東條(条)英機

 

第40代東條英機内閣総理大臣(1941《昭和16》年10月18日〜1944《昭和19》年7月22日)

 

東条首相、開戦前夜「勝った」

 

 

軍人・政治家

 

1884(明治17)〜1848(昭和23)

 

手記 第78回帝国議会(臨時会) 施政方針演説(1941《昭和16》年12月16日《衆議院/貴族院》)

 

1884(明治17)年12月30日、陸軍中将東條英教(ひでのり)の子として東京に生まれる。

 

陸軍士官学校(第17期)、陸軍大学校卒業義、ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを務め、1929(昭和4)年永田鉄山(てつざん。1884〜1935。長野県生まれの中将。統制派【旧陸軍内の一派閥で、皇道派の派閥人事や急進的青年将校の運動に反発した中央幕僚層を基盤とし、軍中央による統制下に国家改造を画策、2・26(ににろく)事件以降粛軍の名のもとに皇道派を抑えて主導権を握り、太平洋戦争にいたる諸政策を推進した】の中心人物と目され、軍務局長のとき皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された)ら陸軍の中堅・若手エリートたちとともに、陸軍改革のためのグループとして一夕(いっせき)会を結成、リーダー格としての中堅将校として満蒙(まんもう=中国の満州と内蒙古)の支配を主張して、満州事変の頃から頭角を現す。

 

日本の傀儡(かいらい=操り人形)国家である「満州国」創設後の35(昭和10)年関東憲兵司令官となり、37(昭和12)年には関東軍(旧満州に駐屯した日本軍。万里の長城の東端の渤海湾に接する「山海関」の東側一帯がかつて関東州と呼ばれ、そこを守備範囲にしたことに由来する。満州事変後、兵力を急増。司令官は満州国の全権大使も兼任し、絶大な権力を振るった。しかし、敗戦時に在満邦人や開拓民を残して撤退し、中国残留孤児を生む原因ともなった)参謀長に昇進、蘆溝橋(ろこうきょう)事件(「7・7事変」)勃発後の国民政府との妥協に反対し、中国に対する侵略戦争を画策する。

 

38(昭和13)年板垣征四郎(せいしろう) 陸軍大臣(陸相)のもとで陸軍次官となり、40(昭和15)年7月第2次近衛内閣の陸相に就任、戦陣訓(将兵に捕虜になることを禁じた訓示)を下達(かたつ=上の者の意思を下の者に伝えること)、松岡洋右(ようすけ)外相とともに日独伊三国同盟の締結に推し進める一方、日本軍の仏印(ふついん=フランス領インドシナの略称)侵略を容認、さらに対英・米開戦を主張した。

 

第3次近衛内閣の陸相当時の41(昭和16)年10月、米政府の日本軍の中国、仏印からの全面撤退の要求に頑強に反対、あくまでも対英・米開戦を展開して近衛内閣を崩壊させた。

 

41年10月18日、木戸幸一内大臣らの推挙で昭和天皇の信任と大衆の人気を背景に現役の陸軍大将として首相に就任、同時に内相、陸相を兼任する等、絶対的権限を把握した。

 

41年12月8日、パールハ−バ−を奇襲攻撃。ここに米・英と開戦(太平洋戦争)の先端を開くとともに、国内において(大政)翼賛選挙の実施と統制強化により憲兵政治憲兵軍隊内の法秩序維持をおもな任務とする軍隊の兵科の一つで、軍に関する司法・行政警察機能を担った。日本では1881【明治14】年に創設され、陸軍大臣の管轄に属したが、のちに、しだいに権限を拡大・濫用して、一般民衆の思想取り締まりを主要任務とするようになり、自由を圧殺する装置として一般大衆に恐れられた。もとより第2次大戦の敗北で解体された〕が強権を振るった一種の恐怖政治とか、東条独裁とよばれる独裁体制(ファシズム)を構築、他方、「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、43(昭和18)年1月に大東亜会議を開催、大東亜宣言を行った。

 

