石牟礼道子

 

(いしむれ みちこ、1927年3月11日〜2018年2月10日)

 

「水俣は日本の内視鏡」「人間は滅ぶ」 石牟礼さん語録

 

石牟礼道子さん残した能、2018年秋上演 天草が舞台「沖宮」

 

記事

 

 

 

 

(2018年2月11日配信『朝日新聞』)

 

 

熊本県宮野河内村(現・天草市)に生まれた。家業は石工。生後まもなく対岸の同県の水俣町(現・水俣市)に移り、水俣実務学校(現・水俣高)卒。代用教員、主婦を経て、短歌で才能を認められ、1958年、詩人谷川雁(がん)氏らと同人誌「サークル村」に参加。南九州の庶民の生活史を主題にした作品を同誌などに発表、詩歌中心に文学活動を始めた。

 

 59年には、当時まだ「奇病」と言われた水俣病患者の姿に衝撃を受け、「これを直視し、記録しなければならぬ」と決心し、68年に水俣病第1次訴訟を支援する「水俣病対策市民会議」の設立に参加。原因企業チッソに対する患者らの闘争を支援した。一方で、水俣病の原因企業チッソとの直接対話を求めた故・川本輝夫さんらの自主交渉の運動を支えるなど、徹底的に患者に寄り添う姿勢とカリスマ性のあるリーダーシップから「水俣のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、水俣病患者・支援者の精神的支柱となった。

 

69年、日本の公害告発運動の端緒となる水俣病患者の心の声に耳をすませてつづった「苦海浄 わが水俣病」第1部を刊行。同署は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛され、戦後を代表する名著と言われた。70年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退した。73年には、「水俣病関係の一連の著作でアジアのノーベル賞」といわれるフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」を受賞。74年に第3部「天の魚」を出した。

 

 

このほかにも、高度経済成長を迎えて急速に近代化する日本の社会の中で、自然と共生する人間の在り方をテーマにした文学作品を発表し続けた。

 

93年、不知火(しらぬい)の海辺に生きた3世代の女たちを描いた「十六夜(いざよい)橋」で紫式部文学賞。環境破壊による生命系の危機を訴えた創作活動に対し、01年度の朝日賞を受賞。02年には、人間の魂と自然の救済と復活を祈って執筆した新作能「不知火(しらぬい)」が東京で上演され、翌年以降、熊本市や有機水銀に汚染された水俣湾の埋め立て地(「エコパーク水俣」04年8月28日)でも上演されて話題を呼んだ。03年に半世紀以上にわたって創作した詩をまとめた詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞を受けた。

 

 

 

 

このころから、パーキンソン病を患り、人前に出る機会は減ったが、病と闘いながら、50年来の親交がある編集者で評論家の渡辺京二さんらに支えられ、執筆を続け、中断したままだった「苦海浄土」第2部の「神々の村」を04年に完成させ、3部作が初稿から40年後に完結した。

 

 以降も「椿(つばき)の海の記」や「流民の都」などの作品で、患者の精神的な支えになりながら、近代合理主義では説明しきれない庶民の内面世界に光をあてた。また、かずかずの句集を出版するなど創作意欲は衰えを知らず、東日本大震災のあとには人間の生命力の強さを描いた詩を発表した。

 

全17巻の全集「石牟礼道子全集・不知火」(藤原書店)は13年までに刊行(14年に別巻の自伝)。他の著作に「西南役伝説」「アニマの鳥」「陽のかなしみ」「言魂(ことだま)(故・多田富雄氏との共著)など多数。

 

11年には、作家池澤夏樹さん責任編集の「世界文学全集」に、「戦後日本文学第一の傑作」として日本人作家の長編として唯一収録された。

 

13年に、その年に話題になった女性に贈るエイボン女性大賞、14年には、第8回後藤新平賞や第32回現代詩花椿賞(『祖さまの草の邑』)を受賞した。

 

 15年1月から朝日新聞西部本社版で、17年4月から全国版でエッセー「魂の秘境から」を連載中だった。

 

皇后さまと親交があり、13年に天皇、皇后両陛下が熊本県水俣市を初訪問した際には、石牟礼さんが皇后さまにあてた手紙がきっかけになり、両陛下と胎児性水俣病患者とのお忍びでの対面が実現した。

 

 石牟礼さんは同年7月の会合で、皇后さまと初めて顔を合わせた。後日、石牟礼さんは皇后さまへ手紙を送り、「50歳を超えてもあどけない顔の胎児性患者に会ってやって下さいませ」と訴えた。皇后さまは「石牟礼さんの気持ちを重く受けとめています」と知人に伝え、熊本への出発直前、予定になかった胎児性患者との面会を希望。同年10月27日、水俣市内で両陛下と胎児性患者2人との対面が急きょ実現したという。

 

 翌28日、熊本県での日程を終えた両陛下が熊本空港から帰京する際、見送る人たちの中に石牟礼さんの姿があった。ひと目見送りたいと、入院先の病院から駆けつけた。会話は交わせなかったものの、石牟礼さんは「まなざしを交わしました」と取材に答えた。

 

18年2月10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去した。90歳だった。

 

作家・池澤夏樹さんは、「近代化というものに対して、あらゆる文学的な手法を駆使して異議を申し立てた作家だった。非人間的な現代社会に、あたたかく人間的なものを注いでくれたあの文章を、これからはもう読むことができない。本当はもっと早くから、世界的に評価されるべき作家だった」と話した。

 

水俣病患者で語り部の会の会長の緒方正実さんは「私が4回も患者認定を棄却されながら諦めずに認定を勝ち取ることができたのは、石牟礼さんから『あなたの純粋な目と思いで行政と向き合えば、その声は届くはず』という言葉をかけてもらい、それが心の支えになったからだと思っています。石牟礼さんが残した著書、言葉は今も語り部の活動に生きていて、今後もしっかりと伝えていきたい」と話した。

 

30年ほど前から交流を続けてきた、胎児性水俣病患者などの支援施設「ほっとはうす」の加藤タケ子施設長は、「いつも胎児性患者のことを心配し、私も励ましてくれていたので、とてもつらいです。石牟礼さんの思いを継ぎ、これからも施設に通う人たちが少しでも安心して、希望を持って過ごせるようにしていきたい」と話した。

 

「ほっとはうす」に通う胎児性水俣病患者の加賀田清子さんは「体調を崩されていて、とてもきつかっただろうなあと思います。いつも気にかけてくれていたので、知らせを聞いて、とても悲しいです」と話した。

 

胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんは「亡くなったという知らせを聞いて、とても驚きました。いつも気にかけてくれていました。とても残念です」と話した。

 

「苦海浄土」などを読んだことがきっかけで、患者の支援活動を始めた伊東紀美代さんは「患者や家族の怒りや悲しみの思いを的確に、美しい言葉で描き、多くの人に影響を与えて、水俣病に関わる人たちの意識を高めてくれました。石牟礼さんと出会えたことが、50年続けてきた支援活動の原動力になっていてとても感謝しています」と話した。

 

葬儀は2月12日、熊本市で営まれた。喪主は長男道生(みちお)さん。病に苦しむ患者らに寄り添い、近代が抱える課題を問い続けた石牟礼さんに、参列者は最後の別れを告げた。

編集者として代表作の「苦海浄土」をはじめ、石牟礼さんを「渾身(こんしん)の力」で支えてきた日本近代史家の渡辺京二さん(87)は、石牟礼さんを納めたひつぎを乗せて会場を後にする車を、手を振って見送った。関係者によると、近親者や石牟礼さんと親交の深かった知人ら約60が集まった。

熊本県水俣市で胎児性患者らを支援する施設「ほっとはうす」を運営する加藤タケ子さん(67)は「患者の生きるたくましさを、信じてくれた」と生前の石牟礼さんを思い起こし、声を詰まらせた。

 

 

送る会は、2018年4月15日午後3時、東京都千代田区有楽町2の5の1の有楽町朝日ホール。主催は認定NPO法人「水俣フォーラム」。問い合わせは同フォーラム03・3208・3051。

 

水俣病

 熊本県水俣市のチッソ水俣工場の排水を原因とし、メチル水銀で汚染された魚介類を食べた人に起きた神経系の中毒症。言語障害や運動障害などが起こり、対策の遅れで被害が拡大した。56年に公式確認され、68年に国に公害と認定された。日本の「公害の原点」とされる。公害健康被害補償法に基づく認定患者は熊本、鹿児島両県で計2282人(17年3月末現在)、存命の患者は373人(同年4月現在)。95年には未認定患者救済の政治決着が図られた。17年8月、水俣病の原因となった水銀の使用や輸出入を規制する水俣条約が発効した。

 

 

石牟礼さんの警鐘、写真に 「苦海浄土」イメージ80点撮影(2018年12月11日配信『東京新聞』−「夕刊」)

 

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秋月岩魚さん=東京都千代田区内幸町の本社で

 

