投下後の惨状 知って 広島被爆者の絵画展(2018年8月4日配信『東京新聞』−「埼玉版」)

                                                                     

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いかだで避難する子どもに向かい必死で叫ぶ傷だらけの母親

 

広島の被爆者が、原爆投下後の様子を描いた「原爆絵画展」(東京新聞さいたま支局など後援)が6〜8日、所沢市役所1階の市民ギャラリーで開かれる。入場無料。

 核兵器被害の惨状を後世に伝えるための取り組み。広島平和記念資料館(広島市)から複製画を借り受けて毎年夏、県内各地を巡回する形で行われている。主催は各地の有志でつくる原爆絵画展実行委員会。今年は7月末〜9月初旬、さいたま市、川越市、所沢市など12カ所を巡る。

 所沢で展示されるのは計60点。いかだで避難する子どもに向かい必死で叫ぶ傷だらけの母親(当時32歳女性の作品)

 虫の息の母親にしがみ付く二歳くらいの幼児(同32歳男性の作品)

 水道蛇口に列をつくる被爆者たち(同17歳の作品)などがある。

 所沢実行委の田中重仁弁護士は「日本人はもちろん、核兵器保有国の方々にも見てほしい。展示絵画は毎年異なるので、昨年までの来場者にも来ていただきたい」と話している。

 会場は西武新宿線航空公園駅東口から徒歩約3分。問い合わせは実行委事務局の所沢りぼん法律事務所=電04(2938)1012=へ。 

 

<つなぐ 戦後73年>「戦争は文化財も奪う」 水戸空襲の爪痕を弘道館で見学(2018年8月6日配信『東京新聞』―「茨城版」)

 

 

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特別公開された弘道館記拓本を見学する参加者=水戸市で

 

 73年前の8月、水戸空襲で甚大な被害を受けた水戸藩の藩校「弘道館」(水戸市)など、戦争と文化財について考える講演会が5日、館で開かれた。小圷(こあくつ)のり子主任研究員が「戦争は命だけでなく多くの文化財を奪う」と伝えた。

 水戸空襲は1945年8月2日未明を中心に、米軍が焼夷弾(しょういだん)を落とした。市街地の大部分が焦土と化し、家屋のほか、水戸城の三階櫓(やぐら)や偕楽園の好文亭なども焼失した。

 弘道館は、敷地内の鹿島神社や孔子廟(びょう)が全焼。焼夷弾の火の粉は正庁にもおよんだが、当時の証言から、市民による消火活動で奇跡的に延焼を免れたことを紹介した。

 終了後、参加者は正庁玄関の天井にある空襲の焦げ跡など戦争の爪痕を見学。また、連合国軍総司令部(GHQ)の指示のもと、廃棄の危機にあった「弘道館記拓本」も特別公開され、参加者は熱心に見入っていた。 

 

俳優・宝田明さんら講演 戦争の記憶語り継ぐ催し(2018年8月5日配信『神戸新聞』)

 

旧満州での戦争体験を語る宝田明さん=市総合福祉保健センター

 

 戦争の記憶を語り継ぐ催し「平和を考える市民のつどい」が5日、三田市総合福祉保健センター(兵庫県三田市川除)であった。少年時代を中国東北部の旧満州で過ごした俳優の宝田明さん(84)と、三田で空襲を経験した中嶋宏次さん(81)=同市=が登壇し、戦争体験に約300人が耳を傾けた。(門田晋一)

 8月の「平和について考える市民月間」に合わせ、三田市などでつくる実行委員会が毎年開いている。

 宝田さんは父親が南満州鉄道で務めていたため、旧満州・ハルビンで育った。終戦後、貨物列車でシベリアに移動させられる関東軍にいた兄を捜しに行き、ソ連兵から銃撃を受けたという。

 腹部から出血し、2、3日後には傷口がうみ、元軍医に熱した裁ちばさみで除去してもらった銃弾は、鉛の弾丸だったといい、「鉛中毒で命を落としていたかもしれない。ソ連も撃った兵士も許せない」と怒りをあらわにした。

 戦後73年を振り返り「1人の人間の命は地球よりも重い。愛する人を戦争で殺すような選択をしてはならない」と締めくくった。

 また、1945(昭和20)年7月19日に米軍機2機の機銃掃射で三輪国民学校の児童4人と農家の女性1人が犠牲になった三田の空襲を経験した中嶋さんは「家の近くで農作業中の女性が撃たれた。家の軒先で寝かされているのを見て、なんてむごいことだと思った」と振り返った。

 最後に参加者が市総合文化センター・郷の音ホール(天神1)の芝生広場にある「平和の鐘」を鳴らし、20羽のハトを空に放った。

 

<つなぐ 戦後73年>水戸空襲 忘れないで 水戸で三橋さんら体験談(2018年8月3日配信『東京新聞』−「茨城版」)

 

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水戸空襲の体験を語る三橋昭子さん=水戸市で

 

 約300人が犠牲になった水戸空襲から73年を迎えた2日、戦争の悲惨さを語り継ごうと、体験者から話を聞く会が水戸市内で開かれた。当時、国民学校の教師だった三橋昭子(てるこ)さん(91)ら2人が登壇。親子連れらが参加し、平和の大切さを考えた。 

 水戸空襲は、1845年8月1日未明から2日明け方にかけ、米軍が水戸市内を中心に焼夷弾(しょういだん)を落とした。県の記録などによると当時、住んでいた戸数の9割に当たる約1万戸が焼け落ち、約4・5平方キロメートルが一晩で焦土と化した。

 三橋さんは空襲前に父親を亡くし、市内で母親と2人暮らしだった。1日深夜、2人で自宅にいると「飛行機の音がだんだん大きくなり、真っ暗の中でぱっと明るくなった。すると、火の玉が落ちてきた」。それは焼夷弾で自宅にも落下。あっという間に燃え広がった。

 位牌(いはい)と家系図を手に、飛び出した。街中で、わが子の名を呼ぶ親の声や人々の絶叫が入り交じる中、母の手を引いて夢中で逃げた。時折、後ろを振り返ると、「水戸の町は夕焼けのように真っ赤に燃えていました」。明け方、自宅へ戻ったが、何もかもが焼け落ちていた。

 「あの空襲によって、戦争は絶対にいけない、平和の喜びを教えられた」と話す三橋さん。3年前、100枚の原稿用紙に自身の戦争体験をまとめた。これを踏まえ、参加した人たちに「書き留めることで、今日の話を忘れないで」と呼び掛けた。

 会は水戸市立博物館が毎年8月に企画。終戦記念日の15日にも別の体験者の話を聞く会が開かれる。

 

<つなぐ 戦後73年>原爆被爆者、経験語る 県庁、7日までパネル展(2018年7月31日配信『東京新聞』)

 

 

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紙芝居を上演する「じゅげむ」のメンバーと茂木さん=県庁で

 

 広島や長崎に原爆が投下されてまもなく73年になるのを前に、原爆被爆者の経験を伝える催しが30日、水戸市の県庁2階ロビーで開かれた。広島で被爆した茂木貞夫さん(84)=水戸市=を主人公にした紙芝居が、茂木さんも出席して上演された。

 笠間市の朗読勉強会「じゅげむ」の女性らが、茨城大紙芝居研究会が制作した紙芝居を上演。茂木さんが被爆直後に川に飛び込んで逃げたことや、大やけどで皮膚がただれていたことなどを紹介した。

 茂木さんは上演後、「思い出すのがつらい話でも、同じ思いをする子どもが二度と出ないように、語り続けていきたい」と訴えた。

 県と県原爆被爆者協議会の共催。県庁二階ロビーでは8月7日まで「原爆パネル展」も開いている。原爆投下直後の広島、長崎の様子をとらえた写真など、広島平和記念資料館(広島市)が提供した23枚を展示している。

 

<つなぐ 戦後73年>伝える小金井空襲 JR駅前で慰霊祭 県内外から70人(2018年7月30日配信『東京新聞』)

 

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意見を交わす空襲体験者と参加者=下野市で

 

1945年7月、旧国分寺村(現下野市)の小金井駅で列車が米戦闘機に銃撃されて多数の犠牲者を出した「小金井空襲」の慰霊祭が29日、現場となったJR小金井駅前で開かれた。後に建立された石碑の前で市民らが手を合わせ、平和への誓いを新たにした。

 小金井空襲は終戦間近の45年7月28日正午ごろに起きた。東京方面に向かっていた列車が小金井駅の手前から停車後にかけて襲われ、乗客や周辺にいた計31人が犠牲となり、70〜80人が負傷したとされる。駅には当時、戦死者の遺骨を出迎えるために、多くの人が集まっていたという。

 郷土で起きた戦災の記憶を後世に受け継ごうと、元国分寺町長の若林英二(ひでじ)さん(94)ら有志が中心となって、長年にわたり毎年7月28日に合わせて慰霊祭を続けてきた。

 今年は空襲の体験者を含めて県内外から約70人が参加。1998年に建立された石碑「平和の礎(いしじ)」の前で焼香し、目を閉じて思いを巡らせた。襲撃時、列車に乗っていた茨城県筑西市の僧侶横井千春さん(88)と長男高明(こうめい)さん(57)が読経して霊を慰めた。

 慰霊祭の後、近くのオアシスポッポ館に会場を移し、横井さんら当時を知る人たちが体験を語った。

 

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JR小金井駅前に建てられた石碑の前で手を合わせる参加者

 

 横井さんは学徒動員で働いていた宇都宮市から茨城に帰省する途中だったといい、「襲撃で車内は阿鼻(あび)叫喚と化した」と振り返った。無残な状態となった遺体が脳裏に焼き付いていると明かし、「こんなことは言いたくはないが、体験者として事実を伝えなければならない」と言葉を絞りだした。

 静かに耳を傾けていた参加者たちは「こういう出来事を風化させないことが私たちの大きな使命だ」などと感想を話した。

 慰霊祭実行委員会の会長を務めた星野平吉さん(67)=小山市=は「73年がたち、惨禍を受け継いでいくことが難しくなっている。平和を守っていくために、犠牲者や遺族、地域の気持ちを大切にして、これからも伝えていきたい」と話した。

 

<つなぐ 戦後73年>核被害 89歳が問う 闘病ディレクター、世界回り番組制作(2018年7月29日配信『東京新聞』)

 

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ニュージーランドで被ばくした退役軍人を取材する鈴木昭典さん(右)=BS12トゥエルビ提供

 

現役最高齢のテレビディレクターといわれ、大阪を拠点に活動する鈴木昭典さん(89)が、日本と南太平洋の「ヒバクシャ」を追いかけたドキュメンタリー番組「核の記憶 89歳ジャーナリスト 最後の問い」が8月4日、BS12トゥエルビで放送される。構想から2年。鈴木さんは「人生最後の仕事」との覚悟で臨み、病と闘いながら各地で核被害の実態をリポートし、執念で完成させた。 

 鈴木さんは大阪生まれ。名古屋市の軍需工場で働いていた16歳の時、終戦を迎えた。1956年、大阪テレビ放送(現朝日放送)に入社。昭和史を検証する番組を多く手がけた。退職後の88年に「ドキュメンタリー工房」(大阪市)を設立。代表作に連合国軍総司令部(GHQ)関係者に取材を重ね、憲法の制定過程を追った「日本国憲法を生んだ密室の9日間」(93年)がある。

 今回の企画が浮上したのは2016年。広島市に原爆が投下された八月六日に毎年、ニュージーランドで追悼集会「ヒロシマ・デー」が開かれていると聞いたことだった。日本から遠く離れた南半球で、なぜ原爆の犠牲者を追悼するのか。「足でネタをつかむ」のが信条の鈴木さんは、自分の目で確かめるため同年8月、真冬の現地へ飛んだ。

 集会は、世界の核廃絶運動のリーダーであるケイト・デュースさんが主宰。鈴木さんはデュースさんらの取材を通じ、第2次世界大戦後に英国の核実験でニュージーランドの退役軍人らが被ばくしたことを知った。影響は子や孫の代にも及び、染色体異常やがんなどの健康被害で苦しんでいる事実に衝撃を受けた。

 現地で感じたのは「(核被害は)過去ではなく今の話だ」ということ。高齢の身でやりきれるのか不安を感じながらも、番組をつくる決意をした。

 17年3月にはニュージーランドと、フランスが90年代まで環礁で核実験を行っていた同国領ポリネシアのタヒチを訪問。実験に携わった地元の人たちが、フランス政府から危険性の説明を十分に受けないまま従事させられたり、汚染の恐れがある魚や雨水を摂取し、がんを発症した実態を知る。「もう一つのヒロシマだ」と確信した。

 帰国後、自身にもがんが見つかった。年齢的に手術はできなかったが、主治医から「進行が遅いので2年は大丈夫」との診断を得て広島を取材。被爆者の多くはがんで他界し、存命の人もがんで苦しんでいる姿を見た。足腰の病気も患い長崎市には行けなかったが、工房スタッフが取材を続けて完成にこぎ着けた。

 番組では、こうした取材内容を克明に報告。鈴木さんは「戦争体験者として、世界のヒバクシャの現状を伝えなくては、との思いでつくった。ぜひ見てほしい」と話している。

 番組の放送時間は8月4日午後7時〜8時10分。

 ◇ 

 アジアや太平洋で多くの命を奪い、日本各地が焦土と化した戦争が終わってから間もなく73年。風化してしまいそうな過酷な記憶、平和を守り続けようという思いを未来へつなぐ。

 

 

遺族会青年部 記憶を継ぐ役割担って(2018年9月23日配信『秋田魁新報』−「社説」)

 

 太平洋戦争などで戦死した人の遺族でつくる全国の遺族会が、戦没者の孫やひ孫らによる「青年部」発足の動きを加速させている。遺族会の会員が減少の一途をたどる中、日本遺族会女性部が2011年、青年部の創設を提言したのがきっかけ。12年の熊本県を皮切りに、これまでに31都道府県で組織化されている。

 本県でも昨年9月に県遺族連合会が、傘下の市町村遺族会の計90人を世話人として青年部を立ち上げた。今年に入ってからは由利本荘市、八峰町、仙北市の各遺族会で青年部が発足し、ほかにも秋田市など4市が年内発足をにらんで準備を進めている。県連合会は、来年度までに県内全市町村での結成を目指す。

 県連合会によると、1952年の設立時2万人余りだった県内の遺族会員数は、今年1月時点で9080人まで減った。戦没者の妻は約210人で平均年齢は96歳。約4千人に上る遺児の平均年齢も78歳と高い。戦没者の妻や子が死んで世帯主が孫に代替わりしたのを機に、遺族会を退会するケースがほとんどだという。

 各遺族会は、戦没者の慰霊や顕彰、遺族の処遇改善など幅広い事業に携わってきた。最近では戦争体験の伝承に力を入れている会も多い。だが、組織の高齢化は深刻で、これらの事業を安定的に継続実施できるかどうかは組織の若返りに掛かっているといえる。青年部創設を足掛かりに、40代、50代になっている孫世代の会員を増やしていく必要がある。県内でも、孫世代が中心となった組織運営を一日も早く実現させることが望まれる。

 地域によっては戦没者追悼式の参列者が極端に減っているケースも珍しくない。戦争体験者で組織する戦友会も会員の高齢化に伴い、活動をやめている会が増えている。戦争の悲惨さを肌で知る人は減り続けているのが現状だ。

 先の戦争を語り継ぐ人がいなくなれば、記憶を風化させることにつながってしまう。記憶を継ぐ時間は限られていると言っていい。青年部には、戦争体験者や遺族たちの記憶を未来へつなぐ役割を大いに担ってもらいたい。

 若い世代にとって遺族会メンバーらの話を聞くことは、自分と同じぐらいの年代で戦死した戦没者に思いをはせ、遺族がどんな思いで戦後を生き抜いたかに想像を巡らす機会になるはずだ。

 遺族会の存在は、多くの尊い命が奪われた戦争の歴史について考えるよすがになる。組織の安定的かつ継続的な活動につなげるためにも国や県など行政が積極的に支援することが求められる。孫世代は遺族年金や特別弔慰金の受給資格がない上、年会費を自己負担しなければならない。孫世代が安心して活動できるよう環境を整えることも考える必要があるだろう。

 

67年前の2つの条約調印(2018年9月9日配信『佐賀新聞』−「有明抄」)

 

 8月は「戦争と平和を考える月」といわれるが、実は9月にも“戦争と平和”に関する知っておきたい重要な日がある

◆昭和天皇の玉音放送から6年余の1951(昭和26)年9月8日。第2次世界大戦における連合国と日本の戦争状態を終結させるため、67年前のこの日、サンフランシスコのオペラハウスで吉田茂首相は、その後の日本の針路というのか“行き方”を決める二つの文書に署名した

◆午前中に「講和条約」、午後に「安保条約」。「講和条約」は連合国48カ国と調印。日本全権の吉田首相は日本語で「この条約は日本に完全な主権と平等と平和を回復するもので、和解と信頼の文書である」と演説。翌年4月28日の講和条約発効で日本本土の占領の時代が終わりを告げた

◆実際に主権を回復したのは本土だけで、北方領土は旧ソ連が占拠、奄美や小笠原とともに切り離された沖縄は72年の本土復帰まで米施政権下に置かれた。「安保条約」は第1条で米軍の駐留権を求め、日本の安全を米国の手に委ねる道を選択、沖縄に米軍基地が集中する要因にもなった

◆当時の安保条約に代わるものとして60年1月19日、「新安保条約」が岸信介首相とアイゼンハワー大統領との間で署名され、これが今日の日米関係や基地問題につながっているということも知っておきたい。

 

昭和もまだ1桁のころ、サトシ少年…(2018年9月2日配信『福井新聞』−「越山若水」)

 

 昭和もまだ1桁のころ、サトシ少年は武生駅の裏に住んでいた。兵隊さんの出征の連絡が来ると仲間と駅に集まって、「万歳!」とやった

▼満州事変や上海事変が激しかった時代。鯖江の連隊の兵隊さんが、戦地へ向かう姿を見るのは珍しいことではなかった。ただ気付いたことが

▼見送る人は騒いでいるのに兵隊さんは「しょぼん」として手を振ることもない。貨車にのった軍馬までが、「しょぼん」としていた

▼それを見た仲間たちは駅からの帰り道、みな黙りこくってしまった。今年92歳で亡くなった絵本作家の加古里子(かこさとし)さんの記憶では、出征の見送りの光景はあくまで寂しい。小学校卒業時の作文を元に出版された「過去六年間を顧みて」の中で、ご本人が振り返っている

▼作文の原稿は文字通り戦火をくぐった。1945年4月東京の自宅が焼失。でも防空壕(ごう)の中にあって無事だった。不思議な運命で加古さんの少年期の世相を今に伝えている

▼8月15日が終戦の日だと知らない若者が増えているという。とすれば、日本が降伏文書に調印した9月2日は、さらに意識されることが少ないだろう

▼戦争の記憶の薄れは平和の証しというかもしれない。けれど、危うい事柄は、人々が関心を寄せなくなったときにこそ忍び寄ってくる。つくられたにぎやかさの中で、表情を失っていた兵士のことを覚えていたい。

 

ペンは剣より強し(2018年8月29日配信『宮崎日日新聞』−「くろしお」)

 

 「ペンは剣よりも強し」という。もともとの意味とは少し違うらしいが、この古い格言は一般的には人を殺す武器より言論の方がもっと強い、というふうに解釈されている。

 太平洋戦争を戦った兵が戦争実態を記録したものは本となり出版されているが全体から見ればごく一部だ。戦友の大半を失うような激戦地、生還を期さない必死の特攻、捕虜の体験者は得てして口が重く、何も語らず、書き残さないまま逝ってしまった人が多い。

 直木賞作家の豊田穰氏は艦上爆撃機搭乗員だった。ソロモン海域で撃墜され、米軍の捕虜となった経験を持つ。体験に根ざした小説のほかに戦争記録文学「蒼空の器」などを残してくれたが、それらの価値は歳月を経るほど増している。

 元特攻隊員で都城市に住む東郷勝次さんは不戦への誓いを新たにしようと、戦時の心情などを手記にまとめた。400字詰め原稿約150枚。「と号(特攻)要員だから指示があるまで待機せよ」との命令を受けた時、全身にえたいの知れない電流が走ったという。

 待機数日後には配置換えとなり特攻を免れ、万世飛行場(鹿児島県)で三式戦パイロットとして、特攻機の護衛、上空援護等の任に就いた。その後再び、特攻志願したがついに出撃することなく大阪での防空任務を最後に終戦を迎えた。

 戦闘機の操縦かんを握っていた手で書いた原稿には戦争の理不尽を伝えたいという思いがにじむ。ペンは剣より強いことを証明するのは戦争を知らない世代の務めだ。90歳を超えて書き上げられた東郷さんの手記を読み、思いに応えたい。

 

九人の乙女(2018年8月20日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

終戦記念日の8月15日はお盆のさなかだ。今年も帰省先などで祖先の霊とともに戦争の犠牲者を悼んだ人は少なくなかろう。ただ、戦争が「玉音放送」を合図にぴたりと止まったわけではないことも、記憶に刻んでおきたい

▼1945年8月20日、樺太の真岡(ホルムスク)郵便局で、電話交換室の女性9人が青酸カリをあおって命を絶った。真岡にはこの日、当時のソ連軍が上陸していた

▼ノンフィクション作家の川嶋康男さんが「永訣(えいけつ)の朝 樺太に散った九人の逓信乙女」(河出文庫)で、実相に迫っている。最初の1人は「まるで、風邪薬を飲み込むような仕草(しぐさ)」だったという。「飲まないのよ」といった声も飛び交ったが、極限状態の下、交換手たちは次々と死を選んだ。その場にいた12人のうち救出されたのは、わずか3人だった

▼「大和撫子(なでしこ)は敵に陵辱されるぐらいなら、潔く死を選ぶ」との概念を植え付けられた若き乙女たちの心を、残酷に追い詰めてゆくのも戦争のむごたらしさである。川嶋さんはこう書き留めた

▼稚内市の総合文化センターできょう「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」が営まれる。今年で56回目という。事件を風化させまいとの取り組みが続いていることに敬意を表したい

▼「皆さん これが最後です さようなら さようなら」。未来ある若者から悲しいメッセージを聞くことが、再びあってはなるまい。

 

(2018年8月20日配信『秋田魁新報』−「北斗星」)

 

 「やっと肩の荷が下りた」。終戦の日の今月15日、東京の日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式に初めて参列した大仙市大曲西根の深谷都子(みやこ)さん(76)がこう話した

▼父の出征後に生まれた深谷さんは、26歳で戦没した父を写真でしか知らない。母は戦後再婚した義父に気遣い、亡き父のことを語らなかった。再婚前は戦地の父からの手紙を読み聞かせられた。「都子が小学校に入る時、いいランドセルを買ってあげて」とあったことを覚えている

▼義父の死後、母に父のことを尋ねた都子さんは、「忘れた」という返事に驚いた。しかし、家を守ろうと必死で生きた母の心中も分かる。「父との暮らしは短い間。義父との生活の方がずっと長いんだもの」。その母も今は亡い

▼本県からの参列者71人の代表として献花した由利本荘市大沢の阿部勇(いさみ)さん(81)は終戦直後の母の姿が心に焼き付いている。「郵便屋さんが来ると毎日表に出ていた」。父の復員を知らせる吉報を待っていたのだが、終戦の3年後に戦死の公報が届いた。父の出征後に生まれ、秋田工高のラグビー部で全国優勝した弟は亡くなった

▼終戦時8歳だった阿部さんは昨年から県遺族会長になった。「遺族も代替わりした。遺族会には悲しみと苦しみを伝える役割がある」。組織継承のため孫の代を主体にすることも考えている

▼終戦の日は戦争の悲劇を痛感する節目だが、語り継ぐことに区切りはなくていい。遺族たちに会って、その思いを強くした。

 

二人の好々爺(2018年8月20日配信『中国新聞』−「天風録」)

 

 「仙吉ロス」なる言葉がネット上にあふれる。NHKの連続ドラマ「半分、青い。」で優しい祖父が大往生を遂げた。漫画家挫折に落ち込むヒロインに、ギターで励ましの歌を送ったシーンが印象に残る

▲同じような好々爺(や)といえば、大正時代に広島出身者で初めて首相に就いた加藤友三郎の名も挙がろう。幼い孫が大好きだと、周囲に自慢した。それを伝えるのが海軍大臣時代の写真で、満面の笑みで抱きかかえている

▲その加藤翁に関する記事が先日、立て続けに紙面を飾る。都内で没後95年の墓前祭が開かれた。広島城近くの公園に地元有志が10年前立てた銅像も広島市に寄贈される運びだ

▲後世たたえられているのは軍縮への積極姿勢である。軍出身ながら欧米と協調して主力艦の保有トン数に縛りをかける。不満を漏らす軍部を「国防は軍人の専有物にあらず」と一喝。財政のピンチを救う狙いもあった

▲翻って今の政府はどうか。防衛費を6年連続で増やしてきた。これから本格化する来年度の予算編成でも、官僚ともども借金頼みの発想で財政は半分どころか「真っ赤」といえる。子や孫たちの世代につけを回し、夢や希望まで「ロス」させてはいけない。

 

(2018年8月17日配信『奈良新聞』−「国原譜」)

 

 平成最後の「8月15日」が過ぎた。「戦争の記憶」への個々人の関わり方によってまた世代によって、受け止め方は大きく異なったことだろう。

 ご自身最後の全国戦没者追悼式で天皇陛下は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」との一節を加えて、戦争犠牲者を悼まれた。反戦への熱い思いが込められていた。

 同じ夜、NHKスペシャルで「ノモンハン 責任なき戦い」という番組が放映された。79年前、モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を展開したノモンハン事件の裏側を追っていた。

 ソ連軍の記録映像、陸軍幹部の肉声テープなどで事件の経緯を丹念に“再現”。ソ連の大量の近代兵器に、古い装備で戦うことを余儀なくされた日本兵たち。死傷者は2万人に及んだ。大草原に放置されたままの遺骨に言葉を失った。

 敵の戦力を伝えた情報を無視し、無謀な作戦を展開しながら、軍の上層部は、ほぼ誰も責任をとらなかったという。テープには「記憶にございません」もあった。

 不祥事があっても誰も責任をとらない構図は、我が国で、今もなお続いている

 

戦没者追悼 過去への反省欠かせぬ(2018年8月16日配信『北海道新聞』−「社説」)

 

 終戦記念日のきのう、安倍晋三首相は全国戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国への「加害責任」と「反省」に言及しなかった。

 これは第2次安倍政権になってから6年連続になる。

 1994年の村山富市首相以降、歴代首相が盛り込んできたこととは対照的だ。

 安倍首相は3年前の戦後70年談話で「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と語った。ならば歴史を直視し、関係国の理解を得ることが不可欠だ。

 一国のトップである首相の終戦記念日の言葉は、戦争を放棄し国際平和を希求する日本の姿勢を世界に発信する意味も持つ。

 戦争で多大なる犠牲を強いたのは事実だ。加害責任や反省については、毎年真摯(しんし)な言葉で語り続けるべきである。

 首相はきのうの式辞で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と強調した。しかし「アジア諸国」「損害と苦痛」といった文言は盛り込まず、被害国に直接訴えるメッセージもなかった。

 日本と中国、韓国との間では、首相と閣僚による靖国神社参拝や従軍慰安婦など歴史認識を巡る問題がなお残る。

 そうした中で先の大戦で多大な犠牲を強いた日本の首相が、加害責任に背を向けるような態度を取れば、歴史問題に一方的に区切りを付けようとしているとみられても仕方がない。

 安倍首相は戦後70年談話で、歴代内閣の立場として「繰り返し痛切な反省と心からのおわびを表明してきた」と述べたが、間接的な言い回しが逆に批判を招いた。

 自らの考えとしてあらためて語る必要があろう。

 韓国と北朝鮮は4月の首脳会談で、朝鮮戦争について年内の終戦宣言を目指すことで一致した。

 周辺国の間で不幸な過去に区切りを付けようとする動きが加速する中で、日本だけが歴史問題でつまずいているようでは困る。

 きのう安倍首相は靖国神社を参拝せず、私費で玉串料を奉納した。それでも周辺国が疑念を抱いていることを忘れてはなるまい。

 靖国問題の背景には戦後73年たった今も誰もがわだかまりなく追悼できる施設がないことがある。

 2002年に当時の福田康夫官房長官の私的懇談会が無宗教で国立の追悼施設の必要性を提言したが、たなざらしとなっている。

 さまざまな人々の思いをくみ取った追悼のあり方を積極的に見いだしていくべきであろう。

 

戦没者追悼 「深い反省」突きつめて(2018年8月16日配信『朝日新聞』−「社説」)

 

 終戦記念日のきのう、東京で全国戦没者追悼式が開かれた。来年4月末で退位することが決まっている天皇陛下が、最後の「おことば」を述べた。

 30回を数えるおことばの趣旨や表現は大筋同じだが、細かく見るといくつか変化がある。

 まず即位後初の1989年の式典から「尊い命(後に「かけがえのない命」)を失った数多くの人々」と、命の大切さを説く言葉が使われた。戦後50年を迎えた95年には「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と、日本が歩んだ道を忘れない姿勢が示され、以後引き継がれてゆく。

 そして戦後70年の2015年夏。「過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に」と、「深い反省」の4文字が盛りこまれた。締めくくりとなったきのうは、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに」だった。

 おことばは内閣の補佐と責任の下で決まる。だが、11歳で敗戦を迎え、内外の戦没者を追悼する旅を重ねてきた陛下の思いが、そこには込められている。

 「かけがえのない命」「歴史を顧み」「深い反省」――。これらの言葉が意味するものを、いま一度、胸に刻みたい。

 最近話題の一橋大・吉田裕(ゆたか)氏の「日本軍兵士」は、当時の戦争指導者や軍官僚がいかに人の生命を軽んじていたかを描き出す。例えば日本軍の戦死者は230万人とされるが、研究者の推計では栄養失調に伴う病死を含む餓死者が61%、少なく見積もっても37%を占めるという。多くの兵士にとっての「敵」は敵の軍隊ではなかった。

 沖縄では住民の「敵」はしばしば日本軍だった。避難壕(ごう)から住民を追い出し、ときに自ら命を絶つよう迫った。軍が住民に集団自決を強制したという教科書の記載を政府が削除させた07年、事実を知る県民は激しく抗議した。その一人に当時那覇市長だった故翁長雄志氏がいた。

 戦争の姿が正しく伝わらず、歴史の改ざんがまかり通る。そんな光景を生んだ原因のひとつが、近年もあらわになった記録の軽視である。敗戦直後、責任追及を恐れた政府の命令によって大量の書類が処分された。