その後、参謀高級指揮官の幕僚【ばくりょう=司令部に直属し参謀事務に関与する将校として、軍の作戦・用兵などの一切を計画して指揮官を補佐する将校)とともに総長(参謀総長【参謀本部の長】として)も兼ねて軍・政を一手に掌握して侵略戦争をあくまでも貫徹するが、やがて戦局の極度の悪化から反東條の機運が高まり、サイパン島西太平洋、マリアナ諸島中の小島。太平洋戦争の激戦地で44年アメリカ軍が占領したあと、B―29の日本本土爆撃の基地となった陥落直後の44(昭和19)年7月18日辞職のやむなきに至った。

 

敗戦後の45年9月11日東條はGHQによって逮捕される寸前にピストルで自殺、未遂に終わる。その前日の10日アメリカの従軍記者の会見に応じて東條は、 「現在わしは百姓」との心境を述べたのち、「戦争犯罪者については」の質問に、「戦争犯罪者?それは勝者が決定するものだ、日本的解釈だが私は、戦争犯罪者ではない、戦争責任者なのだ」と語っていた(1945〔昭和20〕年9月13日付『読売新聞』−−『新聞集成・昭和史の証言』第19巻336頁)。

 

 

東條は書面での遺書を残さなかったが、逮捕に出向いたアメリカ官憲に、次のように語っている。

 

「一発で死にたかつた。時間を要したことを遺憾に思ふ。大東亜戦争は正しい戦ひであつた。国民と大東亜諸民族には誠に気の毒であつた。十分自重して大局の処置を誤らぬことを希望する。貴任者の引渡しは全部責任を負ふべきである。復員することは更に困難である。法廷に立ち連合国の前に裁判を受けるのは希望する所でない。むしろ歴史の正当な裁判にまつー切腹を考へたが、ややもすれば間違ひがある。一思ひに死にたかつた。あとから手を降して生きかへるやうなことをしないでくれ。陛下の御多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発展を続けることが出来れば幸ひである。責任者としてとるべきことは多々あると思ふが、勝者の裁判にかかりたくない。勝者の勝手な裁判を受けて国民の処置を誤つたら恥辱だし、家のことは広瀬(伯爵)にまかせてある。その通りやればよい。家のことは心配ない。天皇陛下万歳、身は死しても護国の鬼となつて最期を遂げたいのが真意であるー水をくれー腹を切つて死ぬことは知つてゐるが、間違つて生き度くない。責任は了した。死体は引渡したらよい。俺の死体はどうなつてもよい。遺族には言ひ渡してある。死体は遺族に引渡さなくともよい。しかし見せ物ではないとマツカーサーに言つてくれー」。

 

 

また事件を朝日新聞は次のように報じた。                         

 

 

元首相東条英機大将は11日午後4時、東京都世田谷区玉川用賀町の自宅へ同大将連行のため来邸した連合軍側官憲との応接を待たず同20分ピストルにて自決を図り重体である。東条大将が自決をはかつたとき、たまたま本社記者は東条邸を訪れたが以下は同記者の目撃記である。

東条大将に対してマツカーサー元帥から捕縛命令が出た 11日の午後2時の東条邸-既に米官憲が到着し窓越しに東条大将を拘引にきた旨を述べてゐ

た。東条大将は笑つて「只今行きますから暫く待つて下さい」と通訳を通してあいさつし、窓に鍵を下したが、その時、ピストルの響が内部に聞えた。米官憲は外から鍵の下りた戸を叩き破り「窓をこわして入れ」などと怒鳴り威赫的に銃を撃ちつつ室内に入つた。東条大将は予て覚悟の自決をはかつてゐたのである。椅子にもたれたまま、白の開襟ワイシヤツを着た上から左腹部に拳銃を撃ち込み、すでに息も絶え絶えであつた。午後4時15分であつた。20分後、大将は何か言はんとするので記者は大将の傍により「何か言ふことがありますか」と問へば、苦しい息の下から次のやうな遺言を洩らしたのである。

遺言が終つてから米官憲は付近の友原医院より医師を招き手当を施したが、その時の様子では生命はとりとめるやうに見うけられた。米官憲は直ちに東条邸の門を閉じて日本の巡査に警戒をせしめた(1945〔昭和20〕年9月12日付『朝日新聞』−−『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20下半期』147頁)。

 

 