 水俣病患者や家族の苦悩を描いた「苦海浄土(くがいじょうど)」など、作家の石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが著した作品を写真で表現しようと、写真家の秋月岩魚(あきづきいわな)さん(71)=千葉県松戸市=がイメージ写真80点を撮影した。石牟礼さんは2月に90歳で亡くなったが、秋月さんは「石牟礼さんが鳴らした警鐘を忘れちゃいけない」と話す。 

 光の粒に囲まれたチョウの写真は、胎児性水俣病の子どもが見た光景を想像した。ネコに花を重ねた写真は、水銀被害で狂い死んだネコを悼む気持ちを表した。「鎮魂の思いで、悲惨さがあまり出ないよう『浄土』の部分を表現した」と秋月さんは解説する。

 20代の頃に「苦海浄土」を読み、「誰かを犠牲にして繁栄する人間の残酷さ」を強く感じた。プロの写真家になり自然の情景を撮り続け、ヤマメやイワナを守ろうとする外来魚駆逐運動で「戦う写真家」と世に知られるようになってからも、「いつか水俣を撮りたい」と思い続けてきた。

 

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光の粒に囲まれたチョウ

 

 「僕らの世代はよかれと思って高度経済成長を頑張ってきたが、利益のために人を虐げ、自然を破壊した」との贖罪(しょくざい)意識もあり、2年ほど前から撮影を開始。石牟礼さんと直接の面識はないが、「苦海浄土」を読み返してイメージを膨らませ、奥多摩や伊豆などで川や海、生き物を撮影した。

 「自分しか撮れない水俣を」とイメージ写真にこだわり、あえて水俣には足を運ばなかった。異なる被写体をフィルムの一こまに収める多重露光の技術を使ったり、フィルムとフィルムを重ねたりして仕上げた。

 石牟礼さんの死去後、原因企業チッソの社長が五月に「救済は終わった」と発言した。「水俣のことを忘れたら人間は同じことを繰り返す。次の世代に考えてほしい」と秋月さんは話し、作品を発表する場を探している。問い合わせは秋月さん=電047(348)2507=へ。

 

<苦海浄土> 熊本県水俣市のチッソ工場の廃液に含まれたメチル水銀で、水俣病となった患者や家族が、重い症状や差別に苦しむ姿を描いた石牟礼道子さんの小説。1969年に刊行され、多くの人が水俣病に目を向けるきっかけとなり、文学作品としても高く評価された。

 

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花を重ねたネコ

 

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水俣湾の河口域

 

「チャーミングな巫女のような…」石牟礼さん悼む声続々(2018年2月10日配信『朝日新聞』)

 

 石牟礼道子が描き出した水俣病患者たちの苦しみは、今も続いている。そして国と企業と被害者の構図は福島第一原発の事故でも繰り返されており、だからこそ事故後すぐに石牟礼を読み直す者が多かった。作品は文学としてもとびぬけた境地にある。熊本でもお話をうかがったが、チャーミングな巫女(みこ)のような方だった。

 

歌手・加藤登紀子さんの話

 ショックです。石牟礼さんが講演で「いのちは華やぐもの」とおっしゃったのを聞き、嗚咽(おえつ)しそうになった記憶があります。水俣病に苦しむ患者や家族そして地元漁師たちを決して惨めな存在とはとらえず、荘厳な光を放つ命、ありがたい命として絶大な敬意を払っていた。そのまなざしが世間に訴える力になったと感じます。「苦海浄土」の言葉の美しさと光に満ちた文章に、特別な人と感じてきました。

 2004年に発刊された石牟礼さんの全集の解説を執筆するにあたり、初めてご本人にお会いしました。2泊ほど水俣に滞在し、ゆっくり話す機会に恵まれたことは幸せでした。

 

作家・赤坂真理さんの話

 いつも「苦海浄土」のページを閉じたあと、光を感じていました。石牟礼さんからは「光を感じてくれたのはあなたぐらいよ」と言われました。重いテーマでもすらすら読ませるのは石牟礼さんの文学が浄瑠璃語りのようだからです。語りになると全然違う層が見えてくる文学でした。

石牟礼さんとの対談集「死を想(おも)う」を出した詩人の伊藤比呂美さんの話

 会うたびに海の話をしてくださいました。これだけの生き物が海のなかにいて、海藻の花が咲いて。山の水が落ちてきたところが一番豊かだから魚が集まる、と。ちいさな命が生きたり死んだりしている世界のさまを、自ら食べながらお感じになっておられるようでした。

 施設に入られてからも、会うと何かつくってくれました。つくる、食べる、生きる、死ぬる。そうした世界の循環が、彼女のなかでは最後まで続いていた。宮沢賢治の「このからだそらのみぢんにちらばれ」という言葉を引き、「私なら浜辺のみじんかな」と言っていたことがありました。これまでは熊本でしか会えなかったけど、今はどこにいても会えるようになったのだと思っています。

 

「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」の著作がある作家、高山文彦さんの話

 この日は覚悟していたが、もう少し後かなと思っていた。やるべきことをやり、書くべきことを書いて逝かれたと思う。今年初め、お見舞いで口紅を持って行ったら、えらく喜んで。寝たきりだったが、自分で口紅を引いて、血の気のない顔にバラ色がさしてね。眉墨と口紅を買いに行こうと言っていたのですが。彼女の書くものは病んだ患者の声、水俣の民の声だった。公害病がここまで社会のひとりひとりに伝わったのは、彼女なくしてはなかったと思う。

 

寂聴さん「大切な友だちだったので…」 作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(95)の話

 

 とっても仲がよく、大切な友だちだったので、がっかりです。詩人であり文学者であるだけでなく、自分より弱い人のことをずっと思っている人でした。世の中の弱い人の立場に立って闘っていました。本当にいい人でした。石牟礼さんが亡くなったのは、日本にとって大変な損失。詩人や作家より、もっと大きなものを持っていました。特別な方だったと思っています。彼女の力は世の中に評価され、報われた人だったと思います。

 

 

(2019年2月10日配信『新潟日報』―「日報抄」)

 

 水俣病被害者の胸の内を描き、公害の原点を社会に知らしめた作家、石牟礼道子さんが亡くなって10日で1年がたつ。東京の郊外、東村山市にある、かつての仕事場を先ごろ訪ねた

▼6畳間のふすまを開けると、ひんやりした空気の中に使い込まれた座卓と籐(とう)の椅子、本棚があった。庭を眺めると、小鳥が木の枝に飛んできては、一声鳴いて去っていった。東京とは思えないほど自然が身近だった

▼仕事場は新潟市出身の故若槻菊枝さんの自宅にある。若槻さんは新宿でバーを経営し、お客さんからカンパを集めて被害者を支援した人だ。夫の登美雄さんは「原稿を書かれている時は邪魔にならないよう、静かにしていました」と思い出を話してくれた

▼石牟礼さんは被害者たちに寄り添い、厚生省や原因企業のチッソに抗議するため、熊本から東京へと何度も足を運んだ。「花の億土へ」という本の中には、上京した時の思いをつづった文章がある

▼「東京の夜景を見ると、卒塔婆の都市だなと思います。建物が墓石に見える。お墓の石に見える。徳もない、義もない、信用もない」。被害者の苦しみや悲しみから目を背けようとする国や企業への怒りがにじみ出ている

▼石牟礼さんの代表作「苦海浄土」が出版されてから、今年で50年がたった。熊本や新潟の被害者は今もなお、損害賠償や患者としての認定を求め裁判を続けている。徳と義と信用−。三つの言葉を「東京」がその胸に深く刻む日は、いったいいつになったら来るのだろう。

 

[墓碑銘] 信念学び受け継ぎたい(2018年12月30日配信『南日本新聞』―「社説」)

 

 今年もさまざまな分野の時代の証人たちが鬼籍に入った。昭和から平成にかけて日本の社会に警鐘を鳴らし続けてきた人々だ。

 国民に数々のメッセージを発信し、示唆も与えてきた。功績を振り返り、その信念を受け止めて継承していきたい。

 作家の石牟礼道子さんは代表作「苦海浄土」で水俣病の現実や患者の苦しみを描いた。原因企業チッソとの交渉に参加するなど患者への支援にも深く関わった。

 「水俣病が発生し、人間の絆がずたずたになった」と非人間的な社会に傾斜していく現状を嘆いた。水俣病の公害認定から半世紀たつが、救済を求める声は今もやまない。金銭では解決できない公害の罪深さを心に刻みたい。

 終わりが見えないのは沖縄の「戦後」も同じだ。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設阻止を訴えた前知事の翁長雄志さんは国と最期まで闘った。

 菅義偉官房長官に「上から目線の言葉を使えば使うほど、県民の心は離れ、怒りは増幅する」と計画見直しを要求する姿は鬼気迫るものがあった。沖縄現代史研究の第一人者だった新崎盛暉さんも沖縄に米軍基地が集中する日米安保条約のありようを指弾した。

 だが、国は沖縄の民意を無視し辺野古の埋め立て工事を本格化させている。「沖縄の心に寄り添う」(安倍晋三首相)との言葉とは裏腹な政府の姿勢に、国民の政治不信は高まるばかりだ。