 それから73年の歳月を経て、日本はどこまで「歴史を顧み」「深い反省」を重ね、命を大切にする国に生まれ変わったか。

 

平成最後の戦没者追悼式 悲しみ新たにする大切さ(2018年8月16日配信『毎日新聞』−「社説」)

 

 平成最後の終戦の日、天皇陛下の全国戦没者追悼式への参列も今年が最後となった。30年間続けてこられたおことばには、平成の時代らしい追悼のあり方が刻まれてきた。

 天皇のおことばは昭和と平成でスタイルが変わった。分量が倍に増え、言葉遣いが柔らかくなり、国民と思いを分かち合う表現になった。

 昭和天皇の戦没者への哀悼は「今もなお胸のいたむのを覚える」という「である」調だった。途中「胸がいたみます」と「ですます」調に変わったが長年、定型化していた。

 今の天皇陛下は1989年に即位した最初から「深い悲しみを新たにいたします」と、国民一人一人の心情に寄り添う言い方に改めた。

 おことばは毎年、陛下ご自身が文を練られ、微妙に手直しされてきたが、冒頭で国民と「悲しみ」を共にする姿勢は一貫していた。

 戦争の時代を顧みる時、根底には深い悲しみの心が欠かせない。祈りにも似た表現の反復を振り返ると、今更ながらそう気づかされる。

 安倍晋三首相は再登板後、最初の2013年の追悼式から式辞で加害責任や「反省」に触れなくなった。

 天皇陛下は15年、戦後70年のおことばから「深い反省」を述べられるようになった。折に触れて戦争体験をご自身の原点と強調されてきた悲しみがあればこそであろう。

 3歳の時の日中開戦を記憶し、11歳で敗戦の焦土に立ち尽くし、「戦争のない時を知らないで育ちました」(即位10年の記者会見)という最後の戦争経験世代である。

 自ら覚えた戦争の悲しみを、次世代に伝えねばという使命感が、30年間の積み重ねを支えてきた。

 平易な言葉が重みを増したのは、天皇陛下が言葉だけでなく、皇后陛下と共に沖縄への特別な配慮を絶やさず、高齢になっても海外の戦地跡を巡る慰霊の旅を続けるなど、実践の裏付けがあったからだ。

 一昨年、陛下が退位を望むお気持ちを述べられた際、懇切に説かれた国民統合の象徴としての新たなあり方が、ここにも表れている。

 来年からは、即位する皇太子殿下がおことばを述べられる。平成の時代に培われた象徴天皇と国民が共有する戦没者追悼の心を、次の時代も大切に受け継いでいきたい。

 

戦後73年 未来志向の外交を戦略的に(2018年8月16日配信『読売新聞』―「社説」)

 

 未来志向の外交を推進し、国際社会での信頼を高め続ける必要がある。終戦の日を機に改めてその意義を確認したい。

 政府主催の全国戦没者追悼式が15日、天皇、皇后両陛下をお迎えして開かれた。

 安倍首相は式辞で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、この決然たる誓いを貫いていく」と述べた。

 日本は戦後、日米同盟と国際協調を外交の礎にしてきた。政府開発援助や自衛隊の海外での活動は、高く評価されている。

 世界は地域紛争やテロ、貧困など今なお多くの課題を抱えている。途上国の復興や人道支援などに日本は主体的に取り組むことが求められる。世界の安定と発展に貢献するのが責務だ。

 安倍内閣は戦後70年の首相談話で、先の大戦を「侵略」と認め、反省とおわびを表明した。歴史認識の問題に一定の区切りをつけた意味は大きい。

 2016年には当時のオバマ米大統領が広島を訪問し、首相は真珠湾で「不戦の誓い」を述べた。日米両政府が和解に向けた努力を重ねた成果である。

 平和国家としての歩みを国際社会に適切に伝える。そうした地道な取り組みも欠かせない。

 看過できないのは、韓国の文在寅政権の慰安婦問題に関する対応である。文大統領は、「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」に制定された8月14日の記念式典で「韓日両国の外交的方法で解決する問題だと思わない」と述べた。

 文政権は、日本が元慰安婦を支援する財団に拠出した10億円を自国予算で肩代わりするという。問題の最終的かつ不可逆的な解決をうたった日韓合意を骨抜きにする姿勢は認められない。

 韓国政府は今後、慰安婦関連の記念事業や研究、啓発に力を入れる方針だ。独善的な歴史観に基づく発信は、国内外の反日感情をあおりかねない。警戒を要する。

 文氏は、日本統治の終えんを記念する15日の「光復節」式典で、アジアの平和と繁栄のため日本と協力する考えを示した。日韓間には、多岐にわたる協力すべきテーマがある。歴史問題で両国の溝を広げてはならない。

 慰安婦を象徴する像の設置の動きが止まらない。台湾南部の台南市に設置された。政府が「我が国の取り組みと相いれない」と申し入れたのは当然である。

 日本の立場を不当に貶おとしめようとする行為には、冷静かつ毅然きぜんと対処することが大切だ。

 

(2018年8月16日配信『日経新聞』―「春秋」)

 

終戦後、外相や首相を歴任した吉田茂の懐刀に白洲次郎がいる。英ケンブリッジ大に留学した経験があり、流ちょうな英語を話した。日本の占領政策を担ったGHQ(連合国軍総司令部)の米国人らと対等に渡り合って、「唯一従順ならざる日本人」として逸話を残す。

▼日本が主権を回復した後の1954年、雑誌に辛辣なエッセーを発表している。GHQの大部分の人々について「無経験で若気の至りとでも言う様な、幼稚な理想論を丸呑(の)みにして実行に移していった」。はじめて化学の実験をした子どもが試験管に色々な薬品を入れて面白がっていたようなもの、などとかなり手厳しい。

▼こんな悪口の背景には大国と勝算のない戦いに挑んだ戦前の軍部や、止められなかった自らの世代への憤りや情けなさが潜んでいたろう。一方、GHQ批判の一文の末尾では、日本人を飢え死にさせないだけの食料をくれたことへ一転、感謝し、占領が米国によるものだったことをこう回顧した。「最悪中の最善であった」

▼粗野な物言いの中に、公平な視点も備えていたようだ。そんな人物なら、保護主義の台頭やらEU離脱で大揺れの現在の米英にどんな感慨を持つだろう。かつて民主主義を教わって、紳士道を身に付けた国々である。そして少子高齢化で将来に不安を抱える日本には。ちなみに、白洲の口癖の一つは「ばか野郎!」だった。

 

不戦の思いを次世代に 終戦の日の言葉から(2018年8月16日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 きのうは平成最後の「終戦の日」でした。あの8月15日から73年。昭和の戦争の記憶は不戦の誓いとともに、次の世代に語り継がねばなりません。

 あの日も暑い1日だったことでしょう。気象庁の記録によると東京の最高気温は32・3度、名古屋は36・5度。1945(昭和20)年8月15日のことです。

 37年の日中戦争から始まった長い戦争は昭和天皇の「聖断」で終わりました。国民は正午の「玉音放送」で終戦を知ります。

 あれから73年。今年も政府主催「全国戦没者追悼式」が東京の日本武道館で行われました。

歴代首相「加害と反省」

 戦争の犠牲者は、日中戦争後に戦死した軍人・軍属約230万人と米軍による空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦で亡くなった民間人約80万人の合わせて約310万人。これは日本人だけの数で、日本が侵略した近隣諸国や交戦国の犠牲者を加えれば、その数は膨れ上がります。

 政府は、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めます。戦没者を悼むとともに、平和国家としての道を歩み続けると誓うことも、追悼式に課せられた重要な役割なのです。

 だからこそ日本は戦争を起こした過去を反省し、再び軍事大国にはならないと発信し続ける必要があります。

 とはいえ、時の首相が追悼式で、アジア諸国への日本の加害責任を認めるまでには長い時間がかかりました。損害と苦痛を与えた主体を「わが国」と明確にして加害と反省の意を表したのは、2001年の小泉純一郎首相が初めてです。

 「わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」

 それ以降の首相は小泉氏を基本的に踏襲し、8月15日に加害と反省の意を表明してきたのです。

謝罪と距離置く安倍氏

 安倍晋三首相も第1次内閣の07年には小泉氏同様、加害と反省に言及しましたが、政権復帰後の13年からは触れていません。

 今年の式辞でも「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い…」と述べてはいますが、加害と反省に言及しないのは6年連続です。

 なぜなのでしょう。

 安倍首相は戦後70年の15年8月14日に閣議決定した首相談話で「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と述べつつ、その前段では「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも明言しています。

 追悼式の式辞で加害と反省に言及しないことは、謝罪を続ける必要はない、という本音の表れなのでしょうか。これでは加害への反省を忘れたかのように受け取られても仕方がありません。「歴史と謙虚に向き合い…」との言葉も、虚(うつ)ろに聞こえてしまいます。

 安倍内閣が13年12月に定めた「国家安全保障戦略」では「我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた」「こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない」と、日本の進むべき道を明確にしています。

 国際社会からの高い評価と尊敬を確固たるものにするには過去を振り返り、自省し、二度と戦争をせず、再び軍事大国にはならないという決意を、終戦の日という節目に、指導者自ら発信し続けることが必要なのです。

 安倍首相はしばしば国会で「平和と唱えるだけで平和を実現することはできない。だからこそ、世界の国がそれぞれ努力し、平和で安定した世界をつくろうと協力し合っている」と言います。

 しかし、平和を強く願う気持ちを言葉にしなければ、平和を実現する努力や協力にはつながりません。平和とは相互信頼が不可欠なのです。

陛下はお言葉で「反省」

 日本国民統合の象徴である天皇陛下は、今年の追悼式のお言葉で「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と述べました。陛下は戦後70年の15年以来、お言葉に「反省」の文言を盛り込んでいます。

 国政に関する権能を有しない天皇の気持ちを推察することは慎むべきでしょうが、「反省」の文言からは、不戦への強い思いがうかがえます。

 平成の8月15日は今年限りです。昭和の戦争を平成の時代も語り継いだように、さきの大戦への深い反省と不戦の思いを、次の時代にも語り継いでいくことが、今を生きる私たちの責任です。

 

(2018年8月16日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

幣原(しではら)喜重郎は正午から「玉音放送」を聞いた後、電車で帰途に就いた。車内で若い男が叫んだ。なぜ戦争をしなければいけなかったのか。俺たちは知らぬ間に引き入れられた。当局はけしからん、と。他の乗客も「そうだ」と同調した

   ◆

幣原は1920年代、外相として協調外交や軍縮を進めた。満州事変の収拾に失敗し政界から去るが、敗戦で出番が回ってくる。1945年10月、首相に就任。「戦争調査会」を内閣の使命に据えた。電車内で肌で知った国民の「公憤」が背中を押した

   ◆

戦争を起こした責任にとどまらず戦争を傍観した責任を問う意欲的な取り組みだった。だが占領機関の「対日理事会」で反対意見が出て調査会は1年弱で解散させられる。この時、なぜ国策を誤ったのか総括し反省していれば、政治家の歴史認識も違うものになっていただろうか

   ◆

安倍晋三首相はかつて国会で大戦の総括について「東京裁判という、いわば連合国側が勝者の判断によって断罪がなされたんだろう」と答弁した。歴史認識は「追い詰められ戦わざるをえなかった」と主張した祖父の岸信介元首相の影響があるとされる

   ◆

昨日の全国戦没者追悼式で「反省」の言葉を口にしなかった。「歴史と謙虚に向き合う」とは述べたが、鏡がゆがんでいては見るべき姿も見えまい。比較してはいけないとためらいつつ「深い反省」をお言葉にし、黙とうした天皇皇后両陛下の真摯(しんし)な背中こそ長く記憶にとどめたいと思う。

 

不戦の誓い/深い「反省」次代につなぐ(2018年8月16日配信『神戸新聞』−「社説」)

  

 「終戦の日」のきのう、政府主催の全国戦没者追悼式が開催された。約310万人の日本の戦没者をはじめ、アジア各地で犠牲になった全ての人を悼み、不戦の誓いを新たにしたい。

 来年4月の天皇陛下退位と5月の新天皇即位に伴い、元号が改められる。陛下にとって追悼式出席は今年が最後になる。

 陛下は広島、長崎の「原爆の日」、「沖縄慰霊の日」とともに、終戦の日を「忘れてはならない四つの日」と語ってこられた。それだけに、ひとしおの思いで臨まれたことだろう。

 今年も、戦争で多くの命が失われた悲しみに触れ、「深い反省」を述べられた。惨禍を繰り返さないという決意は、国民一人一人の心に通じる。

 時の流れの中で、戦争体験者や遺族の高齢化が進む。平和を守り抜くためには、歴史の教訓と反省を、国民の手で次代に引き継がねばならない。

 陛下のお言葉は、自ら鉛筆を握り、深夜まで推敲(すいこう)を重ねて、200〜300字にまとめてこられたという。戦後70年の節目を機に毎年、「深い反省」の文言を盛り込んできたのも、熟慮の末に違いない。

 太平洋戦争の激戦地サイパン島を訪れたのは戦後60年の年だった。多くの日本人が身を投げた現場で黙礼した後、別の場所に立つ韓国、沖縄出身者の慰霊塔でもそれぞれ頭を下げた。公表された予定になかった行動で、あらゆる戦争犠牲者を悼む気持ちを内外に示された。

 対照的なのは安倍晋三首相の姿勢である。今年の式辞にもアジア諸国が受けた被害への「反省」はなく、「不戦」の言葉も使わなかった。

 「歴史と謙虚に向き合う」などと述べたものの、これでは過去の過ちと向き合う意志がきちんと伝わらないだろう。

 開戦の年、国の総力戦研究所は「米国には勝てない」との結論を伝えていた。なのに「誰も(中略)決定的に戦争に歯止めをかけることをしなかった結果が、開戦だった」と歴史学者の堀田江理さんは指摘する(「1941決意なき開戦」)。

 「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と首相は語る。ならば歴史に何を学ぶかを、国のトップとして明確にすべきだ。

 

(2018年8月16日配信『神戸新聞』−「正平調」)

          

生活評論家吉沢久子さんが玉音放送を聞いたのは27歳のときだ。太平洋戦争末期の日々を書きとめた日記集「あの頃のこと」では、「八月十五日 水曜日 晴れ」にこう続けている

◆お昼、勤務先を出て電気屋へ。店頭でのラジオ放送をみんながどんな表情で聞くかを見たかったからだ。放送が済んで見渡す。涙の人もいたが「あげた顔に、戦争は終わったのだという明るさが見えたと思った」

◆苦難に終止符を打つ昭和天皇の玉音放送をどう受け止めたか。肩を落とした人もいただろう。いや、つらい季節はもう終わる。これからは前を向こう。吉沢さんのように受け止めた人が多かったのではないか

◆当時、天皇陛下は11歳だった。疎開先を栃木・日光から奥日光のホテルへと移していた。玉音放送は別館の自室で側近らと聞かれたそうだ。皇太子として、平和への祈りを胸に刻む一日ではなかったかと想像する

◆きのうの全国戦没者追悼式は平成最後だった。お言葉に今年も「深い反省」があったのが印象深い。心なしか「全国戦没者之霊」と記された式壇の標柱を、いつにも増して長く見つめておられたように思えた

◆戦争を知らない世代が増える。玉音放送に何を思ったのか。きちんと受け継ぎたいと願う今年の8・15である。

 

「平成最後の××」。1年の折り…(2018年8月16日配信『山陽新聞』−「滴一滴」)

   

 「平成最後の××」。1年の折り返しを過ぎたころから、そんな表現を耳にする機会が増えた。とりわけ、きのう行われた全国戦没者追悼式を感慨深く見守った人は多かろう

▼来年4月30日の退位を控える天皇陛下は最後の参列となった。参加する遺族も高齢化し、戦没者の妻はわずか13人、もちろん父母はいない。歳月の流れをいや応なしに感じる平成最後の式典である

▼今回、天皇のお言葉に「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致し」という文言が加わった。お言葉は基本的な内容は一貫しているが、戦後70年の2015年は「さきの大戦に対する深い反省」という言葉が入るなど天皇の思いも映してきた

▼文言は、自ら鉛筆を手にし、推敲(すいこう)をされることもあるという。その内容は、皇后さまと共に国内外で慰霊の旅を重ねる中で、年ごとに深みを増してきた気がする

▼「戦間期」という言葉がある。戦争と戦争の間に挟まれた一見平和な時間は、時として前の戦いで失ったものを取り戻すための準備期間となり、次の戦争を招く。飽くことなく戦いを繰り返してきた人類の歴史を物語る言葉でもあろう

▼平成の30年間は、明治以降、日本が戦争をしなかった初めての時代としても記憶されるはずだ。「長きにわたる平和」を戦間期などでなく、「戦後」としていつまでも守り続けねば。

 

平成最後の終戦の日 不戦の誓いを次代にも(2018年8月16日配信『中国新聞』−「社説」)

 

 歴史に対する謙虚な姿勢がもたらす言葉だろう。平成最後となる戦後73年の終戦の日、天皇陛下は改めて「深い反省」を口にされた。先の戦争を肌身で知る人が減る中、記憶と不戦の誓いを次の世代が引き継いでいくには大切な視座と言えよう。

 来年4月末の退位で平成は終わりを告げる。全国戦没者追悼式に集った約7千人の顔ぶれから、「昭和」がますます遠のいていることを痛感させられた。

 平成元年の1989年は「戦没者の妻」が出席者の約半数を占めたが、今年は10人余りにとどまる。子や孫の世代が目立ち戦後生まれが全体の約3割となった。世代交代が進んでも先の戦争に真摯(しんし)な目を向けたい。

 そうした思いをくんだのが追悼式での陛下の「お言葉」だろう。自ら筆を執り、深夜まで推敲(すいこう)を重ねるという。約310万人とされる犠牲者を悼み、遺族をいたわり、復興の苦難に思いをはせ、平和を願ってきた。

 「反省」の2文字を陛下が加えたのは戦後70年の2015年だった。広島、長崎、沖縄を改めて訪れ、太平洋戦争の激戦地パラオにも足を延ばした。思いを新たにされたのだろうと宮内庁関係者は推察する。ただ昭和天皇の子で戦中世代の陛下にはこの2文字に触れる覚悟が前からあったとも考えられないか。

 「反省」の表現を巡っては好意的な受け止めの一方、天皇の政治関与として疑問視する向きもあるという。それでも陛下が言及を続けたのは、象徴天皇として悲惨な戦争体験の風化にあらがい、過ちを繰り返してはならないとの一念からだろう。来年即位される戦後生まれの皇太子さまにも、その思いはきっと受け継がれていくはずだ。

 「歴史と謙虚に向き合い」との表現を追悼式で用いたのは安倍晋三首相だった。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と誓い、戦没者への敬意や世界平和への貢献をうたった点は共感できる。だが、なぜ反省という言葉が出てこなかったのか。

 式辞で加害責任の反省に触れるようになったのは94年の村山富市首相からだ。安倍首相も第1次政権の07年は「戦争の反省を踏まえ、不戦の誓いを堅持する」と述べた。しかし第2次政権発足後の13年から「反省」「不戦」などの文言は消えていく。

 戦争で辛苦を与えたアジア諸国のみならず「赤紙」で戦地に駆り出され命を落とした兵士や遺族への心配りを欠いてはなるまい。首相の歴史認識を巡っては諸外国から疑問の目が向けられていることも自覚すべきだ。

 平成の30年間は、冷戦終結や世界同時テロなど激動の時代と言える。国際社会は各国の為政者の思想や平和観に敏感になっているのではないか。安倍首相も改めて「不戦の誓い」を口にすることが求められていよう。

 安全保障関連法の施行で、米国の戦争に日本も巻き込まれる恐れがないとは言えなくなった。国民の不安を取り除くためにも厳格な一線を引くべきだ。朝鮮半島の非核化実現に向けても、平和国家を掲げる日本の振る舞いが問われている。

 首相が意欲を見せる改憲でも9条の扱いが大きな焦点となる。政府・与党が数の力で強引にレールを敷くべきものではない。主権者たる私たちは歴史に謙虚に向き合い、不戦の誓いを脈々と引き継いでいきたい。

 

深い反省(2018年8月16日配信『中国新聞』−「天風録」)

 

 <あまたなる命の失(う)せし崖の下海深くして青く澄みたり>。米軍に追い詰められた多くの民間人らが、絶壁の上から海に身を投じた。太平洋戦争の激戦地サイパン島で、戦後60年の節目に天皇陛下が追悼の思いを歌に込めた

▲戦争の犠牲者は国籍を問わず全て慰霊し、平和を祈る。それが目的の海外訪問は初めてだった。戦後半世紀には沖縄や広島、長崎と国内の惨劇の地を巡った。戦争の傷痕から目をそらすまいとする真心が伝わってくる

▲きのうの戦没者追悼式では、今年も「深い反省」のお言葉が聞かれた。惨禍が再び繰り返されぬことを切に願うと続いた。ご夫妻でのいちずな行動が伴っているだけに、重い言葉もすんなり耳に入った人が多かったのではないか

▲不戦を誓う原体験は敗戦直後にあるらしい。疎開していた奥日光から東京に戻った時に見たのは焼け野原にある小さなトタン屋根の家々…。戦争が一体何をもたらすか。曇りなき11歳の目に強く焼き付いた風景を思う

▲30年余りに及ぶ平成の世は、来年4月末で幕を下ろす。<戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出(い)づかの難(かた)き日を生きし人々>。戦争という惨禍は古びはしない。世代がどれだけ移り変わろうとも。

 

平和教育 今と向き合う新たな視点が必要(2018年8月16日配信『愛媛新聞』−「社説」)

 

 平成最後の夏、世代を超えて戦禍の記憶をつなぐ新たな平和教育が模索されている。

 戦争体験者の高齢化が進み、身の回りから生の声を聴く機会が消えていく。語り部に頼る従来のやり方だけでは、重い教訓を後世へ引き継ぐことはできない。広島県内でさえ既に、8月6日が何の日なのか知らない若者が増えている「風化」の事実に、危機感が募る。被爆地や沖縄など各地の取り組みに学び、知恵を出し合って「平和の種」を育まなければならない。

 被爆から73年、長崎市教育委員会は平和学習の在り方を見直した。目指すのは「他者の意見を尊重しながら自分の言葉で平和を語り、行動できる児童生徒の育成」だ。市が編集する小中学生向け平和学習用冊子は、図解や写真を大幅に増やし、想像力をかき立てる。授業では「世界は今、平和なのか」というテーマで議論する時間を設けた。

 3年前に長崎市で開かれた国際会議の平和討論会で、地元の中学生らは、異なる意見に対して自分の主張を述べるのをためらった。被爆体験の継承に力を入れるあまり、知識を一方的に教えるだけになっていたのではとの反省が背景にあるという。

 世界では自国優先主義が台頭し、核を含む軍拡競争がやまない。戦争は昔話ではなく、いま目の前にある現実問題。平和学習はあくまで、世界の国々と根気強く対話し、武力を用いず平和な未来を切り開く手段、との新たな視点が必要だ。

 沖縄では4年前、琉球大生が修学旅行生らに対話型の平和学習を提供する会社を起業。年間約100校の体験学習を手掛ける。最後の激戦地を巡り「自分が住民だったら米軍に投降したか」といったガイドからの問い掛けを基に、参加者が議論しながら戦場の現実を考える。「もやもやした疑問を持ち帰ってもらうのが大事」との信念は、生徒の思考を深めるに違いない。

 もちろん思考の基本となる証言の継承は不可欠。映像化、電子化し「社会の記憶」として残し、いつでも見られるようにしなければならない。実感を持たせる手法も欠かせない。広島の高校教諭は爆心地にあった繁華街を体験できる「仮想現実」の映像を生徒と作った。被爆者の話を聴き、公文書館で当時の写真を収集。現実を忠実に再現することで、そこに生きた人たちの人生に思いをはせ、無念さを感じ取ることができる。

 惨禍を伝えるだけでなく日本がたどった歴史を正しく伝え、反省の上に立つことは、再び悲劇を繰り返さないための必須条件だ。政治的スタンスを問うのでなく、自由も生きる権利も理不尽に奪う戦争を、人権問題として捉えることも大事だろう。

 若者の柔軟な発想とインターネットなどを通じた発信力は大きな力となる。「体験がない」と臆することはない。多様な国の人々と理解、尊重し合い共生する「平和の文化」づくりも、武力を超える「武器」である。

 

 

終戦記念日 揺るぎない平和を未来へ(2018年8月15日配信『北海道新聞』−「社説」)

 

 太平洋戦争の敗戦からきょうで73年を迎えた。

 おびただしい数の命を奪った戦争の記憶と平和の尊さを継承する。その覚悟を新たにしたい。

 いま、平和を脅かすような動きが日本の内外で目立っている。

 米トランプ政権の自国第一主義が国際秩序をかき乱し、国同士の対立を助長している。

 防衛力の増強に余念がない安倍晋三政権は、国民統制色の濃い政策を推し進める構えだ。

 そんな安倍首相の主張に呼応し、憲法9条を変えようとする国会議員が増えている。

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起(おこ)ることのないやうにする」。それが憲法前文に記された日本の意思である。

 政府の行き過ぎを止められるのは国民の力だ。平和を守る決意を固め直し、戦争のない世界へと主導する役割を果たしていきたい。

■安定乱す事象次々と

 「戦後」が「戦前」に変わらないとも限らない。そう思わざるを得ないような出来事が目立つ。

 トランプ大統領は「貿易戦争」を明言し、中国や欧州からの輸入品への高関税を発動した。

 戦前、米国が自国産業保護のために導入したスムート・ホーリー法を彷彿(ほうふつ)させる。各国はブロック経済化と通貨安競争に走り、世界経済は収縮、不況が第2次世界大戦の一因となった。

 日本では4月、自衛官が野党の国会議員に「国益を損なう」「ばか」と暴言を放った。戦前に青年将校が「国民の敵」と書いた紙をまき、首相官邸を襲撃した五・一五事件にどこか似ていないか。

 文民統制の緩みは明らかだ。にもかかわらず、懲戒には至らない甘い処分となった。

 こうした事象が戦争に直結するとは限らない。だが、戦後培われてきた安定を乱す行いを止められないことに不安を禁じ得ない。

 侵略や植民地支配に対するわだかまりをアジア諸国に残したまま、2年後の東京五輪に向けた高揚感に包まれている。それがいまの日本の姿ではないか。

■理解に苦しむ改憲論

 安倍首相は自民党の改憲案を次の国会に提出すべきだとの考えを表明した。

 自民党憲法改正推進本部は「9条に自衛隊を明記する意見が党内の大勢」としたが、最終結論には至っていない。9条2項を削除して自衛隊を「戦力」と位置づける全面改定を目指す意見もある。

 来月行われる総裁選の争点となりそうだ。

 戦後一貫して日本の平和主義の根幹をなしてきた憲法9条を、なぜいま変えなければならないのか、理解に苦しむ。

 緊急時に国民の権利を制限する緊急事態条項が改憲案に含まれていることも気がかりだ。

 政権は、国民の目と耳をふさぐ特定秘密保護法を制定した上で、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更を行った。その上で、国民の口を閉ざす「共謀罪」法を新設している。

 改憲の動きは、その延長線上にあると考えざるを得ない。

 よもや戦争を始めたいわけではあるまい。しかし、安倍政権の一連の政策からは、もしもに備えて日本を戦争ができる国にしておこうという意図が見て取れる。

 戦争放棄を内外に宣言した日本がとるべき政策ではない。

■貧困や差別の解消を

 森友・加計問題で明らかになったのは、「安倍1強」下で首相の意向を忖度(そんたく)し、国民を代表する国会を欺くこともいとわない行政府の傲慢(ごうまん)な姿だ。

 与党は真相解明に及び腰で、野党の力不足は目を覆うばかりだ。

 戦後積み重ねられてきた議会制民主主義が危機に直面している。

 安全保障関連法に反対を訴え、後に解散した若者グループSEALDs(シールズ)の奥田愛基(あき)さんは、2015年の参院特別委中央公聴会でこう訴えた。

 「若者がこれから生きていく世界は相対的貧困が5人に1人という超格差社会で、今こそ政治の力が必要です。どうかこれ以上政治に絶望してしまうような議会運営をするのはやめてください」

 与野党の国会議員はこの言葉を強くかみしめるべきである。

 女性を不当に差別する東京医科大の入試の実態が明らかになった。自民党の杉田水脈(みお)衆院議員がLGBTなど性的少数者を「生産性がない」と切り捨てた。

 戦争がなければ平和だとは言い切れない。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏によれば、貧困や差別もない状態を「積極的平和」と呼ぶという。目指すべきはそこではないか。

 力に頼らず、話し合いの中から解決策を見出し、平和の上に繁栄を築く。そうした、日本なればこその構想力が問われている。

 

終戦の日(2018年8月15日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

学校で使う社会科や歴史の教科書は、太平洋戦争についてどう記していただろう。真珠湾攻撃や沖縄戦、原爆投下、ポツダム宣言受諾などの記述はある。けれど、飢えと空襲と病におびえながら、必死に当時を生きていた民衆の様子は、どこまで載っていたか

▼戦場の戦いだけが戦争ではない、と改めて思い出させてくれる。暮(くら)しの手帖社が7月に出版した「戦中・戦後の暮しの記録」である。肉親を戦地に送り出す家族のつらさ、燃えさかる焼夷(しょうい)弾の熱さ、疎開先でのいじめや空腹―。そこには教科書では伝えきれない「戦争」がある

▼同社が戦争体験者に投稿を呼び掛け、「戦争中の暮しの記録」を特集したのは1968年。半世紀を経て再び「記録」をまとめたのは、戦争の生き証人が減りゆく今が、その記憶を次世代に伝える最後の機会と考えたからだという

▼「これが戦争なのだ。それを知っておきたい。君に知ってもらいたい」。同社編集部は、そう呼び掛ける

▼「戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた 私たちに近づく」(石垣りん「弔詞」)。戦争を知らない世代は、日本の人口の8割を占める。歴史の「愚」を忘れてしまえば、再び繰り返す恐れがある。必要なのは記憶の継承だ

▼かつて「もはや戦後ではない」と言われた時代があった。社会のきなくささが増す中、「もはや戦前だ」とならぬよう。平成最後の終戦の日である。

 

記録や記憶を次世代へ/終戦の日(2018年8月15日配信『東奥日報』−「時論」)

 

 平成最後となる戦後73年の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの犠牲をもたらした歴史をあらためて学び、平和と繁栄の尊さをかみしめ、惨禍を繰り返さぬよう、静かに考える一日である。

 戦後生まれは1億人余りとなり、総人口の8割を超える。悲惨な戦争や被爆体験を風化させないために、先の戦争に関する「記録」や「記憶」を引き継ぐことの大切さを、次の世代に伝えていかなければいけない。