この東條の自殺は、最高の戦争犯罪者(責任者)のそれとしては、「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」との遺書を残して割腹自殺を図った阿南とあまりにも対照的であった。敗戦から1カ月近くたった、しかもGHQによって逮捕命令がだされ、逮捕寸前にアメリカ官憲の前でしかもピストルでの自殺未遂を、日本国民は実に冷やかに受け止めた。

 

説明: 説明: 説明: 説明: 東条自殺

米軍病院で手当を受ける東條

 

 鬼畜米英」、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けるな」戦陣訓)と教えこまれ、死を強制された日本人が、その最高責任者の自殺未遂を中途半端で、かつ未練がましく見苦しいと感じたとしても何ら不思議なことではなかった。

 

 例えば山田風太郎は、「『東条大将はピストルを以て……』ここまできいたとき、全日本人は、『とうとうやったか!』と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。しかし、そのあとがいけない。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」(『戦中派不戦日記』380頁)‥‥ 「『死ぬのは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ』と彼はいっているそうである。それならそれでよい。卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。」(山田前掲書395頁)と書いた。

 

 また高見順も、「期するところあつて今まで自決しなかつたのならば、なぜ忍び難を忍んで連行されなかつたのであろう。なぜ今になつてあわてて取り乱して自殺したりするのであろう。そのくらいなら、御詔勅のあつた日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなつている。恥の上塗り」と記した(『敗戦日記』324頁)。

 

 東條の自殺に関しては、一般の民衆も同じ感情であった。

 

 例えば、45(昭和20)年9月14日付京都府特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)にそれをみることができる。

 

「1,東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ」(粟屋憲太郎編『資料日本現代史』−−2「敗戦直後の政治と社会 1」〔資料94〕352頁)。

 

さて東條は、極東国際軍事裁判A級戦犯 として起訴され、48(昭和23)年12月23日、絞首刑に処せられた。享年65歳。

 

 

左;護送中に戦犯(二列目日左端が東条) / 右;開廷を待つ戦犯(右端東条)

 

 

巣鴨プリズンでの東条。東条は、チティーン・スモーカー(切れ目なしにタバコを吸い続ける人)だった

左;佐藤賢了(陸軍中将)/右;嶋田繁太郎(海軍大将)

 

1945年11月1日付『読売新聞』(pdf)

 

裁判を受ける東条英機元首相

 

説明: 説明: 説明: 説明: 東條死刑 

死刑判決を聞く東條

 

 

 

A級戦犯の寄せ書き(縦約18センチ、横約4メートルの細長い紙。上の中央は東条英機元首相の書き込み)

 

東条元首相は名前に加え「古人今人若流水」と記入した。「昔の人も今を生きるわれわれも、流れる水のようなもの」という意味で、中国の詩人、李白の詩から取ったとみられる。広田弘毅元首相は「万邦協和」。年号の「昭和」の由来で、中国の古典の歴史書にある言葉とみられる。

白鳥敏夫元駐イタリア大使は英国の文豪、シェークスピアの作品の一節らしい英文とともに、アルファベットで署名した。このほか平沼騏一郎元首相や重光葵元外相の名前もある。花押だけ記した人もいる。

 

処刑直前にA級戦犯7人が記した絶筆の複写

保管されている現物はインクを含ませた筆でしたためられ、文字は青色

 

 墓所は、都立雑司ヶ谷霊園。

 

 東條英機の次男・輝雄氏死去…YS―11を設計=東條英機元首相の次男で、旧日本海軍の戦闘機「零戦」や国産旅客機「YS―11」の設計に携わったことでも知れる三菱自動車の元社長、東條輝雄(とうじょう・てるお)氏が9日午後0時55分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。

 98歳だった。

 東條氏は東京都出身。1937年、東京帝国大学(現東京大学)工学部航空学科を卒業後、三菱重工業に入社した。同社副社長などを経て、80年に三菱自動車副社長に転じ、81年6月、同社社長に就任した。社長在任時の82年には、大ヒットを収めた主力SUV(スポーツ用多目的車)「パジェロ」を発売した。

 

 

背後は、処刑された巣鴨プリズム跡地にサンシャインビル

 

  

 

靖国神社は、78(昭和53)年10月、密かに東條英機をはじめ元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将、松井石根(いわね)陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅(こうき)元首相ら7人と、獄中で死亡した5人及び平沼騏一郎元首相ら未決で病死した2人の計14人を「昭和受難者」として合祀(ごうし)した。