 自民党幹事長など務めた野中広務さんは障害者施設を運営し、弱者へのまなざしを持つ政治家だった。引退後も集団的自衛権の行使容認などを念頭に「危険で偏った政治」と安倍政権を批判した。

 俳人の金子兜太さんは新しい俳句の道を切り開くとともに、戦争で非業の死を遂げた仲間に報いたいとの一心で平和運動にも尽力し、社会の右傾化を憂えた。

 「安倍1強」政治の危うさを指摘する「ハト派」の影が薄くなり右傾化が進むのは、政治家の多くが戦後生まれになったことと無縁ではあるまい。戦争を語り継ぐ大切さを改めて喚起したい。

 女優樹木希林さんや漫画家さくらももこさんは大切な宝物を残してくれた。樹木さんはがんと闘いながら最期まで女優の道を貫いた生き方が共感を呼び、年を重ねること、死と向き合うことの意味を身をもって教えてくれた。

 さくらさんの代表作「ちびまる子ちゃん」は1970年代の茶の間の風景や社会風俗を描き、大人だけでなく平成の子どもたちからの人気も集めた。これからも時代を超えて愛されるに違いない。

 

海の恩恵(2018年7月16日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

2月に亡くなった作家石牟礼道子さんの祖父・松太郎さんは、宴になると人にせがまれ、民謡江差追分を歌ったそうだ。「さびさびとした哀調のある声」で、その後ラジオやテレビで追分を聞いても「祖父の声より深みのある唄いぶりをきいたことはない」。石牟礼さんは自伝「葭(よし)の渚(なぎさ)」にこう記している

▼松太郎さんは九州・天草の出身で、後に水俣に移っている。いずれも海沿いのまち。遠い北海道の民謡と松太郎さんを結びつけたのは、追分節が持つ磯の香りだったのかもしれない

▼アサリ、ハマグリ、白貝、さくら貝…(中略)カニのたぐい、エビ、形も色も大きさも味もそれぞれちがう海のものをとる楽しさを何にたとえよう―。「葭の渚」には、不知火海(八代海)の豊かさが余すところなく表現されている

▼だからこそ、有機水銀に汚された海と、そのために病に苦しむ人々を見過ごせなかったのだろう。水俣病の苦しみを描いた「苦海浄土」を執筆している時は「患者さんの思いが私の中に入ってきて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった」という

▼きょうは「海の日」。法律には「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」とある。だが、恩恵だけを期待されては海もたまったものではない

▼最近はマイクロプラスチックによる汚染も懸念される。美しい海を守る大切さを改めてかみしめたい。

 

石牟礼道子さん/弱い者の側に立ち続けた(2018年2月19日配信『神戸新聞』−「社説」)

 

 小さくとも力強く灯(とも)っていた命の炎が静かに消えた。そんな感慨を覚える。作家の石牟礼(いしむれ)道子さんが90歳で亡くなった。

 熊本県の水俣(みなまた)の漁師たちの健康被害に触れて以来、約60年にわたって被害を直視し、記録することを自らに課した作家である。そして水俣病患者に寄り添い続けた。

 小説「苦海浄土(くがいじょうど)」をはじめとする作品に紡ぎだされた言葉、国家賠償訴訟を支援する行動力はもちろん、石牟礼さんの存在そのものが水俣病に関わる人たちを支えたことは確かだ。

 訃報に接し、作家の池澤夏樹さんがこう寄せている。「彼女の文学の原理の一つは、弱い者の側に立つということ」「世界がどんどん非人間的になっていく中で、人間とは何かを改めて示した」

 さらに「『水俣』は世界中にある」と。同感である。

 「苦海浄土」に描かれるのは水俣を襲った不幸な出来事ばかりではない。それ以前の幸せな時間にも多くのページが割かれる。豊かな時間の流れは公害によって次第にか細くなり、やがて断たれてしまう。後に悲しみ、怒り、憎しみが広がる。

 作品を通して人々の日々の暮らしに触れることで、読者の胸に「水俣病」が奪ったものの大きさが深く刻まれる。

 災害の被災地を巡っても同じことが言える。阪神・淡路大震災に見舞われ、がれきと化した街、焼けてしまった街は被災地の外の人々に衝撃を与えた。だが、そこにあったはずの人々の営みが分からなければ、悲しみの本質は伝わらない。

 石牟礼さんが「苦海浄土」につづった患者の言葉は、ただ耳をすましても聞こえない。言葉を発しようとする一人一人に思いを重ね、内面の深いところまで意識を下していくことで、耳に響いてくるのだろう。

 それをやさしい言葉で、分かりやすく伝えてくれた。

 そして激しい言葉で、近代、あるいは高度成長の大きなうねりの中で、個人に沈黙を強いる社会のいびつさを糾弾した。

 関西に住む患者の一人は喪失感とともに、こう語った。「石牟礼さんならどう考えるか。それを指針に生きていく」。改めて存在の大きさをかみしめる。

 

(2018年2月15日配信『神戸新聞』−「正平調」)

 

桜の散るころだった。その女性は転がるように庭へ降りた。「おかしゃん、はなば」と。体の自由を奪われたので、這(は)って花びらを拾おうとするのだが、曲がった指ではつかめない

◆生前の出来事を思い起こしながら、母の話は続く。娘の望みは、たった1枚の花びらを拾うことだった。だから「あなたにお願いです」「桜の時期に花びらば1枚かわりに拾ってやって下さいませんでしょうか」

◆「お願いです」と頼まれたのは作家の石牟礼(いしむれ)道子さんである。このほど90歳で亡くなった。代表作の「苦海浄土(くがいじょうど)」以来、水俣病を鋭く問う執筆と支援活動を続けてきた。冒頭の話は随筆集「花びら供養」から

◆高度経済成長の陰でいったい何が起きていたのか。水銀の公害で「青春も老後も失い、人間性もはぎ取られた」患者や家族がいた。差別や偏見も吹き荒れた。筆のやいばを「日本人の失った倫理観」に突きつけた

◆弱い人の立場に立つ。そう語るのはたやすいが、行うのは難しい。涙する人の背に静かに手を当て、激しい抗議の声を心に刻み込む。寄り添うには使命感と覚悟が求められると、石牟礼さんの半世紀に教わる

◆娘に代わって花びらを拾い、また別の花びらを。白い小片は手からあふれたろうと想像しながら、目を閉じる。

 

(2018年2月15日配信『徳島新聞』−「鳴潮」)

 

熊本県水俣市の支援施設「ほっとはうす」で、水俣病の胎児性患者の声を聞いたことがある。語ってくれたのは50歳すぎ、車いすの男性だった

 「恨みというのはありません。恨んでも仕方がない。ただ、病気でなかったら、どんな人生があったのだろうかと、たまに思います」。夜のアパートで、奪われた未来を探す時の男性の心境を想像し、胸が詰まった

 原因企業のチッソが垂れ流したメチル水銀が、美しい海を汚し、そこで生きる人々の命をむしばんだ。生まれながらに体の自由を奪われ、言葉さえ奪われた人が大勢いる。水俣病が公式に確認されて、既に60年余りがたつ

 悲しみを語ることすらできずに逝った被害者の心情をすくい取り、文章を紡いでいったのが作家の石牟礼(いしむれ)道子さんである。代表作の「苦海浄土(くがいじょうど)」で、水俣の実態を知らしめた

 自然との関係を忘れ、お金に支配された近代とは何か。「水俣病は次の文明に進むための人柱だった。この世のものとは思えない声や姿で死んでいった人のことを思うと、涙が出る」。なのに、この国はどこまで落ちていくのか。亡くなるまで「近代」を告発し続けた

 胎児性患者・坂本しのぶさんの母フジエさんは惜しむ。「あげな偉い人、もっと長生きしてほしかった」。日本の近代が始まった明治維新から、今年で150年になる。

 

石牟礼道子さん 不知火の海の精として(2018年2月14日配信『東京新聞』−「社説」)

 

 石牟礼道子(いしむれみちこ)さんの魂は天草の自然とともにあり、水俣の被害者と一体だった。そしてそのまなざしは、明治以来急激に進んだ近代化への強い懐疑と、そのためになくしたものへの思慕に満ちていた。

 常世とこの世のあわいに住まう人だった。童女のように笑みを浮かべて、おとぎ話を語り継ぐように深く静かに怒りを表した。

 「水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦」(「苦海浄土(くがいじょうど)」)が水俣事件に出会い、悶々(もんもん)たる関心と小さな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならないという衝動にかられて、筆を執る。

 事件の原因企業チッソを告発する活動家、はたまた哲学者と呼ばれることもあった人。しかし−。

 「近代日本文学を初期化した唯一無二の文学者」だと、石牟礼さんの全集を編み、親交の深かった藤原書店店主の藤原良雄さんは言う。「自然を征服できると信じる合理的、効率的精神によって立つ近代西洋文学に、日本の近代文学も強く影響を受けてきた」。それを、いったん原点に戻した存在、ということだろう。