 服部卓四郎元陸軍大佐による「大東亜戦争全史」はこう記している。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒(つうちょう)が発せられ、市ケ谷台上における焚書(ふんしょ)の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた」。重要機密文書の焼却処分は、1945年8月14日の閣議で決めたとされる。

 公文書の焼却は、軍部にとどまらず、他の官庁、地方にも徹底されたと伝えられる。こうした行為が、日本の近現代史を検証・研究する上で、支障をきたしたのは言うまでもない。実に大きな損失であった。

 だからこそ、2009年に成立した公文書管理法では、真っ先に公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置付け、その適切な保存・管理の目的を「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすること」と規定したのである。

 しかしながら、この国の政治や行政の現場では、73年前をほうふつさせる光景が広がっていないか。

 森友学園を巡る財務省の決裁文書の改ざん、海外に派遣された自衛隊の日報隠蔽(いんぺい)、そして首相の「腹心の友」が理事長を務める加計学園問題…。国会で政府側が連発したのは、「記憶にない」「(記録は)廃棄した」という答弁だった。

 公文書の廃棄や改ざんは、歴史を消す行為だ。歴史への冒涜(ぼうとく)と呼んでもいいだろう。それに手を染める背信の重さを、官僚も、監督する政治家も認識していたとはとても言えまい。

 「記録」や「記憶」をないがしろにすれば、歴史の正確な継承がおぼつかなくなる。平成から新たな時代に向かう変わり目の8月15日、その危うさを、もう一度胸に刻みたい。それが戦争犠牲者への追悼にもつながる。

 

(2018年8月15日配信『東奥日報』−「天地人」)

 

「倍返し」「爆買い」「神ってる」「忖度(そんたく)」。時代を映す言葉に贈られ、毎年、話題を集める新語・流行語大賞。最近選ばれた言葉をいくつか挙げてみたが、10年先、20年先も使われるのは、どれくらいあるものか。

 ちなみに、1984年、第1回の同賞を受賞したのは「オシンドローム」「鈴虫発言」「くれない族」「疑惑」など。30年以上前のことだ。覚えている言葉もあれば、説明なしでは分からなくなった言葉もある。言葉の移り変わりは早い。

 「生命線」「自爆」「自粛」は現在、よく聞き、目にする言葉だろう。遠藤織枝「昭和が生んだ日本語」(大修館書店)によると、これらはいずれも、70年以上前の戦時中の言葉。戦争という非常事態が起こると、それを表現するため新しい言葉が生まれるという。

 「生命線」は本来、存立を保つために譲れない境界線という意味だが、具体的な場所だけでなく「守らなければならないもの」も表すように意味が広がった。ほかにも戦時中に広く使われ、戦後も使われている語はけっこう多い。同書は「もんぺ」「部隊」「戦士」などを挙げる。

 きょうは平成最後の終戦の日。戦争を体験し、実感をもって語ることができる人が少なくなりつつあるのが現実だ。戦時に生まれて、平和な時代となってもなお使われている言葉が、当時に思いを致す一つのよすがとなるだろうか。

 

終戦記念日/歴史の教訓を生かす知恵を(2018年8月15日配信『河北新報』−「社説」)

 

 終戦直後、歌人の土岐善麿は<あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ>という歌を作っている。勝つ自信はともかく、勝利を願う思いは当時の国民に共通であった。歌ににじむのは悔恨の念だ。

 開戦時、勇ましい歌をこの人は詠んだ。<許しがたき不遜無礼を今こそは実力のもとに撃ちのめすべし>。斎藤茂吉ら他の著名な歌人たちもまた、熱に浮かされたように同様の作品を残している。

 二・二六事件に共感を寄せた女流の斎藤史でさえ例外ではなかった。時代の熱狂がそうさせたのだろう。作家の五木寛之氏は当時を「国民は戦争のサポーターであった」とスポーツに例えて最近の対談で回顧している。

 開戦から敗戦、そして戦後の歩みをつまびらかに知る現在の目から振り返れば、歴史の分岐点における国家の選択の誤りは明白だ。しかし、どんな時代であれ、人々は指導者も一般の国民も時代と格闘しつつ懸命に生きたのだ。

 歴史に対するそうした当然の敬意を失うことなく、現代という高みから過去を見はるかすのでもない。謙虚な態度で、失敗から教訓をくみ取る努力をわれわれは不断に続けなければならない。

 最近の歴史研究などを参照すれば、戦争を回避する手だてがあった事実が浮かぶ。日米開戦を前に、当時の一線の経済学者が軍の委託でまとめた戦争経済に関する報告書でも、日本の致命的な敗北を高い確率で予測していた。

 それでも政府は日本を巡る国際情勢の楽観的な展開を予想し、それを頼りに開戦へと進む。新聞をはじめ強硬な世論も後押しした。過ぎてみれば、米ソ冷戦へと不可避的に動きだす時代まで少し待つ選択肢もあった。

 一方、近時、主として米国で公開された新たな文書などによって、米国が日本との戦争を願っていた事実は疑いようもなくなっている。当時の米政権は、共産主義に共感してソ連と通じていた一部高官によって操られていた驚くべき史実も判明している。

 第2次世界大戦によって日本はあくまで概数だが、約310万人の死者を出した。このうちの約80万人は非戦闘員である一般国民の死者だ。空襲、艦砲射撃、沖縄戦、原爆投下、旧満州からの引き揚げ時など、むごたらしい犠牲を数限りなく生んだ。

 被害ばかりではない。忘れてならないのは、加害者としての視点だ。戦争相手国もまた、莫大(ばくだい)な経済的な損失、癒やしがたい人的被害を同様に受けている事実は、改めて指摘するまでもない。

 戦後73年間、日本は平和と繁栄を享受してきた。歴史学の新たな知見によって過去の実相が明らかになる中で、冷静な洞察の上に立って教訓を生かしていく。戦争の辛酸をなめた先人に対する私たちのそれが義務でもあろう。

 

(2018年8月15日配信『河北新報』−「河北春秋」)

 

晴天の日だった。頭に戦闘帽、足にスキー靴。1945年8月15日、花森安治さんはそんな格好で玉音放送を聞いた。「戦争に行かなくて済んだ。死なずに済んだ」。心からほっとした

▼東京・銀座の焼け野原に腰掛け、戦争をしないためにどうすればいいかを考えた。「暮らしをもっとみんなが大事にしたら、暮らしを破壊するものに反対するんじゃないか」。そう思い至った(『花森安治の従軍手(て)帖(ちょう)』)。この考えが自身が編集長を務め、3年後に発刊する雑誌『暮しの手帖』の原点になった

▼花森さんらが読者の戦争体験記を集め、49年前に出した『戦争中の暮しの記録』という本がある。増刷を重ねるこの本の続編『戦中・戦後の暮しの記録』が先月、出版された。戦時中に子どもだった70〜80代を中心にした読者から寄せられた体験記や聞き書き計2390点から157点を厳選している

▼どの手記も一文一文に魂がこもる。婚約者との永遠の別れ、集団自決で九死に一生を得た女性、戦争孤児の集団…。満州にいた人々は8月15日に地獄の日々が始まった

▼共通するのは「戦争は二度と繰り返すな」という思い。教科書の用語や数字を暗記するだけでは本当の歴史は分からない。近頃は政治家や有識者の言動も怪しい。真実は庶民の声の中にある。

 

終戦の日 平和実現へ積極的行動を(2018年8月15日配信『デイリー東北』−「時論」)

 

 日本が焼け野原となった先の大戦終結から73年。約310万人の戦争犠牲者を慰霊し、平和を誓う終戦の日を迎えた。

 東京では遺族や天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相、各界代表者らが参列して平成最後の全国戦没者追悼式が開かれる。

 敗戦後、戦争放棄を掲げる憲法の下で日本は驚異的な復興と経済発展を遂げた。さまざまなひずみを抱えながらも、人々は戦渦に巻き込まれることなく生活してきた。

 だが、戦後70年余りを経た今、世界には多数の核兵器と、情勢が不安定な地域が存在する。

 国内では、集団的自衛権行使を可能にした法制定に続き、9月の自民党総裁選後には、首相が悲願とする憲法改正への動きが強まるとみられる。「不戦」の時代に影が差す中、政府には平和を守ることが戦争による甚大な犠牲の最大の教訓と認識し、核兵器と武力による争いの根絶へ積極的に行動するよう望む。

 今年の戦没者追悼式では、来年退位の天皇陛下が最後の出席をされ、お言葉を述べる。平成が始まった1989年1月、陛下は即位宣言後、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と憲法順守の決意を明言、「世界の平和、人類福祉の増進を希望してやまない」と語られた。その言葉は、多くの国民の心情に寄り添うようだった。

 安倍首相は憲法9条に自衛隊を明記する改憲案を主張する。最近も総裁選や秋の臨時国会で改憲議論を加速させたい意向を示した。国民は改憲、護憲の動向を注視する必要がある。

 一方、米トランプ政権は小型核導入を打ち出すなど前政権の「核なき世界」から方向転換した。イランなどへの強硬姿勢も緊張を高めている。

 広島、長崎の原爆被爆者らは政府に、国連で採択された核兵器禁止条約への参加を求め、グテレス国連事務総長も長崎で核戦争の恐怖を訴えた。これに対し首相は、条約は現実を踏まえていないと不参加の立場を表明し、核保有国と非保有国の橋渡しをするとした。しかし、政府が核廃絶のため努力する姿は見えてこない。唯一の被爆国の責務として、核廃絶に向けた指導力を発揮してもらいたい。

 殺りく、破壊、飢えという戦争の現実を実体験した日本人は年々減り、遠い過去の出来事と受け止める人も少なくない。広島と長崎の被爆遺構、沖縄戦の戦跡をはじめ各地に戦いの爪痕が残る。夏休みに「戦争遺跡」を訪ね、当時に思いを巡らせてはどうだろうか。

 

(2018年8月15日配信『デイリー東北』−「天鐘」)

 

子どもの頃、近所の空き地が居場所だった。大好きだった夏休み。周囲の草むらから漂ってくる草いきれを浴びながら、野球やめんこ、カブトムシも持ち寄った。遊具など何もない空間だったが、少年時代の日常が詰まっていた

▼その空き地も、多くの子の日常であふれていたに違いない。あの戦争が始まるまでは。『はらっぱ』(童心社)は約20年前に刊行された絵本。ある町の一画を昭和初期から60年間見つめ、時代の移り変わりを描いた

▼舞台は「はるかむかしの土のにおいがする」小さな原っぱ。チャンバラ、鬼ごっこ、紙芝居、盆踊り…。戦前の風景は子どもにとってまさに天国だ。だが、戦時体制が強まるとともに、原っぱの表情は一変する

▼主役は子から「軍服のおじさんやもんぺすがたのおばさん」に。防空演習の場となり、食料不足を補う畑にもなった。そして、大空襲、逃げ惑う人々の悲鳴、焼け野原。土の匂いは、耐え難い燃え殻に変わった

▼ありふれた日常を奪った戦争。作者の神戸光男氏は、昔はよかったという人がいるが、戦争に明け暮れた日々を振り返ると、それだけで昔がよかったとは思えない―と後書きに記している

▼絵本は、高度経済成長を経た原っぱも観察している。が、平和を取り戻したのに少年少女の姿はまばら。平成最後の「終戦の日」。不戦を誓う。と同時に子の日常がいま、どこにあるのか案ずる。

 

終戦から73年 地上イージスは必要か(2018年8月15日配信『秋田魁新報』−「社説」)

 

 終戦から73年を迎えた。平成では最後の終戦の日である。約310万人もの犠牲者を出した歴史を学び、平和を享受できていることに感謝し、同じ過ちを二度と繰り返すことのないよう考える一日である。

 平和の尊さを考えるこの日に、政府が秋田市の陸上自衛隊新屋演習場に配備を計画している迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」(地上イージス)についてあらためて考えたい。

 地上イージスは、北朝鮮に対する弾道ミサイル防衛(BMD)の強化策として政府が導入を決めた。日本のBMDは、海上自衛隊のイージス艦に搭載する海上配備型迎撃ミサイル(SM3)と航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の二段構えで、地上イージスはイージス艦を補完する役割を持つ。

 国の防衛、安全保障の観点から地上イージスの配備を検討することは必要である。しかしその前提となるのは配備先の住民の安全確保、不安の解消である。住民の合意なしに強引に配備が進められることがあっては絶対にならない。

 新屋演習場は住宅地や小中学校、高校と隣接している。なぜこうした環境にある場所が候補地として選ばれたのか。レーダーから発せられる電磁波の影響はないのか。そんな疑問が地元住民から出ているのは当然である。県や秋田市の質問状に対する政府の回答や住民説明会での対応を見る限り、住民の不安や疑問に十分に答えているとは言い難い。

 一方、国際情勢に目を向ければ、導入を決定した昨年12月時点では北朝鮮が新型大陸間弾道ミサイルを発射するなど緊張が高まっていた。それが南北首脳会談、米朝首脳会談で情勢は大きく変化した。北朝鮮が非核化を実現するかは不透明ではあるが、昨年末よりは緊張は緩和されている。

 政府もこうした情勢を受けて、イージス艦の日本海での常時展開を取りやめ、中四国や北海道の陸上自衛隊駐屯地に展開した地対空誘導弾パトリオット部隊を撤収した。警戒態勢を縮小する一方で、地上イージスを導入する。政府の対応は矛盾していると言わざるを得ない。

 導入費用も膨らんでいる。昨年末時点では1基1千億円弱と見込んでいたが、現在は2基で約2680億円とされ30年間の維持や運用経費を合わせると約4664億円となっている。2023年度の運用開始見込みも、米側の提案で24年度以降にずれ込む可能性が出ている。

 政府にあらためて問いたい。それでも北朝鮮の脅威は変わっていないとして、地上イージスの配備は必要であり、急がなくてはならないのか。さらにはなぜ新屋演習場なのか。

 政府には新屋地区の住民はもちろん、秋田市民、県民に対して納得できる説明を求めたい。それなしにこの問題が前進することはあり得ない。

 

終戦の日 心に「平和」「命」の軸を(2018年8月15日配信『岩手日報』−「論説」)

 

 きょうは平成最後の「終戦の日」。本紙声欄の「戦後73年」特集には50通近い投稿が寄せられた。投稿数自体は減少傾向にあるが、何度も苦心して書き直した文面は重みを増し、もどかしさが高まっているように感じられる。

 薄れゆく幼少期の記憶をなかなか呼び起こせない。この生々しい痛みの経験を確実に次代に伝えたいが、明快な答えが出ないまま焦りばかり募る。そんな中、「戦争を知らない政治家」による改憲の動き。もどかしさには、いくつもの要因があるだろう。

 戦後日本を貫いてきた「平和の希求」という太い軸が、先細っている。「戦争体験者がいなくなる日」が現実のものとして迫っている。

 世界に目を転じれば、昨夏以来、核廃絶に向け希望が生まれた。核兵器禁止条約が国連で採択され、その原動力となった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞。にもかかわらず、核保有国も日本も条約への参加を拒んでいる。

 この、もどかしい現状を少しずつでも変えていくため、どうあればいいか。まずは、私たち一人一人の心の中に、ぶれない「平和」の軸を据え続けることだ。体験者の「声」を継承する取り組みに、さらなる力を入れたい。

 そして、もう1本のぶれない軸を心に据え付けたい。それは「命」の軸だ。

 「役に立つ」ことが最優先される価値観の下、幾多の命が排斥された。特に戦時中、障害者ら社会的弱者にとってどれだけ過酷な時代だったかは、あまり知られていない。

 戦争の役に立たない「ごくつぶし」「非国民」とののしられ、防空演習に参加できないからと隣組の責任者から配給米差し止めの嫌がらせを受け、「お国の役にも立てぬ子を産んだ親」と白眼視され…。秋元波留夫、清水寛著「忘れられた歴史はくり返す」(2006年)には、数々の事例が紹介されている。

 戦後になると、経済成長の「役に立つ」ことが重視されるようになる。1948年に「不良な子孫の出生防止」を掲げた旧優生保護法が施行。「もはや戦後ではない」(56年度「経済白書」)と経済大国へまい進していた50〜60年代に、障害者らの強制不妊手術件数がピークを迎えたことは、偶然の一致ではない。

 こうした尺度は今なお根強い。先月、自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌への寄稿で、性的少数者のカップルについて「『生産性』がない」と主張。党内から擁護する声すら上がる。

 命を軽んじてきた歴史に学ぶべきだ。自国の多様な存在を尊重できなければ、他国の人々の命の重みに思いをはせることもできまい。

 

(2018年8月15日配信『岩手日報』−「風土計」)

 

 沖縄県在住の芥川賞作家、目取真(めどるま)俊さんが、同じく芥川賞作家の辺見庸さんと対談した「沖縄と国家」(角川新書)は、大阪府警の機動隊員から「土人」と言われた時の状況説明に始まる

▼2016年10月18日、東村高江の米軍北部訓練場周辺。オスプレイ発着を想定したヘリパッドの建設に抗議する目取真さんらに、その言葉は放たれた。さらに発言の主は目取真さんの頭や腹を殴り付けたという

▼政府は火消しに躍起になるが、当時の沖縄北方担当相は「差別と断じることは到底できない」と「土人」発言を擁護する。沖縄県民の心情を理解しない一閣僚の精神構造を、2人の作家は個人の問題とはしない

▼翁長雄志(おなが・たけし)沖縄県知事は、日頃から「万策尽きたら辺野古に座り込む」と話していたと、雑誌で読んだ記憶がある。14年知事選で、自民党が推す現職を大差で破り初当選したが、ついに民意は政府に通じなかった

▼その主張には、何度か触れる機会があった。元は自民県連幹事長などを務めた保守の重鎮。「昔は国会にも沖縄の歴史を知る人がいて腹を割って話ができた」と聞いたのは、辺野古がある名護市での講演だった

▼「今オキナワに必要なのは(中略)一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」。そんな事態を招かないよう、目取真さんは小説に書いた。昭和が遠い平成最後の終戦の日。

 

終戦の日/記憶引き継ぎ平和を次代へ(2018年8月15日配信『福島民友新聞』−「社説」)

      

 73回目の終戦の日を迎えた。戦没者に哀悼の意を表し、戦争の過ちを二度と繰り返さないことを心に刻む一日としたい。

 先の大戦では、軍人・軍属の約230万人が戦死した。このうち本県出身者は約6万7千人に上り、フィリピンやガダルカナル島などで命を落とした。出征した親族の帰りを待つ人たちも、生活物資の不足や空襲の被害などで塗炭の苦しみを強いられた。

 田村市の平和祈念資料展示室には、召集令状や出征時の写真など、戦時中の生活を伝える資料が残されている。今から約20年前、地元遺族会が戦争の記憶の風化を防ごうと、会員宅を巡って譲り受けた品々だ。遺品にまつわる思い出などについても聞き取りながら最終的に約800点を集めた。2004年に開所した施設にはその一部が展示されている。

 同市遺族会長の鈴木正一さん(78)は、施設を訪れる団体の依頼に応じて資料の解説を行っている。学校の校外学習で訪れた子どもたちは、戦争の悲惨さを物語る資料に見入り、熱心にメモを取るという。ただ、近年は利用者の減少を感じる。鈴木さんは「戦争を語る場がなくなってきているのではないか。自分たちが生きているうちは頑張るが、その後はどうなるか分からない」と語る。

 県遺族会によると、戦没者の妻の平均年齢は98歳、遺児の平均年齢は80歳近くになった。戦争の記憶を引き継ぐためには、将来を担う子どもたちが戦時中に何が起きたのかを学び、平和について考えることができる機会をつくらなければならない。行政と地域、学校が協力し合い、そうした機会を実現させてほしい。

 郡山市では昨年から、新たな試みが始まっている。長崎市で平和について学ぶ派遣事業に参加した中学生に、地元の戦没者追悼式で平和への思いを発表してもらう取り組みだ。長崎で原爆の惨禍について学んだ生徒は、帰郷して古里の戦争被害にも理解を深め、自分の言葉で平和を語る。今年も3人が10月の式典に登壇する予定だ。

 県遺族会は、若い世代が意見を表明する郡山市の取り組みを、県や各市町村の戦没者追悼式でも採用されるように働きかけを検討している。全ての世代が平和の大切さを共有する場をつくるために、有効な手段を探ってほしい。

 現在の平和は、多くの人々の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。そして、平成最後の終戦の日に、一人一人がその思いを後世に伝える役割を担っていることも自覚したい。

 

終戦の日(2018年8月15日配信『福島民友新聞』−「編集日記」)

      

 にじむような淡い色合いで、子どもや花の姿をいきいきと描いた絵本画家いわさきちひろ。見る者の心を温かくしてくれる作品のファンは多い。ことしは、生誕100年に当たる

▼ちひろの絵は彩り豊かで愛らしいものが多いが、絵本「戦火のなかの子どもたち」は他の作品と一線を画している。そこに描かれた子どもたちの多くはモノクロで、目は怒りや悲しみに震えているように見える。ちひろが自身の戦争体験をベトナム戦争に重ね合わせて制作した絵本だ

▼ちひろは空襲で家を焼け出されるなど過酷な青春時代を送った。戦争への憤りは制作の原動力となった。ちひろの長男の松本猛さんは著書に「子どもを描き続けた理由は、子どもが平和な未来の象徴だと感じていたからではないだろうか」と書いている

▼戦争は多くの人の青春を翻弄(ほんろう)した。本紙「語り継ぐ戦争」で体験を振り返っている県民も当時は若者だった。家族や友人の死と向き合った悲しみは今も癒やされないままだ

▼年月とともに戦時を知る人は減っていくが、その記憶や体験を次代に引き継ぐことが平和の礎をつくる。子どもたちの未来が喜びや楽しみで彩られるよう、今日は平和への誓いを新たにする日である。

 

【平成最後の追悼式】思いを語り継ぐ(2018年8月15日配信『福島民報』−「社説」)

 

 平成最後となる七十三回目の終戦記念日を迎えた。天皇陛下は皇后さまと共に政府主催の全国戦没者追悼式に臨まれる。来年四月三十日で退位するため今回の出席が最後となる。陛下は即位以来、欠かさず、平和を願う姿を見せた。各地で太平洋戦争の戦没者を悼み、悲劇の記憶を継承する大切さを行動ににじませてきた。

 戦争が残した深い傷痕は、永遠に消えない。陛下の思いと、戦争を体験した人々の記憶を新たな時代に語り継ぐことが、私たちの務めとなる。

 天皇陛下は戦時中に疎開を経験し、焼け野原になった首都の光景を、その後「全く想像することのできないものでした」と語られた。戦争の記憶を風化させないとの気持ちが非常に強く、国内外での慰霊につながっているという。即位後これまでに、東京都の硫黄島、米自治領サイパン、パラオのペリリュー島、フィリピンなどを訪れた。いずれも激戦地だった。日本人だけでなく、全ての犠牲者の霊を慰めた。沖縄県には皇太子夫妻時代を含め計十一回訪れ、遺族にも寄り添った。その心遣いと行動に心から敬服する。

 本紙は十五日まで「73年目の思い 受け継ぐふくしまの戦争」を五回にわたり連載した。県内の元兵士が壮絶な経験を振り返った。しかし、つらい体験をした世代が高齢となっている。不戦の誓いが歴史の流れの中に埋没するのでは−との不安がある。風化を防ぐための取り組みを一人一人が考えなければならない。

 終戦記念日に合わせて各地で戦争に関する企画展が開催中だ。福島市のコラッセふくしまは十六日まで「平和のための戦争展」の会場となる。戦死者の遺品、市内に投下された模擬原爆の破片などを展示する。これらの会場を訪れ、戦争がどれだけ愚かな行為かを胸に刻んでほしい。

 政府は日中戦争開始以降の戦没者数を民間人も含め約三百十万人とする。命を落とした人々は銃弾や砲弾が飛び交う戦場で、あるいは焼夷[しょうい]弾の炎に包まれる都市や工場で最期に何を心に浮かべたのか。愛する家族、美しい古里、国の未来…。無念だったに違いない。それぞれの、かけがえのない人生に思いをはせよう。

 広島市で六日に行われた原爆死没者慰霊式・平和祈念式で、地元の小学校に通う男子六年生が大きな声で訴えた。「学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります」。平和学習で被爆者の体験談を何度も聞き、語り継ぐ大切さを身に付けた。同じ考えを持つ子どもたちが、後に続くことを願う。

 

終戦の日 記録・記憶を大切にしたい(2018年8月15日配信『茨城新聞』−「論説」)

 

平成最後となる戦後73年の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの犠牲をもたらした歴史をあらためて学び、平和と繁栄の尊さをかみしめ、惨禍を繰り返さぬよう、静かに考える一日である。

戦後生まれは1億人余りとなり、総人口の8割を超えた。悲惨な戦争や被爆体験を風化させないために、先の戦争に関する「記録」や「記憶」を引き継ぐことの大切さを、次の世代に伝えていかなければならない。

服部卓四郎元陸軍大佐による「大東亜戦争全史」はこう記している。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒(つうちょう)が発せられ、市ケ谷台上における焚書(ふんしょ)の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた」。重要機密文書の焼却処分は、1945年8月14日の閣議で決めたとされる。

法相などを務めた故奥野誠亮氏は終戦当時、内務省戦時業務課の事務官として、戦争終結処理指令を作成、全国八つの地方総監府を回ってそれを伝達した。生前、指令の中身を「公文書の焼却と軍保管物資の民間への放出が柱だった」と回想したように、公文書の焼却は、軍部にとどまらず、他の官庁、地方にも徹底されたという。

こうした公文書の焼却処分が、日本の近現代史を検証・研究する上で、支障をきたしたのは言うまでもない。大きな損失であった。作家の半藤一利さんは、鼎談(ていだん)「『東京裁判』を読む」の中で、軍だけでなく新聞社も資料などを焼却していたことを挙げ、「本当に日本人は歴史に対するしっかりとした責任というものを持たない民族なんですね」と語る。

だからこそ、2009年に成立した公文書管理法では、真っ先に公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置付け、その適切な保存・管理の目的を「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすること」と規定したのである。

 しかしながら、この国の政治や行政の現場では、73年前をほうふつさせる光景が広がっていないか。森友学園を巡る財務省の決裁文書の改ざん、海外に派遣された自衛隊の日報隠蔽(いんぺい)、そして首相の「腹心の友」が理事長を務める加計学園問題…。国会で政府側が連発したのは、「記憶にない」「(記録は)廃棄した」という答弁だった。

終戦時も、現在も、公文書の廃棄や改ざん、隠蔽の意図は共通する。前者は近く始まるであろう戦争裁判に不利な証拠を残さない、後者は1強政権へのダメージを与えるわけにはいかない、という「保身」である。

 だが、公文書の廃棄や改ざんは、歴史を消す行為だ。歴史への冒涜(ぼうとく)と呼んでもいいだろう。それに手を染める背信の重さを、官僚も、監督する政治家も認識していたとはとても言えまい。

 安倍晋三首相は15年の戦後70年談話で「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調している。

「記録」や「記憶」をないがしろにすれば、歴史の正確な継承がおぼつかなくなる。平成から新たな時代に向かう変わり目の8月15日、その危うさを、もう一度胸に刻みたい。それが戦争犠牲者への追悼にもつながる。

 

(2018年8月15日配信『茨城新聞』−「いばらぎ春秋」)

 

ふるさとは生まれ育った土地とは限らない。小説「樹の上の草魚」などで知られるファンタジーの名手・薄井ゆうじさん(69)の場合、それは土浦の街という

▼警察官だった父の転勤のため少年時代は転校の繰り返し。引っ越しは高校卒業までに計24回。小学校では友人もつくれなかった

▼そんな薄井少年が初めて転校せずに過ごしたのが土浦一高だった。もっとも合格時の自宅は土浦だったが、入学後間もなく現在のつくば市へ転居。筑波鉄道(1987年廃線)に約45分揺られての通学。3年になると水戸から通った

▼多感な青春時代、学校では応援団、生徒会とさまざまな活動に首を突っ込み、土浦の街では初恋も知った。「高校が母屋、自宅が離れのようだった」と毎日新聞夕刊編集部編「私だけのふるさと作家たちの原風景」の中で打ち明ける

▼そんな土浦は先の大戦中、予科練の街。大空を夢見た10代の少年らが全国から集まり訓練に明け暮れた。出征前夜、市内料亭で繰り広げたどんちゃん騒ぎは今も語り草だ

▼ただ、霞ケ浦に眺めた白雲は同じでも、その先にはせた思いは薄井少年の時代とは真逆だったろう。出征した彼らの多くは故郷にも青春の街にも戻らなかった。きょうは終戦の日だ。

 

戦後73年とアジア 未来へ向け記憶を紡ぐ(2018年8月15日配信『朝日新聞』−「社説」)

 

 日本が戦争に敗れて、きょうで73年を迎えた。

 この歳月を経てなお、日本はアジアでの和解を成し遂げていない。日中両政府の関係が上向くにつれ、表面上は見えにくくなっているが、民衆の間では複雑な感情が今も広く残る。

 侵略や植民地支配の記憶という「負の遺産」の風化をこのまま待つという姿勢では、未来志向の関係は築けない。アジア太平洋で日本が果たすべき役割を考え、積極的に貢献することも和解の歩みに必要だろう。

 政府が、そして社会と個人がそれぞれの立場から、平和への発信を強めていきたい。

 ■危機の予感が現実に

 「私に一つの危機の予感がある」。終戦を上海で迎えた作家の堀田善衛は1959年、将来の日本と中国の関係について、そう書いた。

 歴史認識などをめぐる「双方の国民の内心の構造の違い」が、「ちょっと想像出来ないようなかたちの危機をもたらすのではないか」と案じた。日本の中国侵略を経て、「われわれの握手の、掌(てのひら)と掌のあいだには血が滲(にじ)んでいる」とも。

 日中の国交正常化はそれから13年後の1972年。ソ連という共通の脅威が冷戦下の両国を結びつけた。中国政府は戦争の被害感情より外交利益を優先させ、日本は賠償を免れた。

 為政者にとっては成功物語だっただろう。しかし和解の重要な土台となる、中国の人々の思いは置き去りにされた。

 その封印が解かれたのは冷戦後の90年代以降である。中国共産党が進めた愛国主義の政治教育も重なり、噴き出した反日感情が今もくすぶっている。

 堀田の言う「危機の予感」とはこれだったのだろうか。

 ■地域の発展に向けて

 この6月、初の米朝首脳会談が開かれた。両国が戦った朝鮮戦争に至る経緯を振り返れば、南北分断の背景に日本の植民地支配があることに気づく。隣国の人々には、米ソによる分断がなぜ日本でなく、自分たちなのかとの思いがある。