 

その理由は、「53年の援護法改正で、いわゆる戦犯刑死者と遺族は(遺族年金などで)一般戦没者と同様の処遇を受けられるようになった。戦犯刑死の方々は法的に復権され、靖国神社は当然合祀する責務を負った」(靖国神社機関紙)ということであった(これに対して厚生労働省は、「国は遺族援護のために戦犯刑死者を公務死と認定したのであり、靖国のいう『復権』とは関係ない。合祀は神社が決めることだ」と反論している)。

 

説明: 説明: 説明: 説明: 東条内閣

 

東條内閣

 

東條は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁者として君臨、外相に東郷茂徳 (とうごうしげのり)蔵相に賀屋興宣(かやおきのり。戦後第2次池田内閣 第3次改造内閣で法相に就任)海相に嶋田繁太郎(しまだしげたろう)法相に岩村通世(みちよ)農相に井野碩哉(ひろや)商工相に岸信介(のぶすけ。戦後首相に就任)等を任命した。

 

第40代東條内閣--1946(昭和16)年10月18日〜1944(昭和19)年7月18日

 

内閣総理大臣

   

東條英機

外務大臣

 

東郷茂コ

 

42(昭17.9.1

東條英機()

 

42(昭17.9.17

谷 正之

 

43(昭18.4.20

重光 葵

内務大臣

 

東條英機()

 

42(昭17.2.17

湯澤三千男

 

43(昭18.4.20

安藤紀三郎

大蔵大臣

 

賀屋興宣

 

44(昭19.2.19

石渡莊太郎

陸軍大臣

 

東條英機()

海軍大臣

 

嶋田繁太郎

 

44(昭19.7.17

野村直邦

司法大臣

 

岩村通世

文部大臣

 

橋田邦彦

 

43(昭18.4.20

東條英機()

 

43(昭18.4.23

岡部長景

農林大臣
[43
(昭18.11.1同省廃止]

 

井野碩哉

 

43(昭18.4.20

山崎達之輔

農商大臣
[43
(昭18.11.1農商省設置]

43(昭18.11.1

山崎達之輔

 

44(昭19.2.19

内田信也

商工大臣
[43
(昭18.11.1同省廃止]

 

岸 信介

 

43(昭18.10.8

東條英機()

軍需大臣
[43
(昭18.11.1軍需省設置]

43(昭18.11.1

東條英機()

逓信大臣
[43
(昭18.11.1同省廃止]

 

寺島 健

 

43(昭18.10.8

八田嘉明()

運輸通信大臣
[43
(昭18.11.1運輸通信省設置]

43(昭18.11.1

八田嘉明

 

44(昭19.2.19

五島慶太

鉄道大臣
[43
(昭18.11.1同省廃止]

 

寺島 健()

 

41(昭16.12.2

八田嘉明

拓務大臣
[42
(昭17.11.1同省廃止]

 

東郷茂コ()

 

41(昭16.12.2

井野碩哉()

大東亜大臣
[42
(昭17.11.1大東亜省設置]

42(昭17.11.1

青木一男

厚生大臣

 

小泉親彦

国務大臣

 

鈴木貞一

 

43(昭18.10.8

岸 信介

国務大臣

42(昭17.6.9

安藤紀三郎

 

43(昭18.4.20

大麻唯男

国務大臣

42(昭17.9.17

青木一男
〜昭17.11.1

 

43(昭18.5.26

後藤文夫

国務大臣

43(昭18.11.17

藤原銀次郎

内閣書記官長

 

星野直樹

法制局長官

 

森山鋭一

 

備考

()=兼務を示す。

 

 

帝国議会 本会議(開院式;貴族院)1941(昭和16)年12月16日(火曜日)

 

午前11時兩院議員參列員式場に整列す 午前11時5分式部長官子爵松平慶民君の奉導を以て式場に出御親王王殿下以下扈從 玉座に著御各員最敬禮 内閣總理大臣東條英機君 御前に進み 勅語書を奉進す

 

勅語

 

朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く

 