 彼女の魂は、不知火の海、そして出生地の天草、水俣の人や自然と混然一体だった。例えば、「しゅうりりえんえん」という詩とも童話ともつかぬ不思議な作品について、こう語ったことがある。「狐(きつね)の言葉で書きたかった」

 その作品は、ふるさとの海山、ふるさとに生きとし生ける命が産み落とす熱い言霊(ことだま)だったのだ。

 「不知火海にかぎらず、わたしたちの国では、季節というものをさえ、この列島のよき文化を産んだ四季をさえ、殺しました」(「天の病む」)

 そんな、かけがえのない世界を、悪(あ)しき「近代」が支配する。わが身を蝕(むしば)まれるほどに、耐え難いことだったに違いない。

 有機水銀で不知火海を侵したチッソは「近代」の象徴であり、水俣病患者ではない石牟礼さんも被害者と一体化して、その「近代」に言霊を突きつけたのではなかったか。

 「大廻(うまわ)りの塘(とも)の再生を」。藤原さんに託した遺言だったという。塘とは土手。幼いころ遊んだ水俣川河口の渚(なぎさ)は、チッソの工場廃棄物とともに埋め立てられた。

 ふと思い出した歌がある。

 ♪悲しみと怒りにひそむ/まことの心を知るは森の精/もののけ達だけ…。(「もののけ姫」)

 石牟礼さんは、まこと、不知火の海の精だった。

 

石牟礼道子さん(2018年2月14日配信『京都新聞』−「凡語」)

 

 10日に死去した熊本在住の作家、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんの祖母、モカさんは精神を病んでいた。幼少時、祖母に付き添うのは孫娘の役割だった。不知火海のほとりで遊ぶ時も、祖母と一緒だった

▼自伝的作品「椿の海の記」では、「おもかさま」と周囲に呼ばれた祖母との暮らしが描かれる。人々は「おもかさまには荒神さんがついた」と言い、つかれたように孫を連れて歩き回る祖母を受け入れていた

▼水俣病患者の姿を伝える代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」(1969年)を読み返した。患者や家族を同情を排して描いている。水俣病は当時、「奇病」と呼ばれたが、患者らと対等に交流を重ねた背景には、幼い頃の祖母との暮らしぶりがあったのだろう

▼同書には、視力を失い四肢も不自由になってきたのに大病院での治療をかたくなに拒む少年が登場する。理由は「殺されるから」

▼姉やいとこは、既に病院で亡くなった。石牟礼さんは「暗がりの中に少年はたったひとり、とりのこされている」と書いた。淡々とした筆致が事態の深刻さを伝える

▼水俣地域では、他人の苦しみを放っておけない人を「悶(もだ)え神さま」と呼ぶという。被害救済を訴える集会などで患者が掲げた「怨」の旗や「水俣死民」のゼッケンは石牟礼さんが考えた。自身がまさに「悶え神さま」だった。

 

石牟礼さん逝く 水俣から近代を問い続け(2018年2月14日配信『西日本新聞』−「社説」)

 

 さくらさくらわが不知火はひかり凪(なぎ)−。深い愛情を込めて俳句で詠んだ熊本・水俣の美しい春の訪れを前に、作家の石牟礼道子さんが亡くなった。90歳だった。

 水俣の主婦だった石牟礼さんが水俣病患者と出会ったのは1950年代末、本格的に文学の道を歩み始めたころである。

 60年に患者の語りを元に「奇病」を発表した。これが、水俣病の実態を広く社会に伝え、衝撃を与えた代表作「苦海浄土」(69年刊)の名編「ゆき女きき書」の初稿となった。

 石牟礼さんは執筆活動に取り組む傍ら、原因企業チッソと国を相手取った患者団体の初期闘争に深く関わっていった。

 その体験は、長い歳月をかけて「苦海浄土」3部作に結実する。

 患者の心に潜む苦しみと悲しみに言葉を与え、自然や村落共同体を破壊し、命の尊厳を踏みにじる国家と資本を撃った。近代化を根底から問い直す、世界に誇るべき日本文学の傑作といえよう。

 他人の苦しみに深く感応し、見捨てておけぬ性分の人を水俣で「悶(もだ)え神」と呼ぶという。石牟礼さんは「『悶え神』として水俣病問題に関わった」と熊本の評論家、渡辺京二さんが書いている。

 患者はもとより、汚染された自然の「痛み」とも深く交感する独自の感性が生んだ文学は、近代化で失われた人と自然が共生する豊かな世界の輝きも見せてくれた。石牟礼文学が人を引きつけてやまない魅力であろう。

 水俣病の公式確認から、既に60年以上が過ぎた。認定患者以外にも救済の道が開かれたとはいえ、今も1500人以上が認定や救済を求めて係争中だ。水俣病はまだ終わっていない。

 石牟礼さんのテーマは水俣病に限らないが、患者に寄り添う姿勢は終生変わらなかった。記憶の風化にあらがうメッセージを発し、人間を「棄却」することに無頓着な社会に警鐘を鳴らし続けた。

 水俣から近代の意味を問うた石牟礼さんの志とともに、その作品群は読み継がれるだろう。

 

職場の机に辞書と見まがう分厚い本がある…(2018年2月14日配信『西日本新聞』−「春秋」)

 

 職場の机に辞書と見まがう分厚い本がある。「苦海浄土 全三部」(藤原書店)。石牟礼道子さんが心血を注いだ「苦海浄土」「神々の村」「天の魚」の3部作を一冊に収め、おととし刊行された

▼改めて通読しようと手元に置いたものの、なかなか読み進めない。読み手に覚悟を迫る言葉の刃(やいば)に、しばしば立ちすくんでしまう。悲報に接し、しおりを挟んだページを久しぶりに開いた

▼水俣病を世に問い続けた石牟礼さんが亡くなった。「文学の素養も、学問も、医学の知識もないただの田舎の主婦」が「生きながら殺されかかっている人々」に寄り添い、「義によって助太刀する」との覚悟で記した魂の叫びである。簡単に読めるはずもない

▼経済発展の一方で美しい故郷の海は汚(けが)された。人は命を奪われ、病苦にさいなまれ続ける。企業も国も法も、天すらも助けてはくれない。ならば人の尊厳はどう守ればよいのか。その思いは作品の通奏低音となって重く響き、やり場のない、終わりのない苦しみと悲しみが刃のように胸を刺す

▼石牟礼さんは皇后さまにも手紙を書いた。「生まれて以来、一言もものが言えなかった人たちを察してくださいませ」と訴え、天皇、皇后両陛下と胎児性患者との面会を実現させた

▼公害や戦争などの過ちを繰り返さないため、記録し続けなければならない。その覚悟を生涯貫いた人は今、苦界から浄土へと旅立っていよう。

 

苦悩を見詰める(2018年2月14日配信『琉球新報』−「金口木舌」)

 

 優れたノンフィクション作品に贈られる「大宅壮一ノンフィクション賞」に縁のある石牟礼道子さん、伊佐千尋さんが相次いで他界した。2人とも沖縄を題材とした著作を残した

▼石牟礼さんの代表作「苦海浄土 わが水俣病」は1970年の第1回受賞作だったが、本人は辞退した。水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのは忍びないという心情からだ

▼兄を沖縄戦で失ったからだろう。苦悩する者への深い思いを沖縄にも向けた。来県した際、戦跡を案内するという地元の申し出を断った。昨年6月、朝日新聞に寄せた随筆で「県民の四人に一人が亡くなったという沖縄の受苦を思うと、ご厚意に甘えるわけにいかなかった」と記した

▼沖縄で少年期を過ごした伊佐さんは敗戦から2年後、米軍の通訳として伊江島に渡った。地上戦の最中、住民が自ら命を絶ったことを知る。「誰が好んで死ぬのか。死にたくて死んだんじゃない」という住民の悲痛な声を聞いた

▼民を虐げる為政者に厳しい目を向けた。米兵殺傷事件の裁判で陪審員となった体験に基づく作品「逆転」は78年の第9回大宅賞受賞作。コザ騒動を描いた「炎上」も米統治下の人権侵害に迫った

▼石牟礼さん、伊佐さんの作品は、戦後日本の裏面で呻吟(しんぎん)する人々に光を当てた。日本人が何を犠牲にして繁栄を手にしてきたのか、私たちに問い掛けている。

 

石牟礼さん 「近代」を問い続けて(2018年2月12日配信『朝日新聞』−「社説」)

 

 石牟礼(いしむれ)道子さんが亡くなった。著書「苦海浄土」で水俣病患者の声をすくいあげてきた作家が告発したのは、公害や環境の破壊にとどまらない。私たちの社会に深く横たわる「近代」の価値そのものだった。

 「まずは見てほしい」。水俣を訪れる客人に、石牟礼さんはそう言って案内したという。

 悲劇を忘れさせるほど真っ青な不知火海(しらぬいかい)が美しい。そう話す人に、笑顔で「まさにそれを見てほしかったのです」と。

 恵みの海とともにあった人々の質素だが穏やかな暮らしが、いかに奪われたか。成長を最優先し欲望をかきたてる政治、科学への信頼、繁栄に酔い、矛盾に目を向けぬ人々。それらが、何を破壊してしまったのか。

 虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。

 運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」(苦海浄土 第2部)

 権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。

 現場に身をおくと同時に、石牟礼さんが大切にしたのは歴史的な視点だ。公害の原点ともいうべき足尾鉱毒事件を調べ、問題の根を探った。

 こうした射程の長い複眼的なまなざしが、さまざまな立場や意見が交錯し、一筋縄ではいかない水俣病問題の全体像を浮かびあがらせ、人間を直視する豊かな作品世界を作り上げた。

 「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、「実験にさらされている、いま日本人は」と語った。

 石牟礼文学には西南戦争や島原の乱に材をとった魅力的な作品も多い。通底するのは民衆への深い共感と敬意である。

 どん底状態に身をおいても、人は希望をもち、隣人を思いやることができる――。石牟礼さんの確信は、今の時代を生きる私たちにとって、一つの道しるべといえるのではないか。

 明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。

 

『苦海浄土』は「戦後日本文学第一の傑作」(2018年2月12日配信『産経新聞』−「産経抄」)

 

 熊本県水俣市に住む石牟礼(いしむれ)道子さんは、文学好きの主婦だった。水俣病と関わるきっかけとなったのは、小学生の息子が患った結核である。入院していた市立病院の結核病棟の隣には、「奇病」の患者のための病棟が建てられた。うめき声が聞こえ、壁には、患者がつけたとみられる爪痕が残されていた。

▼当時すでに病気は公式確認されていながら、原因となる有機水銀の流出は続いていた。石牟礼さんは、お見舞いのかたちで、患者を訪ねるようになった。「うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい」。

▼漁師の夫とともに海に出ていた女性患者の聞き書きは「奇病」と題して、昭和35年頃まとめられた。後に、多くの人々の目を水俣病に向けさせる、石牟礼さんの代表作『苦海浄土(くがいじょうど)』の一部となる。

▼作家の石牟礼さんが、90歳で亡くなった。小学校に上がって、文字を覚え世界が一挙に広がった、と自伝で振り返っている。一番好きなのは、綴(つづ)り方の時間だった。ただ、書きたいことがありすぎて時間内に書き終わらない。「遅筆」は作家になっても変わらなかった。石牟礼さんは、水俣病患者の救済活動に奔走しつつ、『苦海浄土』を書き続けた。3部作が完結したのは平成16年、初稿から40年以上が経過している。

▼「道子の書いた品物は、水俣の目ではなか、日本の目から見れば、どういう物でござすか」。小学4年までしか通わなかった石牟礼さんの父親は、編集者に娘の作品の出来栄えを尋ねたという。

▼作家の池澤夏樹さんは、自身が編纂(へんさん)した「世界文学全集」に唯一の日本の作品として『苦海浄土』を収録した。「戦後日本文学第一の傑作」の太鼓判を押す。

 

石牟礼さん死去 水俣病の苦しみ言葉に(2018年2月12日配信『信濃毎日新聞』−「社説」)

 

 不知火海に面した水俣で育ち、終生、熊本を離れなかった。作家の石牟礼道子さんが亡くなった。水俣病患者の苦しみに身を添わせ続けた人だった。

 水俣病は決して「終わった話」ではありません―。最晩年まで繰り返し語っていた言葉を、あらためて胸に刻みたい。

 まだ作家として地歩を固める前、子どもが入院した市立病院に「奇病」の病棟があると知って訪ねたのが患者との出会いだったという。その後、患者がいる地域に通いつめるようになる。

 「何か重大なことが起こっている」と感じ取り、気にかかってならなかったと語っている。そこでつぶさに見聞きしたことが、代表作「苦海浄土」をはじめとする作品につながっていった。

 「苦海浄土」は、聞き書きでもルポでもない。水銀に中枢神経を冒され、話すことさえできない患者たちの心の内にある思いをすくい取り、物語を紡いだ。それは、水俣病の歴史を語る上で欠かせない記念碑的な文学になった。

 水俣病は1956年に公式確認されてから既に60年余が過ぎる。けれども、根本的な解決にはほど遠い。被害の全容すらいまだにつかめていない。

 10万人を超すともいわれる被害者のうち、患者と認定されたのは2300人ほどにすぎない。厳しい認定条件の下、被害者の大多数が置き去りにされてきた。

 認定されない人への救済も図られはしたが、実態にそぐわない線引きによって対象者は限定され、被害者はここでも分け隔てられた。状況はいっそう入り組み、容易には解きほぐせない。

 水俣病は、化学工場の排水が原因と早い段階で指摘されながら、企業、行政が対策を怠る間に不知火海の沿岸全域へと被害が広がった。新潟で第2の水俣病が起きるのを防ぐこともできなかった。

 人間の命よりも産業経済の損害を重くみたことが、現在に至る深刻な被害を生んだ。そして、政府、加害企業は責任に正面から向き合ってこなかった。

 その構造は福島の原発事故にも重なる。「水俣の経験が生かされていない」。石牟礼さんは生前、無念さをにじませて語った。

 見落とされた患者を探し出すため、行政は今からでも住民の健康調査を、と訴え続けてきた。差別を恐れ、なお声を上げられない被害者もいる。補償、救済の手が及んでいない人は多い。年老い、亡くなっていくのを放置することは許されない。

 

石牟礼道子さん逝く(2018年2月12日配信『佐賀新聞』−「有明抄」)

 

 「おとろしか。おもいだそうごたなか。人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは」。水俣病を告発した文学作品『苦海浄土(くがいじょうど)』の一節である。著者の石牟礼(いしむれ)道子さんは、接した患者の家族の言葉として記す

◆読めば聞き書きのルポルタージュと思うが、メモや録音機は使っていない。いったん血肉化したものを自分の言葉として紡いでいる。眼前に広がる世界、弱き者に感応する詩人の心があってのことだ。公害の恐ろしさが一層際立つ

◆亡くなった石牟礼さんの文業を一言で表すなら、近代文明の意味を問うたことである。幼い頃の水俣の街、小川で捕ったエビのぴちぴちとした手応え、狐(きつね)など「あやかし」の情景…。自伝『葭(よし)の渚(なぎさ)』には、それらがたっぷりと描かれている

◆「わたしが引き入れられていたのは、この世の端っこに残された神話の世界を生きることだった」。若き頃を自伝で振り返る。水俣病前史の時代であり、その豊穣(ほうじょう)な社会は「近代化」で失われた。近代とは経済優先ということだ。国策と結びついた大企業中心の世の中が公害を生み、ひいては福島原発事故につながったと、その罪深さを思い批判した

◆〈さくらさくらわが不知火(しらぬひ)はひかり凪(なぎ〉。原郷としての不知火海を石牟礼さんが詠んだ句である。その魂は、きっと春近いふるさとの海に飛んでいったと思いたい。

 

石牟礼道子さん(2018年2月11日配信『北海道新聞』−「卓上四季」)

 

水俣病研究の第一人者、故原田正純さんがまだ大学院生だった1960年ごろ、患者の家を訪ねる時に、いつも後ろからついてくる女性がいた。診察の様子を、黙って控えめに、寄り添うように見ている。作家の石牟礼道子さんだ(原田正純の遺言、岩波書店)

▼その後も、水俣病患者をはじめ弱い者の側に寄り添った。患者と家族の苦しみや人間としての尊厳を描いた「苦海浄土(くがいじょうど)」には「決して往生できない魂魄(こんぱく)は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」とある

▼「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた」「うちは情なか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる」。熊本の土地の言葉で語られるのは、悲しみだけではない。「沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな」。その海が有機水銀で汚された

▼親交のある評論家の渡辺京二さんが「苦海浄土」の解説で創作の秘密を明かしている。石牟礼さんは「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と言ったという。患者の魂と一体となって紡いだ作品なのだ

▼皇后美智子さまに「生まれて以来、一言もものが言えなかった人たちを察してくださいませ」と手紙で訴え、胎児性水俣病患者と面会してもらったこともある

▼声なきものに、耳を澄ませ続けた生涯だった。

 

(2018年2月11日配信『河北新報』−「河北春秋」)

 

三味線の音に合わせて語られる浄瑠璃がある。それは長らく日本人の精神を形作ってきた。別の言い方をするなら、息づく風景を今も彩る。例えば歌舞伎でも「常磐津(ときわず)」節などがあり、身を任せていると心が揺さぶられる

▼水俣病患者やその家族の思いをすくい取った『苦海浄土(くがいじょうど)』を、著者の石牟礼道子さんは「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」(あとがき)と書いた。不朽の名著はノンフィクションでもない、小説でもない、古来よりある「調べ」として生まれた

▼作品は高度成長の階段を駆け上がる戦後日本の影を描いた。娘の最期を語る母の言葉である。<おとろしか。(中略)ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。(中略)これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死に際のごたった>