 一方で、日本は戦後、アジアの平和と発展のために多くの仕事をし、信頼と評価を得た。カンボジア和平などに多数の日本人が関与し、発展途上国での無償技術支援も進めてきた。

 かつて軍靴で蹂躙(じゅうりん)した地域の発展に、息長く携わることは、和解のプロセスにも役立つ。

 アジアの秩序はいま過渡期にある。米国と中国の2大国が力を競いあう場面が増えている。もう一つの大国インドの成長も加わり、競合と多極化が進む大変動の時代に入った。

 この潮流を見据えたうえで、これまでアジアに関与してきた日本がもっと建設的な役割を果たす道があるのではないか。

 例えば、日中韓の自由貿易など経済的な地域協力づくりだ。すでに、米国が去った環太平洋経済連携協定(TPP)を維持する実績をつくった。国際ルールをふまえた多国間枠組みの実現にもっと努力できるはずだ。

 さらに中国の提唱する「一帯一路」構想への意義ある関与を探りたい。構想は、世界経済に資する歴史的事業にも、中国の覇権拡大の道具にも、いずれにもなりえる。日本は、アジア全体の浮揚こそが世界と中国の利益になることを説くべきだ。

 インド、豪州や東南アジアとの連携も、深めていく必要があるだろう。アジア諸国から見れば、日本は今でも抜きんでた経済大国であり、中国とは一線を画した自由主義国でもある。日中両国は競うのではなく、互いにアジアの発展に貢献する共通の理念を掲げたい。

 ■一人一人と向きあう

 そうした政府間の関係や取りくみは大きな影響を及ぼす一方、歴史の和解を進める主役はあくまで個々の人間である。

 歴史認識について、国からのお仕着せやステレオタイプではなく、自由で多様な見方や意見をもち、交流する。そのための民主主義の成熟も欠かせない。

 近年、加害者と被害者の市民との関係の複雑さを考えさせたのは、オバマ米大統領による2年前の広島訪問だった。

 大きな癒やしを得た人と、謝罪なき政治的演出と見た人と。地元の受け止めは交錯したが、それでも歴史をめぐる議論に一石を投じたのは間違いない。

 あのときオバマ氏と抱擁した被爆者の森重昭さん(81)は言う。「大事なのは、人間として考えることではないですか」

 今やアジアから日本を訪れる観光客は年間2400万人。歴史や文化をめぐる研究者や留学生の交流も裾野を広げてきた。個人の発信がネットを介して各国で反響を呼ぶ時代、生身の人間同士、平和を語りあう機会をもっと増やせないか。

 自らの過去を美化することはできない。しかし、将来を変えることはできる。平和と繁栄と人権を尊ぶ目標を各国の国民とともにし、アジアの未来への新たな記憶を紡いでいく。そんな日本の姿を築いていきたい。

 

終戦の日を迎えて 記録を尊ぶ国でありたい(2018年8月15日配信『毎日新聞』−「社説」)

 

 終戦からすでに73年の歳月が刻まれ、来年5月には昭和、平成に続く戦後3番目の年号が始まる。

 とはいえ、8月15日はいまだに私たちにとって羅針盤であり続ける。日本という国の仕組みを根底から見直す原点になったからだ。

 問われたことの一つに、集団無責任体制というべきものがある。政治学者の丸山真男が「これだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がどこにも見当たらない」と評した精神構造だ。

 国民に極端な忠誠を求めながら、国家中枢で組織防衛と状況追認に明け暮れていたのが戦前日本だった。

 防衛省防衛研究所に併設された戦史研究センターに「市ケ谷台史料」と呼ばれる書類が保存されている。

 和紙に1枚ずつ貼り付けられた史料には、焼け焦げた跡が残る。破れて判読ができないものも多い。

寸断された責任の系譜

 これらは、敗戦前後に旧陸軍が焼却命令を出した書類の燃え残りだ。1996年4月、東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷(かみやしき)のあった市ケ谷駐屯地(現防衛省)を発掘調査中に地中から発見した。

 東条英機が天皇に裁可を求めた原簿、ポツダム宣言に関する憲兵司令部の動向調査、原爆投下直後に広島から打電された「特別緊急電報」などが目に付く。ほとんどはまだ専門家の研究が進んでいない。

 ポツダム宣言の受諾が決まった直後、陸海軍や内務省で機密書類の組織的な焼却が始まったことはよく知られている。「大東亜戦争全史」によると「焚書(ふんしょ)の黒煙」は45年8月14日午後から16日まで上り続けた。

 ただし、これほど大規模な焼却だったにもかかわらず、意思決定の記録は残っていない。命令書も同時に焼却されたためとみられる。

 わずかに九州の陸軍部隊が受電した電報に痕跡がある。「重要ト認ムル書類ヲ焼却スベシ。本電報モ受領後直チニ焼却」というものだ。

 一連の焼却命令は、将来の戦犯裁判に備えたのだろう。とりわけ天皇に不利な文書を葬る意図があったことは想像に難くない。日本より早く降伏したドイツではすでにニュルンベルク裁判の準備が進んでいた。

 同時に、実際はつながっているはずの軍官僚の責任の系譜も次々と断ち切られた。満州事変以降、15年におよぶ戦争遂行の検証に障害となって立ちはだかったのである。

 戦後、役人は「天皇の官吏」から「国民の公僕」に変わった。なのに私たちは今年、過去に引き戻されたような行為を目撃させられた。

 言うまでもなく財務官僚による公文書の改ざんと廃棄である。

 背後には当然、権力者への迎合と自己保身があったと考えられる。ところが、麻生太郎財務相は「動機が分かれば苦労はしない」と人ごとのように開き直った。

 野党の追及にいらだつ安倍晋三首相は「私や妻が関与していないことははっきりした」と財務省の調査結果を逆手に取って強弁した。

 政府にあって今も無責任の連鎖が続いているように見える。

歴史の総括は事実から

 A級戦犯を裁く東京裁判は、46年5月に始まった。重要書類の大量焼却は予想通り裁判に影響を及ぼす。存在すべき文書が見つからず、絶対的に証拠が不足したことだ。

 日暮吉延・帝京大教授は著書「東京裁判」で「本来なら公文書1通の提出ですむはずの問題がしばしば冗長な宣誓供述書や証言で立証されなければならず、東京裁判が長期化する要因になった」と指摘する。

 記録文書の欠落は、史実よりイデオロギー優先の論争をも招いた。国内の右派は東京裁判を「自虐史観」と批判するが、では戦争責任をどう整理すべきかの提案はない。

 事実を共有しない国家、過去を検証しない国家に、共通の歴史認識が生まれることはなかろう。

 昨年5月に他界した歴史学者の岡田英弘は、歴史という文化要素を持つ文明と、持たない文明が対立するとき、常に歴史のある文明が有利だと説いた。その理由は示唆に富む。

 「歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きている」「歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。出たとこ勝負の対応しか出来ない」(「世界史の誕生」)

 為政者は自らを正当化するのに、歴史の審判を待つとよく口にする。それが通用するのは、正確な記録が積み上げられた場合のみである。

 

「こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに…(2018年8月15日配信『毎日新聞』−「余録」)

 

 「こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつてゐます B29は残念ながらりつぱです」。昭和天皇の玉音放送の2週間後、香淳(こうじゅん)皇后は手紙に書いた

▲あて先は当時11歳の皇太子、今の天皇陛下である。「おもうさま(お父さま) 日々 大そうご心配遊(あそば)しましたが 残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救はれたのです」。終戦で「救はれた」というのが“肉声”だったのだ

▲奥日光に疎開していた皇太子への昭和天皇の手紙はよく知られる。今まで戦争の実情を話さなかったのを、先生と違うことを言うことになるので控えていたと述べ、「ゆるしてくれ」と記した。天皇父子も拘束した軍国の建前だった

▲平成最後の「終戦の日」となるきょうである。全国戦没者追悼式でおことばを述べる天皇陛下には73年前の夏に受け取った手紙から始まった戦後だった。内外の戦没者の慰霊と平和の祈りを自らの全霊で引き受けた在位の30年である

▲戦争の無残を生身で体験した人々の肉声を聞き、その声を胸に次の時代へ向けた営みが重ねられた戦後日本だった。それも昭和から平成、そして来年5月には三つめの年号の時代へと入る。「声」はどのように引き継がれるのだろう

▲「戦(いくさ)なき世を歩みきて思ひ出(い)づ かの難(かた)き日を生きし人々」は天皇陛下のお歌である。内外の戦没者の魂に平和を誓うこの日、痛恨の肉声を歴史意識によみがえらせる営みの絶えることがないよう願う。

 

歴史を知り日本の針路に生かそう(2018年8月15日配信『日経新聞』―「社説」)

 

 先の大戦が終わって73回目の終戦の日を迎えた。戦禍を被った内外の多くの犠牲者を悼み、黙とうをささげたい。

 戦没者を追悼する行事では、若い参加者が「平和の誓い」と題して詩などを朗読することがよくある。旧日本軍の特攻兵器「回天」の訓練基地があった山口県周南市で昨年開かれた式典では、「すべての生命を大切にします」など6項目からなる国連教育科学文化機関(ユネスコ)の平和宣言を中学生が読み上げた。

鈴木貫太郎の終戦工作

 戦争の記憶を次の世代へと伝えていくことはとても大切だ。きょうは「平成最後の終戦の日」である。来年は新しい元号で迎えるので、「昭和の惨禍」はさらに遠のく。あらゆる機会を捉え、日本はなぜあの戦争に突き進み、敗色が濃くなっても戦ったのかを問い続けていきたい。

 今年は、大戦中の最後の首相だった鈴木貫太郎の没後70年にあたる。死の直前に残した言葉が「永遠の平和」だったことはよく知られている。鈴木に詳しい東大の加藤陽子教授と、鈴木の孫である道子さんに話を聞いてきた。

 鈴木内閣が発足したのは1945年4月である。家族にはイタリア降伏時の首相の名を挙げて「バドリオになる」と告げたそうだ。その時点ですでに、自分の仕事が幕引き役であることをよくわかっていたのだろう。

 それから終戦に至る4カ月の評価は簡単ではない。もっと早く白旗をあげていれば、原爆の惨禍は避けられた。中国残留孤児をうむことなく、沖縄戦もあれほど多くの住民を戦闘に巻き込まずにすんだかもしれない。

 他方、鈴木の慎重な終戦工作があったから、イタリアのような降伏派と継戦派の内戦に陥ることなく、ドイツのような壊滅的な本土決戦を戦うこともなく、降伏できたと評する向きもある。

 SF作家の小松左京の『地には平和を』は、ポツダム宣言の受諾直前に旧軍がクーデターで政権を奪い、本土決戦に突入した日本を描いた作品だ。これが決して絵空事でなかったことは、終戦の詔書を収録した玉音盤の奪取未遂事件が8月14日深夜に起きたことからもうかがえる。

 「戦争を正しく終結させるには戦争を効果的に始めるのと同じくらいの力量が少なくとも必要である」。おととし亡くなったノーベル経済学賞の受賞者トーマス・シェリングの著書『軍備と影響力』はこう指摘する。

 あらゆる局面において、撤退の決断は最も難しいことのひとつだ。鈴木が終戦に果たした役割を振り返ることは、いまの時代にも意味がある。

 米国のトランプ大統領に代表される自国第一主義者が世界のあちこちに現れ、国際秩序は不安定さを増している。日本でも周辺国とのあつれきをめぐり、「強硬策も辞さず」などという声を聞くことがある。

 外交には圧力が必要なときもあるが、売り言葉に買い言葉ということわざもある。いちど大ごとにしてしまったら、国際紛争の収拾が容易ではないことを常に頭に入れておきたい。

 鈴木の役割は戦後も続く。

 「柔弱は生路なり。強硬は死路なり」

戦争放棄は誰の発案か

 これは枢密院が現憲法の原案を審議した際、9条に戦争放棄のみならず、戦力不保持を書き込むことを議長だった鈴木が前向きに受け止めた発言である。大きな異論なく原案が了承されたのは、鈴木の手腕といってよい。

 その9条の根幹である戦争放棄を最初に思いついたのは、首相だった幣原喜重郎なのか、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官だったダグラス・マッカーサーなのか。さまざまな見方がある。中央大の服部龍二教授が近年、新たな説を紹介している。

 日独伊三国軍事同盟を推進した外交官の白鳥敏夫が出所というものだ。「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離」にすべきだとの書簡を終戦後、吉田茂に送ったという。慶応大の細谷雄一教授は「白鳥がA級戦犯として有罪になったことを考慮すれば、皮肉なめぐり合わせ」と評する。

 日本が戦争へと突き進み、無残な敗北を迎えたあの時代、そこにはさまざまな歴史のあやが絡まっていた。

 そのひとつひとつを探求し、そこに教訓を見いだす。そして、これからの日本の針路に生かしていく。そうした態度もまた、ある種の「平和の誓い」である。

 

終戦の日 惨禍を次代へどう語り継ぐか(2018年8月15日配信『読売新聞』―「社説」)

 

 ◆平成最後の8・15を胸に刻もう◆

 73回目の終戦の日を迎えた。平成の世としては最後の8・15である。

 政府主催の全国戦没者追悼式が、天皇、皇后両陛下をお迎えして、日本武道館で開かれる。先の大戦で心ならずも犠牲となった310万人の冥福めいふくを改めて祈り、平和への誓いを新たにする日である。

 式には、約5500人の遺族が招かれる。出席する戦没者の配偶者は13人にとどまる。子、そして孫の世代が中心となっている。戦後73年の時の流れを物語る。

 ◆陛下が続けた慰霊の旅

 陛下は来年4月30日に退位される。天皇として終戦の日を迎えるのは、きょうが最後となる。

 陛下の追悼式でのお言葉には、2015年から「深い反省」という文言が盛り込まれている。「苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません」とも繰り返し述べられた。

 陛下が3歳の時に、日中戦争が勃発した。終戦を迎えたのは、11歳の時だ。疎開先の栃木・日光で昭和天皇の玉音放送をお聞きになった。後になって、「私は戦争のない時を知らないで育ちました」と振り返られている。

 幼少期に培われた平和への願いは、55歳での即位後も揺らぐことはなかった。お気持ちを行動で示したのが、慰霊の旅だろう。

 戦後50年の1995年に、長崎、広島、沖縄などを巡られた。戦後60年にはサイパン島を、戦後70年に際してはパラオ・ペリリュー島を訪問されている。

 中でも、沖縄へは、皇后さまとともに何度も足を運ばれた。

 大規模な地上戦が展開され、多くの人々が犠牲となった。苦難を強いられた県民の心に徹底して寄り添うことで、戦争の悲しみと向き合ってこられた。惨禍を決して忘れてはいけない、との思いの表れだったのではないか。

 来年からは、戦後生まれの皇太子さまが、新たな天皇として戦没者追悼式に出席される。

 皇太子さまは「戦争を知らない世代に悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切」と述べられている。

 平和を切に願う陛下のお気持ちを次代へ、どのようにつないでいくか。国民にとっても、忘れてはならない宿題である。

 ◆遺骨の着実な収集を

 その点で、大切なのは、戦争を語り継ぐ営みを様々な形で続けていくことだろう。

 こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」は、戦時下の広島県を舞台に、市井の人々のささやかな日常を描いた作品だ。2年前にアニメ映画化されて大きな反響を呼び、今夏、テレビドラマとしても放映されている。

 細やかな描写が、銃後の生活の厳しさを鮮明に伝える。暗い世相の中でも、前向きに生きる人たちの姿が印象深い。

 歴史研究者である吉田裕さんの「日本軍兵士」も話題の本だ。先の大戦で末端の兵士がどのような境遇に置かれ、命を落としたかを克明に浮かび上がらせている。

 食糧の支給がないために、兵士は略奪に走らざるを得なかった。戦死と報告されながら、実際には餓死や自殺が非常に多かった。こうした実態が記されている。

 戦争という極限状況が、人間をいかに変質させるか。そのことを実感させられる一冊だ。

 戦没者遺骨収集推進法が施行されて、2年余りが経過した。政府は遺骨収集を「国の責務」と規定し、施行から9年間を収集の集中実施期間と位置付けている。

 海外での未収容遺骨は112万柱に上る。そのうち、収容可能な遺骨は最大59万柱とされるが、近年の収容件数は年1000柱前後に過ぎない。このままでは、期間内の大きな進展は望めない。

 フィリピンでの遺骨収集再開について、日比両政府が合意したことは前進である。フィリピンには最多の37万柱の未収容遺骨が眠っていると言われるからだ。中国などでの収集は進んでいない。

 ◆犠牲を礎に平和がある

 遺骨が戻ってくることを今なお待ち望む遺族は少なくない。着実に収集を加速させたい。

 日本は戦後、憲法で戦争放棄をうたい、平和を享受してきた。平和の維持に大きな役割を果たしてきたのが、日米同盟だ。

 近年、東アジア情勢は決して平穏とは言えない。米朝首脳会談が実現したとはいえ、北朝鮮の動向は不透明だ。中国も海洋進出を続ける。日米同盟をより深化させていくことが重要である。

 多くの犠牲を礎に築き上げられた平和な社会を、これからも守っていかなければならない。

 

(2018年8月15日配信『日経新聞』―「春秋」)

 

月遅れのお盆と、終戦の日が重なったのは歴史の偶然だ。が、平和国家の建設には幸いだったかもしれない。迎え火、送り火をたいて故人をしのぶ。その習俗とともに、総力戦の悲劇を省みる。死者を悼み、彼らの無念を忘れずに戦後社会を築く精神風土を育んできた。

▼18世紀の英国の政治哲学者、エドマンド・バークは、「国家とは、現存する者、既に逝った者、将来生を受ける者の間のパートナーシップである」と説いた。それに近い感情を、私たちは8月15日に共有してきたような気がする。せみ時雨のなか、深くこうべを垂れながら。その思いは、次代へと受け継がれるのだろうか。

▼「戦なき世を歩みきて思ひ出づかの難き日を生きし人々」。皇居にほど近い千鳥ケ淵戦没者墓苑に、天皇陛下の歌碑がある。戦後70年の節目には、「年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と述べられた。

▼陛下が、歴史を学ぶ意義を繰り返し強調される理由はどこにあるのか。象徴天皇の地位は、「国民の総意に基づく」と憲法にある。「その総意を形成するひとつの要素が、過去に対する共通の理解だとお考えのようだ」と側近から聞いたことがある。きょう平成最後の全国戦没者追悼式が営まれる。お言葉を胸に刻みたい。

 

(2018年8月15日配信『産経新聞』−「産経抄」)

 

73回目の終戦の日を迎えた。今年も戦争体験の記録集『孫たちへの証言』(新風書房)が送られてきた。第31集となる。戦場体験を寄せる人は卒寿を超える。70代以下の人には、「記憶違い」が目立つようになった。

▼平成の終幕を機に編集を若手にバトンタッチする福山琢磨さん(84)は、戦争を語り継ぐことの難しさを痛感している。その意味で、松江護国神社(松江市)の禰宜(ねぎ)、工藤智恵(ちえ)さん(52)と旧陸軍航空士官学校56期生との出会いは、幸運だった。

▼きっかけは、一冊の日記である。昭和20年3月、南京上空戦で戦死した陸軍中尉、進藤俊之さんが、士官学校時代の出来事や日々の心情をつづったものだ。進藤さんの妹から日記を託された工藤さんは、祖国を守るために懸命に自己を鍛える姿に感銘を受ける。

▼昭和18年に卒業した士官618人のうち、半数以上の357人が戦死、初期に編成された特攻隊の隊長の大半を占めていた。工藤さんは、56期生の戦友会「紫鵬会(しほうかい)」が活動を続けていることを知る。代表を務めるのは、航空技術将校として、シンガポールで終戦を迎えた梅田春雄さんである。

▼工藤さんは梅田さんの助言を得ながら、遺書や手紙、遺族の手記を基に、取材を進めていった。その成果が著作の『留魂(りゅうこん)』となる。第1巻はフィリピン・レイテ戦で戦死した特別攻撃隊の隊長を取り上げた。今年3月に出た第2巻は、本土防空戦や沖縄戦で亡くなった7人の士官の心情に迫り、生き残った同期生の証言をまとめている。

▼その刊行を見届け満足したかのように、梅田さんは今月13日、97歳で亡くなった。「仲間や遺族にとって本当にありがたい、と言ってくださった」。工藤さんに昨日電話を入れると、涙声だった。

 

終戦の日に考える 平和をつくるために(2018年8月15日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 きょう8月15日は戦没者の方々を追悼する日であり、また同時にどうしたら戦争をなくせるかを考える日でもあるでしょう。二つの事例を引こう。

 一つめは、核兵器に関することである。

 英国とアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争ではこんなことがあったという。

 英国の駆逐艦、シェフィールドが、アルゼンチン軍の発射したフランス製ミサイル・エグゾセで撃沈された数日後の一九八二年五月七日、フランスのミッテラン大統領はサッチャー英首相から電話をもらったそうだ。

核持つ国の絶対優位

 ミッテラン氏はかかりつけの精神分析医アリ・マグディ氏のところへ予約より遅れて到着し、言い訳した。

 <すみません、先生。鉄のご婦人との諍(いさか)いを収めねばならなかったもので。我々がアルゼンチンに売却したミサイルのレーダーを無効化するコードを渡さなければ、四隻の原潜でアルゼンチンを核攻撃すると脅すんですから…核戦争を引き起こすなんて。私は引き下がりましたよ>(東京大学出版会UP4月号、長谷部恭男氏「巡洋艦ベルグラーノ撃沈 一九八二年五月二日」より要約)

 精神分析医の著作(日誌)にある話で電話の有無、内容は間接情報であって真偽はわからないが、ありえる話である。

 そうだとすれば、核兵器は実際には使わないにせよ、核の力をもって英国は戦争を有利に導いたことになる。

 過去の話にせよ、核の威力は絶大で、核保有国は非核保有国に対し絶対的優位にあるわけだ。

 その威力は少なからぬ国々にひそかに核を持ちたいと願わせ、実際に保有国を誕生させた。

反核のうねり始まる

 北朝鮮もその一つである。核の威力をもってアメリカを振り向かせ、独裁体制の保証という果実を得ようとしている。

 それと正反対の世界的動向が非核保有国が集まって進める核兵器禁止条約である。核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止し、昨年国連で採択された。ただし各国の批准は進んでいない。

 それでも核兵器に対する人々の考え方は、徐々に変わってきているのではないか。持つ・持たないの不公平、非人道性への倫理的拒絶、人類の破滅。サッチャー氏の逸話などは過去のものとし、核時代を非核の時代へと反転させる意思を世界は持つべきだ。そのうねりは始まっている。

 もう一つは、私たち自身のことである。

 敗戦の後、憲法九条をマッカーサー司令官とともにつくったとされる首相幣原喜重郎は回想している。一九〇五年九月、日露戦争の講和直後のこと。

 ロシアから賠償金もとれなかった講和を屈辱外交と非難する東京・日比谷の大会から流れた人々が、政府への反発から交番、電車を焼き打ちし新聞社も襲った。実際は政府には戦争継続の力はもはやなく、一方国民は徴兵と戦費のための増税で苦しんでいた。

 当時幣原は外務省勤務で、講和全権の外相小村寿太郎から以下の述懐を聞いている。

 小村には国民の反発は予期の通りだったが、故郷宮崎県飫肥(おび)の村に帰って驚いたそうだ。各所に小さなテーブルが出て酒が一杯ついである。小村の酒好きは知られている。一人の老人が小村の前にやってきて言った。

 「東京では大騒ぎしたそうですが、騒ぐ奴(やつ)らは、自分の子供を戦争にやった者ではありません。私は子供が三人あり、そのうち二人は満州で戦死し、残った一人も戦地におります。みんな犠牲になるものと諦めておりましたが、お陰(かげ)で一人だけは無事に帰って来ることと思います。全くあなたのお陰でございます」

 老人は戦争を終わらせた小村の洋服にすがって泣き、同じ光景が二、三あったという(幣原喜重郎「外交五十年」より)。

 外交官の苦悩が語られ、同時に戦争のもたらす根源的な悲しみが語られている。

◆危うい耳に心地よい話

 戦争は政府にとっては政治であり勝敗であるのだろうが、家族や個人には人の生死でしかない。

 国家を主語とした威勢のいい話は一時耳に心地よいかもしれないが、注意せねばならない。近隣国への反感をあおる政治家の言葉はよく聞き分けねばならない。

 戦争より外交である。武力より対話である。

 戦争が多くの人の命を奪うのなら、外交は多くの人の命を救うといってもいい。

 何も理想を言っているわけではない。反戦は普通の人々の現実である。国家を平和へと向けさせるのは私たちの判断と意思である。

 

(2018年8月15日配信『東京新聞』−「筆洗」)

 

子どもが悪さをすれば、他人の子どもであろうと叱りつけるカミナリおやじというものはその昔ならどこの町内にもいたものだが、最近は、聞かなくなった。地域のしつけ役であり、今から思えば、ありがたい存在なのだが、当時の子どもにすれば、やはりおっかなかった

▼作家の平野啓一郎さんが『「カミナリおやじ」とは誰だったのか?』という文章の中で大胆な見方を示している。あのカミナリおやじとは過酷で悲惨な戦場体験によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症していたのではないかという指摘である

▼ひどい戦場体験に苦しんだ平野さんのおじいさんがそうだったそうだ。心の不調によって時に感情が抑えきれず、爆発する。同じようにあのカミナリおやじたちとは「戦場のフラッシュバックに苦しみ続けた人々」だったかもしれぬと書いている

▼事実は分からぬが、PTSDという言葉も適切な治療法もない時代である。戦争の狂気、恐怖が残した心の傷は手当てもされず、それがカミナリとなって現れたとしても不思議ではない

▼終戦記念日である。人が殺し合い、憎み合う中では誰であろうと心はきしむ。その見えない傷は戦争の後も長く残った

▼カミナリおやじがいたわしい。ひょっとして、あのカミナリの裏側にあったのは、決して戦をしてはならぬという苦しい叫び声だったのかもしれぬ。

 

戦後も引きずるもの(2018年8月15日配信『東京新聞』−「私説・論説室から」)

 

 左目に穴が開いている眼鏡。弾は頭部まで達したが、分厚いレンズが緩衝となり、貫通はしなかった。眼鏡を掛けていなかったら即死だったろう、と軍医に言われた。東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」。こぢんまりしているが国立で、秋篠宮ご夫妻と長男悠仁(ひさひと)さま(11)も先月、見学された。

 劣勢になった大戦末期、日本軍は傷病兵を後送することもできず、兵士らがあふれ返る前線の野戦病院では救護もままならなくなった。日本人犠牲者約310万人のうち約9割が1944年以降。病死や餓死も多かった。

 兵士らを無残な死に至らしめた日本軍の特徴として、一橋大大学院の吉田裕特任教授は作戦至上主義や、極端な精神主義などを挙げている(「日本軍兵士」、中公新書)。

 インド北東部への進攻、インパール作戦では「食料」の牛や羊まで連れての難路行軍で兵士らは疲弊し、約3万人が亡くなった。NHKの検証番組放送後、ツイッターでは「#あなたの周りのインパール作戦」とのハッシュタグも作られ、ブラック企業やパワハラ上司になぞらえられる書き込みが寄せられた。

 故ワイツゼッカー元独大統領は、ドイツではナチ時代と戦後が断絶しているのに対し、日本は戦時中の伝統などが戦後も維持され継続していると指摘していた。

 終戦から73年。あしき体質はないか。目をこらそう。 

 

戦争の記憶 「分かりたい」思いを胸に(2018年8月15日配信『信濃毎日新聞』−「社説」)

 

 目が訴えてくる。

 大きな屏風(びょうぶ)画に描かれた被爆者は焼きただれてさまよい、力尽きて折り重なる。目には悲嘆と絶望、時にうつろで憤怒をたたえているように見える。

 埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」を訪ねた。画家の丸木位里(いり)さん、俊(とし)さん夫妻(故人)が共同制作した15部の「原爆の図」のうち、最後の「長崎」を除く14点を常設している。

 終戦から73年。戦時を知る人たちはいよいよ少なくなり、「記憶の継承」が叫ばれている。自らにない体験を、どのように受け継いでいけるだろう。

   <「原爆の図」の前で>

 水墨画家の位里さんが出身地の広島に入ったのは、1945年8月9日という。油彩画家の俊さんもすぐに後を追った。

 2人は1カ月ほど滞在し、爆風と火災で荒廃した街、もだえ苦しむ人々を目の当たりにした。

 夫妻は50年、被爆者たちが破れた皮膚を引きずり両腕を前に差し出す第1部「幽霊」(当時の題は「八月六日」)、真っ赤な炎に包まれる第2部「火」、川辺にはい寄り事切れる第3部「水」を相次いで発表する。

 家族や親戚に話を聞き、原爆投下翌日に撮られた写真なども頼りにして、2人は直後の広島の光景を描き出した。

 連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、広島と長崎の被害の実相は国民に知らされず、原爆の文字を使うのがはばかられるほど検閲が厳しかった。それだけに3部作は反響を呼び、市民の手で各地を巡回する。その後も夫妻は証言を集め、続編を制作した。

 ただ、被爆者から「もっと悲惨だった。この絵はきれい過ぎる」との声が聞かれたという。

   <広がっていく意識>

 人の苦しみに共感するのは簡単なことではない。戦争を持ち出さなくても、原発事故に見舞われた福島を取材する度に実感する。家や仕事を失い、故郷を追われ、家族もばらばらになった住民の心情を理解できたか、読者に伝えられたか、自問せざるを得ない。

 丸木夫妻はどうだったろう。

 55、56年発表の2作品の主題は広島を離れている。54年に米国が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行い、島の住民やマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が死の灰を浴びた。

 第9部「焼津」は、抗議の決意を宿した漁村の民の鋭い眼光が印象に残る。第10部「署名」は、東京都杉並区の母親たちの呼びかけで全国に広がった反核運動のうねりを捉えた。

 原爆の図はここで完結するはずだった。が、証言を聞くうち、見過ごせない日本人の加害の事実を知る。71年の第13部は広島で虐殺された「米兵捕虜の死」を、72年の第14部「からす」では、多数の朝鮮人の死体が被爆地に遺棄された無残を告発した。

 「第10部で終われば、広島から未来につながる『美しい物語』になったかもしれない。丸木夫妻は迷いながら仕事を続け、終わりのないことを意識していた」と、学芸員の岡村幸宣さんは言う。

 美術館の新館には、2人が75年から81年に完成させた四つの巨大な壁画が展示されている。

 「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」。もう一つは、水俣病、原発建造、成田空港建設を巡り、権力に虐げられる市民を歴史絵巻のように表した「水俣・原発・三里塚」。苦悶(くもん)する無数の人々の目顔は、広島の被爆者と重なる。