東亞の安定を確立し世界の平和に寄與せむとするは朕の軫念極めて切なる所なり然るに米英兩國は帝國の所信に反し敢へて東亞の禍亂を激成し遂に帝國をして干戈を執つて起つの巳むを得さるに至らしむ朕深く是を憾とす此の秋に當り帝國と意圖を同しくする友邦との締盟愈愈緊密を加ふるは朕の甚た懌ふ所なり今や朕か陸海軍人は力戰健鬪随處正に其の忠勇を奮へり朕は帝國臣民か必勝の信念を堅持し擧國一體協心戮力速に交戰の目的を達成し以て國威を字内に震耀せむことを望む

 

朕は國務大臣に命して特に時局に關し緊急なる豫算案及法律案を帝國議會に提出せしむ卿等克く朕か意を體し和衷審議以て協贊の任を竭さむことを期せよ

 

兩院議長兩院副議長同議員拜聽訖て最敬禮

 

貴族院議長伯爵松平頼壽君 御前に進み 勅語書を拜受し列に復す

 

 入御 午前11時10分式畢 還幸の後諸員退散

 

帝国議会 本会議(開院式;貴族院)1943(昭和18)年12月26日(日曜日)

 

午前11時兩院議員參列員式場に整列す 午前11時4分式部長官子爵松平慶民君の奉導を以て式場に出御親王王殿下以下扈從 玉座に著御各員最敬禮 内閣總理大臣東條英機君 御前に進み 勅語書を奉進す

 

勅語

 

朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く

 

朕か外征の師は懸軍萬里沍寒を凌き炎熱を冒し勇戰奮鬪愈愈其の威武を發揚し朕か銃後の臣民亦克く艱苦に堪へ生産に勤め齊しく奉公の誠を致せり而して帝國と友邦との盟約は益益固きを加へ興亞の大業日を逐ひて進む朕深く之を悦ふ今や彼我の攻防愈愈急にして戰局最も重大なり宜しく億兆一心國家の總力を擧けて敵國の非望を粉碎すへし朕は臣民の忠誠勇武に信倚し速に征戰の目的を達成せむことを期す

 

朕は國務大臣に命して昭和十九年度及臨時軍事費の豫算案を各般の法律案と共に帝國議會に提出せしむ卿等能く朕か意を體し和衷審議以て協贊の任を盡さむこと望む

 

兩院議長兩院副議長同議員拜聽訖て最敬禮 貴族院議長伯爵松平頼壽君 御前に進み 勅語書を拜受し列に復す

 

入御 午前11時9分式畢 還幸の後諸員退散

 

 

 

「愛国行進曲」(見よ東海の夜は明けて)の替え歌

 

(いうまでもなく東条は見事な禿げ頭だった)

 

見よ 東条の禿頭 

ハエがとまれば、ツルッと滑る

滑って止って またすべる

止って 滑ってまたとまる

おお テカテカの禿頭

そびゆる富士も眩(まぶ)しがり 

あの禿どけろと 口惜し泣き

雲にかくれて 大むくれ

 

なお、東条英機の次男・輝雄(05年7月現在90歳)は元三菱自動車工業社長で、東大工学部航空科を卒業後、1937(昭和12)年に三菱重工業へ入社し、ゼロ戦の開発にかかわった。戦後の1959(昭和34)年に官民合同で設立された「日本航空機製造」の取締役設計部長に出向し、初の『秘録 東京裁判』清瀬一郎著(中央公論新社国産旅客機YS11の設計で中心的な役割を担った。

 

1948年12月23日零時の死刑執行数時間前に、巣鴨プリズンで教誨師・花山信勝(はなやましんしょう=1898年〜1995年。日本の仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧侶。当時・東京大学文学部教授。7人の戦犯処刑に立ち会った唯一の日本人)の前で東条英機が朗読した遺言の抜粋(『秘録 東京裁判』清瀬一郎著〈中央公論新社〉)。

 

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。

東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。

 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 こんご日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに3年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。こんごのことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。

 第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。

 第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。

 米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。

 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。今や戦後3年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。

 青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 

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開戦前夜、東条首相「すでに勝った」 政府高官のメモ見つかる(2018年8月14日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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日米開戦前夜の1941年12月7日、東条英機首相が語った心境や昭和天皇の様子を記した、湯沢三千男のメモ

 