▼きのう、石牟礼さんが亡くなった。90歳だった。故郷熊本の自然や風土に注がれたまなざしは、東日本大震災や福島原発事故による「喪失」を体験した者の心にも迫る。文明の病に対峙(たいじ)し命の重みを追求する調べは、決して終わらせてはいけない

▼理不尽な合理性と闘いながら古里を守っていけば、やがて浄土は見える。石牟礼さんの「遺志」を受け継ぐ。

 

石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ(2018年2月11日配信『毎日新聞』−「社説」)

 

 心は本当に満ち足りているのだろうか。亡くなった作家、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが改めて私たちに問いかけているような気がする。

 石牟礼さんの代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす「人間と共同体の破壊」を告発した。

 1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。

 56年、熊本県水俣市で原因不明の病続発が保健所に通報され、水俣病は公になる。だが、チッソが海に流す排水の有機水銀による魚介類汚染が疑われても行政の動きは鈍く、ようやく68年に公害病と認定された。

 この間の放置で被害がどれだけ拡大したかわからない。公害を大きな問題にすると経済成長のブレーキになりかねないという政府内の消極姿勢、世論の無関心もあった。

 公害がむしばむのは自然と健康だけではない。差別と対立。家族、集落の絆も断たれ、生活や人生そのものが否定される。「苦海浄土」はそれを克明に、患者一人一人と向き合うようにして描き、全国の読者の心を動かした。そこには公害行政の草分けとなった人々も含まれる。

 遠隔の大都市圏などに「地方」の情報が十分届いていなかった。石牟礼さんは「この事態が東京湾で起きたら、こうはならなかったろう。幾度もそう考えた」と書いている。公害に限らず今も問われる課題だ。

 公害は、あくなき発達と利益追求文明の落とし子でもある。

 石牟礼さんは、60年代、初めて上京した。その時抱いた深い違和感と疑問を後に本紙にこう語っている。

 「朝異様な音に目が覚めた。もの皆をひき砕く轟音(ごうおん)と感じました。車や工場やいろんなものが出す音が織り成す。このような凶暴な音に包まれた文明とは何でしょう」

 「苦海浄土」の中で老いた漁師が語る。「魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」

 天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。

 

(2018年2月11日配信『日経新聞』―「春秋」)

 

亡くなった石牟礼道子さんに最後に会ったのは、一昨年の残暑厳しい折。熊本市の高齢者用の施設を汗だくで訪ねると「雨が降っているの?」と目を丸くした。その表情が印象に残る。発売直後の「苦海浄土 全三部」を指し「ここの所長さんにもあげたの」と笑った。

▼編集者として長年ともに歩んだ評論家の渡辺京二さんによると、著名な作家らも面会にきたという。玄関に入るや「石牟礼さんと一つ屋根の下にいるだけで興奮します」と話す人もいたようだ。同業からも神格化される作風だが、本人は「三部作は我が民族の受難史と受け止められるかもしれないが」とやんわり否定する。

▼自分が描きたかったのは「海浜の民の生き方の純度と馥郁(ふくいく)たる魂の香りである」。すでに水俣病の公式発見から50年近くがたっていた2004年、そう書き残している。患者らの中には「もう何もかも、チッソも、許すという気持ちになった」「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」と語った人もいたという。

▼「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ」。石牟礼さんは患者のこんな言葉も書き留めている。近代文明の「業(ごう)」の犠牲となった漁民らは苦しみ、戦い、そして最後はゆるすまでに至った。その過程に人間の気高さがあらわれている。憎悪や分断に常にさらされる世界で「生き方の純度」や「魂の香り」の意味を問い続けたい。

 

(2018年2月11日配信『東京新聞』−「筆洗」)

 

「高漂浪き」と書いて「たかされき」と読む。熊本県水俣のことばだそうだ。何かの声や魂にいざなわれ、さまよい歩く。そんな意味らしい

▼その作家はその地元の言葉についてこんな説明をしている。「村をいつ抜け出したか、月夜の晩に舟を漕(こ)ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰や樹のかげに出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」(『苦海浄土』第三部・「天の魚」)

▼水俣病患者の苦しみを描いた『苦海浄土』などで知られる作家の石牟礼道子さんが亡くなった。九十歳。その作品は水俣病への世間の注目を集めるきっかけとなった

▼「高漂浪き」の人だったのだろう。米本浩二さんによる評伝の中に、こんな話があった。一九五八年、水俣病に関する熊本大学の報告書を読んで、まるでその苦しさが自分に伝わったかのように、しばらく寝込んでしまったそうだ

▼人間の痛み、悲しみ、怒り。そういうしゃがれた声や叫びのする場所へと自然とさまよい歩きだし、声に触れ、痛みをわがもののように感じる。ときに死者の声さえ聞こえる。その心こそ作品にあふれる迫力と、不思議な透明感の秘密なのか

▼「義によって助太刀いたす」。『苦海浄土』は弱い立場の人を助けたい一心で書いた。「高漂浪き」の義の人は今、どこをさまよっているんだろう。たぶん、人のすすり泣く声がするところである。

 

(2018年2月11日配信『信濃毎日新聞』−「斜面」)

 

2013年夏、東京で開かれた社会学者鶴見和子さんをしのぶ会。作家石牟礼道子さんの願いに、隣り合わせた皇后美智子さまが応えた。「今度水俣に行きますよ」。熊本に戻った石牟礼さんは美智子さまへの手紙をしたためて送った

   ◆

〈もしお出になったら、ぜひとも胎児性患者の人たちに会ってくださいませんでしょうか。生まれて以来、一言もものが言えなかった人たちを察してくださいませ〉。天皇、皇后両陛下は10月に熊本を訪問。日程には急きょ非公式の場面が組み込まれた

   ◆

胎児性患者との面会である。熊本日日新聞によれば、58歳の男女2人が生い立ちや30代後半からの急激な体の変調による苦しみを、もつれる言葉で両陛下に語った。翌日、石牟礼さんはパーキンソン病のため入院していた病院から熊本空港に駆けつけ、帰京する両陛下を見送った

   ◆

 代表作の「苦海(くがい)浄土(じょうど)」は水俣病の患者と家族の苦悩や怒りを描いた。1960年代後半には市民会議を結成。メチル水銀を含む工場廃液を水俣湾に垂れ流し続けたチッソの本社で座り込みもした。そのころ〈祈るべき天と思えど天の病む〉と詠んでいる

   ◆

 「病む」と告発したのは命や自然を犠牲にし国栄えた日本の近代だろう。その石牟礼さんが亡くなった。両陛下の公式行事は全国豊かな海づくり大会の稚魚放流だった。政治は水俣病を「過去」と印象づけようとしていないか。泉下から「水俣病は終わっていない」との声が聞こえてくる。

 

(2018年2月11日配信『新潟日報』−「日報抄」)

 

10日に亡くなった作家の石牟礼道子さんが「苦海浄土」で水俣病患者の胸の内を描いたのは1969年だった。その後、ある支援者にこう漏らしたことがあった

▼「1カ月に1人しか患者を見舞いに行けない」。1人を見舞うと、それから1カ月は具合が悪くなるからだ。水俣病は、チッソの工場がメチル水銀を海に垂れ流したのが原因だ。住民は猛毒に汚染された魚介類を食べて脳を侵された

▼目も見えず、口もきけず、手足も不自由な患者もいた。患者の生活を一生懸命に世話している家族もいた。石牟礼さんの体調が悪化したのは、患者や家族の体と心の痛みを人ごとでなく、自らの痛みとして受け止めたからに違いない

▼労作だからこそ50年にわたって読み継がれ、多くの人々が公害の原点といわれる水俣病の悲惨さを知るきっかけになった。読者の中からは患者を支えようとする人も現れた。冒頭の支援者もその一人で、新潟市出身の若槻菊枝さんだ

▼東京・新宿の繁華街でバーを経営し、お客さんからカンパを集めては水俣へと送った。石牟礼さんが東京でも執筆に専念できるよう、自宅に書斎を用意した。若槻さんが8年前、94歳で亡くなった際、石牟礼さんは弔辞を送っている

▼「これから先は水俣の言葉でいう『よかところ』に行かれますよう/いずれ私たちも参ることですが/つもる話もたくさんございます」(奥田みのり著「若槻菊枝 女の一生」)。二人はよかところで再会し、思い出話に花を咲かせているだろうか。

 

「ひと様」と「悶え神」(2018年2月11日配信『中国新聞』−「天風録」)

 

 「これはどなた様のお墓でしょうか」と尋ねると「どなたかわかりませんばってん、ひと様のお墓でございます」と返ってきた。その流人の塚は身内でもない村人に守られ、しかも「ひと様」のひと言は美しく耳に響いた―

▲きのう旅立った石牟礼道子さんは、郷里の熊本・天草で聞いた話を晩年の発言集「花の億土へ」に書き留めている。「俺が、俺が」の時代に、見も知らぬ「ひと様」を決して粗末にしない。水俣病を世に問うた作家を育みし風土を、あらためて思う