 岡村さんは「夫妻は原爆だけを描きたかったのではない。暴力と差別がもたらす人間の痛み、その痛みを負った人たちを支え得る社会のありようを絵に託したのだと思う」と話した。

   <続編は一人一人が>

 位里さんと俊さんの作品群は完結していない。私たちの生きる社会に続編はある。

 「平和利用」のかけ声の結果、福島は核の惨禍にさらされた。沖縄県民は「安全保障」の名目で今も主権を奪われている。

 過労死や自殺が後を絶たず、人と人との関係は薄れて孤立感が深まっている。戦争とは質の異なる暴力に追い詰められ、身近な命が悲鳴を上げている。

 東京や広島、長崎、沖縄で、曽祖父母や祖父母世代の体験を語り継ごうと、3世、4世に当たる若者が多様なアイデアで活動を始めている。心強くはあるものの、戦争の記憶はそうした一部の人たちだけが担い、受け継いでいくものではないはずだ。

 原爆の図をいかに「自分の絵」として見てもらうかが、これからの美術館の課題だという。丸木夫妻の願いをたぐり寄せようとする国内外の人たちの支えで、館は半世紀存続してきた。

 戦時に生きた人々の苦難を共有することはできない。知ったつもりに、寄り添えた気になるより、目の前にある命の問題と交錯させながら、「分かりたい」との思いを持ち続けたい。

 

(2018年8月15日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月、小県郡丸子町(現上田市)の各世帯に、隣組の常会で決めた文書が回った。「今回畜犬野犬ノ全面供出ヲ行フ事トナレリ」。軍需用の毛皮増産などを目的に軍需省が決めた事項を、県と市町村を通じて隅々まで行き渡らせた

   ◆

犬の飼い主はごちそうを与えて、供出に応じたという。長野県史を開いても経過を示す直接の資料は見当たらない。文書を入手し今年2月に公開した信州戦争資料センターは、県内の具体的指示を示す唯一の文書とする

   ◆

歴史に埋もれた悲劇を掘り起こそうと、北海道江別市の地域史研究家西田秀子さんは、10年間にわたって実態を調べて、一昨年に報告書をまとめている。国立公文書館や全国の図書館を訪ねて資料を読み解き、関係した人の証言も集めた。毛皮の使い道も可能な限り検証している

   ◆

軍需省などが全国に供出を求めたのは44年12月。隣組があらかじめ頭数を調査して市町村別に割当数も決めていた。「野畜犬 進んで奉公 さあ!今だ!」などのちらしで雰囲気がつくられ、公報や新聞もあおった。誰も命令に背くことはできなかった

   ◆

「お国」の名で奪われた小さな命の総数は分からない。犬研究者の平岩米吉は当時、「動物の信頼や誠実を裏切る如(ごと)きは、我々自身の良心を棄(す)て去ること」と批判した。森田敏彦著「犬たちも戦争にいった」から引いた。良心を捨てさせたものの正体を考え続けなければ、過ちは繰り返す。

 

終戦の日に 若者たちが平和をつなぐ(2018年8月15日配信『新潟日報』−「社説」)

 

 終戦記念日が巡ってきた。平和国家日本がその出発点に立ってからことしで73年、平成では最後の記念日になる。

 先の大戦では国家が国民を無謀な戦いに引きずり込み、アジア諸国に多大な犠牲を強いた。

 前線に駆り出された国民の多くは亡くなり、広島、長崎への原爆投下や相次ぐ空襲で大勢の命が奪われた。戦争で人生を断ち切られた300万人余りの悲劇の上に、私たちの暮らしはある。

 改めて歴史に思いをはせ、平和の重みをかみ締めたい。

◆過去の教訓を未来へ

 昭和から平成へと続いてきた戦後は、長い時を刻んだ。戦時の実情を身をもって知る人は減り続ける一方である。

 それと歩調を合わせるかのように、戦後築き上げてきた平和の土台はあやしくなっている。

 安倍晋三首相の唐突な提案を機に、平和憲法の核心である9条を巡り「改正ありき」のような議論がくすぶり続ける。

 政府は「唯一の戦争被爆国」を掲げながら、核兵器禁止条約に不参加の態度を崩していない。

 世界に目を転じれば、トランプ米政権の登場以降、自国第一を唱える政治が大手を振ってまかり通っている。

 目の前の平和をこれからも維持していくために、過去の教訓を未来に伝えていく確かな意志を持ち続けなければならない。

 戦争のむごさや愚かさの記憶を薄れさせない。そのことが、過ちを防ぐ第一歩となる。

◆思いを育てる大切さ

 平和を未来につないでいく上でとりわけ期待したいのは、次代を担う若い世代である。

 「核兵器や戦争の恐ろしさを絶対に忘れてはいけない。忘れることは、戦争への道を一歩ずつ踏み出していくこと」

 高田高2年の神谷優李さんは昨年8月、第20代「高校生平和大使」メンバーとしてスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪れ、各国代表を前に英語でスピーチした。

 平和大使はインド、パキスタンが1998年に核実験を強行したのを契機に誕生し、広島と長崎両市の市民団体が募集している。

 毎年国連を訪問し、核兵器廃絶を願う署名を届け、平和への思いを世界に発信してきた。長年の活動が認められ、ことしのノーベル平和賞候補になっている。

 「被爆や戦争の実体験を伝えることはできないけれど、平和のための活動を行ったり、平和について考えるきっかけをつくったりしていきたい」

 帰国後、平和大使の活動経験を学校の内外で紹介してきた神谷さんはこう語る。

 神谷さんが平和について学ぶきっかけは小学5年の時、父親から自由研究のテーマとして憲法を勧められたことだった。

 戦争放棄をうたい、平和憲法の象徴となっている9条が印象に残り、戦争や世界の紛争にも関心を抱いたという。

 神谷さんは、自らの中に芽生えた平和への思いを育てた。感じさせられるのは、子どもや若者の柔らかな感性に「平和とは」と問い掛けることの大切さである。

 平和大使に選ばれた神谷さんは曽祖父が戦時中に直江津捕虜収容所で働いていたのを思い出し、祖母に当時のことを聞いた。

 国連でのスピーチでは曽祖父の話も織り交ぜ、戦争や核兵器への反対を伝えた。被害とともに加害の事実にも目を向け、新しい世代がそれを乗り越える国際関係を築くことが重要とも訴えた。

 ことしも、長岡高2年の佐藤倫花さんが高校生平和大使として活動する。

 平和への強い願いを持ち、行動する若者が増えていけば、未来への希望も膨らんでいく。

◆大人も責任果たそう

 神谷さんの平和への願いは身近にあった戦争の記憶に目を向けさせ、それは国境を越えた。

 「平和について考えるきっかけはいろいろなところにある。記憶の端っこにあるものが、そうなることも」。神谷さんは言う。

 きっかけやそれにつながる機会を積極的に提供することは、大人の側の重要な責任だろう。

 学校での平和教育をはじめ、家庭での対話や地域の取り組みなどを通して、戦争の歴史と平和の大切さを繰り返し伝えたい。

 「73年前の事実を、被爆者の思いを、私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります」

 ことしの広島原爆の日、広島市で開かれた平和記念式典で子ども代表が宣言した「平和への誓い」はこう締めくくられていた。

 命を尊び、互いを尊重し合う。そんな当たり前のことが失われていた時代が、かつてこの国にあった。歴史を胸に刻み、未来の平和を支える若い世代を育てていかなければならない。

 

(2018年8月15日配信『新潟日報』−「日報抄」)

 

それを「増槽(ぞうそう)」と呼ぶのだとは知らなかった。軍用機の翼の下あたりに付いていて、爆弾かと勘違いしそうな形だが、追加の燃料タンクになっている

▼先の大戦でも機体に付いていた。「アメリカはジュラルミンで作っていたらしいが、日本ではベニヤ板で、家具職人が作る。今から思えば、そんなことやってて勝てるわけないと思うが」

▼物理学者、益川敏英さんが「私の『貧乏物語』」に書いていた。増槽を作っていたのは父である。元は洋家具の大工をしていた。「名古屋では俺の作った家具が一番」。腕を自慢する父だったが、戦争が本格化すると、思うように仕事ができず軍需工場で働くようになっていた

▼益川さんが5歳のとき、焼夷(しょうい)弾が家に落ちる。屋根を破った1発が、目の前に。たまたま不発弾だった。だから、いまの命がある。眼前の焼夷弾、そして父親の不本意な背−。焼き付いた記憶が言わせるのだろう。科学者として「戦争に利用されたくないし、加担したくもない」

▼益川さんは、戦争を「あんな野蛮なもの」と呼ぶ。集団的自衛権に道を開く憲法解釈に「とんでもない」と批判を浴びせ、そんな憲法解釈をする人にはこう勧める。「小学校から国語をやり直した方がいい」。この夏は安保法の違憲性を問う訴訟の原告に加わった

▼嫌なものは嫌、駄目なものは駄目。臆することなく声を上げる。ノーベル賞を受けたとき「たいしてうれしくない」と言ったのが、益川さんだった。辛口に学びたくなる終戦の日だ。

 

金沢に残る防空壕 焼夷弾には無力だったか(2018年8月15日配信『北国新聞』−「社説」)

 

 今年もまた終戦記念日が巡ってきた。戦没者を悼み、穏やかな日々の尊さをかみしめる日である。73年続く日本の平和を何にも替え難い財産として、とわに受け継いでいきたい。

 14日付の本紙で、金沢市長町3丁目の中村洋子さん宅の庭に今も残る防空壕が紹介されていた。地上部分の幅は約1・2メートル、長さは約3・4メートルほど。物資不足のころとは思えぬほど立派なコンクリート製である。

 防空壕は戦時中、「防空待避施設」と呼ばれた。昭和17年の内務省通達は、防空待避施設について、丈夫な施設は不要であり、床下を掘るだけで十分である。焼夷弾が落下したらすぐ飛び出して消火せよ、と命じていた。

 空襲があったら逃げずに、まず消火活動を行う。防空壕は身を守る場所というより、応急消火の出動に備える「待避場所」という位置付けだった。中村さん宅の防空壕が例外的に堅牢な造りだったのは、中村さんの義父母が家族の命を守ることを最優先に考えていたからではないか。

 実際の空襲では、床下の待避場所や庭に穴を掘っただけの防空壕で多くの人が命を落とした。死者2700人余りを数え、市街地が壊滅状態となった富山大空襲から1カ月後、被災した男性が県外に住む息子に宛てた手紙がある。

 「富山大空襲を語り継ぐ会」によれば、富山市西中野町に住んでいた杉山與作さん=当時(76)=が、したためたもので、「防空壕へ入ったものは過半数焼死。何の役にもならず」と記されていた。50万発以上の焼夷弾が投下された状況では、簡素な造りの防空壕ではひとたまりもなかったのだろう。空襲があっても逃げるなと命じた国の方針が甚大な被害をもたらした。

 米公文書館などで見つかった資料の中に、金沢市を狙った空襲計画があった。マリアナ諸島の基地から出撃し、硫黄島を経て、黒部、穴水、志賀を経て金沢に向かうコースが設定され、爆撃の高度や所要時間、飛行速度などの細かな指示もあった。終戦がもう少し遅れていたら、どうなっていたか。戦火を免れた幸運に感謝し、不戦の誓いを新たにしたい

 

平成最後の「終戦の日」(2018年8月15日配信『福井新聞』−「論説」)

 

不戦の誓い、かき乱すのは

 平成最後となる73回目の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの戦没者を悼むとともに、それだけの犠牲をもたらした歴史を改めて学び、平和と繁栄を継続させるには何が必要なのかを考える日としたい。

 6日の広島、9日の長崎原爆忌では昨年に続き、異様ともいえる光景が繰り返された。平和宣言で核兵器禁止条約への参加、賛同を求めた両市長に対して、安倍晋三首相は核保有国と非保有国との「橋渡し役に努める」としたものの、記者会見では条約への不参加を再度表明した。

 一方、11日に地元の山口で開かれた党の集会では、9月の総裁選への出馬意欲を示し、その中で自衛隊を憲法9条に明記する改憲の実現に「大きな責任を持っている」と強調。翌日の講演では「いつまでも議論を続けるわけにはいかない」と述べ、「スケジュールありきではない」としたこれまでの発言を撤回したかに映る。

 核兵器廃絶を世界に訴え、行動している被爆者たち。その先頭に立つべき、唯一の戦争被爆国の首相が背を向ける。さらに、長崎原爆忌で被爆者代表が「平和への誓い」の中で「憲法9条の精神は、核時代の世界に呼び掛ける誇るべき規範」と評したことなどを一顧だにしていない。平和を祈り、不戦の誓いを新たにすべき時をかき乱すかのような姿勢ではないか。

 首相が改憲を表明した昨年5月の時点では、北朝鮮が日本海に向けてミサイル実験を繰り返し実施。一昨年には尖閣諸島近海に中国の公船・漁船が毎日のように現れる事態があり、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変動した。首相の改憲論は、こうした情勢を受けた側面もあるだろう。

 だが、北朝鮮情勢は、6月の米朝首脳会談を機に緊迫の度合いは格段に低くなった。日中関係も融和ムードが高まりつつある。先行きの不透明感は拭えないが、そこを確かなものにしていくのが政治であり、政権の責務である。

 首相は、2015年9月には解釈改憲で集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法を強行成立させ、「戦争ができる国」としての突破口を開いた。次は宿願の改憲をとの考えだろうが、国民の57・6%が首相の下での改憲に「反対」している(5月の共同通信社世論調査)ことを肝に銘じるべきだ。

 悲惨な体験を伝えるはずの被爆者は平均年齢が82歳を超え、戦争を体験した戦前生まれは人口の2割を切った。直接語り継ぐ機会は限られてきている。ただ、被爆地では若者が核兵器の非人道性を訴えようと頑張る姿もある。県内でも戦争の悲惨さを伝えようと、遺族の孫世代で構成する「次世代の会」の立ち上げが続いている。

 きょう行われる全国戦没者追悼式は、来年4月末に退位される天皇陛下にとって最後の式典となる。苦しみながら戦後を生きた国民一人一人に向き合ってこられた陛下が何を語られるのか、耳を傾けたい。

 

情けないことに「特攻隊」から目を…(2018年8月15日配信『福井新聞』−「越山若水」)

 

 情けないことに「特攻隊」から目を背けてきた。爆弾を抱いた飛行機ごと敵艦に突っ込む。一瞬にして粉々に砕け散る。そのさまは悲惨すぎて想像するのもつらい

▼1944年秋から終戦までに、陸海軍の計3千人余が若い命を散らしたとされる。彼らは軍神とたたえられる。進んで志願したともされるが、さて真実なのか

▼鴻上尚史著「不死身の特攻兵」(講談社現代新書)は、図らずも手に取った本だ。都合9回の出撃命令を受けながらも生き延びた青年がいたという。心から驚いた

▼特攻隊に指名され、彼は「動揺した」。出撃すると、体当たりより爆撃を選んだ。死を恐れたのではない。不足している飛行機や操縦士を無駄にすべきでない、と考えたからだ

▼帰還するたびに上官の怒りは激しくなった。大本営は青年の戦死を華々しく発表していたから、生きていられては面目がつぶれる。上官は「今度は必ず死んでこい!」と命じた

▼この状況でも、素直な理性を失わなかった青年に感心する。「死ななくてもいいと思います」。絶対の存在だった上官に対し、そう抗弁したのだ

▼当時21歳の青年、佐々木友次(ともじ)さんは北海道出身で2年前に亡くなった。生家は福井県から入植した開拓農家だという。その奇縁にまた驚き、故人の心中を思った。仲間が軍神にされるなかで生き残った苦衷を…。きょうは終戦記念日。

 

終戦の日  反省と鎮魂どう引き継ぐか(2018年8月15日配信『京都新聞』−「社説」)

 

 終戦の日を契機に、今年に入って亡くなった方々のお名前を、思いつくまま挙げてみよう。

 1月は元官房長官で京都ゆかりの野中広務さん。2月は俳人の金子兜太さん、そして先月は演出家の浅利慶太さん。

 いずれも発信力が強く、戦争のことを語っていた。

 順番は前後するが、98歳で亡くなった金子さんはあの夏、兵士だった。

 海軍主計中尉として赴任した南洋のトラック島で、部隊が孤立。食べるものがなく、仲間は非業の死を遂げた。

 <水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>との句を残す。引き揚げ後は、平和運動にも注力した。

 92歳の野中さんは、大戦末期の沖縄戦で散った特攻隊員と、ほぼ同世代である。応召した高知県で終戦を迎えた。

 自衛隊の海外派遣など政治の節目に「戦争を知らんから、そんなことができるのだ」と訴えた。

 85歳の浅利さんは2人より若く、空襲と疎開を経験した世代である。天皇陛下と同じ、1933(昭和8)年に生まれた。

 風化と形骸化が心配

 戦時中を生きた人たちが、次々といなくなっている。そのことを身に染みて実感する。

 そして来年、陛下は退位され、政府主催の全国戦没者追悼式でこれまで通りに、お言葉を述べることもないだろう。

 戦争の記憶は風化し、徐々に語り継がれなくなっていくのではないか。終戦の日、反省と鎮魂の思いを込めた厳粛な行事も、形骸化してしまわないか。それはよくないと、誰もが考えよう。

 陛下は昨年の追悼式で、「深い反省とともに、戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願う」と述べられた。

 「深い反省」との文言は3年連続で盛り込まれた。まずは、引き継いでおくべきものであろう。

 「ものぐさ精神分析」などの著作で知られる岸田秀さんも、昭和8年生まれである。

 40年以上前の「日本近代を精神分析する」との評論で、幕末のペリー来航時に日本国民は本音は攘夷(じょうい)なのに開国を選択し、矛盾する心情を抱えたとする。

 その後の米英に対する宣戦布告は、まさしくその発露であり、国民自身における分裂状態への反省を欠くならば、再び同じ失敗を犯す危険があろう、とした。

 あくまで分析ではあるが、史実と戦時中の空気を踏まえており、今日でも説得力を持つ。

 国会の勢力分野が、憲法改正を発議できる状況となっている。前のめりとされる姿勢を取り続ける向きもある。改めて、頭に置いておきたい指摘といえよう。

 陛下は、終戦の日と広島、長崎への原爆投下日、沖縄慰霊の日を「忘れてはならない四つの日」として毎年黙とうをささげ、被災地や太平洋の激戦地に赴いて、すべての犠牲者を悼んできた。

 これもまた、平成が終わり、次の時代になったとしても、引き継ぐべきものだ。

 哀悼われわれの手で

 浅利さんは、海外のミュージカルの翻訳、上演に取り組む一方で、オリジナル作品も発表した。代表作は、「南十字星」「異国の丘」「李香蘭」という昭和の歴史3部作で、いずれも戦争をテーマにしている。

 パンフレットに、こうある。念頭に置いたのは、戦争の深い傷が日本の社会から忘れ去られようとしていることである。死んでいった圧倒的な数の兵たち、市民たちはみなわれわれの兄姉、父母の世代である。平和は、あの人たちの悲しみの果てにもたらされた。哀悼と挽歌(ばんか)は、われわれの手で奏でなければならない。

 観劇した若い人にどう伝わっているのか、知りたいところだ。

 昨年の追悼式には、対象となる約310万人の遺族約5千人が参列した。このうち、犠牲者の妻は過去最少の6人だった。

 最高齢は101歳で、戦死した夫を「いい人だった」と話す。陸軍の上司からの手紙に、銃撃された後、手りゅう弾で自決したとあった、と明かした。

 一方で、孫ら戦後生まれの参列者が、4分の1を占めるようになった。最年少の6歳が悼んでいたのは、顔を合わせたこともない曽祖父であった。

 演繹は事実ゆがめる

 世代間のギャップを、埋めていく必要があろう。

 浅利さんは、あの戦争を総括するには、まだ時代が早いという意見に耳を傾ける、としていた。

 75年生まれ、気鋭の政治学者である中島岳志さんは近著「保守と大東亜戦争」で、戦中派の保守論客は超国家主義的な考えとは相いれず、戦争には極めて懐疑的な見方を示していた、と述べる。新たな視点となるのかもしれない。

 論客の一人、名作「ビルマの竪琴(たてごと)」を書いた竹山道雄さんは、主義主張に伴い既定の前提から発する「上からの演繹(えんえき)」は、論理によって事実をゆがめる、と主張したと紹介されている。世代を超えて物事を引き継ぐには、謙虚な姿勢で事実を積み重ね、まっとうな判断をするしかないだろう。

 

沖縄戦(2018年8月15日配信『京都新聞』−「凡語」)

 

 この夏、話題を集める一本の記録映画を見た。太平洋戦争末期、日本で最大規模の地上戦が行われた沖縄戦の裏面史に迫る「沖縄スパイ戦史」だ

▼民間人を含む20万人以上が犠牲になった沖縄戦は、1945年6月23日に組織的戦闘が終わる。だが、北部では10代半ばの少年を中心にした過酷な遊撃戦が続いていたことを映画は教える

▼少年たちの部隊は秘密戦教育の特務機関、陸軍中野学校出身の青年将校によって村ごとに組織され、「護郷隊」と呼ばれた。正規部隊に編入された学徒の少年兵部隊「鉄血勤皇隊」とは別の組織である

▼そのゲリラ戦で戦車への特攻など絶望的な戦いに挑み、約160人が戦死した実相が元少年兵らの証言であぶりだされる。精神に異常をきたすなど足手まといになった者は、命令で幼なじみの手で射殺されたという

▼情報が敵に漏れないように住民をマラリアのはびこる島へ強制移住させる、住民同士を監視させて密告させる組織をつくる、さらにスパイ・リストに基づく住民虐殺…。映画が伝えるのは、軍が住民を手駒のように使い、本土決戦に向けた「捨て石」とした沖縄戦のやりきれない闇の深さだ

▼軍隊は本当に住民を守る存在なのか。監督した三上智恵さんと大矢英代さんの問いは、今も続く沖縄の問いでもあろう。

 

(2018年8月15日配信『奈良新聞』−「国原譜」)

 

きょうは8月15日。昭和20年のこの日に終わった戦争を忘れないための「終戦記念日」。今も世界のどこかで起きている戦争の廃絶を願う日だ。

 戦争が終わった日があれば、始まりもある。その過程を私たちは細かく検証し、「歴史の記憶」として正しく受け継いでいるか。未来の平和へと展望を開いているか。

 日米開戦の発端となった「真珠湾攻撃」。昭和16年12月8日、米ハワイの真珠湾にいた米軍艦などを旧日本軍の航空機が襲った。総隊長は県出身の故・淵田美津雄さん。

 淵田さんは当時、軍隊の階級でいえば旧日本海軍の中佐だった。戦後の昭和26年にキリスト教に回心し、米国に渡って伝道者となった。同51年末に橿原市で73歳で亡くなった。

 淵田さんが最も大切にしていたという新約聖書の言葉がある。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(諸訳あり)。

 宗派にこだわる必要はない。この言葉には、敗戦まで修羅場を生きた淵田さんが込めた戦後の祈りがある。世界から戦争という迷妄をなくさねばという必死の願いもある。

 

「8月15日に寄せて」(2018年8月15日配信『紀伊民報』−「水鉄砲」)

 

 毎年、8月15日には20人近い親族が実家に集まって先祖を供養する。太平洋戦争で戦死した伯父といとこの遺影に手を合わせ、線香を立てるのも、僕が子どもの頃から続く儀式である

▼寿命を全うして亡くなった祖父母や名前だけしか知らない江戸、明治期の先祖とは異なり、30代半ばで妻と幼い子2人を残して戦死した伯父、同じく20歳を過ぎたばかりで戦死したいとこ。二人の死を悼む肉親の気持ちは、子ども心にも伝わってきた。とんがった先端に星印の付いた二人の墓を見るたびに、戦争の理不尽さを思った

▼本紙の「語り継ぐ記憶」には戦地で戦い、かろうじて生還した兵士たちの回想が掲載されている。シベリアに抑留され、野の草を摘んで体力を保持して帰還した人、3時間近く大海原を漂流し、板きれ一枚にすがって助かった人、フィリピン南部の島でヘビやネズミを食って生き延びた人……

▼こうした証言に接するたびに彼らを戦地に送った側の責任はどうなったのか、という疑念に駆られる。それは鴻上尚史氏の近著『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』や同じく保阪正康氏の『昭和の怪物七つの謎』(ともに講談社現代新書)を読んでも深まるばかりだ

▼戦争指導者らの責任は、すでに極東軍事裁判で明らかにされている。しかし、日本人が自らの責任でこの問題を明確にしていたら、戦後史は変わっていたのではないかと思えてならない。

 

終戦の日/過去をたどる「ほそ道」の先に(2018年8月15日配信『神戸新聞』−「社説」)

  

 73年前のきょう、太平洋戦争が終結した。8月15日は不戦と平和を誓う日である。

 満州事変からの戦争は甚大な犠牲をもたらした。軍人と民間人を合わせた日本側の死者は300万人を超える。忘れてはいけないのは、他国の犠牲は2千万人以上とされることだ。

 今も戦争を巡る認識の違いが内外で議論を呼ぶ。当事者の受けた傷は深く、過去はなかなか歴史の収蔵庫に収まらない。

 「歴史とは現代と過去との対話だ」と英国の歴史学者E・H・カーは述べた。きょうは過去が語る言葉に耳を傾け、改めて問い掛けてみよう。「あの戦争は何だったか」と。

      ◇

 「奥の細道」は江戸時代の俳人、松尾芭蕉が東北、北陸などを歩いた俳句紀行の名著だ。その題を冠した英語の小説が世界的な評価を得ている。

 オーストラリアで4年前に発表され、英国を代表する文学賞「ブッカー賞」などを受賞した。今年、日本語訳の「奥のほそ道」(白水社)が出た。

 芭蕉の紀行文と違い、題材は太平洋戦争だ。東南アジアで日本軍の捕虜となり、熱帯雨林を切り開く鉄道建設に酷使されたある軍医の人生を描く。

 小説では日本軍将校や看守が虐待を繰り返す。食料も満足に与えられず、労働を強いられるオーストラリア人兵士たち。弱った捕虜を殴打する日本の看守。極限の状況が展開される。

 作者のリチャード・フラナガンさんはオーストラリアを代表する作家だ。「奥のほそ道」の執筆には12年の歳月をかけて試行錯誤を重ねたという。

 今の時代にこの本が世に出た意味を考える必要がある。

「死の鉄路」での体験

 50代のフラナガンさんは戦争体験がない。だが父親は日本軍の捕虜となり、労働力として酷使された。タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」の建設現場である。

 工事には連合国軍の捕虜約6万人が動員され、オーストラリア人は約3千人が亡くなった。マラリアやコレラがまん延し、「死の鉄路」と呼ばれた地獄から生還した父親の体験が、物語の下敷きになっている。

 生前、父親は戦争を語る時、看守への恨みを吐露した。顔を何度も「ビンタ」され、同僚は殴られて絶命したという。

 今の日本は友好国だが、当時の日本人はどのような人たちだったのか。それを知りたくて東南アジアや日本を訪ねた。芭蕉が歩んだ旅路のように、長くて細い道のりとなった。

 人生の大切なものが戦争で失われる。作品では、敵味方を問わず、運命に翻弄(ほんろう)される人の弱さ、悲しさを掘り下げた。

 当時の日本軍では、上官の命令は絶対だ。物資も人手もない中で鉄道の早期完成を迫られた現場の将校は、追い詰められて薬物に手を染める。日本民族の優秀さをたたえ、精神論を振りかざして、捕虜をこき使う。

 人間性を失っていく将校が支えとするのは、芭蕉や小林一茶らの俳句だ。文人らしい教養と冷酷な振る舞いの落差が、戦争の不条理さを際立たせる。

戦後世代が問い直す

 神戸に長く住む50代のオーストラリア人女性は、この本を読んで感銘を受けたと話す。虐待を受けた側だけでなく、日本人の側からも戦争の実像を捉えていると考えるからだ。

 フラナガンさんと同じ戦後生まれだが、日本軍の捕虜虐待は自国では世代を超えて知られる事実だ。女性の父親は「無抵抗の日本兵を撃つなど、こちらもひどいことをした」と話していた。しかし、日本人を許せない戦争体験者も少なくない。

 おじもその一人で、収容所で爪の下に竹を刺すなどの暴行を受け、殴打された傷痕が背中に残る。女性が日本の男性と結婚する時には強く反対した。

 「被害感情が強い時期には、こういう小説は書けなかったでしょう。時間がたってオーストラリアも変わった。許すことはできなくても、理解しようとする力が、今はあると思う」

 初めて日本に来た時は広島に住み、被爆者の話を聞いて原爆の実情を知った。今は「どの国の人も残虐行為に無罪ではありえない」と考えている。

 飜って日本の状況はどうか。

 捕虜虐待の事実どころか、オーストラリアと戦ったことも多くの人は知らない。戦争中、兵庫県でも捕虜収容所が神戸、姫路などに設けられたが、そこでの過酷な労働の歴史も理解されているとは言いがたい。

 欧米では近年、戦後世代が戦争を自分たちの目で見つめ直す動きが続く。「奥のほそ道」もそうした流れの中にある。

 日本では、捕虜となった米兵の苦難を描いたハリウッド映画が「反日」と批判され、劇場公開が1年以上も遅れたことがある。これでは他国との隔たりは大きくなるばかりだ。

 対話を拒まず、自分たちも答えを探す。戦後世代が過去をたどる「ほそ道」を、日本でも切り開きたい。ともに歩む、未来への入り口とするために。

 

(2018年8月15日配信『神戸聞』−「正平調」)

 

漫画家の水木しげるさんは激戦の地ラバウルで左腕を失った。母は息子を案じ、どれくらい不自由なものかと1週間、片腕だけで炊事を試みたという

◆「命をなくした人も多いのだから、片腕ぐらいと、わりに気楽に思っていた」と、自伝「ねぼけ人生」(ちくま文庫)にある。敵襲と飢えとマラリアと。戦場の地獄を見た人にしか言えぬ「片腕ぐらい」だろう

◆作家の北原亞以子さんは、日本が戦争に負けたことを知って「父ちゃん、帰ってくるんでしょ」と母に尋ねた。ビルマ(現ミャンマー)に赴いた父の戦死を知らされたのは終戦の翌年、小学3年生のときである

◆幼心に、南国の果物を手に帰ってくる父の姿を想像していた。成績表を見てほしかった。「うそみたい」と言って、母の膝で泣き伏したという。骨つぼはカタカタと寂しい音がした(新潮社「父の戦地」より)

◆無謀な戦争によって多くの人が命を落とし、肉親を亡くし、けがを負い、家を焼かれた。そこへ戦後の食糧難である。きょう、あすを必死に生きた市井の人たちがきちんと悲しめたのはいつだったろうと考える