 太平洋戦争の開戦前夜、昭和天皇への報告を終えた東条英機首相の発言や様子を記したメモが14日までに見つかった。開戦の手順を報告する東条に、昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は「全く安心している。このような状態であるから、既に勝ったと言うことができる」と述べたという内容。東条の発言を書き留めた湯沢三千男・内務次官=1963年に死去=のメモを遺族が保管していた。

 開戦前日の41年12月7日、昭和天皇が東条から報告を受けたことは「昭和天皇実録」に記載されているが、その様子が明らかになるのは初めて。東条が「重荷を下ろしたような様子だった」「微薫を帯び(酒に酔っており)」「陛下に褒められてもいいだろうと語った」と、賛意を得た満足感や緊張から解放された様子が記されており、昭和天皇との関係を探る手掛かりとなる。

 メモは、東京・神田神保町の古書店主、幡野武夫さん(73)が2010年ごろ、湯沢の娘婿で内務官僚の大野連治・元青森県知事(官選)=91年に87歳で死去=の遺品を整理中に発見、解読を進めていた。開戦前夜の午後11時20分に書き上げたとする文章が3枚の便箋につづられており、戦時下の政治史を研究する古川隆久・日本大教授は「湯沢の筆跡に間違いない」としている。

 当時、内務省は地方行政だけでなく、警察業務も管轄。41年10月の政権発足時、東条が内務相を兼任しており、かつて内務次官を務めた湯沢が再就任していた。

 

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メモによると、東条は12月7日夜、首相官邸に呼び出した湯沢に「戦争開始と国民の処置を決定した」と通告。「陛下の命令を受け一糸乱れることのない軍紀の下、行動できるのは感激に堪えない」と発言した。

 昭和天皇については「いったん決めた後は悠々として動揺もない」「(報告には)うむうむとおっしゃられ、いつもと変わらなかった」「対英米交渉に未練があれば、暗い影が生じるだろうが、そんなことはなかった」と述べたとしている。

 メモに添えられていた別紙には、開戦当日のスケジュールの他、外国の大使の扱いを丁寧にすることや、当時非合法だった共産党への処置も中立国のソ連を刺激しないようにとの指示が書かれていた。

 

東条首相、開戦前夜「勝った」…対面の高官メモ(2018年7月23日配信『読売新聞』)

 

日米開戦をめぐる経緯

 

 日米開戦前日の1941年12月7日夜、東条英機首相が政府高官に開戦について語った内容が、メモとして残っていることがわかった。東条はこの日昼、開戦当日の予定を昭和天皇に説明したことにも言及。戦争に反対していた天皇が開戦を決意し、軍が一致して行動する状況になったことで「すでに勝った」と発言するなど、太平洋戦争に突入する前夜に高揚する東条の胸中を初めて伝える貴重な史料だ。

 メモは、当時の湯沢三千男内務次官(1963年死去)の遺品から見つかった。東条の言葉を便箋5枚に書き残したもので、「十六年十二月七日(日曜日) 午後十一時二十分」との日時も書かれている。

 昭和天皇は主戦派の陸軍を抑えるため、41年10月、陸相の東条に組閣を命じ、外交交渉で戦争を回避する検討も求めた。だが米側の最終提案「ハル・ノート」が届き、交渉を断念。12月1日の御前会議で開戦を最終決定し、8日未明、米ハワイの真珠湾を攻撃した。

 

A級戦犯7人絶筆:東条英機「全く相済まぬ」 金沢で公開(2015年9月23日配信『毎日新聞』)

 

 終戦直後、巣鴨拘置所の教誨(きょうかい)師として日本人で唯一、東条英機らA級戦犯7人の最期を見届けた仏教学者、花山信勝(しんしょう)氏(故人)の生家の宗林(そうりん)寺=金沢市=で、A級戦犯の絶筆や遺書など二十数点が一般公開されている。戦後、同寺で厳重に保管され、戦後70年を機に「平和の大切さを再認識するきっかけにしてほしい」と初めて公開に踏み切った。

 A級戦犯の絶筆は、開戦時の首相の東条▽元奉天特務機関長、土肥原賢二▽元中支那方面軍司令官、松井石根(いわね)▽元陸軍軍務局長、武藤章▽元陸相、板垣征四郎▽元首相、広田弘毅(こうき)▽元陸軍次官、木村兵太郎−−の7人が1948年12月23日未明の絞首刑直前、両手に手錠をかけられた状態で1枚の紙に名前を連署した。公開されているのは複写のため文字が黒色だが、保管されている現物はインクを含ませた筆でしたためられ、文字は青色だという。