▲石牟礼さんの心の奥底には「悶(もだ)え神」がいたとよく語られる。ひと様の悲しみをわが事とし、どうにかしなければと苦しむ生身の感情のことである

▲これまた父祖に倣って、いつしか心根となったのだろう。今風の「共感」とはちょっと違う。代表作「苦界浄土」はそうして産声を上げ、作家は患者とともにチッソ本社前に座り込んだ

▲俳人の岩岡中正(なかまさ)さんは親しかった石牟礼さんを「間(あわい)の人」と評した。この世とあの世の間に遊ぶ自由な世界を作品に見て取り、そこからふと一句連想した。<天地(あめつち)の間にほろと時雨かな>高浜虚子。この国の天地の間に今しばらく、悶え神の人にはご滞在願おう。

 

苦海浄土(2018年2月11日配信『愛媛新聞』−「地軸」)

 

 胸に迫り来る魂の言葉に初めて触れたときの衝撃が、忘れられない。水俣病に苦しむ人々の奪われた声に、懸命に耳を澄ましてつづられた「苦海浄土」。あくまでも弱い者の側に立ち、土地に根差して人間とは何かを問い続けた作家、石牟礼道子さんが逝った

▲水俣の美しい自然とともに育った。海の魚にも、空の鳥にも、道端の草にも呼びかける「風土を体現する精霊のような、内面の豊かな人たち」に囲まれて

▲そんな穏やかな暮らしが、近代化という名の経済至上主義に無残にも壊されていく。企業の垂れ流した水銀に命も自然も奪われ、水俣病の公式確認から60年以上たっても、救済からは遠い

▲「毎日毎晩、祈らなければ生きていかれんとばい」。そう言う患者が多いと、かつて石牟礼さんは語っていた。祈るのは自分のためだけではない。極限の痛みの中で、加害者も含めて「この苦しみは二度と人間に来ないよう、神に祈る」のだという

▲自然との共生を忘れた人間の原罪を問い、助け合って生きる―。新たな哲学が「一番受難の深い人たちから生まれつつある」。それを書きたいと前を向いていた姿を、今あらためて心に刻む

▲「水俣」は原発事故で苦悩する福島に通じる。東日本大震災後に詠んだ詩はこう結ばれる。「ここにおいて/われらなお/地上にひらく/一輪の花の力を念じて合掌す」。受難者の声を胸に、どう未来を築くか。重い宿題が残された。

 

「この世に罪というのがあるのなら、(水俣病に…(2018年2月11日配信『高知新聞』−「小社会」)

 

 水俣湾はどこまでも穏やかで水は澄んでいた。熊本県水俣市で以前、湾に臨む「エコパーク水俣」を訪れた時のこと。かつては水俣病の原因となった有機水銀にまみれた死の海だった。

 美しい親水公園への変わりように目を見はったが、公園はその水銀のヘドロを埋め立てて整備されたと聞いてもう一度驚いた。そこに立つ人はまがまがしい水俣病の歴史が、すぐ足元に埋もれていると感じるだろう。

 「水俣病? まだそんな昔話をしているのか」。そう思っている人もいるかもしれない。しかし患者認定に際し、国が厳格な基準に固執した結果、認定されない人たちの法廷闘争が続いている。本格的な健康調査も行われておらず、被害の全容さえ分かっていない。

 水俣病は終わっていない―。そう訴え続けた作家、石牟礼道子さんが亡くなった。「苦海浄土」では人間の命に加えられた耐えがたい苦しみを、語り部のように土着の言葉で紡いだ。

 「この世に罪というのがあるのなら、(水俣病について)知らんということが一番の罪」。作家が書き留めた患者の言葉一つ一つが、水俣病の風化への警鐘となろう。知らないことが罪なら、知ろうとしないこともまた罪だから。

 水俣の親水公園には、たくさんの小さな石仏が並んでいた。中には石牟礼さんの面影に似た童女の像もあった。「知ろうとする努力を続けてほしい」。そっと語り掛けてくるように思えた。

 

(2018年2月11日配信『熊本日日新聞』−「新生面」)

 

 毎年2月末から3月初め、宮崎県綾町では「雛山[ひなやま]まつり」が開かれる。雛山は江戸時代に始まったとされ、今では公民館や商店街の店先に木やこけ、花で山河を再現。雛壇を設け雛人形を飾る

▼随分昔、その祭りを取材する作家の石牟礼道子さんに同行したことがある。道のあちらこちらに雪解けの水たまりがあり、石牟礼さんの手を引きながら雛山を見て回った。その手のぬくもりと、童女のような優しい声が記憶に残る

▼石牟礼さんがきのう亡くなった。90歳だった。<百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊り[かたま]が、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる>−。代表作『苦海浄土 わが水俣病』の一節である

▼石牟礼さんはなぜ、まるで聞き書きのように患者の言葉を生むことができたのか。作家の池澤夏樹さんは、石牟礼さん自身が生まれつき奪われし者、疎外された者、人間界と異界の間に生きる者だったからと見る

▼長年、石牟礼さんを支えた評論家の渡辺京二さんは、「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」という石牟礼さんの言葉を聞いて「彼女は彼らに成り変[かわ]ることができる」と気づいたそうだ(『もうひとつのこの世』弦書房)

▼弱い立場の人に寄り添うのではなく「成り変る」。その力ゆえ、苦しむこともあったのでは、と思う。声なき声を一身に引き受け、世に送り続けた生涯だった。石牟礼さんの句集から一句を手向けたい。<天上へゆく草道や虫の声>

 

 

「水俣は日本の内視鏡」「人間は滅ぶ」 石牟礼さん語録(2018年2月10日配信『朝日新聞』)

 

石牟礼道子さんの語録

 「後にくる者たちに残すよすがの物を、わたしたちは持たなくなってしまいました。なんという世の中の変わりようでしょう。言葉というものさえ、はたして伝わるものかどうか、おぼつかないかぎりに思えます」(1990年)

 「不知火海域でおかされたチッソと国と地方行政の『過失』は、私人が私人に対して働いた不法行為だったのだろうか。それは生命界に対する、天人ともに許さざる公法的犯罪だったのではないか」「不知火海のほとりに生きてきた漁民は、自然の恵みの中にあって、おのずと人の生きる道をわきまえながら、日々を律してきた人びとであった。そういう人びとが祖霊たちの宿る海辺に加えられた暴虐を問いただそうとするとき、訴えることのできた手段が、近代市民社会における私法上の損害賠償しかなかったことを考えると、暗然たる思いに包まれる」「世界を覆いつくした異様な人喰(く)い文明の最初の供犠の地となった水俣。ここから今なお発せられるメッセージとは、産業至上の文明に喰いつくされる国土とすこやかであった魂の形見の声ではなかろうか」(1993年)

 「この人たち(水俣病患者)は命とひきかえに、構造化した近代日本の病巣の中心部を探りあて、わが身の骨の火をかざし、そこへ分け入ろうとしているのではないか。秘蹟(ひせき)の地に立ちあい、わたしもためされています」(95年)

 「チッソの幹部たちが言ってることは保身のためとか、その場逃れのいいわけだったり、患者さんは一目で見抜いて、気の毒にも思っている。『あなたは何の宗教ば信じとりますか』などとしみじみ尋ねるんですね。修羅場なんですけれど、しだいに人間が試される聖域に変わっていくのです」(2000年)

「(水俣病との出あいについて)立派な覚悟があったわけではないのです。引き寄せられて気がついたらそこにいたというべきか。関心が人間の苦悩というものにいきがちな性分だったのと、自他共に生きている意味がわかりたいと切実に思っていたところへ水俣病がわーっと出てきた」(同年)

 「(人類は)美や倫理の基準を見失ってしまい、人はもう物質的なものの中にしか夢を描けなくなった。形は精神から生まれます。何が本当に美しいのかを点検し直して、精神を豊かにする夢を作り出さないとどうなるのでしょうか」(同年)

 「(水俣の漁民は)文字も知ってるけどいきいきした言霊の世界にいます。海は生命の原初で、自分もそこの一員だと、光がみちてくる顔で思っておられ、ですから、漁をすることは上古の神遊びのようにさえ見えます」(同年)

 「日本人は姿形まで変わってきました。人さまのご迷惑にならないよう能の橋がかりを行くようなすり足から、いまはもう人を押しのけ、われがちに行こうとする歩き方に」(同年)

 「原体験として祖母とのことがありました。祖母は狂女でした。私は彼女のお守りをしながら、二人で日がな一日言葉遊びをする。ふつうの人が聞いていたらおかしいでしょうが、この世を超えた美的な世界を何とか言葉でつむいで、幻想の中に祖母と一緒に入っていく。幸福な時間でした」(同年)

 「(有明海の問題で)小さい子たちが海で遊ばせてもらう喜び。永遠なる天と海に向かって命を解き放つ心の輝き。漁師はそんな牧歌と神話の世界に生きる稀有(けう)な人たちだったのに、情けない境域に追い落としてしまった。有明海の漁民は、政治家たちの駆け引きの道具にされてはいないか」(01年)