◆明治の改元から初めて戦争のなかった「平成」最後の8月15日を迎えた。先人が苦労、苦労の石の上に積み上げた、平和の時代をかみしめる。

 

       

終戦記念日 先人の言葉を胸に刻んで(2018年8月15日配信『山陽新聞』−「社説」)

   

 73回目の終戦の日を迎えた。先の大戦で犠牲になった約310万人を追悼し、平和への誓いを新たにする日である。来年5月には改元が予定されており、平成最後の終戦記念日となる。時代の変わり目に、あらためて先人の言葉に耳を傾け、胸に刻みたい。

 今年に入り、1月に政治家の野中広務さん、2月に俳人の金子兜太(とうた)さん、5月に絵本作家の加古里子(かこさとし)さんが亡くなった。3人はともに大正生まれである。大正(1912〜26年)生まれの人たちは終戦の年に19歳から33歳だった。青春時代を戦争に奪われ、若くして命を落とした人が多い。生き残った人たちは強烈な戦争体験を胸に戦後を生き、さまざまな言葉を残した。

 加古さんは終戦時に19歳だった。自伝の中で、自分は「死に残り」だったと書いている。中学2年の時に飛行機乗りの軍人になると決心したが、近視が進み、断念した。ともに軍人を目指した同級生たちは敵艦に体当たりをする「特攻」で死んでいった。

 敗戦を境に手のひらを返すように態度を変える大人たちに失望した。戦時中は戦意高揚をうたっていたのに、負けたら反省の一言もなく、今度は民主主義の時代が来たと喜んでいる。しかし、大人だけではなく、自分も浅はかだったと気づいた。

 軍人になるために必要な勉強はするが、歴史など学んでも仕方ないと思っていたが、間違っていた。歴史の流れ、社会の動き、政治経済の問題を知ることこそ必要だった。これからの子どもたちには自分の頭で考え、判断し、行動する賢さを持ってほしい。加古さんはそんな願いを込め、戦後、絵本の道に進んだ。

 近年の政治や社会の状況に、戦前と似たものを感じるとして危機感を訴えた言葉も少なくない。金子さんは2年前に出した自伝の中で「世の中から、自由にものを言える雰囲気が失われているような気がする」と警鐘を鳴らした。戦前も言論統制や思想統制が進み、気がついたら戦争へと進んでいたという。

 自民党幹事長や官房長官などを務めた野中さんは、戦後70年の節目のインタビューで政治家に苦言を呈した。「戦争の本当の残酷さを分からない人たちばかりが政治をやっている。安倍さん(首相)がこの国をどのような方向に持って行こうとしているのかよく分からないのに、正面から党内で意見を述べ、闘いあう勢力が全くいない」

 戦争体験者がいなくなり、平成の時代が終われば、昭和の記憶はさらに遠のくだろう。だが、戦争体験者は文章や映像で多くの言葉を残した。それらを通じて、私たちは戦争を知る努力を続けなければならない。戦争を知るとは、戦争の悲惨さを知ることだけではない。先の戦争はなぜ起きたのか。歴史に学び、考え続ける必要がある。平成の次も、「戦後」と呼べる時代を続けていくために。

 

太平洋戦争末期、軍医として赴い…(2018年8月15日配信『山陽新聞』−「滴一滴」)

   

 太平洋戦争末期、軍医として赴いた南方の病院はジャングルの中にあり、ヤシの葉で屋根をふいた粗末な造りだった。大勢がマラリアで倒れたが、薬は満足にない。点滴の代わりにヤシの実の汁を注射したこともあったという

▼米軍の攻撃は激しく、玉砕も覚悟した。7年前に亡くなった元岡山県医師会長の永瀬正己さんのそんな回顧談を思い出したのは、俳人の金子兜太(とうた)さんの訃報に2月に接したからだ

▼大学を繰り上げ卒業し、海軍主計中尉になった金子さんも南方のトラック島へ行き、1945年の終戦を迎えた。仲間の悲惨な最期を語っている。「目の前で手が吹っ飛んだり、背中に大穴があいたりして死んでいく。いかつい奴(やつ)らが、やせ細って、まるで仏みたいに死んでいった」(石寒太編著「金子兜太のことば」)

▼島では8千人を超す戦死者が出たという。引き揚げる際に島を振り返ると、船が引く水脈の先に仲間の墓標が見えた。〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉。よく知られる句からは亡きがらを残して行かざるを得ないやるせなさが伝わる

▼きょうは平成最後の終戦記念日。戦争体験者が減る中、記憶を継承していく作業も一つの仕切り直しを迫られることは確かだろう

▼永瀬さんも金子さんも晩年、平和を訴える活動に力を注いだ。受け継いだバトンの何と重いことか。

 

きょう終戦の日(2018年8月15日配信『中国新聞』−「天風録」)

 

 歴史に「たられば」はないと言われる。それでも「もしあの時」と考えてしまうことが誰しもあろう。ただ自分の選択なら後悔もできようが、そうでなければどうしようもない

▲西村京太郎さんのミステリー「八月十四日夜の殺人」を読んでそう思った。ある年の8月15日朝、ホテルの一室で刺殺体が見つかる。おなじみの十津川警部が捜査を進めるうち10年ごとに同じ日、殺人が起きていると分かる。いずれも日付しか共通点はなく、動機も見当たらない

▲ゆきずりに命を奪われたのだとしたら、やりきれないではないか。そんな不条理を西村さんは、終戦前夜に日本各地を無差別に焼いた米軍の空襲と重ね合わせたようだ

▲日本がポツダム宣言受け入れを最終決定した14日から翌日にかけて、米軍は10都市以上を標的とし、光と岩国でも千人以上が犠牲になった。もし、この国の決断がもっと早ければ、広島でもあまたの命が救われたはず

▲この大量殺りくの「犯人」は、爆撃を命じた米軍の司令官か、ポツダム宣言の受諾を遅らせた旧軍部か、それとも…。最終章に西村さんが付けたタイトルは「戦争その理不尽なるもの」。きょう終戦の日を、肝に銘じる日に。

 

終戦の日/記録も記憶も大切に(2018年8月15日配信『山陰中央新報』−「論説」)

 

 平成最後となる戦後73年の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの犠牲をもたらした歴史を改めてかみしめ、惨禍を繰り返さぬよう、静かに考える一日である。

 戦後生まれは1億人余りとなり、総人口の8割を超える。悲惨な戦争や被爆体験を風化させないために、先の戦争に関する「記録」や「記憶」を引き継ぐことの大切さを、次の世代に伝えていかなければならない。

 服部卓四郎元陸軍大佐による「大東亜戦争全史」はこう記している。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒(つうちょう)が発せられ、市ケ谷台上における焚書(ふんしょ)の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた」。重要機密文書の焼却処分は、1945年8月14日の閣議で決めたとされる。

 法相などを務めた故奥野誠亮氏は終戦当時、内務省の事務官として戦争終結処理指令を作成、全国八つの地方総監府を回ってそれを伝達した。生前、指令の中身を「公文書の焼却と軍保管物資の民間への放出が柱だった」と回想したように、公文書の焼却は、軍部だけでなく、他の官庁、地方にも徹底されたという。

 こうした公文書の焼却処分が、日本の近現代史を検証・研究する上で支障をきたしたのは言うまでもない。大きな損失であった。作家の半藤一利さんは、鼎談(ていだん)「『東京裁判』を読む」の中で、軍や官庁にとどまらず、新聞社も資料などを焼却していたことを挙げ、「本当に日本人は歴史に対するしっかりとした責任というものを持たない民族なんですね」と語る。

 だからこそ、2009年に成立した公文書管理法では、真っ先に公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置付け、その適切な保存・管理の目的を「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすること」と規定した。

 しかし、この国の政治や行政の現場では、73年前をほうふつさせる光景が広がっていないか。森友学園を巡る財務省の決裁文書の改ざん、海外に派遣された自衛隊の日報隠蔽(いんぺい)、そして首相の「腹心の友」が理事長を務める加計学園問題…。国会で政府側が連発したのは、「記憶にない」「(記録は)廃棄した」という答弁だった。

 終戦時も現在も公文書の廃棄や改ざん、隠蔽の意図は共通する。前者は戦争裁判に不利な証拠を残さない、後者は1強政権へのダメージを与えるわけにはいかない、という「保身」だろう。

 だが、公文書の廃棄や改ざんは、歴史を消す行為だ。歴史への冒(ぼうとく)と呼んでもいい。それに手を染める背信の重さを、官僚も政治家も認識していたとはとても言えまい。

 安倍晋三首相は15年の戦後70年談話で「私たち日本人は世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調している。

 「記録」や「記憶」をないがしろにすれば、歴史の正確な継承がおぼつかなくなる。平成から新たな時代に向かう変わり目の8月15日、その危うさを、もう一度胸に刻みたい。それが戦争犠牲者への追悼にもつながる。

 

「九軍神」への祈り今も(2018年8月15日配信『山陰中央新報』−「明窓」)

 

 1941年12月8日、日本軍のハワイ・真珠湾への奇襲は艦載機だけではなかった。潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇は全てが未帰還となる。隊員10人中9人が戦死した。このうち2人が山陰両県の出身だった

▼鳥取県琴浦町出身の横山薫範少尉=享年(24)=と、浜田市出身の佐々木直吉少尉=同(28)。攻撃後に母船へ戻る海域が設定されてはいたが、潜航艇の構造から帰還は困難で、隊員らは2発の魚雷と運命を共にする覚悟だった

▼大本営は「九軍神」として9人の死亡を発表し、翌年に東京で大規模な合同海軍葬を執り行った。古里でも葬儀があり、地元から軍神が出たことを住民の誰もが誇りに思った。戦後73年が過ぎ、浜田で郷土の偉人として佐々木少尉の名前が出ることは

▼有志らの手で2006年、佐々木少尉の生家跡近くに顕彰碑が建立された。毎年8月と12月に慰霊式典がある。終戦記念日を10日後に控えた今月5日には40人が集まり24回目の式を開いた

▼国のために命をささげた若者たちを軍部は「神」として持ち上げ、戦意高揚を図った。戦争を経験した世代は、平和が続く今もなお、佐々木少尉の慰霊を続けている

▼顕彰碑を守る会の細川末喜事務局長(88)は「今の平和が築かれたのは戦争で亡くなった方々の犠牲の上にある。これだけは絶対に忘れないでほしい」と次世代への思いを語る。戦場に散った人たちは国を守り、国難を打開したい一心だった。歴史を理解し、今の平和をもたらした先人の冥福を祈りたい。

 

終戦73年 「いつか来た道」へ戻らぬ誓いを(2018年8月15日配信『愛媛新聞』−「社説」)

 

 73回目の終戦の日を迎えた。きょうまで日本で保たれてきた平和が、戦争の放棄を掲げた憲法の下、先人の不断の努力によって築き上げられたことを改めて心に刻みたい。薄れゆく戦争の記憶を継承し、平和を未来へつないでいくことが、現世代に課せられた大きな使命だ。

 しかし、安倍晋三首相は秋の臨時国会で憲法9条への自衛隊明記などを盛り込んだ自民党改憲案の議論を進めたい考えを示した。平和主義の根幹である9条を変えることは「戦争ができる国」への道を本格的に開く危険性をはらんでおり、深く憂慮する。今こそ歴史の過ちを省みて、「いつか来た道」を歩まないよう踏みとどまらなければならない。

 首相は講演で「自民党として憲法改正案を次の国会に提出できるようとりまとめを加速すべきだ」と述べ、2020年の改正憲法施行を目指す自身の方針に沿って手続きを急ぐ。改憲案を9月の自民党総裁選で主要争点にしたい考えだが、優位に立つ総裁選で党内の異論を封じ、改憲論議の主導権を握ろうという手法は容認できない。

 自民が3月に策定した改憲案は、戦力不保持と交戦権否認を定めた9条1項と2項を維持したまま、新たに「9条の2」を追加して「自衛隊保持」を明記する内容。自衛隊について、従来の政府見解では「必要最小限度の実力であり、戦力には当たらない」としていたが、改憲案では「必要な自衛の措置を取ることを妨げず、そのための実力組織」と位置づけた。「必要最小限度」の文言を削ったことで自衛権や戦力の拡大につながりかねない。

 憲法は国民が権力を縛るためにある。改憲は世論の盛り上がりによって国民が求めたわけではない。権力側の首相が提案すること自体に疑義がある。

 首相はこれまでも世論の強い懸念を押し切り、憲法解釈を曲げて集団的自衛権の行使を認めるなど、強引な政権運営が目立つ。最高法規である憲法を改定することは、国の針路を根本から変えることであり、これまでと重みが異なる。十分な説明や議論がないまま改憲に突き進むことは断じて許されない。

 国際社会では、軍事衝突も懸念されていた米国と北朝鮮の首脳会談が実現し、朝鮮半島の完全な非核化で合意した。その行程は見通せない部分も多いが、東アジアの平和構築に向けた一歩には違いない。安倍政権の改憲を巡る動きや、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の導入などは、対話による問題解決へ向かおうとする国際社会の流れに逆行している。唯一の被爆国として非核化のリーダーシップをとる役割があるはずの日本が「火種を放つ」ような行動をしてはならない。

 アジア諸国にも多大な犠牲を出した加害の歴史にも真摯(しんし)に向き合う必要がある。いま一度、平和主義の原点に立ち戻り、不戦の誓いを新たにしたい。

 

記憶をつなぐ(2018年8月15日配信『愛媛新聞』−「地軸」)

 

 いよいよ兵営に入る兄に、お坊さんは「生き延びて両親の元に帰ることを、今ここで決意しなさい。戦争に正義はない」と語り掛けた。隣で聞いていた弟の僕は震えた。「すごいことを言う。これは反戦主義者の言葉だ」

▲最後の別れを覚悟していたであろう父は肩で涙をこらえた。母は泣いていた。のちに兄の遺骨代わりの石が1個届いた。今夏、暮しの手帖社が刊行した「戦中・戦後の暮しの記録」にある

▲多くの家族が同じような境遇にあったのだろう。昨年、同社が戦時下の苦しみを味わった人々の体験記を募集したところ、2390編が寄せられ、このうち100編余りを収録した

▲証言者の多くは75〜85歳という。73年前、何も抵抗するすべを持たない子どもだった。ひもじさ、恐ろしさ、みじめさ―。幼い目線でつづった戦争の空気と実相がそこにあった

▲惨禍の記憶と教訓を、いかに継承していくかが課題だ。戦地に赴いた人になると、かなりの高齢になっている。けれども体験記の2割は戦争を知らない世代が祖父母らから聞き書きしたものだったと知り、そこに希望を見る

▲次代につなぐ重い役割に、しっかりと向き合っている人たちがいる。本紙連載「記憶を残す」で、愛媛大生も戦争を知る記憶に直接触れられるのは「自分たちが最後の世代」と、危機感を持ち体験者から聞き取りを続けていた。活動を後押しする大切さを改めて思う、きょう終戦記念日。

 

【終戦の日】平和と「今」を考えたい(2018年8月15日配信『高知新聞』−「社説」)

 

 時代が移ってゆく。平成最後となる73年目の終戦の日を迎えた。

 即位時からは初めて、憲法が定める国と国民統合の「象徴」となった天皇陛下は、象徴のあるべき姿を模索され続けてきたといえる。

 高知新聞が連載した「憲法のいま 公布70年」では、側近が「象徴とは国民が願うものを体現することだ」と述べている。

 平成に確立された「象徴の務め」の柱は、東日本大震災をはじめとする被災地の訪問であり、国内外で重ねられた戦争犠牲者の慰霊であっただろう。

 天皇の名の下に先の大戦は行われた。「負の遺産」と向き合う慰霊の旅は1994年、硫黄島に始まる。戦後50年の翌95年には広島、長崎、沖縄、東京都慰霊堂へ。戦後60年からは太平洋の激戦地にも赴き、全ての戦争犠牲者を悼んだ。

 戦没者追悼式では、平和を願うメッセージに戦後70年の2015年から「深い反省」という文言が加わった。歴代首相が触れてきたアジア諸国への加害責任に言及しない安倍首相との違いが際立つ。

 今年1月、自民党の重鎮だった野中広務氏が死去した。

 小渕内閣の官房長官に就いて以来、沖縄振興策に積極的に関わった。基地政策には批判も残るが、00年の沖縄サミット開催に際して「戦争世代を生きた者の贖罪(しょくざい)」と述べるなど、沖縄に寄り添う姿勢には定評があった。

 安倍首相が目指す憲法9条改正に野中氏は生前、「再び戦争になるような歴史を歩むべきではない。反対だ」と言い切っている。戦争を知る者の信念と生きざまだろう。

 現実の政治はこうした祈りや警鐘と別の時空を進んでいるかに映る。

 戦争の惨禍を経た現憲法は、権力の行き過ぎに歯止めをかけ、権力を縛る立憲主義を本旨とする。しかし今、権力がそこから自由になりたがっているかのような政治が続く。

 安倍政権は15年、歴代政権が9条の下で禁じてきた集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制を強引に成立させた。衆院憲法審査会で憲法学者全員が主張した「違憲」の疑いは今でも残る。 

 首相はさらに、戦力の不保持と交戦権の否認をうたう9条2項を残したまま自衛隊を明記する改憲を掲げて、自民党総裁選に臨む。

 民意に寄り添い、説明を尽くし、対話する姿勢が政治に見えなくなったことも不安を駆り立てる。

 沖縄では今月、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡り、政府と全面対決を貫いた翁長雄志知事が死去した。

 一連の対立の中で、沖縄の苦難を踏まえた対話と熟議はなされたのかどうか。地元では反対の民意が再三示されてきたにもかかわらず、安倍政権は「唯一の解決策」という姿勢を崩さない。

 平成最後の終戦の日。慰霊と平和、そして私たちが置かれた「今」を考える日にしたい。

 

2月に亡くなった俳人の金子兜太(とうた)さんは...(2018年8月15日配信『高知新聞』−「小社会」)

 

 2月に亡くなった俳人の金子兜太(とうた)さんは戦争中、西太平洋のトラック島に出征した。食糧調達の役目を担ったが、大勢の人が餓死したり病死したりするのを助けられず、しかも亡きがらを現地に置いて帰らざるを得なかった。

 金子さんは「死の現場」と呼んだ。戦場のむごたらしい現実を直視することの重要性を伝えたかったのだろう。一橋大教授の歴史学者、吉田裕さんが「兵士の目線・立ち位置」でその死の現場を捉え直したのが、昨年末に出した「日本軍兵士」(中公新書)だ。

 読んで楽しい本ではない。膨大な戦病死と餓死、艦船ごと沈んだ海没死、高い自殺率、「処置」という名の傷病兵の殺害…。さまざまな死をはじめ、日本兵が強いられた悲惨な現実と、背景の軍事思想などがえぐり出されている。

 ベストセラーという。戦争や軍隊について知りたい、考えたいと思う人が増えているのだろう。9回出撃し生還した特攻兵を描いた、鴻上尚史さんの「不死身の特攻兵」(講談社現代新書)も売れ行き好調のようだ。

 きょうで敗戦から73年になる。死の現場を体験した人はどれくらい残っているだろう。やがてゼロになるのは避けられない。これまで口を開くことをためらっていた元兵士らも、それぞれの体験をありのまま後世に伝えてほしい。

 しっかりと引き継いでいくことが、個人が国家に翻弄(ほんろう)され、犠牲となる時代の再来を防ぐための力となる。

 

終戦記念日 平和の尊さ 胸に刻んで(2018年8月15日配信『徳島新聞』−「社説」)

 

 終戦から73年となる8月15日を迎えた。

 戦争の犠牲者らの冥福を祈りながら、共に平和の大切さをかみしめたい。

 天皇陛下は皇后さまと共にきょう、平成最後となる全国戦没者追悼式に臨まれる。

 即位後、欠かさず式典に出席されてきた。戦没者を悼み、遺族らを励まし続け、平和を願ってきた。

 陛下は皇太子時代から「忘れてはならない四つの日」として、終戦記念日、広島と長崎の「原爆の日」、6月23日の沖縄慰霊の日に、皇后さまと共に黙とうしている。

 悲劇の記憶を継承することの大切さを強調されてきた。国内外を巡る「慰霊の旅」も続け、戦争で命を失った人たちに思いを寄せてきた。

 時代は移り変わるが、私たちにも、「戦後」の暮らしを守っていく責務がある。

 太平洋戦争を巡っては、まだ埋もれたままになっている史料が多い。語らずにきたことについて重い口を開き始める体験者もいる。

 それを丹念に掘り起こし、検証し、記録していくことが大切である。

 徳島県内で、戦争の記録と保存の意義を重視してきた一人が、昨年12月に87歳で亡くなった阿南市の郷土史研究家湯浅良幸さんだ。

 戦争が続いていれば、特攻艇の隊員になっていたかもしれなかったという。「日本人は、のど元過ぎれば、すぐに忘れる」と戦争の記憶が風化するのを危惧していた。

 容赦なく人の命が奪われていく。多感な時期に受けた衝撃が駆り立てたのだろう。風化していく事実や記憶を書きとどめ、戦争の愚かさを証明することに腐心した。

 「徳島大空襲・手記編」を皮切りに5冊、記録をまとめるなど心血を注いだ。そうした思いを引き継いでいかなければならない。

 徳島新聞文化面に掲載された、ファッションデザイナーの森英恵さんら4人の「8月に思う」から伝わってくるのも、戦争の悲惨さ、愚かさであり、命の尊さである。

 その一人、フレンチレストランオーナーの坂井宏行さんは終戦時3歳だった。戦死した父の顔を覚えていない。

 高校を辞めて料理人を目指したのはひもじい思いをしないですむからだった。「食は命をいただくこと。無駄にしていい命などありません」との言葉は重い。

 戦争を体験した人たちにとって、広島原爆の日から、この終戦記念日まで特別な日が続く。死と向き合い、死を覚悟するような日々を送った、その記憶は鮮明だ。

 73年の歳月が流れ、体験者の高齢化は著しい。戦禍を知る人は減っている。風化にはあらがえないが、戦争を経験していない世代に伝え続けていくことが重要だ。

 格差や貧困など戦争を引き起こしかねない原因も顕在化し、テロや紛争も絶えない。国の将来や方向性に、目を凝らしていく必要がある。

 

(2018年8月15日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

半世紀近く続いたラジオの長寿番組「秋山ちえ子の談話室」が終了して16年になる。評論家の秋山ちえ子さんが時事問題から家庭のちょっとした話題まで、ありとあらゆるテーマについて語り、締めは必ずこの一言。「それでは皆さま、ごきげんよう」

 しなよく、美しい言葉遣いを毎朝聞けなくなったが、8月のこの時期だけ、今でもラジオから秋山さんの声が流れてくる。代名詞ともなっている童話「かわいそうなぞう」の朗読である

 戦時中、東京の上野動物園で餓死させられた3頭の象にまつわる悲しい実話。毎年、終戦の日の「談話室」で紹介した。秋山さんにとって、この童話の朗読は特別だったようだ。番組が終わってからも終戦の日に合わせ、別の放送枠で読み上げてきた

 小学2年生向けの内容だという。それでも秋山さんはひとしきり読み終えた後、突き刺すような言葉を添えることがあった。「戦争はなんと惨めでしょう。なんと愚かでしょう」。怒りが静かに煮えたぎっていた

 秋山さんは2年前に鬼籍に入ったものの、過去に収録した音声が放送されている。「リクエストがやまない」とTBSラジオの担当者。今年は少し早く、11日に流れた

 終戦から73年。そのほぼ3分の2の長きにわたって続く、魂の朗読。不戦を願った秋山さんの信念を忘れまい、と胸に畳む。

 

終戦の日 「不戦の力」で平和主導を(2018年8月15日配信『西日本新聞』―「社説」)

 

 平和の尊さと戦争の愚かさ−。日本の近現代史の光と影を見つめるとき、私たちは今、特別な価値を帯びた時代を生きています。

 「平成」。この時代が体現した日本国憲法の理念、平和国家としての営みを次の時代、世代へとつないでいく。その使命を背負うのもまた私たちです。

 終戦から今日で73年、平成で迎える最後の「8・15」に当たり、“国のかたち”と報道の使命を改めて見据えたいと思います。

 ●文化や宗教を超えて

 アフガニスタン。戦争や内乱で荒廃し、干ばつで砂漠化した大地で今、水と緑がよみがえり、多くの命が救われています。

 福岡市の「ペシャワール会」現地代表の中村哲さん(71)らが2003年から進める用水路建設(緑の大地計画)の成果です。

 「武器より命の水を」。隣国パキスタンでの医療支援に端を発した活動は本紙でも度々紹介しています。そこで中村さんは現憲法の価値を繰り返し強調しています。

 日本が「不戦」を国是とすること。それが現地の人々に信頼感をもたらし、長年の活動の後ろ盾になっている、という実感です。

 その憲法に照らすと、1989年1月8日に始まる平成は、天皇が憲法の下で初めて「国民の象徴」として即位し、国家が一度も戦争の過ちを犯さなかった時代といえます。明治、大正、昭和の激動期とは明らかに異なります。

 「文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない」

 91年に63歳で女性初、またアジア出身で初の国連難民高等弁務官に就任し、10年にわたって紛争の地を駆け巡った緒方貞子さん(90)の姿も忘れられません。

 国連の取り組みを改革し、アフガンを含めた各地で難民を救済、後に国際協力機構(JICA)理事長としても活躍しました。

 立場は異なるものの、中村さんの姿と併せて、平成は日本が非軍事分野で世界に貢献する姿を印象づけた時代でもあります。

 ●「人間の安全保障」へ

 「いよいよ憲法改正に取り組むべき時が来た」

 安倍晋三首相は先日、自民党総裁3選・首相続投に向けて自衛隊の存在を憲法に明記する改憲の必要性を改めて訴えました。

 集団的自衛権の行使を容認し、自衛隊の活動領域を全世界に広げた安全保障法制に、屋上屋を架すかのようです。武器輸出緩和や防衛装備増強なども含め、「積極的平和主義」の名の下で歴史の歯車が後戻りしていないでしょうか。

 国際情勢は確かに変容しています。89年は大きな分岐点でした。

「ベルリンの壁」崩壊です。東西冷戦終結後、各地では民族紛争などが多発し、テロや難民問題が深刻化しています。さらに地球規模で広がる気候変動や感染症への対策なども課題になっています。

 そこでは国家の枠を超えた「人間の安全保障」が叫ばれ、武力の根絶こそが求められています。であれば、平和憲法を持つ日本こそがその流れを主導すべきです。

 安倍首相が「強い日本を取り戻す」と意気込めば、中国の習近平国家主席が「偉大なる中華民族の復興」を唱え、トランプ大統領が「米国を再び偉大な国へ」と叫び…。大国の指導者がそろって内向きのスローガンを掲げる姿は、グローバリズムとは裏腹にナショナリズムの再来を想起させます。

 ●「戦争」はなお身近に

 1億491万6千人。この数字をご存じでしょうか。

 日本の総人口のうち、戦後に生まれた人の数(総務省推計、昨年10月1日現在確定値)です。総人口の82・8%に上ります。

 長寿の恩恵によって65歳以上の人口(3515万2千人)は膨らんでいるものの、ざっと計算すると、うち4割近くは戦後世代です。つまり「戦争を知らない高齢者」が年々増えています。

 元号別では平成生まれが3244万7千人に達し、総人口の4分の1を超えました。明治・大正生まれはわずか1・3%(170万7千人)まで減少しました。

 消えゆく戦禍の記憶を世代から世代へとつなぎ、不戦の誓いを守り抜いていく。そして為政者の独善、暴走を許さぬよう政治を監視していく。過去に悲劇の片棒を担いだメディアの役割が厳しく問われていることも事実です。

 戦争は“歴史上の遺物”ではありません。むしろ今もさまざまに形を変えながら私たちのそばに忍び寄っている−。そのことを胸に刻み、ペンを握り続けます。

 

終戦の日(2018年8月15日配信『佐賀新聞』−「有明抄」)

 

 参戦から4年余の長きに及んだ戦争終結へ並々ならぬ思いがにじんだ昭和天皇「終戦の詔書」。天皇自ら読み上げて録音。1945年8月15日正午、ラジオを通して広く国民に知らされた

◆「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」で始まる詔書。その起草に関わった鈴木貫太郎内閣の迫水久常書記官長の回想によると、8月9日夜開かれた御前会議における陛下の言葉を忠実に文語体に改めたものだという

◆「8月10日夜から13日夜半まで起草。原稿用紙は涙のあとでいっぱいでした。(中略)文法に誤りがあってはと思い、安岡正篤、川田瑞穂先生に見て頂きました」とあり、14日の御前会議で陛下の言葉によって再度修正されたものを審議。一切の公布手続きが終わったのは同日午後11時になっていた

◆800字余りからなる詔書は難解だがこれほど思い深い文章があろうか。作家半藤一利さんは「私は8月には、この詔書を経文のように唱えて朝起き、15日には詔書にある「為万世開太平」と書かれた扇子を一日中はなさず持ち歩くことにしている」(『21世紀への伝言』)

◆「万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス」。国民の真心を信じ、これからの日本の未来と平和を実現するため、道を開いていきたい−。今日は終戦記念日。73年前の永久平和への誓いをしかとかみしめる日である。

 

終戦の日 「なぜ」に向き合い続ける(2018年8月15日配信『熊本日日新聞』−「社説」)

 

 「あなたは自分や親兄弟、友達の命を助けようとは思いませんか。助けたければ、このビラをよく読んで下さい」

 太平洋戦争末期、米軍が上空からまいた「空襲予告ビラ」の文面だ。熊本市立図書館で開催中の「2018夏の平和展」に展示されている。ビラには近く空襲予定の都市の名も記され、住民に避難を促した。

 マリアナ諸島を基地としたB29による日本本土に対する空襲は、1944年11月から始まった。45年3月の東京大空襲を皮切りに、都市部への無差別絨毯[じゅうたん]爆撃が本格化し、日本の都市は焼夷[しょうい]弾攻撃によって焼き払われていく(吉田裕著『日本軍兵士』中公新書)。同年7月1日の熊本大空襲をはじめ、県内も甚大な被害を受けた。

澱のようにたまる不安

 同書によれば、日中戦争も含めた太平洋戦争の日本人戦没者約310万人のうち、44年以降の「絶望的抗戦期」と呼ばれる時期の戦没者が9割を占めると推計されるという。そうなる前になぜ、終戦の決断ができなかったのか。そもそもなぜ、無謀な戦争に突き進んでしまったのか。