 花山氏の著書「亡(ほろ)びざる生命」によると、当初、紙は7人の家族への「辞世」をと考え用意したが、刑執行まで時間がなく、「とっさの思いつきで『名前だけでも−−』と申した」とある。

 東条の遺書は同年11月17日、花山氏に宛てて書かれ、5日前に軍事法廷で下された死刑判決への受け止めや国家、国民への思いがわら紙原稿用紙に鉛筆でびっしりつづられている。「一応の責任を果(た)し『ホット』一安心」とする一方、「同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果たされない。全く相済まぬことと思っている」と心情を吐露している。

 この他、7人が処刑直前に口にした米国産ワインの空き瓶や、東条が詠んだ直筆の句、巣鴨拘置所に安置されていた仏像(高さ約10センチ)なども展示されている。

 研究者や報道関係者らに限って観覧が認められてきたが、今年5月ごろから本堂地下室で公開を始めた。

 公開を決断した花山氏の孫で宗林寺代住職の勝澄(まさずみ)さん(59)は「信勝の孫として平和がどれだけ尊いのか伝える責任を果たしたい。公開するには長い時間の経過も必要だった」と話している。

 見学は要予約で拝観料500円。問い合わせは宗林寺(076・221・8650)。

 ◇花山信勝氏(18981995年)

 東京大名誉教授(日本仏教史)で、浄土真宗本願寺派「宗林寺」12代住職。東京帝国大助教授時代の1946年、GHQ(連合国軍総司令部)と日本政府に任命され、巣鴨拘置所の教誨師に就任した。収容されていた戦犯に仏法を説いたり、対話を重ねたりして、A級7人と捕虜虐待などの罪に問われたBC級27人の計34人の刑死をみとった。教誨師としての日々を自著「平和の発見」や「亡びざる生命」などで詳述している。

 ◇A級戦犯

 太平洋戦争の戦勝国が日本の政治・軍事指導者を裁いた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)で起訴された28人の被告をA級戦犯と呼ぶ。国際法上初めて導入された、「侵略戦争を計画・遂行」した責任を問う「平和に対する罪」に問われた。1946年5月開廷の裁判は、48年11月に判決が言い渡され、死亡・病気で免訴となった3人を除く被告全員が有罪となった。東条ら7被告に対する死刑は、戦争犯罪容疑者が収容されていた東京・巣鴨拘置所で執行された。

 

五十嵐広三さん(2013年5月8日配信『北海道新聞』―「卓上四季」)

 

戦時中、東条英機首相は視察先のごみ箱を開けて見るのを習わしにしていたそうだ。敗戦2年前の旭川来訪でもごみを調べ、「食べられる物を捨てている。暮らしにまだ余裕がある」と語った

▼新聞で発言を知った旭川商業学校5年のコーゾー少年は、友人らと宿泊先の旅館に面会を求めに行った。「そんなことはない。みんな苦労しながら頑張っているんだ」と反論せずにいられなかった

▼もちろん会えるはずもない。駅前交番に引き渡され、油を絞られた。87歳で他界した五十嵐広三さんの若き日のエピソード。思想・言論統制が苛烈を極めた時代。いまでは想像できないほど勇気のいる行動だったろう

▼絵を描くのが好きな少年は小学校の代用教員になった後、第7師団で爆薬を背負って戦車に体当たりする訓練を受けながら敗戦を迎えた。戦後は社会主義運動を通じて政治の世界にかかわっていく

▼「『おざなり』のない人」。同じ旭川の作家、故・三浦綾子さんは五十嵐さんをそう評していた。老人にも幼子(おさなご)にも、男にも女にも、「その場のがれの、まごころのこもらぬ、いいかげんな」言葉は使わないと

▼出馬を迷う故・萱野茂さんの背中を押して、アイヌ民族初の国会議員誕生につなげたのも、サハリン残留韓国・朝鮮人の帰国に尽くしたのも、少年時代から失わずにいた正義感とまごころがあったからこそだろう(13年5月8日配信『北海道新聞』―「卓上四季」) 。

 

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