 「別の患者さんは、『自分の罪に対して祈る』と嗚咽(おえつ)しながら言われます。発病したのは患者の責任ではありません。なのに、なぜこの方は『自分の罪』と言ったのでしょうか。私は、この患者さんが苦しみ続け、あえぎ続け、それでも痛みは消え去らないと知ったとき、人間の原罪をわが身に引き受ける気持ちになられたのだと思います」(02年)

 「患者さんにとりついた水俣病は離れてくれず、痛みも癒えることはない。それなら、いっそのこと水俣病を『守護神』にしよう。人間の、この罪と痛みをわが身に全部引き受けて、一心に祈ろうと思っておられます。似たような心境を語ってくださる患者さんはほかにもいます」(02年)

 「患者さんに背中を押されて、導かれていく感じでした。古代の神話世界の人に会いに行くような気持ちで。心の糧を得たのは私の方です」(同年)

 「心の故郷はどこも汚染されてしまいました。水俣は日本列島の内視鏡で、そこから何でも見えます。不知火海の向こうは天草、その先に大陸と広がり、海にお日さまが沈む。そのとき太陽の箭(や)が海底に直入し、生命の根源に光の柱が立つ。生命の永遠、誕生と死の劇が夕昏(ゆうぐ)れの海にあらわれる。あらためてそれを考えさせる水俣病の事件があり、ただならぬ死が今も続く」(同年)

 「人間は滅ぶと思います。大自然、風土が汚染され、人間が毒素、毒草になっています。最近次々に起きる事件を見ても、人が狂暴になっています」(同年)

 「古典文学の世界には常に精霊がいた。今も患者さんの中におり、実体のあるものとして拝まれる。進歩的文化人は村を出て、故郷を振り返らない。室生犀星の小景異情『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のように。色々な風土が民族を豊かにするのに、日本は画一化することで近代化を進めてきた。その近代化を支えた母層が枯れ果ててきました」(同年)

 「初めて水俣を訪れた国会議員に陳情するのに、患者の中岡さつきさんが『国会議員のお父さま、お母さま』と呼びかけたんですね。自分たちの父母のような人たちなんだから、きっと助けてくれるに違いないと。そうした純朴さが、ずーっと裏切られ続ける」「いま、日本人が失ってしまった倫理観や信義のことを命にかえて考えつめておられるのは、患者さんたちですよ。劇症の病苦を背負ったわが身を通して、命のこと、魂のこと、あるべき人の世のことを考えておられる。そのお姿はとても崇高で、まわりを純化しておられます」(05年)

 「近代化された標準語では他人、他者ですが、私が生まれた天草では『人さま』と言います。人さまを大切にする、隣人を大事にする、ゆきずりの人であっても縁を感じて大事にする。それが地方でも村でもなくなってきていますね」(08年)

 「(水俣病患者で語り部の杉本)栄子さんは『今夜も、祈らんば生きられんとばい』『許さんことには生きられんとばい』と言っていました。『(自分たちを差別した人たちを)呪う、憎むのはもうきつか。苦しくて生きられん』と。(中略)もう菩薩(ぼさつ)さまですね」(同年)

 「私の周りのお年寄りたちは子どもを褒める時に『おまえは魂の深か子じゃね』と言うんです。『勉強ができるそうだね』とは言わない。(中略)要は、人様を思いやることができるかどうかだと思います。そういう心根のやさしさを、どうやって身につけていくかでしょう」(08年)

 「私の触れた限り、人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界にありましたから。自分の思いを標準語に置き換えて出すと、もともと持っていた情感みたいなものが抜け落ちてしまう。心を表現するのに、ことばはとても大切です。だから、方言を大事にしたい」(同年)

 「日本の近代は壊れてると思いました。まず、水俣病ですね。チッソは罪悪感を持ってませんから。海を汚し、豊かな漁師さんの生活を壊して、気がつかない。近代化は鈍感な人間を大勢作り出してきた」(同年)

 「(水俣病患者の人たちには)日本語では言霊の世界だろうと思うんですけど、神信心をする人たちがいっぱいいる。(中略)神様のいらっしゃる地図をみなさん、心に持っている。そして、教えあって、連れ立ってお参りに行きます。原日本って、そうだったと思いますよ。それが『近代』と称するものに追いやられて」(同年)

 「水俣病でいちばんつらかったのは、人とのきずなが切れたと感じるときでした。政治家や企業人のなかには、患者さんが魂の底から発する言葉さえ通じない方がいました」(11年)

 「(東日本大震災について)息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。死なせてはいけない無辜(むこ)の民を殺して。文明の大転換期に入ったという気がします」(11年)

 「(1908年に)工場ができたのが、村だった水俣の発展の第一歩で『街の人間になっとぞ』と喜んだ。水俣の人は何でも神様にするんです。チッソも。純情でね」「患者が補償を求めると、チッソの担当者は品物の値段を下げるような態度でね。批判すると『ここは文学の場所じゃありません。交渉事です』と言われた。それで患者さんが初めて『会社への義理は切れた』とおっしゃった」「患者さんたちは以前、『行政は親様。子どもをうしてなさる(見捨てなさる)はずがなか』と信じておられた。でも、補償交渉で上京したら『水俣は日本の国じゃなかごたる』と失望されていた」(12年)

 「判決という形で出てくる言葉は、合理的なようで冷たいですね。もうちょっと庶民の言葉に直して考えたい。『まあ、今まできつうございましたねえ』って、言うてよかそうなもんと思う」「人柱でした。水俣病事件というのは。次の文明に進むための」(13年、水俣病の未認定患者をめぐる最高裁判決後に)

 「水俣病の公式確認から今年で60年を迎えました。でも水俣病のことを考えるには、この60年の背後に、はるかに分厚い時間の層があったことを、まず思い浮かべてほしいと思います。『魚(いお)湧く海』と言われた不知火海のほとりで、天の恵みを必要なぶんだけ分けてもらっていた人々の、何代にもわたる暮らしが積み重なった時間の層です」「行政は今からでも、患者さんを見つけ出すための健康調査をするべきです。(中略)チッソの工場でつくられた化学原料が、日本の近代化を、高度成長を支えました。私たちの暮らしが豊かになる代償として、苦しみをその身に引き受けた方々です。亡くなるのを待つ、などということは決してあってはならないのです」(16年)

 

石牟礼道子さん残した能、2018年秋上演 天草が舞台「沖宮」(2018年2月13日配信『朝日新聞』)

 

 水俣病を描いた小説「苦海浄土」で知られ、10日に90歳で亡くなった作家、石牟礼(いしむれ)道子さんの新作能「沖宮(おきのみや)」が今秋、上演される。衣装を監修するのは、紬織(つむぎおり)の人間国宝、志村ふくみさん(93)=京都市在住。自然と人間の関係について、対話を続けてきた2人の友情の結晶となる舞台だ。

 30年来の親交があった石牟礼さんと志村さん。東日本大震災後の2011年秋、新作能の構想を温めていた石牟礼さんが「志村さんのお仕事で能装束を仕上げたいというのは長年の秘(ひそ)かな念願でございました」と手紙を送った。

 志村さんは快諾。長女で染織家の洋子さんと、熊本の石牟礼さんを訪ね、能衣装の相談をするかたわら、東京電力福島第一原発事故など自然と人間の関係について思いを語り合ってきた。

 その後、石牟礼さんが書き上げた「沖宮」は、島原の乱(1637〜38)が終わった後の天草(熊本県)が舞台。天草四郎の乳きょうだいで、戦乱で孤児となった少女あやは、干ばつに苦しむ村のため、竜神のいけにえに選ばれる。緋(ひ)色の衣をまとい、海の底へと沈んでいくあや。その魂を迎えに、四郎の霊が現れる。やがて村に恵みの雨が降り始めるという物語だ。

 石牟礼さんは生前、「あやは死ぬのではなく、海底にある生命の源へ還(かえ)ってゆくのです。人間が自滅に向かうようにも思える時代に、再生への祈りを込めて書きました」と語っていた。

 石牟礼さんの思いを受けた志村さんは、あやの衣装の緋色をベニバナで、四郎の衣装の天青(てんせい)色をクサギの実で染めようと構想を練っていたが、2年前に過労で体調を崩してしまった。

 今年に入って徐々に体調が回復し、洋子さんの手を借りて、糸を染める仕事に再び取り組めるようになったところ、石牟礼さんの訃報(ふほう)が届いたという。

 洋子さんは「母は『道子さんも、がんばっているから』と励みにしていた。石牟礼さんが残したメッセージを自分が伝えなければと、奮起してくれると思う」と話す。

 能楽シテ方金剛流の若宗家、金剛龍謹(たつのり)さんが四郎を演じる。10月20日に京都市の金剛能楽堂、11月18日に東京の国立能楽堂で上演。石牟礼さんの地元熊本でも上演するため、13日、熊本市で実行委員会が結成される予定。

 石牟礼さんの新作能の上演は、水俣病で犠牲になった生命の鎮魂と再生への思いを込めた「不知火(しらぬい)」(02年初演)に続き2作目。

 

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