 きょうは平成最後の終戦の日。73年が過ぎた今、かつての悲劇を振り返ると、数多くの「なぜ」に突き当たる。平和の意味、ありがたさを考えるとともに、誰もがそれら一つ一つの疑問に向き合う日にするべきだろう。そのためには、当時の政治や社会の実相を謙虚に、そして真摯[しんし]に学ぶ姿勢が欠かせまい。

 しかし、当然ながら実際に戦争を経験した世代は減っていく一方だ。その時、その場にいなかった者にとって、戦争の悲惨さを肌で感じることは難しい。どこか違う国で起きた出来事ででもあるかのような雰囲気が、年を経るごとに強まっているのではないか。

 一方で、今年3月に内閣府が発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、日本が戦争に巻き込まれる危険が「ある」「どちらかといえばある」と答えた人が85%に上った。その背景には、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威があるとみられる。

 6月に史上初の米朝首脳会談が実現し、北朝鮮情勢に変化が生まれたことで、同様の回答をする人は幾分か少なくはなるだろう。だが、言うまでもなく米朝関係の行方は不透明だ。戦争に対する漠然とした不安は、澱[おり]のようにたまっているのかもしれない。

被害の側面だけでなく

 そうした不安を見透かすかのように安倍晋三首相は2015年、安全保障関連法を成立させた。昨年の衆院選では、少子高齢化と並んで北朝鮮の脅威を「国難」と位置付け、圧勝を収めた。特定秘密保護法や「共謀罪」法など、国家権力を強化する仕組みづくりにも余念がないように見える。

 9月の自民党総裁選で3選を果たせば、いよいよ悲願の憲法改正に本腰を入れるだろう。改憲が現実問題として目の前に現れたとき、どう考え、どう判断するのか。私たち一人ひとりが「国のかたち」を決めることになる。戦争の時代を学ぶことは、その判断の糧ともなろう。

 もちろん、それは被害の側面だけではない。日本の交戦国だった中国や、日本軍の占領下にあったアジア各地の人的被害は、総計で1900万人以上という推定もあるという(『日本軍兵士』)。そうした点からも目をそらしてはなるまい。そして、近隣諸国とどういう関係を築いていくのか、思いを巡らすべきだろう。

「いつの間にか」の理不尽

 太平洋戦争に関する数多くの「なぜ」。日本人自らその「なぜ」に向き合い、開戦、敗戦の原因を明らかにしようとしたのが戦争調査会だ。新しい日本建設の礎にしようと終戦間もない1945年11月、当時の幣原喜重郎首相が政府機関として設置。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)によってわずか1年弱で廃止され、国家プロジェクトは未完に終わる。

 戦争調査会発足のきっかけは同年8月15日、外出先から帰途に就こうと乗った電車で、幣原が聞いた男の叫びだった。

 「一体君は、こうまで、日本が追いつめられたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。…おれたちは知らん間に戦争に引[ひき]入れられて、知らん間に降参する。怪[け]しからんのはわれわれを騙[だま]し討ちにした当局の連中だ」(井上寿一著『戦争調査会』講談社現代新書)

 いつの間にか、知らないうちに戦争に引きずり込まれる理不尽さ。そうした未来を招かないためにも、私たちは戦争の真実を知り、「なぜ」と正面から向き合い続ける必要があるはずだ。

 

(2018年8月15日配信『熊本日日新聞』−「新生面」)

 

団塊の世代のコピーライター、糸井重里さんは、亡くなった父親を振り返るとき、どこか気の毒に思う気持ちがあるという。戦争があったからだ。「あの子は戦争で変わってしまった」と祖母は語っていた

▼戦友が父親を訪ねてくる。酒を飲んで思い出話になる。「野生の豚は捕まえるのが大変」「ヤシガニは食える」と笑い合いながらも、別の暗い情景が父親たちの脳裏には浮かんでいただろうと糸井さんは思う

▼普通の人々が抱えた戦争の闇は、まだ語り尽くされていないのではないか。熊本放送の井上佳子さんは著書『戦地巡歴 わが祖父の声を聴く』(弦書房)で、日中戦争で戦死した祖父の足跡を追い掛けた。手掛かりは日記と手紙だった

▼「山岳戦の夜襲、炎熱下の行軍。辛苦の際、目の前に現れるのは故郷の君たちの姿だ」。家族への愛情あふれる手紙には、死体が並んだ状況も淡々と描かれる。井上さんが取材した元兵士は「何かが壊れた。戦争で人間が壊れたんだと思います」と語った

▼きょうは終戦の日。先の戦争は日本人だけでも310万人もの犠牲をもたらしたが、今では大半が戦争を知らない時代となった。戦争の記憶が薄れることで、平和を求める切実な思いまで消えてしまわないだろうか

▼井上さんの祖父の日記には、農作業に汗を流す出征前の姿も記されている。「家族の歴史が語られ、記憶が受け継がれていくことが戦争を起こさない力になる」と井上さんは言う。そんな記憶の積み重ねが何より求められる時代である。

 

[終戦記念日] 明治150年の歩み直視を(2018年8月15日配信『南日本新聞』−「社説」)

 

 明治維新150年の今年1月、安倍晋三首相は施政方針演説でこう切り出した。

 「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代が育てたあまたの人材が、技術優位の欧米諸国が迫る『国難』とも呼ぶべき危機の中で、わが国が急速に近代化を遂げる原動力となった」

 明治の先人たちに倣い、新たな国づくりを進めようと強調した。だが、侵略戦争や植民地支配といった負の歴史には触れなかった。

 明治に改元された1868年から73年後の1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発、45年の終戦から再び73年の歳月が流れた。

 前半の73年が近代国家の礎を築きながら戦争へと突き進んだ時代だとすれば、後半は経済成長を成し遂げ、社会が成熟していった73年と言っていいだろう。

 きょうは終戦記念日。日本が歩んできた、この150年の道のりを顧みながら未来を考える一日にしたい。

富国強兵が唯一の道

 明治維新とは何だったのか。

 幕藩体制から天皇中心の中央集権体制に移行し、現代に通じる国家が形づくられていった。そして西洋文明を積極的に取り入れ、文明開化を推進した。一大変革期だったのは間違いない。

 その引き金になったのが世界の情勢である。19世紀に入ると、欧米列強によるアジア諸国の植民地支配は勢いを増していく。長く国を閉ざしてきた日本も侵略されかねない。そんな危機感が維新の原動力になったとされる。

 作家司馬遼太郎は語っている。

 「イギリスのような大きな工場と精練な海軍を持ち、フランスのような大陸軍を持ちたい。それができれば、併合されることからまぬがれる。富国強兵だけが救日本の唯一の概念であった」

 富国強兵を追い求めた日本は日清、日露両戦争で勝利を収める。大正デモクラシーを経て昭和に入ると、36年に陸軍青年将校らによるクーデター、いわゆる二・二六事件が起きる。

 「陸軍に対抗しうる政治勢力は存在しなくなり、明治以来の安定が完全に失われた」(中村隆英著「昭和史」)

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」。俳人中村草田男は昭和初期にそう詠んだ。叙情だけでなく、当時の世相を映しているようで興味深い。

 その後、軍部の政治的発言力が強くなり、日中戦争、太平洋戦争へとなだれこんでいく。

 近代史は学校教育でも手薄になりがちである。連綿と続いた出来事を明治維新150年を機に改めて学びたい。

 太平洋戦争開戦時と終戦時に外務大臣を務めた、日置市東市来町美山出身の東郷茂徳に触れておきたい。ポツダム宣言受諾を巡り軍主戦派を抑えて和平に奔走、終戦に導いた功績は大きい。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは「<敗戦>と日本人」(ちくま文庫)でこう評価する。

 「昭和二十年八月に東郷茂徳が外務大臣であったことは、日本にとってきわめて益するところが大きかったのではないか。重光葵でも吉田茂でも軍部と折り合いをつけることはできなかったのではないかと思う」

 東郷はこんな歌を残している。

 <この人ら国を指導せしかと思ふ時型の小さきに驚き果てぬ>

 東郷は東京裁判で禁錮20年の刑を受け、獄中で亡くなった。外相としての自負と、指導者に対する不信感はいかばかりだったろう。

 焦土と化した日本の経済は驚異的な成長を遂げ、外交、安全保障は日米同盟を基軸に展開される。

負の歴史の清算必要

 戦後積み残された課題は多い。

 「核なき世界」へのプロセスは遅々として進まない。昨年7月、核兵器禁止条約が国連で採択されたが、日本政府は条約に署名しない立場を変えようとしない。

 安倍首相は「核保有国と非保有国との橋渡しに努める」と強調するだけで具体的な方策は見えない。被爆者らの声に耳を傾けて「核の傘」を巡る議論を進めるべきである。唯一の戦争被爆国が消極的では核廃絶への道のりは遠い。

 北朝鮮は核兵器開発を誇示することで体制維持をもくろむ。6月には史上初の米朝首脳会談開催にこぎつけ、朝鮮半島の完全非核化をうたう共同声明に署名した。

 半島の非核化は東アジアの安定には欠かせない。日本政府は中国、韓国とともに積極的に関わっていかなければならない。

 しかし、両国との間では歴史認識問題が決着していない。領土を巡る争いもある。戦争の後始末を放っておくわけにはいかない。

 日本復帰から46年たつ沖縄では米軍普天間飛行場を巡って県と国の対立が続いている。

 8日亡くなった翁長雄志知事は「上から目線の言葉を使えば使うほど、県民の心は離れ、怒りは増幅していく」と政府の姿勢を批判した。「捨て石作戦」と言われた沖縄戦、米軍政下での圧政といった歴史の記憶が県民の心には深く刻まれている。

 歴史には分岐点がある。一国の指導者が負の歴史を直視し、過去を清算しなければ、その局面を見過ごし、同じ過ちを繰り返すことになりかねない。

 

(2018年8月15日配信『南日本新聞』−「南風録」)

 

西郷さんはどんな思いでその光景を見ていたのだろう。空襲で一面焼け野が原の鹿児島市街地に向かって立つ銅像が、手前に小さく写り込んでいた。西郷さんの背中は悲しげに見えた。

 市立図書館で開催中の「戦災と復興資料・写真展」に展示された故平岡正三郎さん撮影の一枚である。ずたずたにされた街のにおいが鼻をつくようだ。銅像が無事だったことを不思議に思うほどの惨状が、モノクロ写真に残る。

 県によると、先の大戦で命を落とした県出身の軍人軍属は約7万3000人で、一般戦災死没者は約4400人に上るという。とくに被害が大きかった県都は、8回の空襲で3329人が犠牲になった。終戦の日にあらためて胸に刻みたい。

 資料・写真展では、防空頭巾や軍隊手帳、「武運長久」と縫い込んだ千人針が当時の様子を物語る。「焼夷(しょうい)弾で顔がすごく崩れた人のことは思い出したくない」。出品者のコメントから戦争の記憶に長年苦しむ姿がうかがえる。

 <下萌(したもえ)や戦死の墓に遺骨なし>黒田精一。<回天の友に負ひ目や敗戦忌>内山裕。<忘れやすき流されやすき一人なればくり返し見る「インパール作戦」>泊勝哉。いずれもこの1年で本紙の南日俳・歌壇に掲載された作品だ。

 戦後73年、古里の街は高層ビルが立ち並び、新幹線が多くの観光客を運んでくる。それでも忘れられない、忘れてはいけない歴史がある

 

「終戦」73年 沖縄の8・15を見つめる(2018年8月15日配信『琉球新報』−「社説」)

 

 73回目の終戦記念日を迎えた。今年も6月23日の慰霊の日、8月6、9日の広島・長崎の原爆の日に、不戦平和の誓いを新たにしてきた。きょう8月15日は沖縄にとってどのような意味があるのか、改めて考える。

 本紙が2005年8月15日に発行した「沖縄戦新聞」第13号は73年前のきょう、1945年8月15日前後の人々の姿を多角的に紹介している。

 14日の日本のポツダム宣言受諾を受けて、米軍は16カ所の収容所の住民代表124人を石川地区(現うるま市石川)に集め、米軍の諮問機関として沖縄諮詢(しじゅん)会を設立すると表明した。20日に15人の委員によって正式に発足し、半年間にわたって中央政府の準備に当たった。ここで戦後沖縄の住民自治が胎動し、米軍統治との対峙(たいじ)も始まった。

 収容所では栄養失調やマラリアで命を落とした人が多かった。住民の大半が収容所に入れられる一方で、敗戦を知らずに南部のガマに隠れ続けていた人々も多くいた。

 避難民が身を潜めた北部の山中では、散発的な戦闘が続いていた。久米島では住民が日本軍にスパイ視され虐殺される事件が18日、20日に相次いで起こった。

 基地建設が進められた沖縄本島と異なり民生が顧みられなかった離島では、治安や食料確保などの苦闘があった。

 県外、国外にも沖縄出身者はいた。九州に疎開していた子どもたち。開拓団として満州(中国東北部)にいた人たち。日本の植民地、台湾にいた人たち。米軍の捕虜としてハワイ、サイパン、フィリピンにいた人たち。それぞれの場所で敗戦を知り、すぐに戦後の苦難が始まった。

 終戦というと、昭和天皇が詔書を読み上げた玉音放送がイメージとしてよく使われる。しかし、これは沖縄には通用しない。

 本土防衛の捨て石とされた沖縄戦で焦土と化し、住民の4人に1人が命を落とした。その後は広大な基地が建設されて軍事要塞(ようさい)と化し、50年代には本土から基地が移されて来た。今また、県民の大多数の反対を押し切って名護市辺野古への新基地建設が強行されている。

 現在に至るこのような歴史が示すのは、沖縄には真の意味での「終戦」はなかったということだ。沖縄の作家、目取真俊氏が指摘するように、沖縄は「戦後ゼロ年」のままなのである。

 「戦後ゼロ年」の歳月の中で、沖縄の人々は1968年に主席公選を実現し、72年に平和憲法下の日本への復帰を成し遂げた。しかし、復帰した日本では今、平和憲法の空洞化が進み、改憲を望む勢力が国会の多数を占めている。平和憲法の破壊を許すわけにいかない。

 悲惨な沖縄戦を体験した沖縄県民にとって8月15日の意味は格別に重い。不戦を誓い、平和希求の決意を新たにしたい。

 

本紙投稿欄「琉歌や肝ぐすり」に国頭村での戦争体験を詠んだ歌が・・・(2018年8月15日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 本紙投稿欄「琉歌や肝ぐすり」に国頭村での戦争体験を詠んだ歌が寄せられた。「戦世はあわれ 山おくにひなんかみ物がねらん そてつかだん」という作品だ。琉歌に詳しくなくとも歌意は理解できよう

▼戦中、山奥に避難したものの食糧不足に苦しみ、ソテツを食べたという戦争の悲惨さを詠んでいる。作者は常連投稿者のお一人、知花實さん、89歳。国頭村辺土名にお住まいである

▼先日、知花さんにお会いし、話を聞いた。8世帯30人で辺土名の山中に逃げたものの、たちまち食糧の芋がなくなり、ソテツを食べたという。米兵に捕らわれる恐怖と飢餓に苦しんだ避難生活は3カ月余続いた

▼餓えとマラリア禍に苦しんだやんばるの戦争を幾度か記事にしてきたが、知花さんの言葉が持つ力には到底及ばない。体験した者にしか分からない苦しみが、琉歌の30音から伝わってくる

▼沖縄の慰霊の日、広島、長崎の原爆投下の日、そして8月15日の終戦の日。それぞれの式典で歴代首相は犠牲者の冥福を祈り、平和を誓う式辞を読む。その時、厳かな空気を醸し出すが心には残らない。戦場の嘆きが伝わらないのだ

▼知花さんは穏やかな口調で「もう少しでパタイ(死ぬ)しよった」と振り返り、「戦世は駄目だよ。絶対、戦争は反対です」と念を押した。戦争を知る人の言葉の力がこれからも必要なのだと改めて思う。

 

[終戦の日と沖縄]体験の違い直視したい(2018年8月15日配信『沖縄タイムス』−「社説」)

 

 政府主催の全国戦没者追悼式が終戦の日の15日、東京の日本武道館で開かれる。

 先の大戦で犠牲となった約310万人の戦没者を悼み、政府がこの日に追悼式を開くようになったのは、1963年からである。

 当時、沖縄は米国の統治下にあった。琉球政府が「住民の祝祭日に関する立法」に基づいて6月23日(65年までは6月22日)を慰霊の日と定めたのは61年である。

 昭和天皇の「終戦の詔書」がラジオで玉音放送されたとき、沖縄はすでに米軍に占領され、一部地域ではまだ戦闘が続いていた。久米島では8月15日後に、日本兵による住民殺害が起きている。

 NHK沖縄放送局のラジオは放送不能、沖縄新報の新聞は発行停止の状態にあった。沖縄の住民はごくわずかな例外を除いて、「玉音放送」による終戦体験を本土側住民と共有していない。

 52年4月28日、対日講和条約が発効した。「講和体験」も日本本土と沖縄とでは決定的に異なる。

 講和条約が発効し、日本が独立を回復したとき、同条約第3条に基づいて沖縄は日本本土から分離され、米国の統治下に置かれた。

 復帰を求める有権者の声は顧みられることがなかった。

 「住民に重大な影響を及ぼす政策決定において民意が尊重されていない」という状態が、今に至るまで続く。

 急逝した翁長雄志知事が直面したのも、政府や本土側政治家の沖縄戦後史に対する無理解だった。

■    ■

 辺野古への新基地建設をめぐって政府と県は2015年、集中協議を重ねた。

 「戦後の強制接収が普天間問題の原点」だと主張する翁長氏に対し、菅義偉官房長官は「賛同できない。日本全国、悲惨な中で皆さんが大変ご苦労されて今日の豊かで平和で自由な国を築き上げた」と反論した。

 全国の人びとが戦後、さまざまな苦労を重ねたことを否定するつもりはないが、日本と沖縄の戦後史を同列に扱うことはできない。

 米国統治下の27年間の間に沖縄住民がどのような被害に遭ったか、官房長官も知らないわけではあるまい。

 翁長知事に強い失望と衝撃を与えたのは、沖縄側の強い反対があったにもかかわらず、安倍政権の下で初めて、政府主催の主権回復記念式典が開かれたことだ。

 那覇市長だった翁長氏は那覇市庁舎の正面入り口や壁に、失望や悲しみの意を込めた紺色の旗を張り巡らし、式典に抗議した。

■    ■

 慰霊の日の6月23日、沖縄全戦没者追悼式で、翁長氏は、気力を振り絞るように、平和宣言を読み上げた。

 「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設計画が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか」

 「終戦の日」と「慰霊の日」に象徴的に示される沖縄と本土の戦中・戦後体験の違いを正面から直視し、まっとうな相互理解を育んでいかなければこの国は危うい。

 

高いカウンターテーブルに足長のいす。陳列棚にはウイスキーやバーボン…(2018年8月15日配信『沖縄タイムス』−「大弦小弦」)

 

 高いカウンターテーブルに足長のいす。陳列棚にはウイスキーやバーボン。では1杯、と言いたいとこだが、ここは米軍公認のAサインバーを再現したブース。沖縄市の戦後文化資料展示館ヒストリートの一角である

▼米軍嘉手納基地第2ゲート近くのゲート通り沿いに移転・新装開館した。沖縄市の戦後史の資料や写真、生活用品など多数を展示。手狭だった以前よりゆったり見学でき、資料が語り掛けてくるようだ

▼1970年に起きたコザ暴動を報じた本紙の見出しに目がとまった。「行動化する沖縄の告発」。米軍人による事件・事故など、人権が軽んじられる不条理への不満を爆発させた行動を、民衆の具体的な意思の象徴ととらえている

▼同じ時を歩んでいる錯覚を覚えた。米軍絡みの事件・事故はなくならず、今なお不条理は横たわる。抗議や反発、県民大会といった形などで「告発」は続いているからだ

▼隣には沖縄戦の終結を告げる降伏調印式のブース。ありきたりだが、平和とは何なのか、そのためにできることはと自問自答せずにはいられなかった

▼基地の門前町として栄えた沖縄市のたくましい姿も映し出す。米軍統治下の影響を色濃く受けた食やファッションなど、個性的な文化の誕生も学べる。きょうは終戦記念日。歴史と向き合う場所に出掛けてみるのもいい。

 

押し付けられたのは憲法か(2018年8月15日配信『日刊スポーツ』―「政界地獄耳」)

 

次の世代にどう戦争体験を伝えるか、そのために、何よりも「届く言葉で書く」ことを意識した。日本の近現代史を研究する吉田裕さんが『中央公論』9月号の対談で語っています

▼昨年末に出した自著『日本軍兵士』が14万部を重ね、今も売れ続けています。「議論の土台になるものを書きたかった」という本は、ぼう大な資料をもとに兵士の目線から戦場の実態に迫りました

▼たとえば歯の話。「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった」。元兵士の証言通り戦地では虫歯がまん延し、体力を奪っていきました。水にぬれたまま軍靴を履き続け、多くが凍傷や水虫に悩まされたとも

▼身体のことに注目したのは身近で自分の問題に置き換えやすいと思ったからと吉田さん。いかに心身がむしばまれ、彼らが無残に死んでいったか。負け戦ばかりで戦死者が激増し始めると、生きていることさえ白い目でみられたといいます

▼自活自戦、永久抗戦。数々の絶望の戦場で6割が飢え死に、戦争終結までの1年間で全戦没者のおよそ9割が亡くなりました。こうした事実が知られる一方で、史実を歪曲(わいきょく)した本も書店には並び、その数は増えているようにも

▼きょう73回目の終戦記念日を、私たちは若者をふたたび戦地に向かわせる政権のもとで迎えます。安倍首相は次の国会に9条改憲案を提出し、自衛隊を明記すると強調しました。歴史の歯車が平和へと動き始めた、あの夏。それを逆に戻そうとする勢力との負けられないせめぎ合いです。

 

73回目の終戦の日(2018年8月15日配信『しんぶん赤旗』−「主張」)

 

真実を偽る政治が戦争招いた

 アジアの諸国民と日本国民の甚大な犠牲の上に、日本がアジア・太平洋戦争に敗れた1945年8月の終戦から73年を迎えます。

 安保法制=戦争法の強行や憲法9条に自衛隊を書き込む改憲を狙うなど、「戦争する国」づくりに突き進む安倍晋三政権の特徴は、ウソを繰り返し、批判に開き直ることです。国会での虚偽答弁や改ざん、隠ぺい、ねつ造など、枚挙にいとまがありません。ウソの政治を許せば、民主主義が崩れ、戦争とファシズムに道を開きます。真実を偽る政治を許さぬ決意を、終戦の日を機に新たにしましょう。

でっち上げで始まった

 73年前の終戦の前後、当時の政府や軍部で、大量の公文書が廃棄され、焼却されたことはよく知られた事実です。「大本営」と呼ばれる戦争司令部があった東京など、各地で焼却の煙が立ち上ったと言います。戦争の真実を、国民と占領軍に隠し通すためでした。

 310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア諸国民を犠牲にしたアジア・太平洋戦争は、最初から最後までウソで固めた戦争でした。15年にわたる戦争のきっかけ自体、当時「満州」と呼ばれた中国東北部で、日本軍が仕かけた謀略が始まりです(31年)。自らの利権と領土を拡大する戦争を、中国による鉄道爆破で起こされたように偽り、戦争と呼ばず「事変」と言い張ったのも、日本と世界の世論を欺くためです。

 その後の日中全面戦争への拡大(37年)やアメリカなどとの開戦(41年)でも、侵略戦争を「自存自衛」などとごまかし、日本の戦果は過大に、中国やアメリカの国力は過小に宣伝しました。「大本営発表」の言葉が、ウソの代名詞のように言われたのは当然です。

 日本だけではありません。「戦争の最初の犠牲者は真実」だといわれるように、世界史をひもとけば、ウソから始まった戦争は少なくありません。ベトナム戦争は、アメリカが、「トンキン湾事件」と呼ばれる北ベトナム(当時)側からの攻撃をでっち上げて(64年)、侵略を本格化させました。イラクへの侵略戦争(2003年)も、アメリカなどがフセイン政権(当時)は「大量破壊兵器」を持っているなどと決めつけて開始しました。

 安倍政権が国会で繰り返してきたウソの政治は、歴代政府でも異常なものです。それを許せばそれこそ民主主義は崩壊し、戦争とファシズムにつながります。戦争の「脅威」をあおり立て、安保法制の強行や軍備拡大を進めてきたことからもそれは明らかです。白を黒と言いくるめ、反対意見には耳を貸さない首相の姿勢は、まさにファシズムそのものです。ウソの政治を許さないことが大切です。

ウソの政治を許さない

 「ヒトラーが権力を手にしたあとでは、すべてがもう遅かった」

 この夏映画が公開され、書籍も公刊された『ゲッベルスと私』の中で、ナチスの宣伝相の元秘書が語っている言葉です。「なにも知らなかった。私に罪はない」という証言は、真実を見ようとしなかった当事者の言葉として、議論と反響を呼びました。

 日本国憲法の前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」の決意が刻まれています。真実を見抜いて行動する大切さを示す、今日にこそ生かすべき言葉です。

 

(2018年8月15日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

次の世代にどう戦争体験を伝えるか、そのために、何よりも「届く言葉で書く」ことを意識した。日本の近現代史を研究する吉田裕さんが『中央公論』9月号の対談で語っています

▼昨年末に出した自著『日本軍兵士』が14万部を重ね、今も売れ続けています。「議論の土台になるものを書きたかった」という本は、ぼう大な資料をもとに兵士の目線から戦場の実態に迫りました

▼たとえば歯の話。「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった」。元兵士の証言通り戦地では虫歯がまん延し、体力を奪っていきました。水にぬれたまま軍靴を履き続け、多くが凍傷や水虫に悩まされたとも

▼身体のことに注目したのは身近で自分の問題に置き換えやすいと思ったからと吉田さん。いかに心身がむしばまれ、彼らが無残に死んでいったか。負け戦ばかりで戦死者が激増し始めると、生きていることさえ白い目でみられたといいます

▼自活自戦、永久抗戦。数々の絶望の戦場で6割が飢え死に、戦争終結までの1年間で全戦没者のおよそ9割が亡くなりました。こうした事実が知られる一方で、史実を歪曲(わいきょく)した本も書店には並び、その数は増えているようにも

▼きょう73回目の終戦記念日を、私たちは若者をふたたび戦地に向かわせる政権のもとで迎えます。安倍首相は次の国会に9条改憲案を提出し、自衛隊を明記すると強調しました。歴史の歯車が平和へと動き始めた、あの夏。それを逆に戻そうとする勢力との負けられないせめぎ合いです。

 

 

国家は国民を守るのか 終戦記念日を前に(2018年8月14日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 全国が焦土と化した終戦から73年。無数の犠牲者が出た。空襲から国民はなぜ逃げられなかったのか。そこから国家と国民の関係が見えてくる。

 「空の要塞(ようさい)」と呼ばれたB29爆撃機が編隊で焼夷弾(しょういだん)をばらまいた。目標は木造の民家だった。東京では1945年3月の大空襲から終戦まで60回を超える被害を受けた。死者約10万7000人。被災者は300万人にも上った。

 空襲は全国に及び、愛知では約1万人超、大阪では約1万3千人超の死者が出た。広島と長崎の原爆投下の犠牲者は計約21万人。空襲による民間人の犠牲者数は41万人超といわれる。

「焼夷弾は手でつかめ」

 「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都)の集計だが、軍事工場で亡くなった人は、軍人・軍属ととらえ除外している。例えば愛知県豊川市の海軍工廠(こうしょう)では、勤労動員の学徒らを含む2500人が死亡したというが、41万人超の数字には含まれない。

 なぜ、こんな大きな被害を受けたのか。なぜ、国民は事前に避難できなかったのか。疑問を解くカギが当時の「防空法」という法律だ。37年にできた。敵国の空襲があった場合、その危害を防ぎ、被害を軽減するという目的で制定された。

 「検証 防空法」(水島朝穂、大前治著 2014年)に詳しいが、その本の副題は「空襲下で禁じられた避難」である。

 法改正で国民はB29が到来する前に安全な田舎に疎開できなくなった。疎開を許されたのは、子どもやお年寄り、妊婦らだけだった。国民は都市からの退去を法で禁じられていたのだ。

 応急消火の義務を国民に負わせていたからである。爆弾が落ちてきたら、その火を消せ。バケツリレーと砂で…。

「国民が死んでも…」

 「バケツ5、6杯で消せる」「焼夷弾は手でつかめる」…。手袋でつかみ、放り出せというのだが、あまりに非現実的である。驚くべき非科学世界の中で、国民を消防に駆り立てていたわけだ。

 それが不可能であるのは、科学者や軍も政府も当然、知っている。では、なぜ? (1)自ら臨戦態勢につく覚悟を植え付ける(2)「日本軍は弱い」という反軍意識の回避(3)人口流出による軍需生産力の低下や敗北的な逃避観念を生じさせないために「逃げられない体制」をつくる−。前掲書では、そのように説明している。

 ならば、おびただしい死亡者は、国家に殺されたに等しいではないか。国家は国民を守るのか。大いに疑問が湧く。国家は国民の命でなく、国家体制を守ろうとしたのではないのか。

 空襲被害では各地で訴訟が起きた。憲法学者の水島氏は大阪訴訟で証人に立ったことがある。そのとき憲法前文を引いた。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」のくだりだ。次のように述べた。

 <『政府の行為』とは何か(中略)まさに『国民なき防空体制』があった。国民が死んでもいいという極致にまで達してから戦争が終わった>

 「特攻」もそうであろう。志願の形だが「九死に一生を得た」ではなく「十死」を前提とするのは、まともな近代の作戦とはいえない。何千人という若者を死に追いやるだけではなかったか。

 国民が死んでもいい、そんな戦争への反省から日本国憲法の平和主義は生まれたのだ。そのことは重い。引き継ぐべき教訓だ。

 安倍晋三首相の悲願は9条の改憲である。首相にどれだけ戦時下の国民を思う気持ちがあるか。「侵略戦争の定義が定まっていない」など、まるで戦争への反省が聞かれない。

 原爆忌でも核兵器禁止条約に「不参加」と明言し、被爆者団体の怒りを買った。庶民の目線はあるか。

 「戦争ができる国」に進んでいる。集団的自衛権の行使容認しかり、安保法制しかり、特定秘密保護法しかり、「共謀罪」しかり…。強まる国家主義を恐れる。

 首相の父・安倍晋太郎氏は東京帝大に入学するも海軍にとられ、滋賀航空隊に配属された。戦後は外相などを歴任するが、「輝かしき政治生涯」という伝記編集委員会の本などにこう記されている。

祖父は反戦・平和の人

 海軍での役目は「特攻」。だが、山口に一時帰郷のとき、首相の祖父・寛からこう言われた。

 「無駄な死に方はするな」

 安倍寛こそ戦前の反戦・反軍部の政治家だったという。大政翼賛会の政治団体から「非推薦」とされても衆院選に当選し、反・東条英機の姿勢を貫いた。

 国民のためと称しつつ、戦争ができる国づくりとは何事か。平和主義を粗末にしないでほしい。

 

語り継ごう戦争体験 不戦の誓い、未来につなぐ(2018年8月14日配信『紀伊民報』−「論」)

 

 15日は73回目の終戦記念日。改めて戦没者を追悼し、平和を祈念したい。

 戦争の悲惨さ、平和の大切さを後世に伝えようと、紀伊民報は毎夏、戦争体験を聞く連載「語り継ぐ記憶」を続けている。14年目の今夏に登場した5人は全員90代。いずれも従軍体験者だ。取材を通して、その苛酷な体験を後世に伝えることへの体験者ならではの使命感を垣間見た。

 射撃の腕を買われて近衛師団に配属された田辺市上芳養の武森茂一さん(97)は、激戦地での撃ち合いの様子を語った。それを紙面化されることにためらいながらも、赤裸々に思いの丈を語った。「戦争は殺し合い。人のすることではない」と不戦を誓う。

 田辺市中万呂の山本章さん(96)は、フィリピン・ミンダナオ島での従軍体験を語った。ジャングルでの戦闘、飢え、病、死線を行き来した体験談を、地獄絵図を見せられるように聞いた。

 通信兵だった田辺市東山2丁目の羽山茂さん(90)の体験もすさまじい。南洋で乗艦が魚雷の直撃を受け、サメに襲われる恐怖のなか大海原を2、3時間漂った。別の乗艦では、戦闘機の機銃掃射を受け、多くの戦友が目の前で亡くなった。

 戦後2年間、シベリアで抑留生活を送った田辺市龍神村福井の岡本昇さん(95)は「いま、世界できな臭い動きが起こっている」と不安感を募らせ、戦争をしてはならないと訴え続けたいという。

 彼らはみな、70年以上前の戦争体験を昨日のことのように覚えている。よほど強烈で非人道的な体験だったのだろう。

 こうした従軍体験者の思いをよそに、この国にはいま、きな臭い匂いが漂っている。

 例えば防衛費。防衛省は来年度の防衛予算の概算要求として、過去最大の5兆3千億円近くを計上する方針だ。実現すれば、来年度で7年連続の増加となる。こうした状態をどう捉えればよいのか。

 例えば核兵器廃絶に対する政府の姿勢。昨年7月、国連で核禁止条約が122カ国・地域の賛成で採択された。条約は50カ国・地域が批准してから90日後に発効されるが、今年7月時点で批准は11カ国・地域にとどまる。にもかかわらず、唯一の被爆国である日本政府は否定的な立場を取っている。安倍首相は「(核保有国と非保有国)双方の橋渡しに努める」と発言しているが、その具体的な動きは見えてこない。

 世界で唯一の戦争による「被爆国」としての教訓はどこに行ったのか。恒久平和を願う憲法の精神はどこにあるのか。被爆者をはじめ多くの市民から批判されるのも当然だろう。

 政治が時に判断を誤ることは、過去の歴史をみれば明らかだ。そしてその軌道を修正できるのは、主権者である私たちだ。

 戦没者に思いをはせ、歴史から学ばなければならない。戦争の記憶を風化させず、平和をつなげよう。それが私たちの使命だ。

 

(2018年8月14日配信『神戸新聞』−「正平調」)

 

戦争は終わりました。B29が爆弾とともにまいたビラにはそう書かれていた。1945(昭和20)年8月14日のことだ。作家の小田実さんは生前、大阪での空襲体験を幾度も語った。軍需工場が爆撃され、京橋駅に落ちた爆弾で数百人が犠牲になった

◆「終わったというのに人が死んだ。何のために死んだのか。なぜ無意味に殺されたのか」。にらみ付けるように問いかける小田さんの姿が忘れられない

◆「終戦の日」は8月15日だが、天皇がポツダム宣言の受諾を決意したのは10日だった。国内では極秘にされながら、連合国側には伝えられ、ニューヨークなどでは人々が歓喜したという

◆そして内閣が宣言受諾を最終決定したのが14日。深夜に記者発表され、本紙も敗戦を報じる紙面を組み始めた。15日早朝には刷り上がっていたと、神戸新聞社史にある

◆しかし、この朝刊が朝のうちに読まれることはなかった。正午の玉音放送まで配達が禁じられたからだ。降伏へと向かう政府の動きが刻々と国民に知らされていれば、「無意味な死」も減らせたかもしれない

◆事実を速やかに記事にして読者に届ける。当然のことを自由にできない時代が七十数年前にあった。二度と繰り返すな。厳しい顔の小田さんの声が遠い空から聞こえる。

 

(2018年8月14日配信『しんぶん赤旗』−「潮流」)

 

高畑勲監督「火垂(ほた)るの墓」は、主人公・清太の命が尽きる場面から始まります。終戦直後の薄暗い駅の構内。意識がもうろうとするなか、栄養失調で先立った妹・節子の名をつぶやきます

▼自身も衰弱し、ぼろぼろになって柱にもたれかかる清太。それを汚らわしいものでも見るかのように避けていく通行人、棒でつついて生死を確かめる駅員。そこには同じ境遇に置かれた子どもたちの姿が何人も描かれていました

▼映画の原作小説を書いた野坂昭如さんは焼け跡世代。当時は空襲や原爆によって親や家を失った孤児が駅や街にあふれ、飢えや病気などで死と隣り合わせの生活を送っていたと語っていました

▼NHKが放送した「“駅の子”の闘い」はその実態を追いました。12万人をこえる戦争孤児。敗戦の混乱のなかで多くは国から見捨てられます。劣悪な環境のもとで物ごいや盗みで生きのびる日々。やがて世の中が復興へと歩み始めると、社会の治安を乱す浮浪児として野良犬のように扱われます

▼つらい思いをした体験者が番組で重い口を開いていました。食べるものも着るものも寒さをしのぐ場所もなかった。でも、ほんとうに欲しかったのは人のぬくもりだったと

▼闇に消えていった数知れない子どもたちの戦後史。国を破滅に導いた罪はここにも。戦争したのはおとなの責任。なぜ、自分たちがこんなにも苦しめられるのか。もう戦争はしてはならない―。たくさんの清太の心の叫び。それは今を生きる私たちに訴えかけています。

 

 

「語り伝える場」を(2018年8月10日配信『奈良新聞』−「金曜時評」)

 

 今から40年ほど前、テレビで毎週放映されていた人気番組が「まんが日本昔ばなし」。先日亡くなった常田富士男さんの、味わい深い語りが印象的だった。あの心地良い声と雰囲気は、昔話の世界へ子どもたちを自然と誘ったものだ。

 昔話だけでなく、日本各地で「昔の出来事をよく知る人たち」が亡くなっていっている。戦争、原爆、天災、地域の昔のこと…、テーマはさまざまだ。

 例えば戦争体験。出征した兵士だけでなく、国内外にいて、空襲や敵機襲来などを体験した昭和生まれの人たち。死ぬほどの思いをして、悲しい別れを幾度となく強(し)いられた思い出を誰にも打ち明けることなく、胸にしまいこんだまま、旅立つ人も多い。

 二度と世界の国々が戦争という過ちを犯さないように、そうした悲惨な体験を子や孫や自分につながる人々にさせないために、事実をありのままに記録し、語り伝えていくことが大事だ。

 そんな折、県内の被爆者の体験手記を復刻する動きが報道されていた(8月1日付3面)。平成18(2006)年に解散した県の被爆者団体「わかくさの会」が、昭和61〜平成7年に発行した全3巻の体験手記「原爆へ 平和の鐘を」の復刻版発行を目指して奔走する奈良市の団体職員、入谷方直さんの活動を紹介していた。

 既に80代以上が大多数を占め、減少するばかりの被爆者の思いを後世に伝えていくためにも、ぜひとも完成してほしい取り組みだ。亡くなった被爆者の思いを“掘り起こす”、時宜を得た作業といえるだろう。

 昨日は「長崎原爆の日」。4年前に84歳で亡くなった父の事を思い出した。昭和19年に長崎県中部の尋常高等小学校を卒業し、14歳で長崎市内の三菱電機長崎製作所に養成工として入社。翌20年8月9日、作業中に「ピカドン」に遭遇した。

 昨年、遺品を整理中に父が書いた履歴書が出てきた。43年に大阪へ引っ越した際に書いたもので、「昭和20年8月 被爆の爲 退社」とあった。元気な頃は、近所の小学校で語り部活動もしていた。もう少し、いろいろ話を聞いてあげていれば…、と今更ながら悔やんでいるところだ。

 間もなく、平成最後のお盆が来る。「昭和」は、今後さらに遠くなっていく。家族や一族が集まるその場を生かして、さまざまな思いや体験を、子や孫に「語り伝える場」にしてほしい。

 

 

安倍首相が終戦の日めぐり露骨! 靖国神社の源流の神社に参拝し、自民党声明から「民主主義、基本的人権の堅持」削除(2018年8月15日配信『リテラ』)

 

 終戦記念日を迎えた本日、安倍首相は全国戦没者追悼式に参列し、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この決然たる誓いを貫いて参ります」と式辞を述べた。

 しかし、「歴史と謙虚に向き合う」と口にする一方で、アジア諸国への加害責任については一切言及しなかった。さらに、安倍首相は今年も靖国神社に「自民党総裁 安倍晋三」の肩書きで玉串料を奉納。代理として靖国神社に趣いた柴山昌彦・自民党総裁特別補佐によると、安倍首相は「本日は参拝に行けずに申し訳ない」と話していたという。

 しかも安倍首相は、昨日に山口県宇部市にある琴崎八幡宮を公式参拝。じつは、この琴崎八幡宮は〈靖国神社の源流となった神社〉(同八幡宮HPより)なのだという。つまり、安倍首相は総裁選を控え、靖国神社の代わりとしてその“源流”に参拝することで、極右支持者たちにアピールしたとしか考えられない。

  戦意高揚のための装置であり侵略戦争を正当化する靖国神社にあからさまに思いを寄せておいて、「歴史と謙虚に向き合う」と宣う──。このような歴史観に立つ人間が、改憲によって戦争ができる国に変えようとしていることは恐怖以外の何物でもないが、きょうはもうひとつ、安倍首相が目指す改憲を暗示する声明が公表された。自民党の「終戦記念日にあたって」という声明だ。

 本日、自民党が公表したこの声明は、昨年の声明には書かれていた“ある箇所”がごそっと削除されているのだ。去年あったのに、今年削除されたのはこんな文章だ。

〈今後も自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を堅持〉

 言わずもがな、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」は現行憲法の原理原則だ。この重要な文章を、今年、削除してしまったというのは、完全に現在の自民党の本音を露わにしていると言っていいだろう。

 実際、安倍首相の周辺にいる自民党議員たちは、もともと改憲によって「基本的人権」や「民主主義」を制限することを強く主張してきた。安倍氏が会長を務める超党派の議員連盟・創生「日本」が2012年に開催した研修会では、参加議員らが憲法改正に向けて気勢を揚げ、稲田朋美は「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います」と主張。さらに、第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢甚遠氏は、自民党改憲草案に「反対」だと言い、こうつづけた。

「国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するって言ってるんですよ。みなさん。この3つはマッカーサーが日本に押し付けた戦後レジームそのものじゃないですか。この3つをなくさなければですね、ほんとうの自主憲法にならないんですよ」

 国民主権、基本的人権、平和主義を憲法からなくせ──。げに恐ろしい主張だが、しかしこれは何も長勢氏だけの意見ではない。実際のところ2012年に出した自民党改憲草案は、基本的人権を《侵すことのできない永久の権利》と定めた憲法97条を全面削除している。

今年3月、憲法改正推進本部がまとめた改憲4項目のうちのひとつである緊急事態条項では、国民の基本的人権を制限する「私権制限」を盛り込むことは見送られたが、やはり人権を制限したいという欲望は変わっていなかったのだろう。

 そのグロテスクな本音がダダ漏れたのが、今年の自民党の「終戦の日」声明からの「自由、民主主義、基本的人権、法の支配」削除なのだ。

「自民党の声明の草案をつくったのは、おそらく安倍首相側近の萩生田光一幹事長代理あたりじゃないでしょうか。いずれにしても、安倍総裁の意向が入っていることは間違いありません」(全国紙政治部記者)

 安倍首相はここにきて、自民党の憲法改正案を秋の臨時国会に提出する考えを打ち出し、総裁選を改憲PRの機会にしようとしている。無論、PRではソフトな話しかもち出さないだろうが、実際の目的は、国民の権利を奪い、戦前回帰を目指すものであることは何も変わっていない。今回の自民党声明文は安倍首相がこの先、何をやろうとしているのかを雄弁に物語っている。

 

各党談話

 

終戦記念日にあたって 自由民主党

 

本日、73回目の終戦記念日を迎えました。先の大戦で犠牲となられたわが国並びに全ての国の英霊に対し、衷心より哀悼の誠を捧げますとともに、二度とわが国は戦争への道を歩まないと強く決意いたします。

わが国は戦後一貫して平和国家として歩み続け、国際社会において世界の平和と安定の構築に主導的役割を果たしてまいりました。その役割はこれからも変わることなく、唯一の戦争被爆国として被爆の実相を語り継ぐとともに、歴史に謙虚に向き合い、恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに強く誓うものであります。

今日、わが国を取り巻く安全保障環境は刻一刻と変化しています。一国だけでは地域の平和と安定を守りきれない時代の中においては、日米同盟を基軸とする抑止力の向上を図り、積極的平和主義に基づいた平和外交努力を着実に積み重ねていくことが何よりも大切であります。

わが党は、平和と自由を愛する国民政党として、先人が築いた「平和国家日本」を次の世代に引き継ぎ、世界の平和と繁栄に積極的に貢献してまいります。

 

二度と悲劇繰り返さず 公明党

 

記録的な猛暑が続く中、本日、73回目の終戦記念日を迎えました。

先の大戦で犠牲となられた内外の全ての方々に謹んで哀悼の意を表すとともに、ご遺族ならびに今なお深い傷痕に苦しむ皆さまに心からお見舞いを申し上げます。

憲法の平和主義を堅持し、非核化へ対話の橋渡し役に

かつて日本は、軍国主義によって植民地支配と侵略を進め、多くの人々、とりわけアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみと損害をもたらしました。この事実から目を背けることはできません。私たちは、この不幸な歴史を今一度見つめ直し、二度とこのような悲劇を繰り返さないことを誓い、心を新たにして、世界から平和国家として信頼されるよう、憲法の平和主義を堅持してまいります。

日本は発展を続けるアジアの中でさらに信頼を広げていかなければなりません。とりわけ中国、韓国との関係は重要です。体制や文化の相違を超え、民衆の間で培われる相互理解こそが平和への確実な礎石になります。その上に立って政府間の関係改善をさらに進めていくべきでしょう。

9日に開催された長崎「原爆の日」の平和祈念式典に、国連事務総長として初めてグテレス氏が出席されました。国連は昨年7月、核兵器禁止条約を総会で採択しました。核兵器を違法とする初の法規範であり、歴史的な条約です。グテレス事務総長の長崎訪問が「核兵器のない世界」に向けた大切な一歩となるよう、唯一の戦争被爆国である日本も真剣に行動する時です。対立する核保有国と非保有国の間の「橋渡し役」となって両者の対話が進むようリードし、核軍縮の具体的進展をめざす努力が求められます。

一方、北朝鮮の核問題では大きな変化がありました。6月に初の米朝首脳会談が実現し、北朝鮮の金正恩委員長が、朝鮮半島の完全な非核化を確認し、それに向けた取り組みを初めて文書の形で約束しました。しかし、具体的な非核化へのプロセスは明らかではなく、日本は米国、韓国、そして中国、ロシアとも連携して非核化を実現すべきです。

今年12月には、世界人権宣言の採択70周年を迎えます。国連は現在、「誰一人取り残さない」との理念の下、2030年をめざし、貧困撲滅や健康増進、教育の拡充、さらにクリーンエネルギー開発、経済成長までも目標に掲げた持続可能な開発目標(SDGs=エスディージーズ)の達成に取り組んでいます。

公明党は、SDGsの推進によって貧困や人権侵害といった紛争の芽が摘み取られ、確かな平和への道を築くことにつながると確信しています。

「平和の党」公明党として、世界平和にさらに貢献していくことを重ねてお誓い申し上げます

 

73回目の終戦の日にあたって 立憲民主党代表 枝野幸男

 

 本日、73回目の終戦の日を迎えました。先の戦争で犠牲となられた内外すべての人々に思いを致し、国民の皆さまとともに衷心より哀悼の誠をささげます。

 先の大戦では、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを痛切に反省し、再び戦争の惨禍を繰り返さぬよう誓います。

 戦後の日本は、憲法の平和主義のもと、焦土と化した国の復興に全力を傾注し、自由で平和で豊かな民主主義国家をつくり上げました。同時に、経済協力、人道支援、PKOなど諸外国の繁栄・発展、国際社会の平和と安定につながる日本独自の貢献を行ってきました。戦後日本が歩んできた道は正しいものであり、誇れるものであったと確信します。

 戦後73年、日本は今、時代の大きな岐路に立たされています。安倍政権は、憲法解釈の変更による歯止めのない集団的自衛権の行使を容認し、今また、立憲主義、平和主義を無視した憲法の改悪に向けて突き進もうとしています。安倍政権により、戦後、日本人が育てあげ、守り続けてきた「立憲主義」と「平和主義」が脅かされようとしています。

 立憲民主党は、歴史の教訓を胸に刻み、日本の外交・安全保障の基本姿勢である国際協調と専守防衛を貫き、国際連合などの多国間協調の枠組みに基づき国際社会の平和と繁栄に貢献します。核兵器廃絶、人道支援、経済連携、文化交流などを推進し、人間の安全保障を実現するとともに、自国のみならず他の国々とともに利益を享受する開かれた国益を追求します。健全な日米同盟を軸とし、アジア太平洋地域、とりわけ近隣諸国をはじめとする世界との共生を実現します。世界の平和と安定と繁栄を推進するために、積極的な平和創造外交を展開し、世界に対しても、新しい平和秩序づくりに全力で貢献していく決意をここに表明します。

 

「73回目の終戦の日にあたって」安国民民主党・大塚耕平、玉木雄一郎両代表談話

 

 本日、73回目の終戦の日を迎えました。先の大戦では、多くの国民が戦禍に巻き込まれ、国のために戦い、家族の身を案じつつ戦場に倒れ、民間戦傷者も含め、終戦後も塗炭の苦難にさいなまれました。遠い異国の地で望郷の思いを抱きながら亡くなった抑留者も多数います。

 全ての戦争犠牲者、戦争被害者に対し、衷心より哀悼の誠をささげるとともに、肉親を失った悲しみに耐え、苦難の道を歩んでこられたご遺族の皆様に、深甚なる敬意を表します。

 先の戦争では、日本が多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えたことも事実です。二度と同じ過ちをおかしてはならないとの決意を新たにし、犠牲となられた皆様とそのご遺族に対し、重ねて哀悼の意を表します。

 今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって命を落とされた皆様の尊い犠牲の上に成り立っています。

 私たちは、先人の犠牲に思いを致すとともに、戦争による惨禍の教訓を風化させることなく、未来の世代へと語り継いでいかなければなりません。経済協力、人道支援、PKO(国連平和維持活動)など、諸外国の繁栄・発展、国際社会の平和と安定につながる独自の貢献も含め、戦後日本が歩んできた道を振り返りつつ、今後も不断の努力を続けていかなければなりません。

 

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」日本維新の会・松井一郎代表談話

 

 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に際し、先の大戦において亡くなられた方々をはじめ祖国のために殉じた全ての戦没者に対し哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 終戦から73年がたちました。戦争の記憶も薄れつつあります。しかしながら、現在の平和と繁栄は、先人たちの尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。本日、全国戦没者追悼式が行われる一方、全国44カ所にある旧軍用墓地でも慰霊祭が行われています。先の大戦をはじめ祖国のために準じられた方々を忘れてはならないと思う者にとって、旧軍用墓地が置き去りにされているのは悲しい現実です。私たち日本維新の会は、旧軍用墓地が国の責任において管理・改修されるよう、担当大臣に提言する準備を進めています。

 さて、6月には初めての米朝首脳会談があり、朝鮮半島の非核化が合意されました。しかし朝鮮半島の非核化実現までには遠い道のりです。

 日本維新の会は、民主主義、自由主義、法の支配などの価値観を共有する国々と力を合わせ、朝鮮半島の非核化をはじめとする国際平和の実現に全力を傾注させてまいります。憲法9条の在り方につきましても、引き続き国民の声に真摯(しんし)に耳を傾け、慎重に検討してまいります。

 

終戦記念日にあたって 日本共産党書記局長 小池 晃

 

 一、73回目の終戦記念日にあたり、日本共産党は、日本軍国主義がおしすすめた侵略戦争と植民地支配の犠牲となった内外の人々に、深い哀悼の意を表します。そして、戦争の惨禍、おびただしい犠牲と悲惨な体験をへて、日本国民が手にした憲法9条を守り抜き、憲法を生かした平和な日本を築くために全力をあげます。

 一、不戦の誓いを新たにする日にあたって、安倍政権の「戦争する国づくり」を絶対に許さない決意を表明します。安倍政権は、違憲の安保法制=戦争法を強行し、日米軍事同盟の強化と大軍拡をすすめ、沖縄での米軍新基地建設をごり押ししようとしています。さらに、憲法9条を変え、無制限の集団的自衛権の行使、海外での武力行使ができる国にしようとしています。安倍改憲を阻止し、安保法制を廃止して立憲主義を取り戻すために、市民と野党の共闘をさらに発展させるべく力を尽くします。

 一、私たちは、今年の終戦記念日を朝鮮半島と東アジア地域で、平和の激動が始まる中で迎えました。これは、朝鮮半島非核化と平和体制構築に向けたプロセスの始まりであり、持続的な努力が必要ですが、対立から対話への大きな転換が実現したことは、画期的な変化です。安倍政権の「戦争する国づくり」は、「北朝鮮の脅威」を口実にしてきましたが、いま起きている平和のプロセスが成功すれば、この「根拠」も崩壊します。

 日本共産党は今後も、激動を生み出す原動力となった平和を願う各国の民衆の運動と固く連帯し、朝鮮半島の非核化を達成するために全力をあげます。このプロセスは、この地域の多国間の安全保障のメカニズム構築への展望を開くものです。私たちは、「北東アジア平和協力構想」を提唱していますが、北東アジアを戦争の脅威のない平和の地域とするために、日本とアジア、そして世界の平和を願う人たちと力を合わせていきます。

 一、「核兵器のない世界」の実現の可能性も広がっています。昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約は、米国など核保有国による妨害にもかかわらず、現時点で60カ国が署名し、14カ国が批准しています。条約発効に必要な50カ国の批准に向け、さらなる国際的世論を巻き起こす時です。

 同条約をめぐっても、安倍政権は唯一の戦争被爆国の政府にもかかわらず、「核抑止力」を「口実」に、被爆者・国民の悲願に冷たく背を向け続けています。安倍政権を倒し、核兵器禁止条約に署名する政府をつくるため、市民と野党の共闘を強く大きくすることが求められています。私たちはそのために奮闘する決意です。

 

「終戦の日にあたり」 自由党・小沢一郎代表談話

 

 本日73回目の終戦の日を迎えるにあたり、改めて先の大戦で尊い命を犠牲にされた全ての方々に謹んで哀悼の誠をささげます。

 人間は常に忘れる生き物です。しかし、決して忘れてはならないことがあります。それが「戦争」です。

 福島の原発事故による、日々増え続ける放射性汚染廃棄物にどれだけの方が思いをはせられているでしょうか。たった7年前のことです。

 ましてや、太平洋戦争については一体何人の方々が具体的なイメージを持てるでしょうか。それを考えたとき、本当に恐ろしい思いがします。

 最近、インターネットの普及などで過激な発言も社会的に目立ってきました。他者や他国、他民族に対する排他的な意見も氾濫しています。

 こうした中、現政権は自衛隊を歯止めなく、世界中に派遣できるような安全保障政策を進めています。果たして偶然でしょうか。戦争も、犠牲者も、不戦の誓いもすべて簡単に忘れてしまうのでしょうか。

 そういうことが今、われわれに問われています。幸い、映像も含めた多くの記録や証言が残されております。まだ、われわれは直接、戦争を体験された方々から話を聞くことができます。

 一番必要なことは、国民に悲劇しかもたらさない戦争を正しく認識し、再び繰り返さないという国民の覚悟です。その覚悟で政治は形作られます。

 自由党としましても、戦争の惨禍で人々が再び苦しむことのないよう、戦争のない世の中の実現のため、全力を尽くしてまいることを、この終戦の日に固くお誓い申し上げます。

 

「敗戦73年にあたって」 社民党声明

 

1、第二次世界大戦の終結から73年目を迎えました。社民党は戦争の惨禍によるすべての犠牲者に哀悼の誠をささげるとともに、遺族の皆さまにお見舞い申し上げます。日本はこの73年間、大戦の反省に立ち、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と決意した平和憲法のもとで、民主的な「平和国家」を築いてきました。残念ながら今日もなお、地域紛争は世界各地で絶えることなく生じ、尊い命が奪われ、祖国を追われる難民が後をたちません。このような不幸な事態に終止符を打つために、私たちは、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを前文にうたう平和憲法の意義と価値を世界中に広げ、「恒久平和」の実現に努力し続けます。

2、安倍晋三政権によって、「専守防衛」を大きく逸脱する軍拡が進められています。国民の暮らしを置き去りにする一方で、米国の圧力による長距離巡行ミサイルやイージス・アショア(地上配備型迎撃システム)の導入、攻撃型空母や次期主力戦闘機F35、オスプレイの購入、電子攻撃機の導入検討に加え、「戦争法」による新たな任務に対応する自衛隊の装備増強や島嶼防衛態勢の整備など、防衛費は6年連続で拡大しています。また、イラク派遣時の日報隠蔽の発覚は、シビリアンコントロールの崩壊を露呈しました。この上に、憲法9条2項の死文化を目的とした明文改憲が行われれば、米国に追従して歯止めなく「戦争する国」へと突き進むことになりかねません。社民党は9条改悪と軍事大国化に反対する多くの人々と力を合わせ、安倍政権の改憲発議阻止に全力を挙げます。

3、地上戦が行われた沖縄は、戦後も「捨て石」として米国の軍事支配下に置かれました。本土「復帰」から46年たった今もなお、7割を超える在日米軍基地を押し付けられ、日米安保条約や日米地位協定が優先する「反憲法」下の日常を強いられています。米軍ヘリ事故や米軍人・軍属による事件の多発、危険なオスプレイの飛行訓練など、「軍事植民地下」の不条理にあらがい続けている沖縄県民の闘いは、平和と民主主義を掲げた最前線の闘いであり、この闘いに勝利しなければ本当の意味で戦争が終わったとはいえません。しかし安倍政権は、沖縄県民の民意をことごとく無視し、非暴力の活動家を強権・暴力的に排除して、米軍の辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設を傍若無人に強行しています。日米両政府による暴挙を決して許さず、9月の沖縄県知事選挙に勝利して、在沖米軍基地の縮小・撤去、日米地位協定の全面改正を勝ち取らなければなりません。

4、国連の「核兵器禁止条約」の採択や、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のノーベル平和賞受賞など、国際社会の潮流は核廃絶に向かっています。一方、米トランプ政権は、核兵器の開発や使用を拡大するとした「核体制の見直し(NPR)」を発表し、あろうことか日本政府はこれを支持し、「核兵器禁止条約」にも反対の立場を取っています。原爆の悲劇を体験した日本こそが、ヒロシマ・ナガサキの思いを世界に広げ、「核なき世界」の主導的役割を果たすべきです。

5、朝鮮戦争の休戦から65年を迎えた今年、朝鮮半島を巡る情勢が大きく変化しています。4月には南北首脳会談、6月には史上初の米朝首脳会談が行われ、緊張関係からの改善が注目されています。東アジアに残された冷戦構造の終結には、日朝の国交正常化も欠かせません。社民党は、北東アジア総合安全保障機構の創設や非核地帯構想を提唱するなど、対話による平和的解決をめざしてきました。日本政府には、2005年の6カ国共同声明に立ち戻り、粘り強い外交努力による米朝間の平和協定の実現、そして2002年の日朝平壌宣言に基づく日朝間の緊張緩和と関係改善に取り組むよう求めていきます。

6、今年は、日中平和友好条約締結40年に当たります。盧溝橋事件から戦禍が拡大し、日本の植民地支配と侵略によって、アジア近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。この事実をあらためて直視し、相互理解と友好協力関係を築く努力を続けることが重要です。社民党は、憲法9条改悪に反対する3000万署名運動をはじめ、憲法講座や時局講演会を全国で展開し、安倍改憲の危険性を多くの人々に訴えています。これまで平和憲法が存続危機を乗り越えてきた背景には、「戦争をしない、させない」との確固たる国民世論がありました。社民党は、平和を希求する全ての人々と憲法改悪を断固阻止し、「不戦の誓い」を後世にも引き継いでいくことを誓います。

 

「戦没者を追悼し平和を祈念する日に当たって」 望の党・松沢成文代表談話

 

 本日、戦没者を追悼し平和を祈念する日を迎え、改めて全ての戦没者に対し、哀悼の意をささげますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 今日、私たちが享受している平和と繁栄は、祖国のために戦場に散った三百万余の同胞と焦土と化した国内で亡くなられた多くの方々の尊い犠牲の上にあることを一時たりとも忘れてはなりません。

 先人たちの尊い犠牲に応えるためにも、私たちは、わが国のみならず、世界の平和と繁栄のため、全力を持って貢献する必要があります。

 戦後73年を経て、わが国を取り巻く環境は大きく変化しました。中華人民共和国による南シナ海や東シナ海における海洋進出、朝鮮民主主義人民共和国による核・ミサイル開発や拉致問題、テロの脅威の増大など、緊張がエスカレートしています。

 本年6月シンガポールで米朝首脳会談が行われ、共同声明が発表されたものの何ら状況は好転していないと言わざるを得ません。

 地域の平和と安定を守るため、アメリカをはじめとする国際社会との緊密な連携を維持するとともに、あらゆる事態に備えて、わが国自身の外交力、防衛力の抜本的強化が求められています。

 平和と繁栄は決して与えられるものではなく、自らの意志と努力によってのみ、もたらされるものであるとの覚醒が必要です。

 希望の党は、今後も平和主義のもと、現実的な外交・安全保障政策を推進して参ります。

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